昭和19年5月10日 康男から三郎への葉書 龍顔?佳節?寿ぐ?

 

 

久し振りに長男康男の葉書である。

先日三郎が実家に送った手紙の内容と写真が康男の手許に届いた様で、その辺りが話題になっている。

昭和19年5月10日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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そろそろ暑さを覚ゆる時候となった
が、其後元気でやっているか。先日家の方
から写真が届いた。制服がなかなか似合う。
外出して撮った分も早く見たいものだ。
天長節観兵式には参列、龍顔を拝
する光栄に浴したそうだが、兄さんはニュースで
盛儀を偲んだ。兄さんは船上で佳節を寿いだ。
だんだん暑くなる、伝染病に罹らぬ様厳
重に注意する事。事項柄、特に精神の緊張を緩め
ない様に頑張れ。 では又。
***********************

「龍顔」、「佳節」、「寿ぐ」と現代ではあまり使わない様な語彙を使っている。
それほど、天長節観兵式で三郎が大元帥閣下(天皇陛下)を至近距離で拝顔したことは三原家にとって”大事件”であったのであろう。
もちろん康男も羨ましく思ったに違いない。

因みに
・龍顔:天子の顔
・佳節:めでたい日。祝日
・寿ぐ:言葉で祝福する。祝いの言葉を述べて、幸運を祈る。「言祝ぐ」とも

伝染病に注意せよとの忠告がある。
当時の伝染病と云えば「結核」のことである。当時はある意味「国民病」であった。
しかし(小生も詳細は聞いておらず正確ではないが)おそらく千代子も敬も結核だったようで、その辺りの事情も康男は心配していたのであろう…

 

昭和19年5月16日 父芳一から三郎への手紙 「兄さんも光栄に浴したぞ…」

 

今回は父芳一から三郎への手紙である。

葉書とは異なり文字は大きいのでそれなりに読み易いのだが難読文字が幾つかあった。

 

昭和19年5月16日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年5月16日 芳一から三郎への手紙②
昭和19年5月16日 芳一から三郎への手紙③
昭和19年5月16日 芳一から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
  康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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其後元気で勉強に訓練に励しんで居ると思う。
先日写真を送ったが、あまり上出来でないので、他人には
やらない。市中で写ったがよかったら、お前の友人などにも
やってもよい。森保君も来ない。
学友とは書面の交際はしているか。人は一生交際を忘れて
はいけぬ。殊に竹馬の友とか、戦友とかは又格別だ。
■■さんとお父さんとの如き、よい実例だ。まだお父さんには
別にも親友がある。友ほどよいものはない。己に勝る
よき友を撰び求めて諸共に と云う歌の文句の通りだ。
家には、敬さんが四月上旬、身体に異和を感じ、十一日夜突
然熱発。十八日に帰宅して以来三階で療養に努めて
居る。熱も下冷し状態は極めて順調だが、何分、体質が
弱いので、相当な期間静養さすつもりだ。一歩誤れば
死だから、大いに注意して居る。お母さんもお父さんも
一生懸命に養生さすべく努めて居るから別に心配するな。
お母さんもほとんど元の体に回復した。栄養物も可なり手に
入って居る。板木のおばあさんから、卵も切らさぬ様に送って下さる。
お魚も次々と手に入る。兄さんは先づ高級客待遇で
やって居る。
一寸、十四日午後四時頃、康男兄さんも帰宅して、敬に「安臥
読書器」を買って帰ってやった。敬は喜んでそれを使っ
て毎日読書して居る。
■■君の家へ先日ウドンを六束送って置いた。何分近頃
よいものが手に入らんので困る。
お前は、菓子、果物など、外に不自由はないか。
身のマワリ品で入用の品あれば様子せよ。出来るだけ
送ってやる。
近頃、外出したのか。暑くなるから身体に無理をせぬ様
充分注意して、勉強せよ。
銀行の隣りの代々木巡査の御長男も先日、豫科を済ませて本
校に入られたらしい。私の宅へも一寸挨拶に来てくれた。
区隊長は矢張り前田大尉か。河村君達も無事か。区隊長
河村さんなどには一応手紙を出しただけだ。又最近手紙を
出すつもりだ。
康男兄さん、まだ当分宇品に居るらしい。六月末頃四国方面
へ転属になるかも知れんが不明だ。
三次も大分暑くなった。今年は畑のものがよく出来た。お父さん
が熱心にやるので、馬鈴薯も大分大きく伸びた。夏豆も
長く伸びて花ざかりだ。夏休みにはお前にも御馳走するよ。
三中の先生や友達にも時々通信せよ。
此頃、中等学校も国民学校も食料増産に一生懸命で、学
課の方は一ヶ月十日位しかやらないらしい。
近所にも前に変りはない。
身体の調子がよくない時は、早く受診して養生せんと
いけぬ。健康第一だ。
康男兄さんの所へも先日、高松宮、東久邇宮さんが来られて
一週間食事も一緒であったらしい。光栄に浴したとのことだ。
夜分寸暇でもあればハガキを送れよ。
では大事にせよ。■■さんへも時々ハガキを出せよ。
五月十六日 午後五時半 認む
父より
三郎さん
************************

