昭和18年3月11、16、23日 長男(康男)から次男(敬)への葉書 3通

昭和18年6月 出征直前
18年3月11日
18年3月16日
18年3月23日

今回は弟の敬に宛てた3通の葉書。前回の投稿分から一年以上間が空いてしまっている。その間教育訓練等のため中国大陸(保定幹部候補生隊)に配属された後、一旦将校勤務を免ぜられているが1ヶ月後に再度将校勤務を命ぜられ、3ヶ月後に四国丸亀の部隊に転属~着任している。この間の手紙・葉書は小生の手元に残っていない(中国へ行っていたため手紙が出せなかったのかもしれない)ので、戦後父(芳一)が残していた康男の軍での履歴の一部を抜粋して以下に記す。

 昭和17年
  2/ 1 臨時召集により入隊、陸軍二等兵
  4/ 1 現役、幹部候補生、陸軍一等兵
  4/20 兵科甲種幹部候補生、上等兵
  5/ 4 大陸に渡るため宇品港出帆
  5/ 9 塘沽(現在の天津?)上陸
  5/10 保定幹部候補生隊に入隊
  6/ 1 伍長
  9/ 1 軍曹
 10/30 教育終了、曹長、見習士官
 11/ 7 保定出帆
 11/14 帰隊
 11/30 将校勤務免ず
 12/30 将校勤務命ず
 昭和18年
  2/28 配属部隊決定
  3/ 3 着隊

望まない運命ではあるが、その中では最良ともいうべき甲種幹部候補生になり順調(?)に出世してはいる。

解読結果は以下の通り。

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【3月11日の葉書】
其後変りなく励んでいることと思う。
既報の通り兄さんは無事着任。新しい軍務に
精励している。何處に行ったって軍隊は大して変る
ものではない。もう殆ど慣れて来た。
何時頃迄こちらに居るか全然分からぬが、ここ当分
当地にいるはず。御前とも度々面会出来ないで
淋しい気もするが、支那に行っていた当時を思えば
何でもないよ。御前もくよくよせずに体に充分
気をつけて大いに働いて呉れ。最少し体に注意
せねば駄目だぞ。兎角下宿生活はふしだらに
なり勝ちだからな。また会えると思うが、とにかく元気で。

【3月16日の葉書】
拝啓
櫻も早やほころびかけて来た様だが、其後
如何。元気で勤めているか。兄さんは相変らず
だ。未だに当隊にいる。いささか腰を著付けざる
を得ぬ状態。讃岐の生活も早や二週間に
垂んとする。外出は防疫上禁止なので転入以来
未だに日曜らしきもの無し。写真はどうなった
か。之で三通目の葉書だが、返事皆無はどう
した訳か。病気ではあるまいな。    早々

【3月23日の葉書】
拝復 廿日出しの御葉書受取った。又先日は
写真有難う。割に出来がいね。伸ばしてない
方のもいいやつは全部伸して呉れんか。二部隊の
見習士官の方へも送ってやって呉れんか。(費用ハイヅレ送ルツモリダ)
家の方へも必要な奴は焼増、拡大して送付して
呉れれば幸い。見習士官が沢山写っている分
は四枚拡大して送付して呉れ。そちらで
都合が悪ければ、ネガを送って呉れてもよい。
電蓄がみたいね。一昨日からちょっと家に帰ってみた。
御前には敢てしらせなかったから悪しからず。又機会がある。
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今回も特に難読ワードはなかったが、2枚目4行目の”腰を著付けざる”の部分”きつけざる”と読んだが、現代ではこの言葉自体目にする機会がなく正しいのか否か判らない。御存じの方いらっしゃれば御教示乞う。
※2022.07.24追)ひょっとすると”著付けざる”は”落付けざる”の書き間違いかも知れない…

前年(昭和17年)の11月30日に将校勤務を免ぜられており一旦帰宅したのでなないかと思うが、その辺りの状況ははっきりしない。ただ、国内にいたにもかかわらずこの間の康男からの手紙・葉書が見当たらないことから、数ヶ月の間は帰宅していたのではないかと推察する。
仮に軍務から離れていたとして1年前に入行した日本興業銀行での扱いはどうなっていたのか詳しくは解らないが、昭和19年11月に出兵する際に日本興業銀行の三雲豊造という人事部長から父(芳一)宛に武運長久を祈る巻手紙が届いているので在籍はしていたものと思う。
その1ヶ月後の12月30日に再度将校勤務を命ぜられ翌2月28日に丸亀の部隊への転属命令が出て3月3日に着隊している。

