昭和19年4月22日 熊本薬科入学の同級生Yさんからの葉書

 

先日、熊本薬学専門学校への入学が決まった旨の連絡があったYさんからの葉書。

目指した旧制松江高校への夢が叶わず少なからず落胆していたが、その後の三郎からの便りなど友人達から慰められたようで気を持ち直している様子が伺える。

昭和19年4月22日 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

**************************
有難う。君があゝ言って呉れ(た)のが一番嬉しい。僕は是が非
でもしっかりとやる積りだから、御安心を願う。本當に僕の事
に気を遣って呉れて。君の課業に支障を来たしたかも知れぬが
此處にお詫をする次第だ。君は仕務に追われているだろう。
然し、僕も多忙で暇を見付けぬ限は、ろくに手紙を書く時もな
い。それ程時勢は逼迫している。講義も今年の中に一年生の
授業は了えて、更に三学期からは二年生の講義を始めるのだ
そうだ。夏休暇も廃止だしね。何も今は平時とは異なっている。否、
皇土の一端が醜敵米英に汚されているのだ。日本の興亡時だ。
僕は君の事を胸に置いて励んでいる。君は必ずとも、頑張って呉れ
なければならない…。こちらは正に初夏の候。花は散り、新緑萌
えだして心機一轉の時。実習々々と日を暮れさす。そちらには
お変りなきや?女恋しき事あらば僕を恋人と思え。奮闘を祈る。
**************************

三郎がどんな言葉をかけたのか不明だが、Yさんとしては有難かったようで甚く感謝されている。
そんなやり取りから、三次中学在学中も仲良しだったと想像できるが、
「女恋しき事あらば僕を恋人と思え」
はちょっと気持ち悪い。(笑)

戦況が悪化の一途を辿るなか、学生達を一刻も早く一人前の戦力とするために講義や実習は全て前倒しされ、夏休みはおろか土日すらまともに休めなかったのではないかと想像するが、皆黙々と頑張っていた…いや、頑張るしかなかったのである。

差出しの住所を見ると「熊本市大江町九品寺」とある。
ネットで確認したところ現在の熊本大学医学部・薬学部のすぐ傍である。

因みに三郎は終戦後、熊本医科大学に入学している。
なぜ熊本だったのか小生が知る由もなかったのだが、この仲良し状況からすると”Yさん”の存在が三郎を熊本に向かわせた大きな理由だったのかも知れない…

 

昭和19年4月23日 三次中学同級生MOさんからの手紙 大竹海兵団

 

今回は三次中学同級生のMOさんからの手紙。

MOさんは三郎の幼馴染で、前回投稿のYさん同様仲の良い友人である。

 

昭和19年4月23日 幼馴染のMOさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

*************************
拝啓
梅花去り櫻花咲き乱れている今日、貴様
は猛勉強をしている事だろう。僕等も此の間
の十二日より十六日までの五日間、大竹海兵團でき
たえられたよ。その様子は早く言えばむちゃくち
ゃだよ。日に体操六回。これには小生も困ったよ。
又カッターは山中(ヤマチウ・サンチウ)どうもにがてだ。無理もないよ。
次に學校の事はそう変って居ないよ。昨日便所の
掃除をしたら、校長先生が非常にほめたよ。之
は五年生が大竹で習って来て自らやろうという事に
なったので、五年の鼻は非常に高いよ。又、北部大会が
五月九日頃ある事になっているが、今度は僕も
俵と二千米に出ようと思っているが、勝負は時
の運だし又、日も無し。課外が火水木金土とあり
日曜も學校だし非常にのびるよ。
まあこのくらいだ。
それから写真が出来たよ。まちどおしかったろうが
こらえてくれ。
          さようなら
              之を後にやぶれよ。
                はづかしいから。
*************************

まずは「大竹海兵団」をググってみた。

海兵団は、海軍兵として志願・徴兵された新兵・海軍特修兵たるべき下士官などが数か月間にわたり基礎教育・訓練を受けるため、鎮守府、警備府に設置されていた機関で、大東亜戦争開始以降人員受け入れ拡充のため各機関で分団等が増設された。
大竹海兵団も昭和15年に呉鎮守府の呉海兵団大竹分団として設置され翌16年に大竹海兵団として独立した。

