閑話休題 三月一日は芳一の命日 小生高校受験のまっただ中、突然の悲報に芳子は… vol.1

 

1975(昭和50)年3月1日朝7時過ぎだった。
高校受験の真っただ中だった小生は自由登校(??だったと思う)で二階の自室でのんびり眠っていた。

突然階下から悲鳴の様な母(芳子)の声が響いた。
「三次のおじいちゃんが死んじゃったんじゃと!!」
悲しさと驚愕と混乱の中から発せられたその芳子の狂気を帯びた叫びは小生を叩き起こすのに十分であった。

母は当初はオロオロしていたものの、少ししてから落着いたのかポツリポツリと話始めた。
「もう死んでしもうたんじゃけんね…。今日は月報(国鉄バス切符売り場の売上)を出さにゃあいけんけぇ、夕方からじゃないと三次に行けんね。あんた(小生)は学校へ行きんさい。」
小生が学校へ行く準備をしている間にも
「去年まで確定申告を全部おじいちゃんにやってもらいよったんじゃけど、いつまでも面倒かけちゃぁいけん思うて今年は自分でやったんよ… それがいけんかったんかねぇ… 安心しちゃったんかねぇ…」
と、誰に話すともなく独り言の様に呟いていた。
登校した小生は授業中も休み時間もずっと「ボーッ」としていた記憶がある。

国鉄バス切符売り場

夕方、店(国鉄バス切符売り場)を閉めて高校生だった姉を加えた三人はバスで広島駅へ。
広島駅で芸備線の三次行き急行(多分「ちどり」だったと思う…)に乗り芳一の亡骸の待つ三次へ向かった。

時間的に通勤時間にあたったのか列車は満員で指定席はおろか自由席にも座れずデッキ付近に三人は座り込んで広島駅を出発した。

しゃがみ込んで俯いている母は明らかに疲れていた。
実父の突然の悲報を受け悲しみに困惑しながら仕事をこなし今その亡骸の元へ向かっているのである。

1975年頃 晩年の芳一と小生
1975年頃 晩年の芳一と小生

閑話休題 三月一日は芳一の命日 小生高校受験のまっただ中、突然の悲報に芳子は… vol.2

前回投稿からの続きである。

明日三月一日は46回目の芳一の命日。
当時小生は15歳の中学三年生であったが、46年前の事なので正直なところ詳細までは詳しく覚えていない。

夕方18時頃に自宅を出た我々(芳子・姉・小生)は20時位に三次の芳一の許に着いたと思う。
ただ、芳一の亡骸がどの部屋に安置され、その亡骸と対面した芳子や姉がどんな表情であったのかよく覚えていない。
三郎一家も既に到着していたのであるが、その三郎の表情も覚えていない。
さもあらん、そもそも自分自身がどの様な感情を覚えたのかすら記憶にないのであるから…

三次に向うまでと翌日の告別式の事は断片的ではあるものの多少記憶はあるのだが、到着した当日の夜の状況は全くと言っていいほど記憶が無いのである。
悲しみに暮れる母(芳子)の様子は本能が記憶を拒んだのかも知れない…

芳一の最後はあっけないものだったらしい。
常子(芳一後妻)の話では
「いつもは朝6時に起きて(就寝前に振り子の音が気になって眠れないからと止めていた)柱時計の振り子を動かして起きて来なさるのに、今朝はよう寝とられるのう。昨日の夜”胸がザワザワする”言うてトンプクを飲んじゃったんが効いとってんかね?」
と思っていたらしい。
その後
「そろそろ起こしてあげんと…」
と枕元に行ったときには既に冷たくなっていたそうである。

因みにその柱時計は現在小生宅にある。

柱時計

確かに”カチコチカチコチ”と気になるし正時の時報も結構大きな音である。
寝ている間は止めているのが正解かも(笑)

翌日の告別式での様子は以前の投稿でも少し紹介しているが、大勢の方にご参列頂きしめやかに行われた。

https://19441117.com/2019/10/27/

式では三郎が喪主として挨拶を述べたのであるが、小生にとっては強面の伯父も父親の死はさすがに辛かったのであろう。涙声での挨拶であった。

それでも数時間後、三次郊外の火葬場では真っ白な灰となった芳一のお骨を鉄箸で拾いながら
「マサヒロ(小生の名前)、これが踵でこの大きいのが大腿骨じゃ。人間もこうなったら一巻の終わりじゃのぉ。ハハハ。」
と優しく笑っていた様子は今も忘れられない…