芳一が社交的な人間であったことは以前このブログでも触れたが、三郎へも「友ほどよいものはない」と説いている。
小生が芳一の”社交性”を実感したのは芳一の葬儀の際(小生が中学卒業直前の昭和50年3月)に、当時外務大臣だった宮沢喜一氏からの弔電が届いた時である。
弔電が読み上げられると式場が「ほうー」とざわめき、小生も驚くと同時にちょっと鼻が高くなった気がしたことを覚えている。
まあ、宮沢氏と直接面識があった訳ではなく偶々氏の選挙区に住んでいたので秘書或いは後援会の方と面識があったからではないかと想像するが、いずれにしても人脈は豊富であった様である。

療養中の敬の様子、回復(?)した母の事、食料・物資の調達が難しくなってきた中でもなんとか栄養のあるものは調達できている事などが書かれている。
但し、三郎に余計な心配をさせまいとしているだけかも知れず本当に調達できていたかは疑問であるが…

先日の三郎からの手紙にあった「天長節大観兵式での拝顔の光栄」に対し、長男康男も「高松宮、東久邇宮さんが来られて一週間食事も一緒」だったと報告がされているのが微笑ましい。

「夏豆」とは枝豆のことだと思う。
芳一は小生が子供の頃も我が家の裏庭で枝豆を作っていた。
たわわになった枝豆を引っこ抜いて鞘の部分を手でしごいて落とす。
今にして想えば、採れたての枝豆を湯がいて食べるのは最高の御馳走だった…

 

昭和19年5月16日 母千代子から三郎への葉書 同日に父母別々に便り???…

 

今回の母千代子の葉書は前回投稿した父芳一の手紙と同じ5月16日に認めらている。
同じ日に投函するのなら同封した方が料金も安上がりだし、受取る三郎にしても楽だと思うのだが…

何か理由があったのだろうか…

昭和19年5月16日 千代子から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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五月晴れの好季となりました。其後
三郎さんは変りなく元気で勉強して居る事
と思って居ります。家の方にも変りありません。
父様も芳子も元気で居ります。敬さんも日々
元気に向って居ります。十三日には芳子は光子
さんと板木へ行きました。十四日には兄様一寸と
帰り、十五日朝一番で帰隊。十八日頃から丸亀の
方へ一寸と行くらしい。母さんも元気で毎日をや
って居りますから安心して。■■様へ小包を昨日やっ
と出しました。目方が多くなって思うほど送られん。
暑くなりますから充分気をつけて勉強なさいよ。
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内容的にトピックはなく、芳一の手紙に詳しく書かれているものばかりである。

「十三日には芳子は光子さんと板木へ行きました」とある。
板木は(多分)芳一の実家があった町で三次から10km程離れた場所である。
ググってみたところ、「十三日」は土曜日であり女学校から帰宅した後に光子さん(友人と思われる)と一緒に祖父母の所へ行った様である。

さて、冒頭にも記した様に「なぜ父母別々に便りを出したのか?」が孫としてチョット気になったので考察してみた。

夫婦仲が悪かったのだろうか?
特別仲が良かった訳でもないだろうが、悪かったような状況は当時の手紙等からは感じられないし、小生も芳一や三郎、芳子からそうした話は聞いた記憶はない。

