昭和19年4月7日 父(芳一)から三郎への手紙

 

前回投稿した三郎からの手紙に父芳一が返信した手紙。

この便箋はA5の両面書用なのだが、以下画像を見て頂くと分かる通り元々A4のものを半分に切っていると思われる。
しかも真ん中に「三原用箋」の印刷もされており、オーダーメイドの様である。
銀行マンであった芳一は結構細かい部分に”こだわり”があったのかも知れない。

昭和19年4月7日 父芳一から三郎への手紙①
昭和19年4月7日 父芳一から三郎への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際には大変お世話になっていた。

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■■君の所から四月三日に出した手紙、今日到着
した。無事で勉学しているそうで父母共安心だ。
芳子も五日に入学式。今日で三日行った。三月中旬
頃から少し腎臓炎の気味で黒潮醫院で薬を貰って
居る。お母さんは大分元気になった。
三月二十一日に■■君の所へ行った由、その通知は四月の四日に着
した。此常郵便物が馬鹿に遅れる。■■さんが三月二十六日に
出してくれた小包は未だに着かぬ。
■■さんの所への事は承知した。何か考えてよい物を送
って置くよ。白手袋、エリカラーは康男兄さん所へ
頼んで送って来たら直ぐ■■さん所まで届けて置く。
其他の品物も一緒に届けてやる。書面小包で発送したら
速達便で通知するよ。
影山順六さんより、餞別二円先日頂いた。餞別を貰った先へボツボツ
ハガキでも出せよ。
長山の昇さん、三十日の教育召集で四月六日に広島の西部十部隊へ入隊した。
康男兄さん二日の晩に帰省。四日朝早く帰隊した。写真一枚送る。
お前の写真が出来たら送ってあげよ。お母さんも早く見たいらしい。
三中の上級校パスの状況を聞いたか。山縣は薬専へ行くらしい。友達へも時々
便りせよ。三次も大分暖かくなった。ボツボツ桜も咲くだろう。雨が多いに困る。
腹がへるだろう。食事は如何か。身体に気をつけて病気せぬ様にせよ。
又手紙をやる。今日は此れでやめる。      父より
三郎様
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「此常郵便物が馬鹿に遅れる」と愚痴をこぼしている。
この手紙が出された当時は未だ本土空襲も始まっておらず、鉄道が壊滅した状況にはなっていなかった筈だが、物資不足や戦時統制の影響で列車の本数が激減した時期でありその影響と思われる。また、郵便物の「検閲」も影響していたかも知れない。

因みに今回の手紙は「速達」で出され、4/7消印で、三郎が受取ったのが4/11となっている。
また、今回の手紙には「検閲」の印はなく検閲された形跡は見られない。

ご近所さんの徴兵状況や三郎の同級生の進学状況なども記されているが、改めて思うのが当時の人々のコミュニケーション力と情報収集力である。
戦時中は「隣組」の影響もあり、社会生活を営む上ではそれなりのコミュニケーション力とそれに伴う情報収集力が必要であったと思う。

小生が子供の頃、夏休みに三次に遊びに行ったときには、芳一(祖父)がよく散歩に連れて行ってくれたのだが、すれ違う人たちの大半が知合いで
「えー天気でがんすのぉー」
「旦那さんはどうしよってん?」
などと、あちこちで会話をしていたことを思い出す。

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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