昭和16年12月1日開戦直前の砌 長男(康男)から父(芳一)宛の手紙

今回は昭和16年12月1日の手紙なのだが、この時点で”学生生活に別れを告げるべき日も間近に迫って参り…”と早や卒業を仄めかしており実際12月26日に卒業している。
戦前は元来そうだったのかと思いきや、ググってみるとこの”昭和16年”から学徒動員のために大学や専門学校の修業期間が3ヶ月短縮されたのだ。因みに翌年の昭和17年は6ヶ月短縮されたようである。その他にも米・酒類の配給制開始や金属の供出を強要する金属回収令の発令など、国民生活に影響のある動きが大きくなった年である。
当然の成行きとして”徴兵検査”が待ち構えており、今回の手紙の中にも悩み迷う不安な気持ちが吐露されている。

昭和16年12月1日 康男の手紙①
昭和16年12月1日 康男の手紙②
昭和16年12月1日 康男の手紙③
昭和16年12月1日 康男の手紙④
昭和16年12月1日 康男の手紙⑤

今回は5枚に及ぶ”超大作”であったが丁寧に書かれており比較的読み易かった。
解読結果は以下の通り。

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拝啓 その後御変わりなく御送日のことと存じます。
当方も相変わらず元気で暮らしていますから御安心の程願上ます。
扨て愈々十二月に入り、学生生活に別れを告げるべき日も
間近に迫って参り、毎日多忙なる一日を送っています。
十二月に入ったと思うと、現金に寒さが加り、木枯しが我物顔
に振舞い出してきました。師走の感じは街に出て益々切
なりです。本日より実施の増税の為か、それともエビス市の為か、
昨三十日の繁華街の賑やかさは正に歳末を一か月繰上げた
という感じでした。何分一割から二割の値上げがあきらかに
されているので、どうせ費るものなら少しでも安く買う方が得だ
という心理状態は無理もないとは思います。こんなことを
喋々して僕を弁護するという訳でもありませんが、先日の御
父さんへ返事に帽子、ネクタイ、カフス等、買わないように申上げ
て置きましたが、同じ物を買うのに、たとえ二、三円でも余計出す
のは馬鹿らしいと考えましたので、芳野君等と一緒に昨日、
帽子とネクタイを買って置きました。帽子は先輩等の言を
参考に致し、少々高くついても、いい品を買って置いた方がよろしい
と思いましたので金十五円也の東京ハット濃いネズミ色のを
買いました。芳野君のも同じです。いいものは洗濯もよく利く
し、持ちも大分違いますし、体裁もいいですから、兵隊から
帰っても着られる様なのがいいと思いましたから。
ネクタイもどうせ三本や四本は入用と思いましたので、二本
丈買いました。両方で七円、合計二十二円也の買い物です。
洋服の方が学生の卒業繰上げと年末のため仕事が多いため、
ちょっと遅れましたのでその方をまだ支払っていません。が、少なく共
四、五日中には出来ると申して居ます。で、先月二十日過、二百
五十円御送付を受けましたが、其中、五十円は月謝と自
動車班費其他で支払いをなし三十五円は下宿代及食費
(中食費込)、八円余りは歯の治療費の一部として支出し、
二十二円を帽子等に費やしましたので、残額は百二十円余り
になりました。勿論、前述のもの以外に書籍代其他、送別会
の一部支払い、等々がありますから、そういう計算となる訳です。
それで、ワイシャツとカラー其他は、送って頂くとして、未だカフスボタン
を一揃い買わねばなりません。それに洋服代百五十円也の支払
いがありますので、また御願いをしなければならない様になりまし
た。今月分の諸支払い、荷造り費、帰省費、其他は別で
も又一緒でも構いませんが、洋服代不足分と
カフスボタン代三十二、三円、食費等経常費三十五円、帰省費、其他
荷造費、等々を合わせますと、八十六、七円御願いしなければならなくなり
ます。卒業となると三百円以上の金を費う訳です。全くすまない
と思います。銀行員となると一応は一人前の風体をせねばならず、
月給の少々は、すぐ飛んでしまいます。が、現役入営中は半額の
支給があるようですから、(今迄の例によると)兵隊に行っている間の入
金でまかないをつけるより仕方がありません。それにしても何かと
いえば金の費る世の中だと思います。僕が停年に達する迄
に、御父さん位の地位収入が獲られるかどうか。子供に僕が受け
た程度の教育を受けさせ得るかどうか。いささか心細い次第では
ありますね。然し、これ丈の学歴を持って出来る丈のやり度い
と思います。一生の半分は学校と兵隊で過して、結局自分で金
を儲けるのは、あとの半分ですからね。幸福といえば幸福ですね。
兵隊検査もあと一週間に迫りました。僕の予想では第一乙か第二乙だろう
と思います。何れにしても入営する様になりましょう。兵種決定、部隊決定
は十二月廿七日頃らしいです。丙種でも応召するこの時代、第一乙で入営する方
が大分いいとは思います。第二乙になると幹候にちょっとむつかしい様ですからね。
甲種にはちょっとなれないだろうと思います。ちょっと心配?なのは、
厚生省体力手帳に「要精密検診」の注意があるのです。例の二年の夏休み
の右肺の浸潤がレントゲンで少しみえるらしいのです。これで案外第二乙
になるかもしれず、丙種になるかもしれませんが、現在が至極強健なので、
問題にならぬかとも思います。検査官の裁量如何です。が、僕としては
こんなものにすがって、第三乙や丙種になるつもりはありません。
向こうがそうすれば仕方がありませんが、なるべくなら第一乙位で入っ
た方が少尉になる率が多いですし、若しかして運がよければ、
経理部の将校になれないとも限りませんからね。教科の成績は優
ですから、士官適化の推薦は貰える筈です。経理部候補生の試験
も、パス出来る自信はあります。まあ、出来る丈のことをやってみます。
あとは成行きにまかせます。それから、先日御願いした、褌の件、
出来たら至急御願い致します。
本日大阪銀行通信録受取りました。東京銀行通信録も受取ったこと
併せて御返事致します。                 早々
御父上様
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1枚目3行目の”扨て”は現代では使わないだろう。これだけを書かれたら”さて”と読めるかどうか自信がない。

