昭和19年4月8日 母千代子から三郎への手紙と芳子の歌好き

 

前日に父芳一が出した手紙に続き、今回は母千代子からの葉書。

一緒に出せば良いのにと思うのだが…
あまり夫婦仲は良くなかったのか?
今更ながら心配してしまう孫の小生である(笑)

昭和19年4月8日 母千代子から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際に大変お世話になっていた。
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日増しに暖くなって三次の桜も色どり、ふくらみを
見せて来ました。其後変りなく元気で毎日
楽しい事と存じます。家の方にも相変らず
暮して居ります。兄様二人共三日四日と帰りました。
お前も外出があった由うれしかったでしょうね。
芳子も目出度く女学校へ入学出来て毎朝
七時には家を出ます。それから去る六日に昇さんは
十部隊へ教育召集で入隊された。家内の者は
まだ和歌山に残りて居ります。一ヶ月後に定りましょう。
康男兄さんの写真を近日父様より送付されます。
■■様方へは又御礼を致しますから心配せぬ様に。
日々元気で楽しく送りなさい。  サヨーナラ  母
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三郎が上京して一ヶ月以上経過し、さすがに千代子も一時期の不安定な状況からは脱したのであろう。手紙の内容も至って普通のものになっている。

前日の父芳一の手紙にもあったが「昇さん」とはどうやら千代子の親戚らしく、三郎の”いとこ”にあたる青年のようであるが、小生も詳しい親戚関係を知らないので多少眉唾である。

芳子(小生の母)の歌好きに関して…
拙ブログ開設のきっかけとなった今回の遺品整理の時点で知ったのであるが、母は女学校で声楽部に所属していたらしい。
そう云えば小生が小学生の頃、店を閉めたあとに姉(小生より3学年上)と一緒に音楽の教科書や副読本(童謡などが収載された歌本)を見ながら2人で合唱していたのを思い出す。
当時は見ていて「恥ずかしい」感じであったが、それだけ歌・音楽が好きだったのであろう。

芳子 女学校音楽連盟

最近、高校3年の愚息がヘッドホンでネット動画を見ながら結構な大声で流行りの歌を唄っているのを聞くにつけ、ご近所様に「恥ずかしい」と思いながらも「隔世遺伝か?」と考えてしまう小生なのである。

 

閑話休題 8月6日 原爆の日

今日は令和になって最初の8月6日
「原爆の日」である。

 

昭和20年8月6日

芳子(小生の母)は当時三次高等女学校の生徒で、午前八時十五分は勤労奉仕をしていた。
あの日の様子を話してくれたことがある。

朝草むしりしよったらね、広島の方が”ピカッ!”と光ったんよ。
「今、広島の方が光らんかった?」
ゆうて皆で話しよったら、そのうち
「広島がおおごとになっとるそうな」
云う噂が流れてきてね、
「どうなったんかね」
言うて心配しとったら
夜になって怪我人が汽車やらトラックやらでいっぱい運ばれてきたんよ。
そりゃ大変じゃったんじゃけぇ。

その後どうなったのかは話してくれなかったのだが、
今回ブログに投稿する関係で当時の状況をググったところ、
以下の記事を見付けた。

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=48894

まさに芳子の同級生たちの記事であり、恐らく彼女も救護にあたった筈である。
「修羅場」だったのであろう…
小生に話さなかったのは、思い出したくない記憶だったのだと思う。

芳一(小生の祖父)は被爆者手帳を持っていた。
直接被爆した訳ではないが、当時広島市にいた次男の敬の安否を確認するために、翌日か翌々日に広島市に入っており、入市被爆者となった。

当時の広島での状況については芳一からも芳子からも聞いておらず、また手紙や書類も残っていない(未だ紐解いていない手紙類もあるが昭和20年3月頃を最後に残っていない様子である)ので想像するしかないのだが、敬は爆心地からは4Km程離れた祇園町と云う所に住んでおり、爆発による直接の被害は受けていなかったと思われる。
しかし、この大惨事は元来病弱であった敬のその後の健康状態に少なからぬ影響を与えたであろう。

三男の三郎は当時、陸軍士官学校(神奈川相武台)在学中で被災していないが、戦後昭和30年頃から爆心地にほど近い相生橋の袂にある「和田ビル」というアパートに住んでいた。

和田ビル

現在の様子は画像の通り古びたアパートであるが、当時は広島の中心地のハイカラなビルで、かなり立派な感じであった。

子供の頃、正月の年始の挨拶に行ったときには、ベランダから間近に見える原爆ドームや真下を走る路面電車を飽きもせず眺めたものである。