今回のMOさんたちの場合は5日間の体験入団の様なものだったと思われるが、
「その様子は早く言えばむちゃくちゃだよ」
とある通り、現実的には陸海軍関係学校が進学先として大きな比率を占めていた当時、指導する側も体験する側もお互い真剣そのものだったであろう。

因みにこの大竹海兵団は終戦後海外からの引揚船の入港地となり、氷川丸はじめ多くの引揚船から40万人以上の在外の軍人や民間人が祖国日本への帰還を果たしたとのこと。

MOさんはスポーツマンだったようで、近く行われる予定の競技大会で二千メートル走に出場したい旨書かれているが、そういえば以前に投稿したMOさんの手紙の中に三郎から靴を貰った件が記されていたが、ひょっとすると陸上競技用の靴だったのかも知れない。

「又カッターは山中(ヤマチウ・サンチウ)どうもにがてだ」の”山中”の意味が不明である。三次中学の先生の名前だろうか…

先日の千代子の手紙にあった通り、MOさんの写真を同封したようだが残念ながらその写真は残っていない。
現代ではメディアの発達により写真に対する”有難み”が薄れてきているが、当時の様子を見ていると写真(特にポートレート)と云う媒体が、人々の心にいかに多くの安らぎや喜びをもたらしていたのかがよく判る…

 

昭和19年4月23日 妹芳子から三郎への葉書  ありがたう と さやうなら

 

今回は妹の芳子からの手紙。

内容的にはなーんの変哲もない葉書である。
歴史的な意味合いなど一切なく単なる依怙贔屓だと言われても仕方ないのである。
なぜなら小生の母だから…

昭和19年4月23日 芳子からの葉書

解読結果は以下の通り。

********************
兄さん、お手紙ありがとうございました。
學校までの距離が約二粁位ありますが
毎日元気で登校してもあまり体はつか
れません。三次も晴天の日には夏のような
太陽がかんかんと照りつけてとてもあつい
です。近頃はたびたび作業に出動するこ
とがあります。冬で色が白くなっていた
のが、大分黒くなって来ました。
お父さんもお母さんも元気ですから安心
して下さい。   さようなら   芳子
********************

とまぁ、やはり何の変哲もない葉書なのだが、投稿する以上は何か意味を持たさねば…と暫し眺めたところ、ちょっと面白い事に気がついた。

解読文に関しては小生が「現代仮名遣い」に改めているが、原文(画像)では「ありがたう」・「さやうなら」と「旧仮名遣い」で書かれている。
戦時中だから当たり前なのだが、これまで投稿してきた芳子よりも年上の他の人たちの文章を見ていると、案外「現代仮名遣い」と「旧仮名遣い」とが混在しているのである。

「現代仮名遣い」は発音と表記を出来るだけ一致させる(「表音的表記」にする)ことで従来の「旧仮名遣い」での複雑(不便)さを解消したものである。
しかし「現代仮名遣い」が正式に使用されたのは戦後になってからであるにもかかわらず、既にこの当時「表音的表記」である「現代仮名遣い」が一般化していたと云うことが意外である。

若い人には聞きなれない話かも知れないが、料理の「さしすせそ」の例が判り易いかも知れない。
さ → 砂糖
し → 塩
す → 酢
せ → 醤油(せうゆ)
そ → 味噌
なのだが、「せうゆ」と表記しても「しょうゆ」と発音していた。
確かに判りづらい…

勤労奉仕作業で日に焼けて「大分黒くなって来ました」と書いているが、芳子は元々いわゆる「地黒」で本人は気にしていたようであった。
小生もその血を継いだようで「地黒」である。
因みに姉は父親に似たのか割と色白で、芳子は事あるごとに
「マサヒロ(小生の名前)がクロうて良かった。ケイコ(姉の名前)がクロかったらほんまにかわいそうじゃったもんねぇ。」
と小生の気持ちなど微塵も考えていないことを口走っていたものである…

 

昭和19年4月24日 三次中学同級生Mさんから葉書 陸士受験迫る

 