手紙を書いた12月1日に増税があったので、前回”未だ買わない”と言っていた帽子・ネクタイ等々を前日(増税前)にちゃっかり買っちゃうところは相変らず”長男”全開である。小生の記憶では父親(小生の祖父)は”怖いおじいちゃん”のイメージがあったが、案外子供達には甘かったのかもしれない。

内容からすると既に”徴兵検査~召集~入隊”の流れは決まっていたようで、その際のランク分けの結果をかなり気にしている。甲種で合格し確実に将校へなれれば一番良いのだが、それ程身体能力に自信がない事に加え2年次に病気になった際の肺の浸潤が影響して、乙種どころか丙種になってしまう(そうなると将校にはまずなれない)かも…。と不安を吐露している。ただ学業が”優”なのでもしかしたら経理部の将校になれれば…と気を持ち直してもいる。
因みにこの年の7月に一度”徴兵徴収延期”を認められている。以下その證書である。

徴兵徴収延期證書

誰でもそうだと思うが、同じ兵隊になるなら出来るだけ上位階級になりたいし更には内勤(事務方)が良いと思うはず。その意味では恥ずかしい話ではないのだか、軍部等による検閲がされるとなると手紙・葉書の内容が大きく変わってくる。女々しいことは書かず勇ましいことが溢れるようになる。これは今後投稿する予定の三男が陸軍予科士官学校に入学した際の手紙・葉書をみると顕著である。

何にしてもこの頃辺りから一気に戦争の影響が増大し、若者の将来がそれに左右されてしまうのである。勿論若者以外の人々の生活にも暗い影を落としながら…。

昭和18年 三男(三郎)陸軍予科士官学校受験志願 関連書類vol.1

時系列順という形で前回までは長男(康男)の手紙・葉書の投稿となっていたが、昭和18年3月23日の葉書を最後に昭和19年2月28日の父(芳一)から三男(三郎)への葉書まで約1年間分の通信物が小生の手元には残っていない。実際にはあったものと思うが所在不明である。

と云う事で上述の芳一から三郎の手紙の投稿となるのだが、この手紙の内容は芳一が陸軍予科士官学校に合格し埼玉県北足立郡朝霞町(当時)にあった振武台校の生徒となった三郎に宛てたものである。そこに至るまでに”志願~受験前身体検査~受検~合格発表~入校”に関する諸々の書類が遺っており、今後の投稿内容にも拘わってくるので数回に亘ってそれらの投稿をしたいと思う。

1.昭和十九年度 陸軍予科士官学校・幼年学校 生徒志願者心得
まずは、受験要綱にあたる”昭和十九年度 陸軍予科士官学校・幼年学校 生徒志願者心得”である。
結構大きなサイズでA2サイズに近い”420mm×545mm”で、昭和18年2月に教育総監部より発行されている。全体画像を冒頭にアップしてあるが以下にもう少し見やすく4分割のもの表示するのでご覧頂きたい。(大きな書類の爲、PC等ピンチアウト操作の出来ない場合はかなり見辛いと思うがご勘弁願う。)

生徒志願者心得(右上)
生徒志願者心得(左上)
生徒志願者心得(右下)
生徒志願者心得(左下)

内容は
①.採用要領(志願資格、出願期限、採用検査内容詳細、検査場一覧)
②.出願より受験迄(願書記載の注意、願書差出上の注意、願書差出後の注意、受験心得)
③.陸軍部内より陸軍予科士官学校生徒を志願する者に関する特例
④.注意
⑤.身体検査に就て志願者の参考
⑥.其の他
となっている。
学科試験は”国語・作文・数学・歴史及地理・理科、物象”であり、さすがに英語はない。
注意する部分に赤線を引きミスの無い様注意している様子が覗える。
その当時(旧制)中学3年(或いは4年になったばかりか?)であった三郎が受験志願を決意した大きな理由には、戦局の重大化による長男(康男)の徴兵があったものと思われる。加えてこの三男は上の二人の兄達に比べて体格も良く頑強だったこともあったかもしれない。いずれにせよ”どうせ軍隊に行かざるを得ないのなら…。”と云う思いがあったのは間違いない。

余談であるが、小生広島の出身で”⑥.其の他”に広島陸軍幼年学校の所在地が広島市基町とあるのをみて、その場所が2年後の昭和20年8月6日の原爆投下によって壊滅した場所であることを思い浮かべた。このとき三郎と同じように意気軒高に幼年学校を受験し合格した若者達が皆その惨劇に巻込まれてしまったのかと思うと言葉が無い…。