葉書はその着任後に送ったものだが、戦況が悪化し心配しているであろう敬(弟)を気遣う内容となっている。ただ敬の方も元々病弱であった上に増産命令(当時三菱工作機械製作所に勤務)などで相当忙しかったためか、返信が滞り康男が催促している様子も伺える。

冒頭の写真は昭和18年6月下旬、兵站警備隊に転属命令が下った際に撮影したもの。

昭和18年 三男(三郎)陸軍予科士官学校受験志願 関連書類vol.1

時系列順という形で前回までは長男(康男)の手紙・葉書の投稿となっていたが、昭和18年3月23日の葉書を最後に昭和19年2月28日の父(芳一)から三男(三郎)への葉書まで約1年間分の通信物が小生の手元には残っていない。実際にはあったものと思うが所在不明である。

と云う事で上述の芳一から三郎の手紙の投稿となるのだが、この手紙の内容は芳一が陸軍予科士官学校に合格し埼玉県北足立郡朝霞町(当時)にあった振武台校の生徒となった三郎に宛てたものである。そこに至るまでに”志願~受験前身体検査~受検~合格発表~入校”に関する諸々の書類が遺っており、今後の投稿内容にも拘わってくるので数回に亘ってそれらの投稿をしたいと思う。

1.昭和十九年度 陸軍予科士官学校・幼年学校 生徒志願者心得
まずは、受験要綱にあたる”昭和十九年度 陸軍予科士官学校・幼年学校 生徒志願者心得”である。
結構大きなサイズでA2サイズに近い”420mm×545mm”で、昭和18年2月に教育総監部より発行されている。全体画像を冒頭にアップしてあるが以下にもう少し見やすく4分割のもの表示するのでご覧頂きたい。(大きな書類の爲、PC等ピンチアウト操作の出来ない場合はかなり見辛いと思うがご勘弁願う。)

生徒志願者心得(右上)
生徒志願者心得(左上)
生徒志願者心得(右下)
生徒志願者心得(左下)

内容は
①.採用要領(志願資格、出願期限、採用検査内容詳細、検査場一覧)
②.出願より受験迄(願書記載の注意、願書差出上の注意、願書差出後の注意、受験心得)
③.陸軍部内より陸軍予科士官学校生徒を志願する者に関する特例
④.注意
⑤.身体検査に就て志願者の参考
⑥.其の他
となっている。
学科試験は”国語・作文・数学・歴史及地理・理科、物象”であり、さすがに英語はない。
注意する部分に赤線を引きミスの無い様注意している様子が覗える。
その当時(旧制)中学3年(或いは4年になったばかりか?)であった三郎が受験志願を決意した大きな理由には、戦局の重大化による長男(康男)の徴兵があったものと思われる。加えてこの三男は上の二人の兄達に比べて体格も良く頑強だったこともあったかもしれない。いずれにせよ”どうせ軍隊に行かざるを得ないのなら…。”と云う思いがあったのは間違いない。

余談であるが、小生広島の出身で”⑥.其の他”に広島陸軍幼年学校の所在地が広島市基町とあるのをみて、その場所が2年後の昭和20年8月6日の原爆投下によって壊滅した場所であることを思い浮かべた。このとき三郎と同じように意気軒高に幼年学校を受験し合格した若者達が皆その惨劇に巻込まれてしまったのかと思うと言葉が無い…。

2.陸軍予科士官学校生徒 志願者身体検査出頭通知書

志願者身体検査出頭通知書

学科試験の前実施される身体検査への出頭通知書。
この身体検査に合格して初めて学科試験が受験できる。ただ、学科試験に合格し予科士官学校に入学する際にも再度身体検査がありその時点で合格取消しとなる場合もあったようである。因みに”広島偕行社”とは大日本帝国陸軍の元将校・士官候補生・将校生徒・軍属高等官の親睦組織であったとのこと。詳細はインターネット等でご確認願う。

3.昭和十九年度 陸軍予科士官学校生徒志願者学科試験日割表及受験者心得

学科試験日割表及受験者心得

こちらは昭和18年7月に教育総監部が発行したもので、志願者に対して学科試験の詳細要領を説明したもの。
・学科試験の日程・時間割
・学科試験の集合時間、服装、携行品、解答方法、試験場での態度等の注意
・学科試験終了後に必要な提出書類、合格時の通知方法及びそれに対する返信方法
・合格時の現在学中校への退校手続に関する注意
・教育総監部、陸軍予科士官学校(朝霞振武台)の連絡先
が記載されている。