今回も三次中学同級生からの葉書である。

前学年(四年生)の時に受験した同級生の合格結果が新たに報されるなか、数週間後には今年度の陸士受験が始まると云った異常事態である。
受験生の心中や察して余りある…

昭和19年4月24日 三次中学同級生Mさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

**************************
拝啓 【砂田(九州帝大付属工専)、斎藤(同じ)、広畠(東京電機校)
へ合格す。乱筆御免。祈大奮斗。】
三原君、永らく失礼した。俺も大元気で来るべ
き決戦(入試)に萬全を期している。先づ朗報
を知らせよう。吾々新五年生は、四月中旬大竹
海兵団に短期入団して帰校した。そして海兵団の
長所を採って自発的に三中改革を断行した。
即ち、先づ汚つた便所を徹底的に美化し、その美
化掃除、郷士報国隊による二列登校等
を始め、先日、校長閣下より賞詞を戴いた。
三次中学から陸士へ九十一名、海兵五十三名受験する。躰
に気を
**************************

最後が突然途切れた形になっているのは、この葉書が往復葉書で続き部分が復信部分に記されていたが、三郎が切り離して使用したためである。

受験に失敗して落ち込んでいる暇など一ミリも無い。
学校の授業時間ですら勤労作業に変更され、勉強する時間さえ奪われている中での受験である。
冒頭にも触れた様に、当時は学徒動員のため大学、大学予科、高等学校高等科、専門学校若しくは実業専門学校に於て六ヶ月の修業短縮が実施されており、軍関係学校に関しては十八~二十年度まで受験~入学時期が繰上げられている。
三郎たちの世代はこの影響をもろに受け、修業短縮だけでなくそれまでは年間四ケ月であった勤労動員が将にこの昭和十九年の三月から通年動員に変更されたことに伴い、三郎の同級生たちも呉の海軍工廠などへ長期間動員されている。

※詳細は以下文部科学省のHPにて参照頂きたい。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317693.htm

大竹海兵団の威力恐るべしである。
先日投稿したMOさんの手紙にもあったが、相当絞られ影響を受けたのであろう。
海兵団に比べ我が母校のたるんでいる部分が目について我慢できなかったようである。
まぁ、確かに便所は綺麗でなければいけないと思う…

 

昭和19年4月25日 三次中学同級生Sさんからの葉書 三次も春闌(たけなわ)…

 

本日も三次中学同級生からの葉書である。

さすがに内容的に似たような(決して便りを出された方々を揶揄している訳ではない)投稿が続くと閲覧して下さる方々もつまらないのでは…と考えてしまうのだが、内容は似ていてもあの時代の真っただ中で一生懸命生きていた人々の声や気持ちを少しでも多くの人々に知って頂くためのブログであることを再認識して続行させて頂く。

昭和19年4月25日 三次中学同級生 Sさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

***************************
春も漸く闌となりました。【一昨日国語の時間に予習不足で
岡部先生に相当余が
しぼられた。(ヲハリ)】
相変らず元気で練成に励んで居る事と思う。
こちらは皆元気だ。
校庭の桜も正に満開。次にニュース。
上川先生が因島へかえられた。又、木原先生が広島へ
轉勤なさった。沢井先生が(軍曹)教練の先生
として来られた。今頃は軍事教練として手旗・
モールス信号を習っている。
陸軍関係、今年は約百名、海軍関係約五十名
八木君が広工と高等商船と二つパス。広工へ行ったらしい。
御健康を祈る。乱筆にて失礼。
では又。
***************************

「闌(たけなわ)」など当時の若者は難しい漢字を遣っていたんだなぁ…と感心しながら、ちょっとググってみた。

「宴も闌となりましたが…」などと結婚披露宴や忘年会などでよく耳にする言葉であるが、「闌」とは「最高潮」を指すものと思っていたが、正しくは「盛りを少し過ぎた頃合い」を指すらしい。
確かに一番盛り上がっているときに水を差すのは無粋であろう。

さて、故郷三次も春闌となり母校の桜も満開との報せ。
先日の母千代子の手紙にあった様に、さすがに戦時下の非常事態に於て花見に興じる人はいないが、それぞれの心の中には例年の様に桜を愛でる気持ちが残っており、三郎もそのあでやかさを思い出したであろう…。