2.陸軍予科士官学校生徒 志願者身体検査出頭通知書

志願者身体検査出頭通知書

学科試験の前実施される身体検査への出頭通知書。
この身体検査に合格して初めて学科試験が受験できる。ただ、学科試験に合格し予科士官学校に入学する際にも再度身体検査がありその時点で合格取消しとなる場合もあったようである。因みに”広島偕行社”とは大日本帝国陸軍の元将校・士官候補生・将校生徒・軍属高等官の親睦組織であったとのこと。詳細はインターネット等でご確認願う。

3.昭和十九年度 陸軍予科士官学校生徒志願者学科試験日割表及受験者心得

学科試験日割表及受験者心得

こちらは昭和18年7月に教育総監部が発行したもので、志願者に対して学科試験の詳細要領を説明したもの。
・学科試験の日程・時間割
・学科試験の集合時間、服装、携行品、解答方法、試験場での態度等の注意
・学科試験終了後に必要な提出書類、合格時の通知方法及びそれに対する返信方法
・合格時の現在学中校への退校手続に関する注意
・教育総監部、陸軍予科士官学校(朝霞振武台)の連絡先
が記載されている。

これらの手続きを経て、昭和18年9月20日~22日の三日間の学科試験に臨んだのである。

昭和18年 三男(三郎)陸軍予科士官学校受験志願~合格手続き 関連書類vol.2

前回の投稿で陸軍予科士官学校受験迄の手続きに関する書類をご覧頂いたが、今回は昭和18年9月20~22日の3日間実施された学科試験に無事合格した後、入校迄に届いた書類及び手続きに関して投稿する。
因みに前回投稿した書類を確認していて気付いたのだが、問題を解く事を”答解”と記載している。”解答”ではないのである。ネットでちょっと検索してみたが”解”と”答”がひっくり返っている事に関しての”答解”は発見できなかった。大した理由は無いのかもしれないがGHQの意向が反映されたりした結果なのだろうか…。

1.採用予定通知と応否届出

採用予定通知と応否届出

11月3日に採用予定通知が電報にて届いていおり、応諾の届出を同じく電報で送っているのだが遺っているのが控えの様なので送った日付等の詳細が不明であるも、おそらく当日に送ったであろうと思われる。
ちょっと面白いのは、大日本帝国陸軍教育総監部なるもの相当に厳格な役所だと思っていたのだが、前回投稿した”陸軍予科士官学校生徒志願者学科試験日割表及受験者心得”(えーい長い名称だなぁ。)に採用予定者への電報には「リクシサイヨウヨテイスグヘンケウイクソウカンブ」と記す旨書かれているにも拘らず、実際に届いた電報は「リクシゴ ウカク・スグ ヘン・ケウイクソウカンブ」と文言が違っている。案外いい加減な役所だったのか?と思ってしまった。まあ内容的には問題ないし、さすがにこれに対して「ナゼチガッテイルノデアリマスカ?」と問合わせる偏屈な命知らずも当時はいなかったであろう。(現代なら多分大勢いたと思うが…。)

2.陸軍予科士官学校生徒隊長からの父兄宛の御祝・挨拶状。(おそらく採用予定通知への応諾直後に届いたと思われる)

陸軍予科士官学校生徒隊長 榊原主計氏の御祝・挨拶状

これはちゃんと印刷(現代風に言うとプリントパックで制作)したもので、陸軍予科士官学校公式のものと思われる。(添付画像が読み辛いかもしれないがご勘弁願う。)
漢文混じりの”候文”で難読ワードが散見される。
例えば
・合格被遊:合格あそばす
・皇軍の禎幹:神(天皇)の軍隊の柱
・涵養:じっくりしっかりと育てる
・毎晨:毎朝
・明治節佳辰:明治天皇の誕生日(11/3現在の文化の日)であるめでたい日
と云ったものがある。
しかし、読んでみるとそれ程堅苦しい内容ではなく”御子息を大事に育てますから御安心下さい”的なもので、加えて”鶴首御入校の日を待つ”や”青年士官を要すること実に戦勝獲得の爲緊急缺くべからず”とか”入校せらるる日を偏に御待申上候”と戦況悪化に伴う軍部の人材不足を感じさせるような言葉が並んでいる。兎に角人材が欲しかったのであろう。
ただ、学校の指導者達は一生懸命に教育訓練し早く一人前の将校に仕上げるべく努力されていたと思うが、実際の歴史に於いては当時育てられた青年将校達が消耗品の様に消えていったことも事実である。