これらの手続きを経て、昭和18年9月20日~22日の三日間の学科試験に臨んだのである。

昭和18年 三男(三郎)陸軍予科士官学校受験志願~合格手続き 関連書類vol.2

前回の投稿で陸軍予科士官学校受験迄の手続きに関する書類をご覧頂いたが、今回は昭和18年9月20~22日の3日間実施された学科試験に無事合格した後、入校迄に届いた書類及び手続きに関して投稿する。
因みに前回投稿した書類を確認していて気付いたのだが、問題を解く事を”答解”と記載している。”解答”ではないのである。ネットでちょっと検索してみたが”解”と”答”がひっくり返っている事に関しての”答解”は発見できなかった。大した理由は無いのかもしれないがGHQの意向が反映されたりした結果なのだろうか…。

1.採用予定通知と応否届出

採用予定通知と応否届出

11月3日に採用予定通知が電報にて届いていおり、応諾の届出を同じく電報で送っているのだが遺っているのが控えの様なので送った日付等の詳細が不明であるも、おそらく当日に送ったであろうと思われる。
ちょっと面白いのは、大日本帝国陸軍教育総監部なるもの相当に厳格な役所だと思っていたのだが、前回投稿した”陸軍予科士官学校生徒志願者学科試験日割表及受験者心得”(えーい長い名称だなぁ。)に採用予定者への電報には「リクシサイヨウヨテイスグヘンケウイクソウカンブ」と記す旨書かれているにも拘らず、実際に届いた電報は「リクシゴ ウカク・スグ ヘン・ケウイクソウカンブ」と文言が違っている。案外いい加減な役所だったのか?と思ってしまった。まあ内容的には問題ないし、さすがにこれに対して「ナゼチガッテイルノデアリマスカ?」と問合わせる偏屈な命知らずも当時はいなかったであろう。(現代なら多分大勢いたと思うが…。)

2.陸軍予科士官学校生徒隊長からの父兄宛の御祝・挨拶状。(おそらく採用予定通知への応諾直後に届いたと思われる)

陸軍予科士官学校生徒隊長 榊原主計氏の御祝・挨拶状

これはちゃんと印刷(現代風に言うとプリントパックで制作)したもので、陸軍予科士官学校公式のものと思われる。(添付画像が読み辛いかもしれないがご勘弁願う。)
漢文混じりの”候文”で難読ワードが散見される。
例えば
・合格被遊:合格あそばす
・皇軍の禎幹:神(天皇)の軍隊の柱
・涵養:じっくりしっかりと育てる
・毎晨:毎朝
・明治節佳辰:明治天皇の誕生日(11/3現在の文化の日)であるめでたい日
と云ったものがある。
しかし、読んでみるとそれ程堅苦しい内容ではなく”御子息を大事に育てますから御安心下さい”的なもので、加えて”鶴首御入校の日を待つ”や”青年士官を要すること実に戦勝獲得の爲緊急缺くべからず”とか”入校せらるる日を偏に御待申上候”と戦況悪化に伴う軍部の人材不足を感じさせるような言葉が並んでいる。兎に角人材が欲しかったのであろう。
ただ、学校の指導者達は一生懸命に教育訓練し早く一人前の将校に仕上げるべく努力されていたと思うが、実際の歴史に於いては当時育てられた青年将校達が消耗品の様に消えていったことも事実である。