高等商船と広島高工に合格した同級生の八木さんの動向に関しては、以前投稿したMOさんの情報では「高等商船に行く」となっていたが、今回は「広島高工」となっている。
どちらかの情報が間違っていたのか、進学先を変更されたのかは不明であるが、当時「高等商船」は海軍に直結した学校となっており親・親戚などからの反対等あり考え直したのでは…と小生は感じている。

国家全体が戦時色に染まった時代である。全ての国民にとって厳しい状況ではあったが、自分の進みたい道が学問や研究であった若者たちにとっては特に厳しく辛い時代であったと思う。

 

昭和19年4月30日 三郎から父芳一への手紙 天長節大観兵式での大感激を報告

今回は三郎が父芳一に宛てた手紙の投稿。

昭和19年4月29日天長節に行われた大観兵式に召集された際の大感激を興奮冷めやらぬ様子で父へドヤ顔(?)で報告している。

現代でも天皇陛下を至近距離で”拝顔”できる機会はかなり稀だが、当時の国家体制から考えれば”ドヤ顔”どころか一生の自慢話であり、青年三郎の興奮度は相当なものであったであろう。

昭和19年4月30日 三郎から父芳一への手紙

解読結果は以下の通り。

****************************
本丗日外出シテ確カニ小包受取リマシタ。開クノモモドカシク
嬉シクテ故郷ノ香ガ致シマス。色々ト心配ヲオ掛ケ致シテ済ミマセン。
昨廿九日天長節ニハ大観兵式ニ陪観シ実ニ二十米モ離レナイ
所ニ大元帥陛下ヲ仰ギ、恐懼感激所措ク知ラズト云フ所デス。
神々シキ御姿ヲ生マレテ始メテ仰イダノデスカラ當然デス。
陛下ノ御後ニ、三笠宮、高松宮殿下ヲモ拝顔致シマシタ。
東條サンモ勿論、私ノ中隊ノ次ノ中隊ニ東條サンノ息子サンガ
二年生ニ居ラレマス。非常ニ良ク似テ居ラレマス。眼鏡モツルガ上
ノ方ニツイタ円形デナイノヲカケテオラレマス。背丈ハ小サイ方デス。
毎日見マス。ソレカラ、私ノ學校内デ寫シタ寫真ガ出来マシタ
カラ、オ送リ致シマス。コレハ夏休暇ノ時ノ服装デス。余リ寫真
屋ガ上手デハアリマセン。東京都内ニ外出シテ寫シタノガ五月上旬
ニ出来上ル予定デスカラ、コノ寫眞ヲ分配スルノハ考ヘテ行ッテ下サイ。
東京ノ写真屋デ撮ッタノハ半身デ、ヤハリ十枚アリマスカラ。コノ寫
眞ヲ森保ガ二枚位貰ヒニ来ルカモシレマセンカラ、来タラ渡シテ
下サイ。
兄サンノ躰ノ具合ハ如何デスカ。芳子ハ元気デスカ。
オ母サンモ無理ヲセラレヌ様オ願ヒ致シマス
****************************

既にお気付きのこととは思うが、今回の手紙は「漢字とカタカナ」で書かれている。
戦後世代の人間にとって”カタカナ”は外来語を表すイメージが強いが、戦前教育では”ひらがな”より先に”カタカナ”を教えており、公文書なども同様に「カタカナ混じり文」であったことなどから当時の人々は”ひらがな”よりも”カタカナ”の方に馴染みがあった。
ただ普段は「ひらがな混じり文」であったのに何故この手紙を「カタカナ混じり文」で書いたのかは不明である。
飽くまで想像であるが、大元帥(天皇)陛下はじめ皇室の方々の様子を記す関係で公式文書並みに格式のあるものにしたかったのかも知れない。

大元帥陛下、三笠宮、高松宮殿下に続き、東條首相のことに触れているが、皇室の方々に比べ「東條サン」と呼んでいるところが興味深い。
三郎が、当時陸軍大臣、参謀総長も兼務していた東條首相を小ばかにしているとは考えづらく、どう云った状況なのか考えてみた。
小生は子供の頃母(芳子)が「東條さんはいいおひと~♫」と唄っていたのを記憶しており、当時そんな流行り歌があったのであれば「東條サン」と云う呼称も尊称に近いものだったのかも知れない。はたまたそのご子息が陸軍予科士官学校の一学年上の中隊にいることで親近感があったのかもしれないが…

