5日程前に三郎に手紙を出している千代子だが、その直後に入れ替わりで三郎からの手紙が届いた様でそれに対しての返信らしい。
先日の手紙で大方の事は綴ってしまっているので、今回は目新しい部分は見当たらない。
解読結果は以下の通り。
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第一信昨日受取りました。毎日元気で
勉強して居ます由、何より安心致しました。
家の方には別に変りはありません。父様もね
三月からは日曜日はありません。子供に負けぬ
様にと相変らず朝早くから手伝って下さいますよ。
芳子も良く勉強して居ります。二人の兄様も
次々と休みに帰って来ました。当分兄様らも
帰られんと申していました。三次はまだ雪が
降りますよ。命令を良く守りて、体に充分気を
つけて勉強して下さい。
板木のお祖父母上様へ時々お便りをなさい。
家の方は心配ありません。又様子(します。)
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今回は文言・文字として読み辛い部分はなかった。
陸軍予科士官学校は通常の中学校や専門学校・高等学校に比べれば当然(規律や訓練が)厳しいであろうから、息子からの”元気な便り”は何よりも安心したことであろう。
”家の方には別に変りはありません。”と書いておきながら”父様もね 三月からは日曜日はありません。”とある。”とーちゃん働け!”ってことか(笑)
冗談はさておき、昭和19年は国民にとってかなり無理を強いられ始めた時期である。学校の夏休みが短縮され、しかも”休み”ではなく”勤労”の期間になっている。更には”通年動員”も始まり教育現場から労働現場に変っている。当然、一般企業でも休日返上で”大増産”を実施しており次男の敬も企業(広島にあった三菱工作機械と云う会社)で汗を流していた。この後敬は体調を崩し実家に戻って療養することになるのだが、元来病弱であった彼にはこの”休日返上の大増産”が祟ったらしい。
本ブログで感じて頂きたい大きな要素は、こう云った状況を”国家の横暴”とか”軍国主義(ファシズム)”と云う負の側面からだけでなく”なぜ大半の国民が義務として耐えていたのか?”を感じ取って欲しい部分である。
あれだけ戦争で辛い思いをしていながら、祖父(芳一)と母(芳子)から国家や政府を糾弾するような発言は聞いたことがない。おそらく内心色々な思いがあったのは間違いないが”分別と恥”を知っており何より”日本人のプライド”があったのだと小生は思う。
皆さんはどう思われるだろうか…。