昭和14年7月1日 長男(康男)から父母への葉書

祖父から母そして小生へと引継がれた遺品の中の手紙や葉書の投稿第ニ回は、当時松山高等商業学校の学生だった長男(康男)が父母に宛てた葉書。

第一回目の投稿分からは既に5年が経過しており、文章内容も筆致もかなり大人びてきている。それに沿って小生の”解読作業”の難易度も一気に上昇してしまった。解読結果は以下の通りである。

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愈々七月になりましたね。本格的な暑さに入るのも間もない
ことでしょうね。当地は未だ梅雨が明け切らず毎日鬱陶しい
曇り空が続きます。然し最少ししたら真夏の太陽が輝き出す
でしょう。夏休みも愈々近づきました。十日迄授業で五日間勤労
作業がありますので帰省は十六日の朝になるでしょう。広島へちょ
っと寄って行かなければなりませんので、十六日の夜頃三次へ帰ろうと思います。
久しぶりに生れ故郷へ帰れるので大きな期待を持っています。
谷本のおばさんは未だ居られる様です。七月中は居られるのでは
ないかと思います。では暑さの折、折角お体に気を
つけて下さい。弟達にも注意してやって下さい。
                      さようなら
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先ず、”愈々や鬱陶しい”などの厄介な漢字を葉書のあの狭いスペースに書く事自体が狂気の沙汰である。現代ではパソコンの力によって可能になっているが、どれ程の若者が肉筆文字として葉書に書き込めるだろうか…。
また、年齢に伴って文字を繋げて書く技術に長けてきた様で、続き文字が多くなり難解度を上げている。眺める分には日本語の縦書きの美しさを感じることが出来て非常に良いのだが、内容を理解するには厄介である。
特に”に・も”は解りづらい。まあ文脈からある程度は判断できるが…。”最少し(もすこし)”と云う使い方も面白い。
特筆すべきは”折角”である。現代では”折角お体に気をつけて下さい。”と云う使い方は殆どしないのではないかと思う。

未だ開戦前でもあり内容的には戦争の気配はないが、実際には在学中に軍事教練を受け卒業時には配属将校になるのである。

昭和14年7月6日 長男(康男)から両親宛の手紙

 

今回は松山高等商業学校の学生であった長男(康男)が夏休みを前に両親に宛てた手紙。便箋3枚に亘った”大作”で、解読も結構難儀であった。

身内宛のものではあるが、”拝啓”で始まり”御両親様”と終るところは礼儀正しい。が、内容的にはお金の無心をしたりして案外ちゃっかりしている。やっぱり長男だなぁと思う。小生も同じ長男だから…。

 