この時の天長節大観兵式の様子がYouTubeにあったのでURLを添付しておく。
この画像のどこかに三郎が写っているかも知れない…
https://www.youtube.com/watch?v=bAuGgqsepzk&list=PLfCTKikq6ntkik5vS02YTA_T30i5E7yJ3&index=9&t=12s

ある程度年配の方々には釈迦に説法となってしまうが、一部ご存知ない方のために説明させて頂く。
「天長節」とは、明治元年から昭和23年までは天皇の誕生日で当時は4月29日であった。終戦後昭和24年から「天皇誕生日」に変更され、昭和天皇崩御直後に「天皇誕生日」ではなくなったがゴールデンウィーク期間の休日であったことなどから「みどりの日」として祝日のまま存続。平成19年に「昭和の日」と名称変更され現在に至る。
ただ、小生などの昭和に生まれ育った世代には「4月29日=天皇誕生日」が染みついてしまっている…

写真を同封していた様だが、確実ではないが以前投稿した下の写真ではないかと思う。

昭和十九年四月九日 三郎十八歳 陸軍予科士官学校にて

 

昭和19年5月2日 三次中学・陸軍予科士官学校先輩Yさんからの葉書 差出地は千葉県四街道 陸軍野戦砲兵学校に…

 

今回は当ブログでも何度か投稿した三次中学・陸軍予科士官学校の先輩のYさんからの手紙。

前回(7/14)に投稿した昭和19年4月8日付の手紙の差出地は神奈川県の相武台(陸軍士官学校)であったが、今回の手紙は千葉県四街道の「陸軍野戦砲兵学校」となっていた。

昭和19年5月2日 Y先輩からの葉書

解読結果は以下の通り。

*******************
拝啓 観兵式陪観せられしや。此度は
我等が参加しなかったから貴様等には
淋しかったろう。外出しているか。大いに
鋭気を養うべく、しゃばの空気にまけんで
しっかり外出し給え。小生、此の度満州へ
行くことになった。本校では、昨日記念祭
あり。面白いものを見たよ。六月頃会おう。
元気で勉強し給え。他の面々は何処。
*******************

差出し元住所は「陸軍野戦砲兵学校 教導聯隊 第八中隊 見習士官 〇〇〇〇」となってる。
早速、「陸軍野戦砲兵学校」をググってみたところ、以下サイトにて詳しく説明されていたのでご覧頂きたい。

https://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/e/003e75e131f09cba13340cdc966f9597

こちらのサイトの説明によると、「160名ほどの募集に対して、1943年には47倍もの受験者があったという」とあり、相当の難関であったことが伺える。
父芳一が三郎に「Y先輩に負けるな」と言うほど優秀な人物であったが、この難関校に入学していることでその事実が明確になった。

しかしながら同サイトには、この1944年に多分Yさんの1学年上級生と思われる同年に繰上げ卒業となった方々の殆どが戦死した状況も記されてる。(実際にこの卒業生の方々が門司港を出港されたのがこの葉書より前か後かは不明であるが、元々の教育年限が2年であったことを考えると恐らくこの後と思われる。)
いかに秀才でシッカリしていたとはいえ、十代の青年であったYさんにとっての衝撃は計り知れないものであったのではなかろうか…

小生のような平和ボケの戦後世代は、つくづく「途方もない時代」であったことを実感させられてしまう事実である…

 

昭和19年5月2日 三次中学同級生Yさんからの葉書 新計画とは…

 

今回は三次中学同級生のYさんからの葉書。

Yさんは3月までの進学受験の結果が芳しくなく、落胆の中で三郎との葉書のやり取りを行いながら、5月末に迫った陸軍予科士官学校受験に向けて頑張っている。

昭和19年5月2日 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
三原君、其の後元気に
て日夜将校生徒とし
ての任務に邁進している
ことと思う。降って小生も恙なく、来るべき二十八日に向い
準備を進めている。安心して
呉れ。學校も新計晝の基に
着々とその歩を進められ、今では
清潔・整頓・規律ある日課が行
われている。今日はこれにて失礼。
体を大切に。
***********************