同じ様な内容の挨拶状が、廣島師団兵務部長からと陸軍予科士官学校富士隊隊長からも届いているので、これらに関しては次回の投稿にてご覧頂く。

昭和18年 三男(三郎)陸軍予科士官学校受験志願~合格手続き 関連書類vol.3

前回に引続き学科試験合格後に軍部側から届いた御祝・激励・挨拶状2枚を投稿する。

1枚目は12月4日に三郎宛に届いた広島師団兵務部長 両角少将からのもの。画像では判読出来ないと思うので”解読結果”を記す。

陸士広島師団兵務部長封筒
広島師団兵務部長 両角少将からの御祝・激励状

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私は広島師団兵務部長両角少将です
熾烈な決戦が大東亜の全地域に於て連日繰返されている時勃々たる雄
心と報国挺身の気概を凛然たる眉宇に漲らし若く逞しき諸君が例年に
見ず数多く陸軍予科士官学校を志願され而も其の数多き志願者の中か
ら選ばれて見事合格の栄誉をうけられた諸君は正に俊材中の俊材にて
衷心よりお祝い申上げると共に益々心身を練り健康に注意し晴の入校
に萬一の差支えなき様充分に注意されたいと念願する次第です
戦局は今や誠に重大なる段階に入り北に南に東に西に大御稜威の下忠
勇無比なる皇軍将兵の勇戦奮闘により赫々たる戦果を挙げつつあるの
でありますが敵米英の飽くなき非望は益々執拗に且つ強力に反攻を挑
み中部太平洋に印緬国境に将又中支に死物狂いの動きを示している事
は既に諸君の承知している通りであります
此の時に當り元気溌剌たる諸君が国軍将校として明日の戦線に活躍せ
んとし見事難関を突破し入校せらるる事は誠に重大なる意義を有する
と共に諸君の責任も又重大なりと云わねばなりません
諸君は今や合格の喜びにひたると共に胸中深く期する所あり敵米英撃
滅への強き闘魂に漲り一死国難に赴く烈々たる赤誠は溢れ国運を双肩
に擔い仇敵必滅せずんば止まざるの一念に燃え立って居る事と信じま
す此際諸君の感激と覚悟を次に来るべきものに伝え二陣三陣続くもの
への激励と致したいと思いますので諸君の意気と感激と決意を一文に
綴り私宛に是非送ってほしいと思います
では諸君が元気に入校せられ一日も早く立派な将校となり戦場に存分
の活躍せらるる様希って居ります
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少将辺りの階級の人になると大分文書内容が変って来る。まず句読点と云うかセンテンスに切れ目がない。当時は若い人でもあまり句読点など使わないのではあるが、これくらい完璧に使っていないとむしろすがすがしい。小生などはダラダラと書いてしまって読み辛くなると思い句読点を多用しがちなので参考になる。元々句読点は無学の輩に対する補助的なもので教養のある者に対して使うのは失礼であった(現代でもそう感じる方はいらっしゃる)のだから今後は出来るだけ使用を控えたい。

また激励文だから当然と云えば当然であるが、激励や気持ちを鼓舞するような言葉が非常に多い。
例えば
・勃々たる雄心
・凛然たる眉宇に漲らし
・忠勇無比なる皇軍将兵の勇戦奮闘
・赫々たる戦果
・一死国難に赴く烈々たる赤誠
・仇敵必滅せずんば止まざるの一念
など、ひと昔前の経営者が年頭の挨拶等で好んで使いそうな文言が並んでいる。まさに軍国主義的な表現である。
がしかし、このいわゆる軍国主義的な言葉や行動を一概に”ダメ”とする風潮には反対である。誤解を恐れずに云うが”使いよう”である。やる気にさせる際に使うのなら良いのに、無茶をさせるためや洗脳するために使うからダメなのである…と思う。
そうそう、もう一つ特筆する部分がある。先にあげている封筒の画像をよく見て頂くと判ると思うが、この封筒は事務用書類か何かの裏紙で作られている。更には書面自体も試験解答用紙(さすがに未使用分であるが)の裏紙である。仮にも陸軍少将の文書であるにも拘わらずである。それ程物資不足が逼迫していたと云うことなのか、或いは国民に対し質素倹約を強いている立場上のパフォーマンスだったのか…。多分その両方であろう。