昭和16年7月6日 康男の手紙①
昭和16年7月6日 康男の手紙②
昭和16年7月6日 康男の手紙③

以下、小生の解読結果。

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拝啓 其後お変り御座居ませんか。当地は漸く梅雨も上った
様で今日はカンカンの夏照りでした。冷たい水が恋しい季節
となった様です。三次も相当日中は暑いことでしょうね。
朝晩は真夏でも涼しかったですね。夏休みは丁度避暑
に帰る様なものだとみんなで言っていますよ。ブルジョア階級と
同じですよ。まあ申分ない身分ですね。
授業もあと三日です。勤労奉仕が五日間で十五日の午後、
高浜港を出帆しようかとも思います。作業は大抵午前
中らしいですから。十五日に帰るとすれば九時か十時過三
次へ着くことになります。四時高浜出帆しても四時間みて
おかねばなりませんからね。芸備線の連絡も丁度いい具合
に行ったら、いいと思っていますが、未だ確定したわけで
はないですが。成可く、早く帰ります。
それから七月分の諸費用ですが、“経済講話”、
“英文学書”等買って帰りたいのですが、休暇中に読みたいのです。
帰省費は勿論費りますが、松山の名物も買って帰ってもいい
ですよ。ちょっと変わったのもありますからね。
それから先月靴を買いましたが、十八円余りでした。
あんまり安いのもどうかと思う様なのばかりで、まあ手頃と
思いました。何やかと色々買って貰いましたが、大体之で
揃った様です。只一つオーバが残っているんですが、之はまあ
後のことですね。現在、庭球と俳句をやっていますが、今度
勧誘に依いて絵画の同好会へ入ることにしました。勿論趣味
として悪いものでもなく僕も好きですから。先輩の大黒さん
も入っているし、僕と仲のいい人が居るので入る気になった
のです。休暇中に畫いてみる予定で道具が一揃入
用なのですが、そんなに高いものではありません。以上、
色んなものを合計して二十八円位必要だと思うのですが、
勿論余ったら持って帰りますから少々余分に送って
貰えばいいと思うのですが。又金のことで小生も心苦しいの
ですが、金を離れて生活も出来ませんので、仕方がありません。
十日頃迄に御送付願えれば幸甚です。
昨夜まで灯火管制で、小さな臨時試験があるので
苦労しました。
敬達は休暇が大分少くなる様で可哀想ですね。
然し僕等も来年はどうなるか予測できない状態です。
学生から夏休みを取ってしまったら実際意味がないですね。
それに教師は益々不利な立場に置かれますし。
教師の質的低下は必然ですから…。こんなこと言って
も、とにかく休暇丈は廃せない方がいいです。
あと十日間です。お体に気をつけてください。
  七月六日                   康男
御両親様
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続き文字に一層磨きがかかった様子で益々難解化してきた。大半の場合は文脈から判断できるが、固有名詞(名前や地名)の場合は漢字の読みがあやふやだと迷宮入りの可能性が高い。今回も”高浜港”の読みに今一つ自信がなくネットでググった結果、四国にその港があることで漸く確定出来た。

昭和14年の時点ですでに”灯火管制”が敷かれていたのには少々驚いた。実際に本土への空襲が始まるのはもっと後の事(昭和19年頃?)だと思うが、すでに始まっていた日中戦争の影響でこの頃から訓練が開始されていたと言う事か…。
また、弟(次男の敬)の夏休みが短縮される事を心配している部分があるが、これも戦争の影響が既に出始めていた証であろう。来年には自分にも…と感じており若者にとってはとてつもなく不安な時代であったと思う。現代の政情不安などとは比較にならない社会情勢だったことが感じられる。

昭和16年6月8日 長男(康男)の現況報告

松山高商自動車班

 