消印を確認したところ、千代子の葉書は「5月16日」であるのに対し、芳一の手紙は「5月17日」と翌日である。
多分、帰宅後に千代子から葉書を出した旨を聞いた芳一がもう少し詳しい内容を三郎に伝えてやろうと手紙を書いたのではないかと想像するのだが…

しかし、療養中の敬の事や戦地への出征が間近な康男の事などで家庭内がギクシャクしていたとしても無理はないので、その辺りの影響も排除できないとも思う。

まぁ考えてみれば、当時心配事も無く円満に暮らせていた家族など日本には存在しなかったのかも知れないし…

 

昭和19年5月20日頃? 三次中学同級生Yさんからの葉書 陸士に憧れるも学業に専念

 

今回は当ブログ4回目の投稿となるYさんからの葉書。

以前の手紙で熊本薬専への入学を果たしたYさんであるが、陸軍予科士官学校への想いも捨てきれないでいた様子が綴られている。

 

昭和19年5月20日頃? 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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其の後如何と案じている。もう一人前に堂々とやっている
事だろう。慣れた手付きで…。今年もう一回そこを受け
て見ようと思ったが、學業がどっちつかずで中途半端と
なるので取消にした。又、近視もあるから。何にして
も、俺も陸士を憧れていたのだから、此處に帰る以上は
此處を陸士と思い、動作もその様になる様に気を付けて
気合を入れてやっている。勉強の方面は勿論。
専門学校では出身中学を問われる事が多いの
で、三中の名聲を示す可くやっている。君の方は
どうだ。音信不通により一筆致すなり。では又。
**************************

今回の葉書に関しては消印が不明瞭(と言うよりは見えない)であるため、実際にはいつ出されたものなのかはっきりしないのだが、束ねられていた順序或いは陸豫士受験をキャンセルした由の内容から恐らく5月20日頃であろうと判断した。

Yさんは既に熊本薬専への入学を終え熊本の地で新たな学業生活を始めていたのであるが、文面からは昨年に続き再度の陸軍予科士官学校への受験を考えていたがキャンセルした旨が書かれている。

当時、「お国の爲に」と陸海軍への志願が青年たちの憧れとなっていたことは間違いないだろうが、他の選択肢(言い方は悪いが「戦争に征かなくて済む」と云う選択肢)があればそちらを選択するのが人情だったのではないかと思う。
既に学徒動員も開始されており専門学校生徒だろうといつ召集されてもおかしくないが、軍関連の学校に比べれば可能性は低いであろう。
また、化学・薬学の専門知識があれば前線ではなく後方支援部隊等での勤務の可能性もある。
できるだけ危険の少ない環境に行きたいと考えるのは人間としてごく当たり前の感覚であると思うが、国家存亡の危機に直面し多くの若者達が命を賭して戦っている中では、その「当たり前」の感覚が多分に麻痺していた…

この手紙に「三原よ、すまん!」と云う気持ちを感じるのは小生だけだろうか…

 

昭和19年5月21日 妹芳子からの手紙 「大東亜戦争の決戦下で…」

 

都合4回目の妹芳子の便りである。

これまで通り大した内容ではないのだが、「大東亜戦争の決戦下で」と云うフレーズには少々驚いた。
凡そ12歳の女の子が遣うような言葉でななく、小生の記憶の中の「母芳子」のイメージではなかったから…

