昭和19年3月9日 母(千代子)から三郎への葉書

昭和19年3月9日 千代子の手紙

5日程前に三郎に手紙を出している千代子だが、その直後に入れ替わりで三郎からの手紙が届いた様でそれに対しての返信らしい。
先日の手紙で大方の事は綴ってしまっているので、今回は目新しい部分は見当たらない。

解読結果は以下の通り。

**********************
第一信昨日受取りました。毎日元気で
勉強して居ます由、何より安心致しました。
家の方には別に変りはありません。父様もね
三月からは日曜日はありません。子供に負けぬ
様にと相変らず朝早くから手伝って下さいますよ。
芳子も良く勉強して居ります。二人の兄様も
次々と休みに帰って来ました。当分兄様らも
帰られんと申していました。三次はまだ雪が
降りますよ。命令を良く守りて、体に充分気を
つけて勉強して下さい。
  板木のお祖父母上様へ時々お便りをなさい。
  家の方は心配ありません。又様子(します。)
**********************

今回は文言・文字として読み辛い部分はなかった。

陸軍予科士官学校は通常の中学校や専門学校・高等学校に比べれば当然(規律や訓練が)厳しいであろうから、息子からの”元気な便り”は何よりも安心したことであろう。
”家の方には別に変りはありません。”と書いておきながら”父様もね 三月からは日曜日はありません。”とある。”とーちゃん働け!”ってことか(笑)
冗談はさておき、昭和19年は国民にとってかなり無理を強いられ始めた時期である。学校の夏休みが短縮され、しかも”休み”ではなく”勤労”の期間になっている。更には”通年動員”も始まり教育現場から労働現場に変っている。当然、一般企業でも休日返上で”大増産”を実施しており次男の敬も企業(広島にあった三菱工作機械と云う会社)で汗を流していた。この後敬は体調を崩し実家に戻って療養することになるのだが、元来病弱であった彼にはこの”休日返上の大増産”が祟ったらしい。

本ブログで感じて頂きたい大きな要素は、こう云った状況を”国家の横暴”とか”軍国主義(ファシズム)”と云う負の側面からだけでなく”なぜ大半の国民が義務として耐えていたのか?”を感じ取って欲しい部分である。
あれだけ戦争で辛い思いをしていながら、祖父(芳一)と母(芳子)から国家や政府を糾弾するような発言は聞いたことがない。おそらく内心色々な思いがあったのは間違いないが”分別と恥”を知っており何より”日本人のプライド”があったのだと小生は思う。

皆さんはどう思われるだろうか…。

昭和19年3月11日 三次中学の同級生から三郎への手紙 vol.1

三郎が陸軍予科士官学校に入校して半月ほど経つ頃、入校直後に郷里の友人に送った手紙への返信が続々と到着している。

数が多いのと友人達の進学状況の報告等、内容的に重複する部分もあるので2~3通纏め数回に分けて投稿する。

今回は三次中学校時代の同級生、SさんとFさんからの手紙(2通)。

最初はSさんからのもの。

昭和19年3月11日 三次中学の同級生からの手紙(Sさん)

細かいが丁寧な文字なので読み易かったが、それでも数ヶ所迷った部分があった。
解読結果は以下の通り。

**************************
拝復 元気の由 何より嬉れしく思いました。
僕も相変らず元気で居る。少しは生活に馴れたか。
君達と別れてから早や二旬にもなるか。月日の経つのは早いもの。
其間ずい分変わった事もあった。
先づ三月六日の卒業式。午前十時始め。優等生は五人
                                                                            (中村、地川、藤井、
                                                                                             徳永、重信)
皆勤者十五名(?)善行者二名(尾茂、柏原)…最大の名誉なり。
兪々最上級生となった。天井が急に広くなった様な気がする。
而し一面何となく淋しい。三月十日陸軍記念日。六里の強行軍。
各学級競走だ。殆んど走り通しだった。僕は一年の三学級の
小隊長の補佐。全学年中第三位を獲た。一寸嬉れしかった。呵々。
十四日から暗渠排水に行く。三次は大変な風と霙、あられ、雪だ。
風紀生は目下十一学級の全生。なかなかやって居る。
悲しいかな四年生は高校全敗か。至極残念。だが来る十七、八日の専門
学校に必勝を期している。
君の母校の爲の御奮闘と御健康の程を御祈り致して乱筆
ながら筆を置く。後日又ゆっくりと。              不一
**************************

