昭和17年1月14日 康男(長男)日本興業銀行入行も…開戦~応召へ

昭和17年2月1日 康男応召入隊前夜撮影
昭和17年1月14日 康男の手紙①
昭和17年1月14日 康男の手紙②
昭和17年1月14日 康男の手紙③
昭和17年1月14日 康男の手紙④

今回は太平洋戦争開戦から1ヶ月程経った頃の手紙。
小生の解読力もかなり向上したようで今回の手紙の様にある程度丁寧に書かれていれば何とか読めるレベルになって来た。但しあくまで長男(康男)の場合の話で父(芳一)や母(千代子)になると状況は変わってくる。(*´Д`)
注)3枚目10行目にある”貰って”は本当は”口ヘンに花”なのだがこのブログ作成ソフトのフォントに登録が無い様なので”貰”にしてある。

さて、どうやら日本興業銀行に入行したようで(日銀はダメだった様子)東京在住の父(芳一)の知己の所に一週間位厄介になってオリエンテーションを受けたのち、第一ホテルに宿泊しながら実務実習に臨む様子が書かれている。因みに便箋は第一ホテル備えつけのものが使用されている。
解読結果は以下の通り。

注)以下の■■は当時東京在住であった父(芳一)の知人
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拝復 只今速達拝見致しました。愈々本日から第一ホテルに
投宿することにしました。たった今■■様の方へ最後の夕食
を御馳走になりに行ってホテルに帰って、やっと落着いたところです。
御送付になった牛肉でみんなですき焼に舌鼓を打ちました。
当地は牛肉は滅多に買えない様です。■■様の方へも
結局一週間近く御厄介になって誠に御迷惑をお掛けしたことと
思いますが、基本実によくもてなしを受けて全く感謝致し
ています。■■様御夫婦は気分のあっさりした方で、
最初は多少遠慮でしたが、しまいには慣れて遠慮も少く
なりました。兎に角一週間近くも御厄介になったのですから、
僕の方としては精神的にも物質的にも大いに助かった訳です。
御父様の方からも充分に御礼申し上げて置いて下さい。
第一ホテルはさすが東洋一を誇るだけあって八階建の素晴らしい
ものです。室の設備も先ず充分でしょう。洗面所から洋服タンス、
卓上電話、応接用机に椅子、ベッド其他、事務用机等々、
便利なものです。一番安い部屋ですからね。電話で言いつければ
何でも用が足りますし、まあ僕も初めてこんな立派な
宿へ泊った訳で、或いは二度とこんなことも無いかもしれません。
兵隊の方の事、みんな未だ入隊日等決まっていない様で心配し
ています。が兎に角、入ること丈は確かですから幹候問題集、
経理部幹候問題集等を買って少しでも勉強しています。
銀行の方も今日でようやく講演の方がすんで、明日から経理
部長の指導による実務的な実習です。友人も大分出来て
講習も気持ちよく受けています。籍表によりますと
髙商出が二十六名、普通商業が十九名、残りの百数名が大学
で、其中東大が殆どを占めている様な有様で、こんなところもちょ
っと外には無いでしょう。そんな中で仕事をするのですから自然他より
も教養も素性も髙くなる訳だと語り合っていますよ。
廣島縣人は五名もいません。福山の田中君の友達の人達と知合いに
なっています。松山を出て東京へ来ている友達の動静も大分判っ
てきましたので、心強いです。東京も一週間居ると殆ど平気
になります。最初は本当にやせてしまいますよ。気苦労が多いのでね。
今度の経験は実にいい効果を斉すものと思っています。
社会というものに一歩踏出して、沢山の人よりも少なくとも大きな多くの刺激
を貰って僕としては有難い体験だと思います。御期待に副う可く
大に頑張ります。辞令の写し左の如きものです。
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*          三原康男    *
* 書記ヲ命シ月俸金六十円ヲ     *
* 給ス               *
*    昭和十七年一月一日     *
*    株式会社  日本興行銀行  *
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東京市内の名所も休日が無いので、
殆ど見ることも出来ず、又大して
みたいとも思っていません。もう、一度は
修学旅行で見学していますからね。
然し、まだまだ沢山見ていないところ
がありますから、今度の土曜日曜には見物してみます。
田中君と毎日食事を共にすることにしていますので、都合がいいですよ。
銀行もお互いに近いですからね。第一銀行も実に立派なビルです。
興銀も七階のビルです。大正十二年の落成ですから、あまり新しくは
ありません。第一ホテルはそれに比べるとずっと最新式ですよ。
東京にいると寒さは殆ど感じません。殆ど乗物で動くし、
ビルの中、ホテルの中は寒さなんか問題でありませんからね。当ホテル
には外人も相当泊っています。よく大使館の自動車がやってきます。
僕の部屋は五百五十八号室です。田中君は六百二十三号です。
僕は五階、田中君は六階ですが、歩いてすぐですから、都合はいいです。
お土産は何がいいでしょうか。三越か新宿の伊勢丹、又は髙島屋位
のものがやっぱりいいでしょうね。大したものを買う気もありませんが。
毎朝七時半に電話で起して貰うことにしています。新聞も入れ
て呉れます。安月給取にはちょっとゼイタクな生活ですね。
ではこの辺で失礼します。                   早々
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どうやら前回投稿した手紙の中で書かれていた”日銀への推薦”は残念な結果に終わったようだが、それでも日本興業銀行に入行出来たのは立派だと思う。両親もさぞかし喜んだと思う。その証だろうか父(芳一)が東京の知人宅に送った牛肉で”すき焼きに舌鼓を打った”とある。前年の昭和16年には”肉無しの日”が制定されるなど当時牛肉は希少な贅沢品であった。故にその後に”当地(東京)は牛肉は滅多に買えない”とある。それだけ両親の喜びは大きかった。