昭和19年5月21日 芳子からの手紙①
昭和19年5月21日 芳子からの手紙②

解読結果は以下の通り。

*********************
兄様、長い間御無沙汰致しました。
ますますご健康でお務めの事と思
います。私も毎日元気よく
通學しております。
三次もだんだん夏らしくなり
四方の山の色緑濃く、太田川の
水も美しくなりました。
大東亜戦争の決戦下で尾関
山の下のぼたん畠も黒田製
材所の所の新道路も増産
の爲、皆畠となって
やさいが靑々とで
来ております。
それから久留島さん
が尾道の方へ転居
されて、その後へ君田の太
田校長先生が十日市の青年學
校長としてこられて家がないの
でお父さんが心配して上げてこら
れる事になりました。
尾関山のかいこんに女學校からも
国民學校からも出動して畠としました。
中學生も出動しています。
敬兄さんも元気です。熱も上がらず、顔色
も良く御飯も大分たべられますし、だ
んだん快方へ向かわれておられます。
これも皆お母さんお父さんのおかげで
す。いつも兄さんと歌を一しょに
歌った事を思い出し、今頃は一人でさび
しくうたっています。お母さんも時々
一しょに歌われます。それから、私が
毎晩兄ちゃんのきらいであった床をし
くので、お母さんが猫よりはまし
だと言って笑われます。お父さんも
お母さんも元気ですから安心し
てお務めにはげんで下さい。
家の事は心配なく。
さようなら
三郎兄様  夏休みを待つ   ヨシコ
*********************

母芳子は小生が知っている限り、どちらかと云えば大人しい性格で過激な発言などとは無縁であった。
加えて当ブログ開始以降「多分に天然」であったことも判明しつつあり、小生の性格も母親からの遺伝だったことが明確になって来た昨今である。

今回投稿の手紙にしても「何か読みづらいなぁ?」と思ったら、ご丁寧に便箋にあしらわれている花模様を避けて書いている。
この「気が利きすぎて間が抜けている」的な思考回路もしっかり引継いでしまったらしい…

そんな芳子が「大東亜戦争の決戦下」などと云う”過激な”言葉を遣っていたのには少々驚いた。
おそらく当時は新聞やラジオなどで頻繁に喧伝されていたフレーズであり、特に過激ではなく「普通の」言葉だったのであろうと思うが…

その「大東亜戦争」と云う呼称だが、小生以降の世代にはあまり馴染みのないものであり専ら「太平洋戦争」と云う呼称の方が主流であったと思う。

「大東亜戦争」とは、開戦直後の昭和16年12月12日の閣議に於て決定された呼称である。
なぜ戦後「太平洋戦争」と云う呼称が主流になったのかに関しては様々な理由や考え方があると思うが、「大東亜戦争」と云う呼称はアジアの安定を謳った「大東亜共栄圏構想」を想起させ「日本がアジア諸国の独立運動の原動力となった」と云う事実が明確になってしまうため、これを隠蔽すべく連合国側が敢て「太平洋戦争」と云う呼称を主流にさせたのではないかと小生は考えている。

芳子の歌好きは以前の投稿でも書いたが、三郎も一緒に歌っていたのは初耳である。
小生にとっては「かなり怖い伯父さん」だったのだが…

「夏休みを待つ ヨシコ」とある。
8月生まれの芳子にとって誕生日もあり兄も帰省してくる夏休みはとても待ち遠しかったのであろう。

追伸
あの世の母上へ
×建康 → 〇健康
です。
愚息より

 

昭和19年5月25日 加治写真館さんからの返信 三郎の写真紛失??

 

今回の投稿はちょっと変わった内容である。

三郎が麻布の写真館で撮影した写真が届かず、葉書でその旨を写真館側へ連絡した事への返信である。

昭和19年5月25日 加治写真館さんからの葉書①
昭和19年5月25日 加治写真館さんからの葉書②

解読結果は以下の通り。

**********************
拝復 昨日お端書届どきましてびっくり
致しました。お写真着きません由、おくれ
ましたが五月十三日に発送致して着きました
ものと思って居ました。もう一度おしらべ下さい
まして、有りませんでしたら、お面倒様
でもお一報願います。早速おつくり
してお送り申上げます。
何かとお手数かけまして申し訳有
りません。            敬具
**********************

今日でも配達物の紛失は当然あるのだが、「追跡システム」などと云ったハイテクなど存在しない当時は紛失や誤配の確率は高かったのではないかと思う。(明確なエビデンスがないので個人的な感想として述べるにとどめる)
スマホやデジカメの無い当時の「写真の紛失」は今日のそれとは比較にならない程の「事件」であった筈であり、況や家族や友人から「早く送れ」と催促されていたであろう三郎にとっては「一大事」である。

しかしこの件に関する葉書はこれ一枚だけなので、この後の顛末は判らない。
見つかったのか、再度現像してもらったのか…
そしてこの時撮ったであろう三郎の「晴れの写真」も残念ながら小生の手許にはないのである。