前(昭和18)年度に三郎が陸軍予科士官学校を受験したのが9月20日であったから、4ヶ月近く受験が早まっている。
受験する側にとっては日程が早まっただけでも大変なのに、その受験に必要な時間が戦争激化による学徒動員などに奪われてしまい満足に勉強すらできない。
受験生の焦りと不安は募りに募ったであろう…

葉書の中に「學校も新計晝の基に着々とその歩を進められ」とあるが、その「新計晝」とは当時の政府がいよいよ不利となった戦局挽回の為に非常措置として定めた「決戦非常措置要綱」の事と思われる。
具体的には
十九年二月
中等学校程度以上の学徒は「今後一年、常時之ヲ勤労其ノ他非常勤務ニ出動セシメ得ル組織体制ニ置キ必要ニ応ジ」動員することに決定した。
 同 三月
「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」を閣議決定し、動員の基準を明らかにした。この中において、
1)学徒の通年動員
2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置
3)教職員の率先指導と教職員による勤労管理
などが強調された。
文部省はこの決定に基づいて詳細な学校別動員基準を決定し、三月末指令した。
※文科省HP 「トップ > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行」より

軍関係学校受験生に対しては動員先で勉強や授業等の時間が配慮された等の情報が他の同級生からの便りにあるが、軍需工場での重労働の合間の勉強では体力的にも精神的にも非常に辛いものであったに違いない。

戦後世代が経験した「受験戦争」とは比較にもならない苛烈さであったが、その「受験戦争」すらドロップアウトした小生など情けない限りである。

 

昭和19年5月4日 母千代子から三郎への手紙 軍隊に征く我が子も病弱な我が子も 母の愛は海よりも深し…

 

今回は母千代子から三郎への手紙。

軍人となった長男、陸軍予科士官学校で軍人を目指す三男を心配しながらも、病気療養にて軍隊にも征けない次男のことを「可哀想だ」と我が身の病気も忘れ看病している。
将に「母は強し」である。

昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙④
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙⑤
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙⑥
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙⑦
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙8