同じ様な内容の挨拶状が、廣島師団兵務部長からと陸軍予科士官学校富士隊隊長からも届いているので、これらに関しては次回の投稿にてご覧頂く。

昭和18年 三男(三郎)陸軍予科士官学校受験志願~合格手続き 関連書類vol.3

前回に引続き学科試験合格後に軍部側から届いた御祝・激励・挨拶状2枚を投稿する。

1枚目は12月4日に三郎宛に届いた広島師団兵務部長 両角少将からのもの。画像では判読出来ないと思うので”解読結果”を記す。

陸士広島師団兵務部長封筒
広島師団兵務部長 両角少将からの御祝・激励状

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私は広島師団兵務部長両角少将です
熾烈な決戦が大東亜の全地域に於て連日繰返されている時勃々たる雄
心と報国挺身の気概を凛然たる眉宇に漲らし若く逞しき諸君が例年に
見ず数多く陸軍予科士官学校を志願され而も其の数多き志願者の中か
ら選ばれて見事合格の栄誉をうけられた諸君は正に俊材中の俊材にて
衷心よりお祝い申上げると共に益々心身を練り健康に注意し晴の入校
に萬一の差支えなき様充分に注意されたいと念願する次第です
戦局は今や誠に重大なる段階に入り北に南に東に西に大御稜威の下忠
勇無比なる皇軍将兵の勇戦奮闘により赫々たる戦果を挙げつつあるの
でありますが敵米英の飽くなき非望は益々執拗に且つ強力に反攻を挑
み中部太平洋に印緬国境に将又中支に死物狂いの動きを示している事
は既に諸君の承知している通りであります
此の時に當り元気溌剌たる諸君が国軍将校として明日の戦線に活躍せ
んとし見事難関を突破し入校せらるる事は誠に重大なる意義を有する
と共に諸君の責任も又重大なりと云わねばなりません
諸君は今や合格の喜びにひたると共に胸中深く期する所あり敵米英撃
滅への強き闘魂に漲り一死国難に赴く烈々たる赤誠は溢れ国運を双肩
に擔い仇敵必滅せずんば止まざるの一念に燃え立って居る事と信じま
す此際諸君の感激と覚悟を次に来るべきものに伝え二陣三陣続くもの
への激励と致したいと思いますので諸君の意気と感激と決意を一文に
綴り私宛に是非送ってほしいと思います
では諸君が元気に入校せられ一日も早く立派な将校となり戦場に存分
の活躍せらるる様希って居ります
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少将辺りの階級の人になると大分文書内容が変って来る。まず句読点と云うかセンテンスに切れ目がない。当時は若い人でもあまり句読点など使わないのではあるが、これくらい完璧に使っていないとむしろすがすがしい。小生などはダラダラと書いてしまって読み辛くなると思い句読点を多用しがちなので参考になる。元々句読点は無学の輩に対する補助的なもので教養のある者に対して使うのは失礼であった(現代でもそう感じる方はいらっしゃる)のだから今後は出来るだけ使用を控えたい。

また激励文だから当然と云えば当然であるが、激励や気持ちを鼓舞するような言葉が非常に多い。
例えば
・勃々たる雄心
・凛然たる眉宇に漲らし
・忠勇無比なる皇軍将兵の勇戦奮闘
・赫々たる戦果
・一死国難に赴く烈々たる赤誠
・仇敵必滅せずんば止まざるの一念
など、ひと昔前の経営者が年頭の挨拶等で好んで使いそうな文言が並んでいる。まさに軍国主義的な表現である。
がしかし、このいわゆる軍国主義的な言葉や行動を一概に”ダメ”とする風潮には反対である。誤解を恐れずに云うが”使いよう”である。やる気にさせる際に使うのなら良いのに、無茶をさせるためや洗脳するために使うからダメなのである…と思う。
そうそう、もう一つ特筆する部分がある。先にあげている封筒の画像をよく見て頂くと判ると思うが、この封筒は事務用書類か何かの裏紙で作られている。更には書面自体も試験解答用紙(さすがに未使用分であるが)の裏紙である。仮にも陸軍少将の文書であるにも拘わらずである。それ程物資不足が逼迫していたと云うことなのか、或いは国民に対し質素倹約を強いている立場上のパフォーマンスだったのか…。多分その両方であろう。

