昭和二十年十月二十二日 「罹災戻」…芳一が廣島商業校長に宛てた康男戦死の手紙は原爆惨禍の為届かず…

 

終戦から二ヶ月ほど過ぎ多少落着いたのであろう、芳一は康男の母校である廣島商業学校の校長宛に康男が戦死した旨の報告と生前のご厚情への御礼を巻手紙に認めている。
が、しかしながら当時の広島市は未だ原爆による惨劇の真っただ中であり、「書留・速達」で出された封書は非情にも「罹災戻」の赤い印と共に差し戻されてしまった。

昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻 封筒表
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻 封筒裏

 

昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻①
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻②
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻③
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻④

当ブログ開始当初より芳一の手紙・葉書は(小生にとって?)非常に読み辛いのであるが、今回の巻手紙は最強である。
故に未解読部分が数箇所あるが、内容に影響がある程では無いのでご容赦願う。

解読結果は以下の通り。
***********************
拝啓 時下高天肥馬の候益々
御精達〇〇〇〇〇〇〇賀候
附は御校第三十七回卒業生たる
(昭和十四年三月卒業)
愚息 三原康男義 松山高等
商業学校卒業後 日本興行銀
行に就職中 昭和十七年二月一日
応召 広島西部第二部隊に入隊
同年五月 北支保定の豫備士官
学校に甲種幹部候補生として
入校 同年十一月卒業帰還致し
見習士官として丸亀第三十二部隊へ
転属 昭和十八年十二月一日 少尉に
任ぜられ 船舶要員として 暁第
二九四〇部隊に転属 船舶練
習部学生の課程を了へ マニラ
第三船舶輸送司令部附特殊
水上勤務要員として 昨十九年
十一月内地出発 輸送船江戸川丸
に乗船 マニラに向け航行中
同年十一月十七日午後十時七分
黄海南方海上に於て 敵の
魚雷攻撃を受け 同乗者二千
餘名中 百九十六名の被救助者
を除く外 船と運命を共に致し
愚息康男も武運拙く戦死者
の中に入り候旨 此程公報に接
し也候
御校在校五年 不一方御恩顧を
被り乍ら碌々御恩返しも為し
不得 二十四年を一期として散華
致し事は誠に残念に存じ益
素より本人は皇国の隆昌と必勝
の信念と後に続くものあるを確信
し 戦死致し儀に御座候得共
事志を違い 敗戦後の今日
戦死の報に接し候事は遺憾
此上もなく 私の心中御愍案
被下度く
諸先生に対しても校長様より
宜敷御傳へ被下度 先つ不取敢
戦死公報 先○○○度 時下〇
〇御自愛被下○○○
      敬具
昭和二十年十月二十二日
故陸軍少尉 三原康男
(進級上申中)
 父 三原芳一

廣島県立
廣島商業学校長殿

追て戦死公報写並に戦死当時の状況
経緯等写同封致置く○御高覧被下度
尚公葬の儀は十月二十九日執行の事に
相成益て御高会○○○○○○
***********************

前々回の投稿で掲載した陸軍船舶司令部矢野部隊長からの「生死不明とナリタル迄ノ経歴」の内容を踏まえ康男が広島商業卒業してから戦死するまでの経歴を述べた後に生前のご恩への感謝と康男本人そして父である芳一の無念を認めている。

芳一(祖父)、三郎(伯父)、芳子(母)は康男(大伯父)のことは殆ど小生には話さなかった。
芳一の納骨の際だったと記憶しているが、芳子が墓下から大きめの薬瓶を取り出して
「この中に康男伯父さんの爪と髪の毛が入っとるんよ…」
と教えてくれたことが唯一であったと思う。

やはり家族にとっては辛い記憶であり想い出したくなかったのであろう。

この後芳一が再度広島商業校長に手紙を出したか否か定かではないが、この手紙が「罹災戻」として差し戻されていなければ小生が目にすることも無く、康男に対する芳一はじめ家族の気持ちを明確に(文字として)知ることは無かった訳であり結果的には良かったのかも知れない…

昭和18年6月 康男

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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