さて、もう1枚は年が明けた昭和19年2月の入校直前に届いた陸軍予科士官学校生徒隊富士隊長の服部少佐から父母宛に届いた御祝・挨拶状である。

富士隊隊長 服部少佐 挨拶状

この服部少佐が三郎が配属される富士隊の隊長である。
こちらも画像では判読できないと思うので”解読結果”を記す。

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拝啓 戦闘益々苛烈を極める大東亜戦下高堂益々御清建の段奉賀候
陳者今般御子弟には年来の志望達せられ目出度入校の栄に浴せらるるに
至りしこと御本人は素より御一統様には嘸かし御満悦の御事と拝
察仕り候 御子弟には當中隊に編入せられ私共直接御世話
致す事と相成候就ては御一家の玉寶を預り訓育指導の任に
當るの責務重且大なるを自覚し粉骨砕身全力を竭して
努力仕り以て国家の要求と御父兄の御期待に副いたき
所存に御座候 惟ふに御子弟教育の爲には御家庭と當方
との終始隔意なき連携を保ち一致協力其完璧を期するに
非れば到底良果を収め得ざる事と存候間本校よりの諸注
意を熟読被下入校のための諸準備と御本人の健康増進
と中隊に対する緊密なる御協力とを願い上ぐる次第に御座候
時下折角御自愛の上目出度入校の日を御待被下度候
先は右乍畧儀御祝旁々御挨拶申逑候          拝具
   昭和十九年二月三日
            生徒隊富士隊長 陸軍少佐
                     服部征夫
 父兄各位殿
          中隊長 陸軍少佐 服部征夫
          区隊長 陸軍大尉 栗山俊明
              同    小池三郎
                   堀 貞雄
                   前田八郎
                   岡田生駒
              陸軍中尉 増澤一平
                   安藤仁一
                   海老澤英夫
***************************
陸軍予科士官学校からのものは2通目であるが、前回のものが学校公式のものだったのに比べ、こちらは実際に生徒を受持つ隊長(担任)からのもので、手書き(ガリ版ではあるが)の多少親近感を醸したものである。
前回のものと同様”漢文調の候文”である。見慣れない語彙としては
・高堂:この場合は”御両親様”又は”御家族様”の意と思う
・陳者:”のぶれば”と読むらしく”申し上げますが…”の意
・御一統様:入校する全生徒及びその御家族皆様
・嘸かし:”さぞかし” 現代では漢字で書くことは殆どないと思う
・責務重且大:単純に”重大”とせず”重且大”としているところが興味深い
・全力を竭して:”全力をつくして”と読み”尽くして”と同意
・候間:”そうろうあいだ”と読み”間”は理由を表すらしい
・熟読被下:”熟読くだされ(り)”と読むらしい
・折角御自愛:”折角”には”全力で”の意味もあり”努めて”とか”精一杯”の意
等々沢山ある。
内容的にも前回同様に”御子弟を大事に責任を持って教育しますので御安心下さい”的な内容であるが、しかし軍隊とはあらゆる面で厳しい世界であり両親としては息子の事が心配で心配で仕方なかったようである。【次回以降の投稿での内容となるが、父(芳一)は三郎入校当日に付添ったにも拘らず、一旦帰広した後再び(三郎に内緒で)生徒隊長に面会に行っているのである。】

これらの他、陸軍予科士官学校長への身元保証書(父芳一が保証人)の提出や在学していた中学校への退学手続き等を終えて入校となる。

昭和19年3月1日 長男(康男)から三男(三郎)へ合格の祝詞

昭和19年3月1日 康男から三郎への葉書

今回は陸軍予科士官学校に入校した三郎に長男(康男)が送った葉書である。
小生、康男の文字は大分慣れているし今回の葉書は短いので特に問題となるような部分はなかった。
解読結果は以下の通り。

***********************
前略 無事入校との事、父よりきき
安心した。愈々将校生徒としての研鑽
が始まる譯だが、兎に角早く環境に慣れ
る事が大切だ。未知なるものを畏れ
てはならぬ。進んで之にぶつかる事だ。
御前の知らぬ事、分からぬ事、辛い事、そして
やり難い事はみんな同じ様に分からぬ事で
あり、辛い事である事を忘れる勿れ。
入校の祝詞に代えて右の言葉を送る。
体には特に注意せよ。但し体は信頼に足るものだ。
***********************

既に2年間の軍隊経験を積んだ先輩将校として、後輩にあたる三郎に対し訓示を与えている。13歳から寄宿舎に入りそれ以降10年近く実家を離れて生活していた康男からすると、中学4年までずーっと実家暮らしで父母に甘やかされて育った三郎が、いきなり陸軍予科士官学校と云う厳しい環境に入ることは相当心配だったのであろう。単純に”おめでとう、頑張れ”ではなく”当然厳しいのだぞ、心してかかれ”と檄を飛ばしている。康男にとっては6歳年下の”可愛い弟”であったろうし、三郎からすれば”頼りになる兄さん”であったと思う。

さて、この時康男は広島市内に住んでいたようなのだが、前回の投稿の時からほぼ1年経過しておりその間の軍歴を下記しておく。

昭和18年
  6/10 兵站警備隊に転属
  8/27 転属取止め
 11/30 現役満期、陸軍少尉
 12/ 1 予備役編入、引続き臨時召集
       歩兵第百十二聯隊補充隊付
 12/23 船舶司令部付特殊艇要員として
       矢野部隊服務
昭和19年
  3/ 1 船舶練習部学生

となっている。

昭和18年12月1日付で”予備役”となっており、平時であればこの時点で軍役と離れ”銀行マン”に戻っていた筈。しかし戦争はそれを許さず”引続き臨時召集”され船舶司令部に配属されるのである。
この”船舶司令部矢野部隊”が多分広島市の宇品にあったので広島市に居住していたのだと思う。