さて、もう1枚は年が明けた昭和19年2月の入校直前に届いた陸軍予科士官学校生徒隊富士隊長の服部少佐から父母宛に届いた御祝・挨拶状である。

富士隊隊長 服部少佐 挨拶状

この服部少佐が三郎が配属される富士隊の隊長である。
こちらも画像では判読できないと思うので”解読結果”を記す。

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拝啓 戦闘益々苛烈を極める大東亜戦下高堂益々御清建の段奉賀候
陳者今般御子弟には年来の志望達せられ目出度入校の栄に浴せらるるに
至りしこと御本人は素より御一統様には嘸かし御満悦の御事と拝
察仕り候 御子弟には當中隊に編入せられ私共直接御世話
致す事と相成候就ては御一家の玉寶を預り訓育指導の任に
當るの責務重且大なるを自覚し粉骨砕身全力を竭して
努力仕り以て国家の要求と御父兄の御期待に副いたき
所存に御座候 惟ふに御子弟教育の爲には御家庭と當方
との終始隔意なき連携を保ち一致協力其完璧を期するに
非れば到底良果を収め得ざる事と存候間本校よりの諸注
意を熟読被下入校のための諸準備と御本人の健康増進
と中隊に対する緊密なる御協力とを願い上ぐる次第に御座候
時下折角御自愛の上目出度入校の日を御待被下度候
先は右乍畧儀御祝旁々御挨拶申逑候          拝具
   昭和十九年二月三日
            生徒隊富士隊長 陸軍少佐
                     服部征夫
 父兄各位殿
          中隊長 陸軍少佐 服部征夫
          区隊長 陸軍大尉 栗山俊明
              同    小池三郎
                   堀 貞雄
                   前田八郎
                   岡田生駒
              陸軍中尉 増澤一平
                   安藤仁一
                   海老澤英夫
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陸軍予科士官学校からのものは2通目であるが、前回のものが学校公式のものだったのに比べ、こちらは実際に生徒を受持つ隊長(担任)からのもので、手書き(ガリ版ではあるが)の多少親近感を醸したものである。
前回のものと同様”漢文調の候文”である。見慣れない語彙としては
・高堂:この場合は”御両親様”又は”御家族様”の意と思う
・陳者:”のぶれば”と読むらしく”申し上げますが…”の意
・御一統様:入校する全生徒及びその御家族皆様
・嘸かし:”さぞかし” 現代では漢字で書くことは殆どないと思う
・責務重且大:単純に”重大”とせず”重且大”としているところが興味深い
・全力を竭して:”全力をつくして”と読み”尽くして”と同意
・候間:”そうろうあいだ”と読み”間”は理由を表すらしい
・熟読被下:”熟読くだされ(り)”と読むらしい
・折角御自愛:”折角”には”全力で”の意味もあり”努めて”とか”精一杯”の意
等々沢山ある。
内容的にも前回同様に”御子弟を大事に責任を持って教育しますので御安心下さい”的な内容であるが、しかし軍隊とはあらゆる面で厳しい世界であり両親としては息子の事が心配で心配で仕方なかったようである。【次回以降の投稿での内容となるが、父(芳一)は三郎入校当日に付添ったにも拘らず、一旦帰広した後再び(三郎に内緒で)生徒隊長に面会に行っているのである。】

これらの他、陸軍予科士官学校長への身元保証書(父芳一が保証人)の提出や在学していた中学校への退学手続き等を終えて入校となる。

昭和19年2月28日 三男(三郎)陸豫士官学校入学 父(芳一)からの葉書

昭和十九年四月九日 三郎十八歳 陸軍予科士官学校にて

今回は陸軍予科士官学校(振武台)に合格し入校した三男(三郎)に父(芳一)が送った葉書。

長男(康男)の手紙・葉書で大分続き文字に慣れたつもりの小生であったがこの芳一(小生にとってはじいちゃんなのだが)の文字はしんどい。とりあえず”解読結果”は以下の通り。
注)■■様は東京在住の芳一の知己。長男(康男)に続き三郎もお世話になっている。

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多分大丈夫とは思い乍らも不安の裡に二十七日学校
に行き、即日帰郷。或は区隊変更等の事あるを聞き、生徒
隊長殿の御挨拶を承って一先安心した。そして正服姿のお前
を見て嬉しく思った。此上は諸先生殿の御命令を尊奉して
一意勉学に精進し、三中代表者として恥ぢざる将校生徒
たるに専念せよ。それには食事と運動に留意して身体
の健康増進が第一である事を常に念頭に置けよ。お父さんは
二十七日午後九時三十分発急行にて福塩線経由二十八日午後六時に無事
帰宅したから安心せよ。■■様へ礼状を差出して置けよ。
挨拶状は書いて送ってやるから、そちらから発送せよ。詳細は又
手紙で通達する。同僚と仲良くし皆の世話をする事を忘る
なよ。先輩加藤美明君に従えよ。父母はお前の健生を祈る。
では帰郷通達まで。当方は一同無事。母も元気になった。恙し
****************************

難読文字のオンパレード。何なんだこれ?って感じである。受取った側は本当に読めていたのだろうか…。
即日帰郷、生徒隊長殿、聞き、午後九時三十分発急行、福塩線、等々判読できたのが不思議なくらいの象形具合である。加えて文字が小さいのが難易度を増している。最後の”恙し”も暫く解らなかった。
内容は、多分この一週間くらい前に三郎に付添って入校手続きに上京(埼玉であるが…)したはずなのだが、何かの心配事(学校側から何か問題があって区隊変更するかもしれない旨の連絡があった?)があり、三郎には黙って再度学校へ行っている。何が問題だったのかは不明だが、生徒隊長と話をして一安心したと書いている。当時、広島それも結構山奥の三次からの上京は時間も費用も相当かかったと思う。さらに戦況の悪化に伴い列車の便も少なくなっていた様だから余計であっただろう。短期間に二度の上京しかも2度目は”とんぼ返り”と来れば疲れない理由がない。
小生が思うに、芳一の心配もさることながら恐らく母親(千代子)が”行ってきなさい!”と芳一の尻を叩いたのではなかろうかと…。母は強しなのである。

昭和19年3月1日 長男(康男)から三男(三郎)へ合格の祝詞

昭和19年3月1日 康男から三郎への葉書

今回は陸軍予科士官学校に入校した三郎に長男(康男)が送った葉書である。
小生、康男の文字は大分慣れているし今回の葉書は短いので特に問題となるような部分はなかった。
解読結果は以下の通り。

***********************
前略 無事入校との事、父よりきき
安心した。愈々将校生徒としての研鑽
が始まる譯だが、兎に角早く環境に慣れ
る事が大切だ。未知なるものを畏れ
てはならぬ。進んで之にぶつかる事だ。
御前の知らぬ事、分からぬ事、辛い事、そして
やり難い事はみんな同じ様に分からぬ事で
あり、辛い事である事を忘れる勿れ。
入校の祝詞に代えて右の言葉を送る。
体には特に注意せよ。但し体は信頼に足るものだ。
***********************