まず、”暗渠排水”である。字は読めたのだが意味を知らなかった。要は田畑の水捌けを良くする方法のことで、農業に従事されている方ならどなたでもご存知らしい。小生の無学が恥ずかしい。
この時期、戦局の悪化に伴い食料増産のために農地の開墾整備が全国各地で行われ、これに学生達が動員されていた。山間の盆地である三次近辺もあちこちで暗渠排水が施工されていた様子が覗える。
もう一つ”霙(みぞれ)”が読めなかった。三次は広島県の中でも雪の多い地域で小生が子供の頃も30~40センチ位の雪はちょくちょく積もっていたので、3月中旬ならまだまだ雪や霙は降っていただろう。
”不一”と云う結語も珍しいかも知れない。あれやこれやと色々書きたいことがあって全部は書ききれないという事であろう。
あと、”呵々:大声で笑うさま”も現代ではほぼ使うことはないと思う。

卒業式の事に触れているが”優等生”と”皆勤者”は解かるとして”善行者”とは?基準が知りたくちょっとググってみたが不明。御存知の方がいらっしゃったら御教示乞う。

陸軍記念日の六里(24キロ)の強行軍は大変であろう。小生の頃もマラソン大会等で10キロ程度の長距離走はあったが、その2.5倍はきつい。普段から訓練していて初めて歩ける(走れる)距離である。まあ、現代に比べれば普段の運動量も数倍だったと思うが…。

続いてFさんからのもの

昭和19年3月11日 三次中学の同級生からの手紙(Fさん)

こちらも丁寧な字で読み易く不明な部分はなかった。
解読結果は以下の通り。

**************************
先づ貴方の入校を祝す。
其の后元気の由、何よりだ。小生も普通並にやっ
ている。今は五年も三月六日を以て業を卒へ四年の
天下となった。然し前者の轍を見て五年の如き無
暴悪辣なる態度はとらない積りだ。新五年生に
倣いて我が三中は必ず栄達の途を逆るであろう。殊
に貴方等の陸士合格は指揮を鼓舞する上に大
なる影響を及ぼすものと信ずる。小生高校突破
の野望を抱きしも、之前途を暗澹たらしむる一つにして
今後直ちに国家の要望する所に向って再起勉励する
覚悟だ。下らぬ事を述べたが今後も度々便りする。元気で。
**************************

旧教育制度では飛び級制度があり、旧制中学校では4年修了で旧制高校や専門学校へ進学するのが優秀とされ5年生に進級するのはあまり名誉なことではなかったらしい。
それと絡んでか、或いは単に学年間の仲が悪かっただけなのか、5年生のことをかなり悪く罵っている。しかし自身は高校入試に失敗したようで続いて実施される陸軍予科士官学校や海軍兵学校の入試へ励む旨書いている。よほど5年生にはなりたくないらしい。

中学4年生とは現在の15歳で(他の同級生達の)手紙の内容などからも高い教育を受けている事が判るのだが、意外と競争・成績の順位や受験の合否に関して無邪気に一喜一憂する感がある。これは旧制中学自体が既にエリートであるという自負に加え、戦争という重圧が”生存競争本能”を鋭くしていたのではないかと思う。
今回投稿の葉書の中でも”高校全敗”とか”専門は必ず”等の話題が出ており、この後投稿予定の他の同級生の葉書でもこの”生存競争本能”が噴出する。

小生の頃の”落ちこぼれても何とかなるさ”は存在せず、多少誇張して言えば”落ちこぼれ=死”を意味していたのかもしれない。

昭和19年3月11~15日 三次中学校の同級生から三郎への葉書・手紙 vol.2

 

