昭和19年4月25日 三次中学同級生Sさんからの葉書 三次も春闌(たけなわ)…

 

本日も三次中学同級生からの葉書である。

さすがに内容的に似たような(決して便りを出された方々を揶揄している訳ではない)投稿が続くと閲覧して下さる方々もつまらないのでは…と考えてしまうのだが、内容は似ていてもあの時代の真っただ中で一生懸命生きていた人々の声や気持ちを少しでも多くの人々に知って頂くためのブログであることを再認識して続行させて頂く。

昭和19年4月25日 三次中学同級生 Sさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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春も漸く闌となりました。【一昨日国語の時間に予習不足で
岡部先生に相当余が
しぼられた。(ヲハリ)】
相変らず元気で練成に励んで居る事と思う。
こちらは皆元気だ。
校庭の桜も正に満開。次にニュース。
上川先生が因島へかえられた。又、木原先生が広島へ
轉勤なさった。沢井先生が(軍曹)教練の先生
として来られた。今頃は軍事教練として手旗・
モールス信号を習っている。
陸軍関係、今年は約百名、海軍関係約五十名
八木君が広工と高等商船と二つパス。広工へ行ったらしい。
御健康を祈る。乱筆にて失礼。
では又。
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「闌(たけなわ)」など当時の若者は難しい漢字を遣っていたんだなぁ…と感心しながら、ちょっとググってみた。

「宴も闌となりましたが…」などと結婚披露宴や忘年会などでよく耳にする言葉であるが、「闌」とは「最高潮」を指すものと思っていたが、正しくは「盛りを少し過ぎた頃合い」を指すらしい。
確かに一番盛り上がっているときに水を差すのは無粋であろう。

さて、故郷三次も春闌となり母校の桜も満開との報せ。
先日の母千代子の手紙にあった様に、さすがに戦時下の非常事態に於て花見に興じる人はいないが、それぞれの心の中には例年の様に桜を愛でる気持ちが残っており、三郎もそのあでやかさを思い出したであろう…。

高等商船と広島高工に合格した同級生の八木さんの動向に関しては、以前投稿したMOさんの情報では「高等商船に行く」となっていたが、今回は「広島高工」となっている。
どちらかの情報が間違っていたのか、進学先を変更されたのかは不明であるが、当時「高等商船」は海軍に直結した学校となっており親・親戚などからの反対等あり考え直したのでは…と小生は感じている。

国家全体が戦時色に染まった時代である。全ての国民にとって厳しい状況ではあったが、自分の進みたい道が学問や研究であった若者たちにとっては特に厳しく辛い時代であったと思う。