既に2年間の軍隊経験を積んだ先輩将校として、後輩にあたる三郎に対し訓示を与えている。13歳から寄宿舎に入りそれ以降10年近く実家を離れて生活していた康男からすると、中学4年までずーっと実家暮らしで父母に甘やかされて育った三郎が、いきなり陸軍予科士官学校と云う厳しい環境に入ることは相当心配だったのであろう。単純に”おめでとう、頑張れ”ではなく”当然厳しいのだぞ、心してかかれ”と檄を飛ばしている。康男にとっては6歳年下の”可愛い弟”であったろうし、三郎からすれば”頼りになる兄さん”であったと思う。

さて、この時康男は広島市内に住んでいたようなのだが、前回の投稿の時からほぼ1年経過しておりその間の軍歴を下記しておく。

昭和18年
  6/10 兵站警備隊に転属
  8/27 転属取止め
 11/30 現役満期、陸軍少尉
 12/ 1 予備役編入、引続き臨時召集
       歩兵第百十二聯隊補充隊付
 12/23 船舶司令部付特殊艇要員として
       矢野部隊服務
昭和19年
  3/ 1 船舶練習部学生

となっている。

昭和18年12月1日付で”予備役”となっており、平時であればこの時点で軍役と離れ”銀行マン”に戻っていた筈。しかし戦争はそれを許さず”引続き臨時召集”され船舶司令部に配属されるのである。
この”船舶司令部矢野部隊”が多分広島市の宇品にあったので広島市に居住していたのだと思う。

昭和19年3月3日 池田久代伯母さんから三郎への葉書

今回は三男(三郎)の父方の伯母さんからの手紙。
小生もあまり詳しくは知らないのだが、父親の芳一は婿養子で旧姓は”池田”だったようで、この池田久代さんは芳一の姉(妹かもしれない)である。
鉛筆で書かれているので少々読み辛いがそれ程難しい文言はなかった。
解読結果は以下の通り。

***********************
大変暖かくなり春を思わせるようになりましたね。
先日はお便りありがとうね。
お便りによれば三郎さんも元気で御勉学
の事大変喜んで居ます。
私達も父亡き後は元気で大増産に精出して
居ります。安心して下さいませ。
今まで眠っていた草木も今や元気で伸び
行かんとする時、よき時候です。この時にをい
て三郎さんもしっかと勉強して立派な皇国
男子となって下さい。私達も増産に励みま
す。では暮々も大身大切に御勉学のほどをお祈
り致しお別れ致します。
                   かしこ
***********************

女性であり当時としては当たり前だったであろう”かしこ”で結ばれている。現代ではあまり見られなくなった言葉である。
当時、女性は女性の、男性は男性の良さや役目がはっきりしていた様に思う。時代も移り変わり良くも悪くもそう云った状況は薄くなってきた。
男女平等が叫ばれて久しいが近年は”セクハラ”なるものまで喧伝される世の中。小生のような”昭和中世期生まれ”にとっては世知辛い。男尊女卑を肯定するつもりはサラサラないし、むしろ女性は敬うべきものと思っているが、ただ、世の中”生まれながらにしての平等”はそうあるべきと思うが、本人の努力具合や環境まで含めて”平等”にしてしまうとそれはもう”平等”ではない。
”差別・区別”の違いや”運・不運”を受け入れる(諦める)考え方もある程度は必要である。なんでもかんでも”差別”や”ハラスメント”にしてしまう考え方は恥ずかしい。況やそれらを他人を貶めたり自分だけ得をするための道具に利用するなど言語道断である。家庭であれ学校であれ”分別と恥を知り正直である人”を育てる教育が必要だ。それが道徳であり躾だと思う。
とは言うものの誰しも、こと家族、特に我が子の事となると冷静になれず、身勝手な立場に陥ることもしばしば。先の大戦下での生活はその最たる状況であったと思う。
しかし、そんな状況でも”あっ、これは恥ずかしいことなんだ。”を感じられる人になりたいものである。

昭和19年3月4日 母(千代子)から三郎への手紙

今回は初登場の母(千代子)から三郎への手紙である。
千代子は当然ながら小生の祖母にあたるのだが、小生が生まれる前に他界しており病弱であったことと癌で亡くなったこと位しか知らなかった。小生の母(芳子)も生前殆ど千代子に関する話はしなかった。父(芳一)が後妻(内縁)を貰ったこともあり、娘としては割切れない思いもあってあまり話したくなかったのかもしれない。因みに小生は幼少の頃その後妻さんを本当の祖母だと思っていた。当時子供心に”若いおばあちゃんだなぁ”と思っていたのも事実である。(笑)
しかし、今回手紙や葉書を読み解くことで千代子の生前の姿が少しづつ明瞭になって来た。