三次中学校の同級生シリーズ第2弾。

3通とも各自及び学校の現況報告に終始している。
やはりこの時期は進学に関する話題が多く、関心が高い事が覗える。

最初は、Yさんからのもの。

昭和19年3月11日 Yさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***************************
いよう。二ツM生は張切っているらしいな。
元気な言葉を眼の前にして安心致した。
君の、貴様。俺の言もお待ち兼ねのも
のだったぞ。僕は松江をアッサリ振られた。
然しセンチメンタルにはならないぞ。僕の最善を
盡した結果だから。
今度は必ず君に吉報を致すものと誓
う。返事が送(遅?)れて済まなかった。では、
***************************

”二ツM生”の意味が陸豫士生徒の別称なのか三郎のあだ名だったのかハッキリしないが、その後の内容からするとお互いを”貴様・二ツM”と呼び合っていたような感じであり、だとすればあだ名だったかも知れない。二人が仲良しだった証拠であろう。
他の同級生の葉書にもあった様に高校受験者は全滅だったらしく、彼も松江高校がダメだったと書いている。あっけらかんと書いているが内心穏やかではなかっただろう。後に続く試験に合格することを誓いながら短い内容で結んでいる事が悔しさを物語っている。

続いて、Mさんからのもの。

昭和19年3月13日 Mさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***************************
三原君、第一報有難く拝見した。俺も背水の陣
を布いて大いに頑張っている。級友諸君も同様頑
張っている。今年は軍部諸学校の入学試験が早くな
ったのだ。陸士は学科が先にあり、五月二十八日より始まる。
俺は両方受験する。そして必ず入る。軍部諸学校受験
者が実に多数いるぞ。十一学級だけでも十名いる。三年
は実に多い。海兵に五十名は充分いる。それに彼の山崎
暗才が海兵だ。喜べ斯かる状況だ。陸幼に二年の
数田が一名合格した。四年では全員髙校に対して玉
砕した。然し、髙工、師範等は大分合格するだろう。
本月十三日より一週間暗渠排水作業始る。三月より七月
までの四ケ月間軍需工場で連続作業。困ったよ。では又。
***************************

この方の文字も読み易く問題部分はなかった。

先ず、”軍部諸学校の入学試験が早くなった”とある。前年三郎が受験したのが9月20~22日だったから4ヶ月程早くなっている。それ程兵士(将校)が不足しており補充が急務であった。
また、受験希望者数も例年に比べ増えている様子。これは”お国の爲”と云う気持ちも当然あったと思うが、正直なところ”どうせ徴兵されるなら”の方が強かったと思う。事実昭和19年当時は召集数も増大して”根こそぎ動員”が始まっており、当然のことであろう。

”山崎暗才”が何者かは解からない。内容からすると秀才或いはクラスの人気者だったのかもしれない。

2ヶ月半後に陸豫士の受験をひかえているにも関わらず、毎日暗渠排水や軍需工場の作業に動員され勉強の時間が限られ、大変なプレッシャーであったと思う。

最後は、MOさんからのもの。

昭和19年3月15日 MOさんから三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

***************************
拝復
御手紙有難う。
今日岐阜より帰って見るとあったのでちいと嬉
しかったよ。
此の間、岐阜髙工に受けたが五十人に一人だ。後へほう
たよ。まあ想像してくれ。僕も五年組だ。
今頃は学校も大分よくなった。朝会の時は号令の
練習をしておる。又暗渠拝水に出掛けている者
もあれば武道章の上級を受けるために練習等
をしておる。
次に写真だが、中谷は「本日公休日」荷物は隣へ。
これだからしかたがないなんと言っても萬年公休日だよ。
新ニュースとして君が心配するかもしれないが、新見
と橋本に広島行だ
靴は確かにもらった。安心してくれ。
まあニュースがあったら知らせる。
乱筆御免
                   さようなら
  三月十五日
三原君へ
***************************

MOさんは母(千代子)の手紙の中にも出てくる友人で、近所の幼馴染らしい。
三郎も含め同級生が皆綺麗な字なので字の汚い小生は少々凹んでいたのだが、(大変失礼な言い方だが)この手紙でちょっと安心した。