千代子の手紙は字が大きく(亭主の芳一とは対照的)読み易いが、今回は8ページに亘る”大作”である。幾つか誤字と思われる部分もあった。

解読結果は以下の通り。
注)■■は父芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

**********************
三十日出しの写真受取りました。
なつかしく家中で見ました。
相変りなく元気で何よりだ。
家に居た時、兄様の服など
かりて、早く学校へ行き度い
と云れて着て見た時と同じだ。
矢張り年は争えぬ。まだまだ
大きくならねばいけませんね。
家にも別に変りありません。
敬兄さんも安静に三階で
休んで居ます。三十日に父様
は祇園へ行って大兄様と二人で
下宿へ行って、あらかじめ荷物を
しまって、自動車の便があったので
送りました。(新見様の荷物が広島
へ行ったので、其の帰りに積ませて
かえりました。)まあ、当分休まねば
いけまい。別に心配もないが、一寸と
無理をしたらしい。静養の必要が
いりますのよ。夏休みには見られます。
電蓄もかっています。病気する
子供は、なお可愛想だ。これも運命
とあきらめねば仕方がない。
せめて軍隊に出てからならとも
思うが、世の中は一升にあまる事
はないと昔から云うが、ほんとだよ。
大兄さんも六月中は広島にまだ
居られるらしい。二十六日から四日間、大阪
の方へ実習に行ったらしい。大阪では
大もてであったとか。汽車のせいげん
で、なかなか帰って来ませんのよ。
お前の写真も兄さんへ送ってあげろ。
芳子も元気で休みなく通学して
います。三次の桜も散りて
今はツツヂの盛りですよ。
内のカヂカも去年と同じく
元気です。三階で兄さんと寝て
います。夜三階で居れば尾関山
の下の川で、カヂカが鳴ているよ。
兄様が病気せねば、家で三人の出世
を祈って他の心配はないけれどね。
敬が帰ってからは、私の病気は
どこへ行ったやら。とても元気になった。
メタボリンの注射もやめて、敬にして
います。三階の上り下りも一日一回
でも、足がだるくていけなかったのに。
一日には何度するか知れんが、夜分は
すっかりつかれてねますれど、又朝
は早くから眼がさめて、父様と
二人で看病しています。私等が
ついているから病人の方は心配せんでよし。
夏休みに帰るのを待って居るよ。
先日、隊付きで居られた代々木様が
帰られて宅へ来て下さった。
もし、豫科へ行ったら面会して
やると申された。よい軍人さんだ。
よく聞いてみると、あの人はお母さん
が、ちがっているのだそうだ。
前の母さんは死れたのだとか。人の
話だ。一日も元気で生人する
まで生きて居たいものだ。
■■様方へ何か送りたいと心配
して、田舎からウドンを心(手?)配した
から近日送ります。
■■の奥様からも手紙を今日
頂いた。お前は気嫌(気兼?)はせんでよろしい
から、外出の時はよりなさい。お礼は
きっとしますからね。
今度の外出は中旬の休みですか。
兄さんの方へ滋養を取るのに心配す
るので、お前へにも何か送ってやり度い
が、前の様に入手出来んので、気に
かからん事はないが、送る事が出来
ん。小包の都合も悪いし許して
くれよ。毎日気にはかかるのだがね。
お前は家の事は心配する事はいらぬ。
敬兄さんの病気の事も知らせん方が
よろしいとは思ったが、何れは知れる
と思って、つい書いて。心配させたね。
■■へ送った小包の中に食べる
物が入れてなかったから、何だか
淋しく思ったであろうが、都合が
悪いからね。入用の物があった
ら知らせなさい。出来たら送ります。
忙しくなかったら、板木へも時々は
便りをしてあげよ。お祖母様も年
だから、元気そうでも、まあ先は
短いからね。父様も来る
六、七、八日と福山で主事会議
があるので出席される。父様も
なかなか忙しい。母さんが畑の手入れも
ようせんので、みなやられる。日曜日も
度々はないし、私も今年だけ
用心すれば又、何でも出来るからね。
大掃除があるが、今から気にしている。
まあ、其の時はどうにかなりましょう。
今夜は雨が降っている。オコタは
いらぬ様になったよ。
旧官内の藤井へ便りをしたか。
出逢うたびにお前の話をされるからね。
又、父様からも便りがあろう。芳子も
送るよ。元気でやってくれよ。
病気では駄目だからね。
今夜はこれでおやすみするよ。
明日も元気でやってくれ。よくねむれよ。
五月四日 夜九時半
三郎どのへ              母より
**********************

親にとってどの子が可愛くてどの子は可愛くないなどない。
況や、我が腹を痛めた母親からすれば尚更どの子も可愛いに決まっている。
しかしながら、病に倒れ身近で療養する敬は母から見て最も「可哀想」な存在であったのであろう。

千代子は軍人となり戦争に征く事が必然となった康男や三郎のことはもちろん心配であるが、国を挙げて戦っているさ中に自分自身が思うに任せない「やるせなさ」を敬本人以上に感じていたのかも知れない。
もっとはっきりと言えば、例え病弱であっても戦争に征かなくて済むのなら母親にとってそれはそれで良い事であったと思うが、当時の状況では世間の目を気にしないで生きて行く事は難しかったのではないかと思う。
このまま肩身の狭い人生を送る敬を不憫に思ったのも無理はない。

「世の中は一升にあまる事はない」の意味がよく解らなかったのでググってみた。
多分「一升徳利に二升は入らぬ」と云う故事のことではないかと思う。
「能力以上の事を望んでも無理」と云った意味らしいが、健康な息子は出征し病弱な息子は肩身が狭い人生を強いられる戦時下では「これも運命とあきらめねば仕方がない」のが多くの母親たちの慟哭であった…

「敬が帰ってからは、私の病気はどこへ行ったやら。とても元気になった」とあるが、その後の状況からすると元気になったのではなく、不憫な息子を護る爲に母性が理性を凌駕してしまったのであろう。

母の愛は海よりも深し…である。

 

昭和19年5月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙 親友へ、そして自身へのエール…

 

 