昭和19年3月4日 母からの手紙①
昭和19年3月4日 母からの手紙②
昭和19年3月4日 母からの手紙③
昭和19年3月4日 母からの手紙④

まずは”解読結果”を以下に記す。

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其後変りなく毎日元気で勉強して
居ることと喜んで居ります。
三郎殿が三次を立ってから早いもので
もう幾何日と過ぎました。
阿れからはお天気もよろしく毎日日中
は春ですが、矢張り朝夕は冷たい
です。父様から様々とあったでしょうが、
家には別に変りありません。
父様御帰宅になって学校の事や
お前のことを、くわしく聞て安心しました。
来る六日は目出度く入校式だそうですね。
早や、だいぶんなれて、日々が楽しくなった
でしょう。母さんも、お前が望み通り
になったのだから、つとめて忘れて、ただただ
よろこんで居ります。一時はお前の持
物やあれこれ見たりして淋しい気もした。
いつまでもめめしい思いはしない、病気
上りにさわりてはと思ってね。
お祖(母?)さんも三月一日に帰られてとうとう
三人になったよ。兄さんらも、様子せず
康男兄さんが四・五月まで広島に居るらしい
から、せめてもたすかりだ。芳子も元気で
夕食後はハーモニカを出してやって居るが、一人で
せいがないらしい。女学校へ入学出来る様に
此度は芳子の番だ。父様も元気で
朝夕手伝ってもらって居ます。私もぼつぼつ
食事などの支度をして居りますから、
近々内祝をして外出もせねばと元気を
出して居りますよ。どうか家の事は心配はいらぬ。
躰に気をつけて、良く軍人の心得を守り、
友人とは仲良くして、勉強せねばいけ
ませんよ。前日、父様のタヨリに 加藤様に
つづけ と書いてあったでしょうが、あれは横山様の
事なのですよ。中学校へも退学の手
続をされたから安心しなさい。
お前も多忙だから餞別先へ礼状はよこ
さなくてよろしい。父様がなさるからね。
板木の祖父母様へは時々便りせよ。
森保君も姿を見せんよ。まあ母さんが
外へ出んからね。見んのかも知らんがね。
まだ手がふるえて思うほど書れんから、
今夜はこれでさようならしましょう。
三郎よくねむれよ。早く目をさませ。
明ければ同じ太陽の下で。        母より
    三郎どのへ
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文字が大きいので、父(芳一)に比べれば読み易いが、それでも独特のクセもあり苦戦した部分もあった。
1枚目4行目の”幾何日”も良く解らなかった。正解かどうか多少不安ではある…。
1枚目5行目の”阿れから”は初めて見た。今は多分見ない使い方だと思う。
2枚目2行目の”楽しくなった”の”楽”はちょっと略し過ぎの様な気もする。

この当時既に癌が発症していたのかどうか分からないが、入院せず本人も”治る”と思っていた様であるから癌と認識はしていなかったのだろう。ただ、思う様に動けぬ自分に対する歯がゆさと、悪化する戦局の中で長男に続き三男も軍隊に取られてしまった母親の不安な気持と自責の念が感じ取れる。
”お前が望み通りになったのだから、つとめて忘れて、ただただよろこんで居ります。”のくだりは軍人になることを本当は喜んでいないと云うことであろう。
ただ、ちょっと気弱な感じだった前半に比べ、後半は方言も出て息子に要らぬ心配をさせたくないと云う”強き母親”の表情が表れている。
”三郎よくねむれよ。早く目をさませ。
明ければ同じ太陽の下で。”
最後の2行には母親の深い愛情が感じられる。
しかし戦争と云う狂気がその愛情を強くしているのは皮肉と言えば皮肉かも知れない…。 

昭和19年3月6日 三郎へ 三次中学校長からの手紙

三次中学校(昭和十三年十二月描写)

今回は三郎が在学していた三次中学校の校長先生からの激励の葉書である。
陸軍予科士官学校に入校し既に三次中学への退学届も提出されており、三郎からのお礼の手紙への返信と思われる。

昭和19年3月6日 三次中学校長からの葉書

現代では見慣れない文言があったり、文末の文字がちょっと不明瞭であったりで数ヶ所不明な部分があった。
解読結果は以下の通り。

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拝復 御葉書有難く拝誦仕り
無事御入学聞に御目出度く有り
皇国の存亡振古未だ曽て今日の如く危急
なるはなき大難局に於て名誉ある皇国
軍人としての御修学飽くまで御自重
御奮励願上げ
三中必ず尊き歴史に背かざる向上期し
居り行つる後輩の爲めにも御精励願いて
御身体特に御大切の程祈り益
*******************

あまり聞きなれない文言は
・拝誦:謹んで読むこと。謙譲語?
・振古:大昔のこと
よく解らなかった文言は最後から2行目の”居り行つる”が自信がない。
この校長先生、どうも文末の文字が読み辛く”り、る、て”の判別が難しい。あと最後の”益”は当て字だと思う。サインの色紙ぐらいでしか眼にしないと思うが…。

教え子である生徒に対して”拝誦”とへりくだった言い方をしている。これが当時当たり前のこと(軍人>文民)だったのか、それとも”検閲”等に配慮しての事なのかは解らないが、不自然な感じがする部分である。

また、軍人でないのに”皇国の存亡振古未だ曽て今日の如く危急なるはなき大難局”と戦局が芳しくない表現をしており、一般庶民の間にもかなり危うい状況が広く認知されていた証拠であろう。この2年程前のミッドウェー海戦での敗北から形勢は逆転し、当時は”決戦準備”が検討されている状況であった。

当時、教え子が陸軍予科士官学校に入学することは(表向きは)教師としての栄誉だったのであろうが、”御自重”、”御身体特に御大切の程祈り”等、教え子たちを戦地に送らなければならない教育者の苦悩も感じられる文章である。