それにしても「麻布の写真館」とは何ともハイソな感じであるが、実は康男や三郎がお世話になっていた芳一の知己のお宅が麻布にあったので自然と近くの写真館になったと思われる。

因みにググってみたところ加治写真館さんのあった「霞町電停前」は現在の六本木通りと外苑西通りの交差する西麻布交差点辺りなのだが、ストリートビューで見ると首都高高架下の駐車場にベントレーやロールスロイスが何台も停めてあるとんでもない場所のようである。

加治写真館さんのその後も少々気になるところではある…

昭和19年5月28日 三次中学校長先生からの葉書 難読…(-_-;) 

 

 

今回は約三ヶ月ぶりの三次中学N校長先生からの葉書。

前回に引続き小生にとっては難読なN校長先生の文書である。
短い内容であるが2~3か所悩んだ部分があった。

昭和19年5月28日 三次中学N校長先生からの葉書

解読結果は以下の通り。

***************
拝復 御葉書有難く拝誦仕り
愈々御健康賀し益
二十年度陸士志願者指導に
就ては極力方図を講じ居り
一人にても多く合格をと念願致し
居りに御声援難有く 敬具
***************

まず、「難有く」は「ありがたく」で正しいようで、当時は特に漢文の素養のある方がこの様な書き方をされていたらしい。
因みに
「相不変」→ 相変らず
「不悪」 → 悪しからず
なども同類のようである。

4行目の「方図」は正しいか否か自信がないが、他に適当な語彙を思いつかなかった。

最後の二文字もよく判らないが、「拝復」の結辞なので「敬具」としておいた。

前回の投稿の際にも感じた事だが、陸軍予科士官学校へ「一人でも多く合格者をと念願致し」とあるが、教え子達の将来を想う者として本当はとても辛かったのではないかと思う。

「一人でも多く生き延びてと念願致し」が本音だったであろう…

 

昭和19年5月30日 お待ち兼ねの寫眞が出来ました… 三郎から父芳一への手紙

 

前々回の投稿で麻布の写真館で撮影した三郎の写真が届いていない状況の投稿をしたが、今回はその写真が無事届き父芳一へ発送した際の手紙の投稿である。

実際には”紛失”であったのか”誤配送”であったのか定かではないが、加治写真館さんからの手紙が5月25日のものであり今回の手紙が5月30日と数日しか経過していない事から”誤配或いは遅配”であったと思われる。

昭和19年5月30日 三郎から芳一への手紙

**********************
お待ち兼ねの写真が出来ましたからお送
り致します。
其後元気でお勤めの事と思います。
私も其後元気で暮して居ます。
敬兄さんは其後お変りありませんか。大分
食欲も進まれる様になられたとの事、安心
致しました。
畠の野菜は生長しましたか。銀行の裏の豆
は大きくなりましたか。
芳子に宜しく伝えて下さい。体をこわさぬ様作業
する様に。           では又
**********************

同封されていた東京麻布の写真館で撮影されたその写真は小生の手許には残っておらず三郎の雄姿をご紹介できないのは大変残念である。

だからと云うと大変失礼であるが、康男、三郎の友人と思われる方々の雄姿が何枚かあったのでそちらを投稿させて頂く。

雄姿①
雄姿②
雄姿③
雄姿④
雄姿⑤
雄姿⑥

因みに今日12月8日は開戦の日である。
様々な考え方や見解はあるとは思うが、国家滅亡の危機に瀕して勇敢に戦って下さった先人に心より感謝したい…

 

昭和19年5月30日 父芳一から三郎への手紙 コストパフォーマンス?貧乏性?ケチ?…

 

今回の投稿は芳一から三郎への葉書。

相不変(「相も変わらず」当時の様に記してみた…)特に葉書の場合は極小文字で解読し辛い我が祖父の文字であり読む側にとっては結構な苦痛なのだが、今回も時候、家族の近況、ご近所の状況等々四方山話満載の一葉となっている。
まぁ、コストパフォーマンスが高いと云えば聞こえは良いが…(笑)

 