今回はこれまで何度か投稿してきた三次中学の親友Mさんからの手紙。

残すところ二十日余りとなった陸軍予科士官学校も試験に備え猛勉強中のMさんからの、三郎への、そしてMさん自身への檄たる手紙である。

昭和19年5月5日 三次中学の親友Mさんからの手紙①
昭和19年5月5日 三次中学の親友Mさんからの手紙②

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓 三原三郎君。青葉の五月となり心身の
ひきしまるのを感ずる様になった。今日、五月節句
であるけれも、時節柄鯉昇りは見られず、それ
に代って飛行機が「此処にも日本男児あり」と
叫んで居る。貴様相変らず振武台を
馳せていると思う。俺も相変らず元気だ。三中も
今頃は大改革が断行され、皆張切って、日夜大目
的に邁進している。今貴様三中に帰って見たら
恐らく吃驚するだろう。貴様と別れてから
早数ヶ月を経過した。軍隊生活にも馴れた事だ
ろう。近頃貴様はどんな事を學んでいるのか?
貴様必ず他人に負ける事なく、天下第一等の人
となり、三中の名声を天下に鳴らし給え。
俺の目指す大目的も目焦に迫った。余す所二十日
ばかり。必ず入るから安心して呉れ。一日も早
く軍服が着度いよ。貴様の軍服姿が見度い。
写真が出来たら一枚御願いする。
今日、柔道主任の木原先生の後任として、信永
先生を迎えた。照国みたいなデブだ。
尾関山の桜も散った。辺りは実に美しい。山が!!
高谷山も、寺戸山も、比熊山も緑だ。
つい忘れかけていた。――砂田義憲君は九州帝
大付属工高に入学した、がその後任副級長として
熱血男児、佐藤博君が撰ばれた。栗本も元
気で陸士・海兵の試験の爲に頑張っている。森保
も相変らず元気!!
吉か不吉か知らんが、三中の十二教の教室
の前の廊下に燕が巣をかけたよ。
「三原君!!」――ではない「三原!!」「三原!!」と永い間
親しくして来たが、君と別れて淋しいよ。然し
君が陸士を卒業し、俺が陸士か海兵を卒業して
共に立派な軍人になって、共に戦場で語る事を
思えば実に楽しいよ。
六月にもなれば吾々は通年動員として、四月が
六月が知らんが、軍需工場でペンを置いて働く事
となるだろう。然し喜んで働くよ。
気候の変り目、健康に充分注意あれ。
断片的にだらだら書いた。御免。
五月五日       ■■■■
陸士生徒
三原三郎 殿
「俺だ貴様だ」と大物を云ったがゆるしてくれ。
軍人志望の僕だから。
***********************

五月五日(端午の節句)は男子の健康を祈願する日であるが、さすがに戦時下に於いては「鯉昇り」は自粛していた様子である。
それでも「青葉の五月となり心身のひきしまるのを感ずる様になった」と端午の節句に相応しい心境を語っている。
現代の世の中では「ゴールデンウィーク」として休暇を謳歌しながらも、片や「五月病」などと心身や体調の悪化を訴える季節と変わってしまっているが、当時の人々から鼻で笑われそうな有様である。

「鯉昇りに代って飛行機が…」とある。
実際に飛行機が飛んでいたのかも知れないが、広島の山間部の三次上空を当時日本軍機がどれだけ飛んでいたのか疑問であり、ちょっとググってみたところ以下サイトに戦時下の端午の節句のレシピとして「飛行機メンチボール」なるものがあったことを発見した。

https://kazu4000.muragon.com/entry/347.html

ひょっとすると、この「飛行機」をさしていたのかも(?)知れない。

さて、目前に迫った陸軍予科士官学校受験を控え焦りや不安はあるに違いないが、自信がある様子で軍人として三郎と再会することを楽しみだと語っている。

何度も言うが、当時軍人になると云うことは「かなりの確率で命を落とす」選択であった。
現代の我々が「ゴールデンウィーク明けに五月病になれる」のも命を懸けて戦って下さった先人のお蔭であることを肝に銘じたいものである…

余談だが、今回投稿した手紙の封筒は再利用されたもので裏返してみると元々は「南満州鐵道株式會社」の印刷のある社用のもので、Mさんのお父様がお母様宛に出されたものと思われる。
珍しい封筒だったのでご参考までに…

Mさん封筒の裏側に「南満州鐵道株式會社」