昭和19年3月11日 三次中学の同級生から三郎への手紙 vol.1

三郎が陸軍予科士官学校に入校して半月ほど経つ頃、入校直後に郷里の友人に送った手紙への返信が続々と到着している。

数が多いのと友人達の進学状況の報告等、内容的に重複する部分もあるので2~3通纏め数回に分けて投稿する。

今回は三次中学校時代の同級生、SさんとFさんからの手紙(2通)。

最初はSさんからのもの。

昭和19年3月11日 三次中学の同級生からの手紙(Sさん)

細かいが丁寧な文字なので読み易かったが、それでも数ヶ所迷った部分があった。
解読結果は以下の通り。

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拝復 元気の由 何より嬉れしく思いました。
僕も相変らず元気で居る。少しは生活に馴れたか。
君達と別れてから早や二旬にもなるか。月日の経つのは早いもの。
其間ずい分変わった事もあった。
先づ三月六日の卒業式。午前十時始め。優等生は五人
                                                                            (中村、地川、藤井、
                                                                                             徳永、重信)
皆勤者十五名(?)善行者二名(尾茂、柏原)…最大の名誉なり。
兪々最上級生となった。天井が急に広くなった様な気がする。
而し一面何となく淋しい。三月十日陸軍記念日。六里の強行軍。
各学級競走だ。殆んど走り通しだった。僕は一年の三学級の
小隊長の補佐。全学年中第三位を獲た。一寸嬉れしかった。呵々。
十四日から暗渠排水に行く。三次は大変な風と霙、あられ、雪だ。
風紀生は目下十一学級の全生。なかなかやって居る。
悲しいかな四年生は高校全敗か。至極残念。だが来る十七、八日の専門
学校に必勝を期している。
君の母校の爲の御奮闘と御健康の程を御祈り致して乱筆
ながら筆を置く。後日又ゆっくりと。              不一
**************************

まず、”暗渠排水”である。字は読めたのだが意味を知らなかった。要は田畑の水捌けを良くする方法のことで、農業に従事されている方ならどなたでもご存知らしい。小生の無学が恥ずかしい。
この時期、戦局の悪化に伴い食料増産のために農地の開墾整備が全国各地で行われ、これに学生達が動員されていた。山間の盆地である三次近辺もあちこちで暗渠排水が施工されていた様子が覗える。
もう一つ”霙(みぞれ)”が読めなかった。三次は広島県の中でも雪の多い地域で小生が子供の頃も30~40センチ位の雪はちょくちょく積もっていたので、3月中旬ならまだまだ雪や霙は降っていただろう。
”不一”と云う結語も珍しいかも知れない。あれやこれやと色々書きたいことがあって全部は書ききれないという事であろう。
あと、”呵々:大声で笑うさま”も現代ではほぼ使うことはないと思う。

卒業式の事に触れているが”優等生”と”皆勤者”は解かるとして”善行者”とは?基準が知りたくちょっとググってみたが不明。御存知の方がいらっしゃったら御教示乞う。

陸軍記念日の六里(24キロ)の強行軍は大変であろう。小生の頃もマラソン大会等で10キロ程度の長距離走はあったが、その2.5倍はきつい。普段から訓練していて初めて歩ける(走れる)距離である。まあ、現代に比べれば普段の運動量も数倍だったと思うが…。

続いてFさんからのもの

昭和19年3月11日 三次中学の同級生からの手紙(Fさん)

こちらも丁寧な字で読み易く不明な部分はなかった。
解読結果は以下の通り。

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先づ貴方の入校を祝す。
其の后元気の由、何よりだ。小生も普通並にやっ
ている。今は五年も三月六日を以て業を卒へ四年の
天下となった。然し前者の轍を見て五年の如き無
暴悪辣なる態度はとらない積りだ。新五年生に
倣いて我が三中は必ず栄達の途を逆るであろう。殊
に貴方等の陸士合格は指揮を鼓舞する上に大
なる影響を及ぼすものと信ずる。小生高校突破
の野望を抱きしも、之前途を暗澹たらしむる一つにして
今後直ちに国家の要望する所に向って再起勉励する
覚悟だ。下らぬ事を述べたが今後も度々便りする。元気で。
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旧教育制度では飛び級制度があり、旧制中学校では4年修了で旧制高校や専門学校へ進学するのが優秀とされ5年生に進級するのはあまり名誉なことではなかったらしい。
それと絡んでか、或いは単に学年間の仲が悪かっただけなのか、5年生のことをかなり悪く罵っている。しかし自身は高校入試に失敗したようで続いて実施される陸軍予科士官学校や海軍兵学校の入試へ励む旨書いている。よほど5年生にはなりたくないらしい。

中学4年生とは現在の15歳で(他の同級生達の)手紙の内容などからも高い教育を受けている事が判るのだが、意外と競争・成績の順位や受験の合否に関して無邪気に一喜一憂する感がある。これは旧制中学自体が既にエリートであるという自負に加え、戦争という重圧が”生存競争本能”を鋭くしていたのではないかと思う。
今回投稿の葉書の中でも”高校全敗”とか”専門は必ず”等の話題が出ており、この後投稿予定の他の同級生の葉書でもこの”生存競争本能”が噴出する。

小生の頃の”落ちこぼれても何とかなるさ”は存在せず、多少誇張して言えば”落ちこぼれ=死”を意味していたのかもしれない。