入行のお祝い・ご褒美なのか当時最新式を誇った第一ホテルに宿泊している。”一番安い部屋ですからね”とはあるが、それでも二十歳過ぎの新入社員が気軽に泊まれるようなホテルではなくかなり奮発してもらったのだろう。

本来は嬉しい新入行時のオリエンテーションの筈なのだが、ここにも始まってしまった戦争の暗雲が立ち込めている。前年末にあった徴兵検査の結果が未だ通知されていない様で、自分だけでなく友人達も入隊日がいつになるのか心配している旨が書かれている。しかし、冒頭の写真にあるように間もなく入隊日が決まり、半月後には入隊する。

明るい未来を掴んだにもかかわらず進みたくない将来へ無理やり引きずり込まれてゆく状況は本当に納得できない辛いものだったろう。当時この様な境遇の若者がどれ程いたのか…。本当に心が痛む。

昭和18年3月11、16、23日 長男(康男)から次男(敬)への葉書 3通

昭和18年6月 出征直前
18年3月11日
18年3月16日
18年3月23日

今回は弟の敬に宛てた3通の葉書。前回の投稿分から一年以上間が空いてしまっている。その間教育訓練等のため中国大陸(保定幹部候補生隊)に配属された後、一旦将校勤務を免ぜられているが1ヶ月後に再度将校勤務を命ぜられ、3ヶ月後に四国丸亀の部隊に転属~着任している。この間の手紙・葉書は小生の手元に残っていない(中国へ行っていたため手紙が出せなかったのかもしれない)ので、戦後父(芳一)が残していた康男の軍での履歴の一部を抜粋して以下に記す。