彼もまた難関受験(50倍はすごい!)に失敗した様で、”僕も5年組だ”と自嘲気味に書いている。

”後へほうたよ”は、多分”(びっくりして)のけぞった”の意味だと思う。小生も広島出身であるが広島市と呉市の間にある海田市と云う瀬戸内海側の町で育ったので、山間の三次とは結構方言が違うので間違っているかも知れない。

軍関係の試験も受けない様で、残りは学校の様子などを書いている。
”武道章”とは武道章検定のことで、前年(昭和18年)に制定された武道を戦争技術化するための政策で”銃剣道、射撃道、剣道、柔道、弓道、相撲”が対象であったらしい。

写真の件は良く解らない。”中谷”が写真好きの友人なのか、或いは写真館なのか不明。

”新見と橋本に広島行きだ”は、多分担任教師の異動を言っているものと思う。

友達同士の会話は必要部分が欠落していて解かりづらいが、靴をあげる程の仲である。親友に間違いないだろう。

昭和19年6月6日 三次中学同級生MOさんからの手紙 呉海軍工廠へ 家族・故郷との別れ…

謹賀新年
あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします

いよいよ令和二年が明けた。
年明け最初の投稿は出来れば明るい内容のものにしたかったのだが、そもそも昭和19年当時に明るい話題などある筈もなくやはり少々暗い内容のものになってしまった。

今回の投稿は三次中学同級生のMOさんからの手紙。
昨年末に投稿したMさんからの手紙にもあったように「呉海軍工廠への通年動員」の話題である。

昭和19年6月6日 三次中学同級生Mさんからの手紙

************************
拝啓 長らく御無沙汰して、まことにすみません。実は何に
からはなしてよいかわからないくらいです。
君もずい分変った事でしょう。僕は相かわらずです。しかし僕も愈々之
から国家の役に立つような者となりました。と言うのは、実は此の間
から四日間、卒業試験もあり、写真もとり、そうして六月二十六日より
来年の三月三十一日まで、呉海軍工廠で働く事になったのです。五月二十
七日に我等學徒に通年動員が下ったのです。僕達も覚悟をし
ているものの、なつかしい故郷をあとに九ヶ月間働きに行く事は感慨無
量のものがあります。しかし、之は国家の爲です。僕達は最後の最
後までやりぬく覚悟であります。一昨日、壮行式もありました。
次に北備の大会は延期になっていましたが、之が爲に無期になったので
す。それから写真の事は、ちょっとわかりかねる所があります。「丸
住の分も一緒に取りに行け」は、君が(主人公のを?)家に送ったのを、丸住にやってくれ
というのですか? 次は呉より。
体に気をつけて頑張って下さい。  左様奈良
************************

まず?と思ったのが、MOさんは4月に5年生に進学したばかりなのだが、手紙には「卒業試験もあり」とある。
こんな時期に卒業試験??と思ってざっくりとググってみたのだがよく解らなかった。
ただ1944(昭和19)年に4年生になった者(三郎やMOさん達の1学年下)から「修業年限4年制」が前倒しで施行されており、この関係で5年生の卒業試験も前倒しされたのではないかと考えている。
詳しくご存知の方がおられたらご教示乞う。

さて通年動員であるが、まだ17~8歳の少年達である。突然9カ月も家族・故郷を離れて働けと云われれば動揺するのが普通であろう。文面からもその動揺具合が見て取れる。
しかも呉海軍工廠となれば最も空襲の標的になりやすい場所である。本人達だけでなく親御さんやご家族の不安も相当なものだったに違いない。
※因みにこの直後の昭和19年6月16日未明に北九州八幡に日本本土最初の空襲が行われている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A9%BA%E8%A5%B2

「六月二十六日より来年の三月三十一日まで、呉海軍工廠で働く事になったのです」とあるが、
その来年にあたる1945(昭和20)年3月19日に呉は空襲に晒されている…

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%BB%8D%E6%B8%AF%E7%A9%BA%E8%A5%B2