今回は長男康男から三郎への葉書
母千代子からの言伝で三郎宛の荷物を手配した旨が記されているのだが、達筆な筈の康男にしては結構な乱筆であるところが気に掛かる…
解読結果は以下の通り。
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御葉書有難う。其後元気にて
精進している由、安心した。兄さんも
元気で頑張っている。そちらもそろそろ
櫻の見頃と思う。広島も満開というところ
だ。故郷は月末位に妍を競う事
だろう。所望の品々、母上より通知があ
ったので、家の方へ送っておいたから、何れ
入手する事と思う。無暗に手に入らぬ故、
心して使用する事。では体に気をつけて
頑張れ。
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5行目の「妍を競う」は、葉書には「女ヘンに研」と書かれているが、どうもこれに該当する漢字が見当たらないので恐らく「妍(うつくしい)」の間違いだと思われる。
内容としては大したことを書いている訳ではく心配する部分などないのだが、どうも「乱筆」が気に掛かる。
この昭和19年4月当時は、南方や大陸各戦線で防戦一方となった戦地への兵站が急務となっており、康男たちの部隊の出兵も間近になったことは間違いないであろうし、当然その状況も部隊内部では周知されていた筈と思われる。
また、上官や先輩将校の戦死の報せなどの噂も耳にしたかも知れず、”何時出兵命令が出されるのか”と云う緊張を強いられる中で日々厳しい訓練があり、体力的にも精神的にもかなり極限に近い状況にあったに違いない。
そんな諸々が「乱筆」となって表れてしまったのではないかと思う。
因みに、この当時康男は広島市千田町という所に下宿していたのだが、近くには京橋川に架かる御幸橋がある。
この「御幸橋」は原爆直後の惨状を撮影した数少ない写真の現場となった場所であり、原爆資料館に展示されたり教科書に掲載されたりしているその写真は知っている方も多いと思う。
康男が広島を離れてから一年後に原爆は投下された。