 昭和17年
  2/ 1 臨時召集により入隊、陸軍二等兵
  4/ 1 現役、幹部候補生、陸軍一等兵
  4/20 兵科甲種幹部候補生、上等兵
  5/ 4 大陸に渡るため宇品港出帆
  5/ 9 塘沽(現在の天津?)上陸
  5/10 保定幹部候補生隊に入隊
  6/ 1 伍長
  9/ 1 軍曹
 10/30 教育終了、曹長、見習士官
 11/ 7 保定出帆
 11/14 帰隊
 11/30 将校勤務免ず
 12/30 将校勤務命ず
 昭和18年
  2/28 配属部隊決定
  3/ 3 着隊

望まない運命ではあるが、その中では最良ともいうべき甲種幹部候補生になり順調(?)に出世してはいる。

解読結果は以下の通り。

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【3月11日の葉書】
其後変りなく励んでいることと思う。
既報の通り兄さんは無事着任。新しい軍務に
精励している。何處に行ったって軍隊は大して変る
ものではない。もう殆ど慣れて来た。
何時頃迄こちらに居るか全然分からぬが、ここ当分
当地にいるはず。御前とも度々面会出来ないで
淋しい気もするが、支那に行っていた当時を思えば
何でもないよ。御前もくよくよせずに体に充分
気をつけて大いに働いて呉れ。最少し体に注意
せねば駄目だぞ。兎角下宿生活はふしだらに
なり勝ちだからな。また会えると思うが、とにかく元気で。

【3月16日の葉書】
拝啓
櫻も早やほころびかけて来た様だが、其後
如何。元気で勤めているか。兄さんは相変らず
だ。未だに当隊にいる。いささか腰を著付けざる
を得ぬ状態。讃岐の生活も早や二週間に
垂んとする。外出は防疫上禁止なので転入以来
未だに日曜らしきもの無し。写真はどうなった
か。之で三通目の葉書だが、返事皆無はどう
した訳か。病気ではあるまいな。    早々

【3月23日の葉書】
拝復 廿日出しの御葉書受取った。又先日は
写真有難う。割に出来がいね。伸ばしてない
方のもいいやつは全部伸して呉れんか。二部隊の
見習士官の方へも送ってやって呉れんか。(費用ハイヅレ送ルツモリダ)
家の方へも必要な奴は焼増、拡大して送付して
呉れれば幸い。見習士官が沢山写っている分
は四枚拡大して送付して呉れ。そちらで
都合が悪ければ、ネガを送って呉れてもよい。
電蓄がみたいね。一昨日からちょっと家に帰ってみた。
御前には敢てしらせなかったから悪しからず。又機会がある。
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今回も特に難読ワードはなかったが、2枚目4行目の”腰を著付けざる”の部分”きつけざる”と読んだが、現代ではこの言葉自体目にする機会がなく正しいのか否か判らない。御存じの方いらっしゃれば御教示乞う。
※2022.07.24追)ひょっとすると”著付けざる”は”落付けざる”の書き間違いかも知れない…

前年(昭和17年)の11月30日に将校勤務を免ぜられており一旦帰宅したのでなないかと思うが、その辺りの状況ははっきりしない。ただ、国内にいたにもかかわらずこの間の康男からの手紙・葉書が見当たらないことから、数ヶ月の間は帰宅していたのではないかと推察する。
仮に軍務から離れていたとして1年前に入行した日本興業銀行での扱いはどうなっていたのか詳しくは解らないが、昭和19年11月に出兵する際に日本興業銀行の三雲豊造という人事部長から父(芳一)宛に武運長久を祈る巻手紙が届いているので在籍はしていたものと思う。
その1ヶ月後の12月30日に再度将校勤務を命ぜられ翌2月28日に丸亀の部隊への転属命令が出て3月3日に着隊している。

葉書はその着任後に送ったものだが、戦況が悪化し心配しているであろう敬(弟)を気遣う内容となっている。ただ敬の方も元々病弱であった上に増産命令(当時三菱工作機械製作所に勤務)などで相当忙しかったためか、返信が滞り康男が催促している様子も伺える。

冒頭の写真は昭和18年6月下旬、兵站警備隊に転属命令が下った際に撮影したもの。