昭和19年6月4日 母千代子からの手紙 父に負けじと四方山話満載…

 

今回は母千代子から三郎への手紙。

前々回投稿した三郎の写真が届いた事への返信であるが、話したいことは山ほどある様で便箋5枚に亘る”大作”となっている。

 

昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙④
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙⑤

解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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昨日は写真を送って呉れましてうれしく
阿りました。元気でやっています由何よりです。
家の方には別に変りありません。兄様も日々快方
に向って居ります。毎日三階で電蓄をかけ
て楽しんで居ります。考えてみれば兄様は
早くから会社に出して、あまり元気でない躰を
無理したらしい。一ヶ年位は静養せねばいけ
ないでしょう。帰宅してよりは見(ち)がえる様に躰に
肉がついて気分もよろしい。何分玉子も充分
食べられるし、私が病気した時の様にはなく
いろいろの魚も沢山あるやら食べられる病人
なのでよろしい。芳子は又田植などに出る
らしい。四年生は呉へ、来年三月まで。
近日行くらしい。三中も出るらしい。恒内の
看護婦さんの子も三月まで出るとか。
陸士の学科試験が五月にあった。だいぶん行った
そうな。あまり沢山は最後まではのこらなん
だとか。くわしくはよく知りません。柳原君は
よかったらしい。まあ、それにしてみれば、お前
は幸福だったね。
今頃三次の銀行で、西部次長会議があっ
て十人ばかり集まられた。福山の阿部様
がお出になってのお話に、あの芳子と同じ
位の正さんは戸手実業に入学されたそうだ。
矢張り躰が思う様にないらしいが、
どうせ勉強も充分出来んから躰を作る
ために農業方面に入れて兄と農業
させた方がよろしいと申されている。
石黒さんもあまりよろしくないらしい。
病気してはほんとにつまらないよ。
板木の御祖母上様が次々と心配の多い事
ですよ。三原校長が塩町にある中央青年
学校長になられた、十日市、三次、河内、酒河
四ヶ町村立組合青年学校長に太田章
さんが校長で、今、久留島様のあとへ来た。
母さんも力(強?)よくなった。康男兄さんに嫁さん
を心配して居る。夏休みには兄さんも広
島へ居られればよろしいが、どうなる事やら。
三ヶ月召集で明五日に三次から十六人も
出られる。銀行の裏の豆はよく出来たよ。
早や二、三度食べました。お初はお前にも
上げましたよ。近頃外出しましたか。
東京も物が不自由な(の)でしょう。■■へ送りて
上げ度いが、どんな物がよろしいやらね。
どうか病気にかからん様に心がけなさいよ。
今日は久しぶりに三次は雨が降りました。
入梅になれば又、雨だ雨だというのでしょう。
持ち物に気をつけてカビを出さんようにね。
では元気でやってくれよ。
又様子します。          母より

※修さんに一枚写真をやりましたよ。
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父芳一は一葉の葉書に小さな文字で内容を詰め込んだが、母千代子は紙面を沢山使って内容を多くしている。

多分育った環境なのだと思うが、若い頃から苦労して婿養子になった芳一に比べ、千代子は結構裕福な家庭に育ったらしくあまり貧乏臭い感じがない。

芳子(小生の母)も小生4歳の時に亭主(無論小生の父である)を亡くしてからは貧乏生活の連続であったが、こちらも貧乏臭い感じを嫌っていた感がある。

小生が小学生の頃、自転車やおもちゃなど友達の間で流行ったものは当然欲しくなり母(芳子)にねだったものだが、全部では無いにしてもほとんどの場合は手に入れていた記憶がある。
子供が欲しがるものを無暗に与えることは決して褒められた行為ではないが、自分がそうであったように自分の子供達にも極力貧乏臭い思いをさせたくなかったのだと思う。

これまで芳子が貧乏臭さを嫌っていたのは父芳一に末娘として可愛がられていたためあまり苦労しなかった事が原因だと思っていたが、このブログを開始して以降「案外母千代子の生活スタイルが影響しているのかも…」と思い始めている。

かと言って、貧乏臭い部分が無かったのか?…と云うとそうでもない。
デパートの包装紙や紙袋は山の様に貯め込んでいたし、母(芳子)が亡くなった後に姉と実家の遺品整理をした際に我々兄弟の幼少時代の衣類が沢山出てきた時には
「捨てられんかったんかね~」
と泣き笑ったものである。

芳一の血もしっかりと受け継いでいたようではある…

昭和12年4月6日 芳子幼稚園入園記念 母千代子と