昭和16年6月8日 康男の手紙①
昭和16年6月8日 康男の手紙②
昭和16年6月8日 康男の手紙③
昭和16年6月8日 康男の手紙④

今回は便箋四枚の大作。数ヶ所??な部分があった。
解読結果は以下の通り。

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大分暑くなって参りましたが、皆様御変りありませんか。
小生は相変わらず元気です。やっぱり暑くなると目方が減
って来るのは争えませんが、今年は昨年の様な失態を演
ずる様なことはありませんから、どうぞ安心していてください。
一昨日は松前町というところの東洋絹織の見学を致
しました。スフ・人絹工場で相当大規模なものですが、
今年出た先輩が職工と同じ菜葉服で妙な志那兵
みたいな帽子を被って、やかましい、暑い、綿片の一ぱいの
各工場を案内して呉れるのを見て、少々考えさせられ
ました。こんな工場へ入れば、最初は職工と同じ様
に各工場で一通り実習するらしいです。
どこでも、ですが工場は健康にはあまりよくない様です。
金融業の筆頭たる銀行なんか、真実非常に楽
ですね。大して創意の発揮は出来ないかもしれ
ませんが、現今の社会状態に於て専門学校出位で
自分の意志によって経営をする、という様なことはちょっ
と無理な話ですね。中央銀行といえば確かなこと
  ※余白に追伸のような書込みあり。
 (蓮池のオバサンが東京より帰られましたので、すみませんが御手紙を差上
げて下さいませんか。僕が厄介になった御礼だけでいいですから。)
此上無いですからね。僕みたいなのが結局一番幸福
なのかもしれません。未だ、先生から何も通知があり
ませんので、何んとも報告の申上様がありませんが、
まあ焦る必要も無いことと思います。大体夏休み
以降に於て取決めらるべきことなのですから、欲張るの
も我慢な話ですからね。大概大丈夫らしいですから
安心している様な訳ですが、万一の失敗?があったと
しても悪しからず御諒承下さい。ふつつか乍ら日銀
へ推薦された位ですから、今の世の中、落着いて、だまっ
ていても会社の方から雇いに来ますよ。こんなことを言
ってえらい呑気に構えている様ですが焦ったって仕様の
ないこと。最善を盡して天命を待つのみです。
が、重ねていう様ですが大抵大丈夫でしょう。日銀は最初
一、二か月は実習といいますか、事務の講習ですね。
それの為、東京へ行くらしいです。本社へ全国から専門学校
以上の卒業生たる新入行員が集まる訳です。
先日遂に本棚を買いました。結局十円近くしました。
整理がつかぬので仕様なしに買ったのですから、決して
不用品では無いと思います。卒業後の必要なもので
すから。卒業してからの勉強は相当重要なる役割
を成すものではないでしょうか。先日金融関係の本
二、三冊買いましたが、インフレ悪性への徴をみせている
今日、専門書の高いことは驚くばかりで、結局御父さんの
負擔になるのですから心苦しいですが仕方がありません。
明後日ゼミナールでは僕の研究発表がありますので
発表事項の整理に大童です。題目は「ディールの信用
理論」、昨夜は二時過ぎ迄。十数名の前で意志
発表を行うのは仲々いい経験になると思います。
自動車も相当練習してちょっとした運転手ですね。
同封の写真は敬のカメラで芳野君が撮影して
呉れたものです。ダットサンもちょっと綺麗でしょう。
二百円也には見えないでしょう。修繕代が四百円ですか
ら六百円ですかね。練習はとても面白いですよ。
他の班より少々経費が余計掛かって、班員の負擔が多い
のが難点です。近来は教授連が子供みたいに
のぼせてしまって授業がすむとすぐ飛んで来て乗る
ので、班員は迷惑此上なしですよ。下手なくせに
一人で乗ってよく毀します。練習用自動車は此の
写真の小型でなしにフォードの中型車でやっていま
す。県廳の保安課の技師が本校の講師をしていまし
て、ガソリンから自動車から色々と便宜です。県の自動車
の親玉ですからね。マンドリンの方も近来練習して
近々放送する予定です。僕共で四人、先日四日の
六時からハーモニカは放送しました。
先月末御送付の五拾円中、先月分経費として十円
余り、本棚 十円、参考書 八円、自動車班費 二円、
食券(晝食用) 五円、その他支出致しました。
右、日曜日の午前、気持よき微風に頬をなでられ
つつ、御報告致します。            敬具
六月八日                康男
御両親様
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先ず、3行目の”争えませんが”に難儀した。母親が病弱な事を意識しているらしいが、体重の減少を”血のせい”と云っているとは思わなかったのでなかなか読めなかった。もっともこの1年前に体調を崩して(肺炎か?)療養した事があるらしく、そちらの方を指しているのかもしれない。

最終学年でもあり就職活動の一環らしく繊維織物工場の見学に行ったようだが、父親(小生の祖父)が銀行マンであったことから本人も銀行への就職を目指していたようで、”菜葉服”や”妙な志那兵みたいな帽子”とか工場現場での作業を少々バカにした眼つきで見ている様子が伺える。

1枚目の13~14行にある”銀行員なんか〇〇非常に〇ですね”の部分はよく解らなかったが、多分”真実”と”楽”ではないか…。間違っていたら御指摘乞う。ただ、これが正しければかなり強烈な父親への嫌味になると思う。

学校から日銀へ推薦されたようでそんな事も手伝ってか結構テングになっていたのかもしれないが、実際に翌年明けに東京の日本興業銀行で入行講習を受けた時の手紙もあるので受かったのかもしれない。しかし実際にはその後は陸軍に召集されて銀行マンとしては活躍出来なかった。

後半は楽しいキャンパスライフの様子が書かれている。当時既に自動車班なるものがあったことに驚いた。冒頭の写真はその様子であるが、今も昔も変わらぬ若者らしさが伝わってくる。因みに上の写真には裏書があって”怖しき喜劇”とのタイトルが記されている。
他にもマンドリンやハーモニカそして本分である勉強の話をして、父親へのお金の無心も”仕方ないんですよ~。”とやんわりアピール。やっぱこの伯父さん長男だわ。(藁)