閑話休題 三月一日は芳一の命日 小生高校受験のまっただ中、突然の悲報に芳子は… vol.2

前回投稿からの続きである。

明日三月一日は46回目の芳一の命日。
当時小生は15歳の中学三年生であったが、46年前の事なので正直なところ詳細までは詳しく覚えていない。

夕方18時頃に自宅を出た我々(芳子・姉・小生)は20時位に三次の芳一の許に着いたと思う。
ただ、芳一の亡骸がどの部屋に安置され、その亡骸と対面した芳子や姉がどんな表情であったのかよく覚えていない。
三郎一家も既に到着していたのであるが、その三郎の表情も覚えていない。
さもあらん、そもそも自分自身がどの様な感情を覚えたのかすら記憶にないのであるから…

三次に向うまでと翌日の告別式の事は断片的ではあるものの多少記憶はあるのだが、到着した当日の夜の状況は全くと言っていいほど記憶が無いのである。
悲しみに暮れる母(芳子)の様子は本能が記憶を拒んだのかも知れない…

芳一の最後はあっけないものだったらしい。
常子(芳一後妻)の話では
「いつもは朝6時に起きて(就寝前に振り子の音が気になって眠れないからと止めていた)柱時計の振り子を動かして起きて来なさるのに、今朝はよう寝とられるのう。昨日の夜”胸がザワザワする”言うてトンプクを飲んじゃったんが効いとってんかね?」
と思っていたらしい。
その後
「そろそろ起こしてあげんと…」
と枕元に行ったときには既に冷たくなっていたそうである。

因みにその柱時計は現在小生宅にある。

柱時計

確かに”カチコチカチコチ”と気になるし正時の時報も結構大きな音である。
寝ている間は止めているのが正解かも(笑)

翌日の告別式での様子は以前の投稿でも少し紹介しているが、大勢の方にご参列頂きしめやかに行われた。

https://19441117.com/2019/10/27/

式では三郎が喪主として挨拶を述べたのであるが、小生にとっては強面の伯父も父親の死はさすがに辛かったのであろう。涙声での挨拶であった。

それでも数時間後、三次郊外の火葬場では真っ白な灰となった芳一のお骨を鉄箸で拾いながら
「マサヒロ(小生の名前)、これが踵でこの大きいのが大腿骨じゃ。人間もこうなったら一巻の終わりじゃのぉ。ハハハ。」
と優しく笑っていた様子は今も忘れられない…

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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