昭和19年5月30日 芳一から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

************************
三次も時下大分夏らしくなり、日中は相當暑くな
った。振武台にも同様夏が訪れた事と思う。もう夏衣裳だ
ろう。暑くなると訓練も相當なものだろう。血気にはやって
躰を損わぬ様充分注意せよ。人間の躰力にも大体程度
があるから、無理をすると敬兄さんの二の舞を演ずる事に
なる。兄さんも大分無理して居たので体が負けた訳だ。
それでも一ヶ月余りの静養で余程よくなって、大分肥った様に
思う。勿論熱もないし食べるのもよく食べる。康男兄さんから買って
貰った安臥読書器で毎日読書して居る。芳子も元気で通学
してる。お母さんも元気になった。近所にも変りない。久留島さんが
尾道に転宅され、後へ十日市青年学校長に就任した正君の親類の
太田章校長が転宅して来て賑やかになり、よいものをチョイチョイ
戴くよ。康男が二十八日に帰って二十九朝一番で又行った。六月一杯
は動かぬらしい。藤川は六月中に休職で帰るとかお父さんが
云って居た。■■さんから手紙で礼状が来た。二十一日に待たれたらしい。では
元気でやれ。十日市の小川新聞店のオジサン死んだよ。
************************

芳一はケチだったのか?
いや、ケチではなくモノを粗末にしない人だった。

チリ紙や爪楊枝は一度使ったくらいでは捨てずポケットに仕舞って何度か使っていた。
夏にスイカを食べた後は残った皮の部分を漬物にすると言って芳子(芳一の娘で小生の母)を面倒くさがらせていた。
食パンにカビが生えていても「その部分だけ取って焼いて食べれば大丈夫!」と芳子の制止を振り切ってムシャムシャ食べていた。
小生に「お茶碗にコメ一粒も残すな!」と躾けてくれたのも芳一だった。

とまあモノが溢れている現代の感覚からすれば「ケチ臭い」かも知れないが、生活必需品ですら貴重であった戦中~戦後を経験した芳一や同世代の人々にとっては当たり前の「勿体ない」であった。

そもそも日本人の感覚に於て「勿体ない」とは「物に対する畏敬の念や感謝」であり「損得勘定」よりも優先されるべきコンセプトの筈であるが、現代社会は利益を貪るあまり「勿体ない」を蔑ろにしているのが実態であろう。

「衣食足りて礼節を知る」と云うことわざがあるが、見た目の綺麗さや(過剰な?)清潔さを求めるあまり多くのモノが「粗末」にされている現在の状況を目の当たりにするにつけ「衣食足り過ぎて礼節を忘れる」と云うことわざも有りだなと感じる小生である…

 

昭和19年6月4日 母千代子からの手紙 父に負けじと四方山話満載…

 

今回は母千代子から三郎への手紙。

前々回投稿した三郎の写真が届いた事への返信であるが、話したいことは山ほどある様で便箋5枚に亘る”大作”となっている。

 

昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙④
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙⑤

解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

************************
昨日は写真を送って呉れましてうれしく
阿りました。元気でやっています由何よりです。
家の方には別に変りありません。兄様も日々快方
に向って居ります。毎日三階で電蓄をかけ
て楽しんで居ります。考えてみれば兄様は
早くから会社に出して、あまり元気でない躰を
無理したらしい。一ヶ年位は静養せねばいけ
ないでしょう。帰宅してよりは見(ち)がえる様に躰に
肉がついて気分もよろしい。何分玉子も充分
食べられるし、私が病気した時の様にはなく
いろいろの魚も沢山あるやら食べられる病人
なのでよろしい。芳子は又田植などに出る
らしい。四年生は呉へ、来年三月まで。
近日行くらしい。三中も出るらしい。恒内の
看護婦さんの子も三月まで出るとか。
陸士の学科試験が五月にあった。だいぶん行った
そうな。あまり沢山は最後まではのこらなん
だとか。くわしくはよく知りません。柳原君は
よかったらしい。まあ、それにしてみれば、お前
は幸福だったね。
今頃三次の銀行で、西部次長会議があっ
て十人ばかり集まられた。福山の阿部様
がお出になってのお話に、あの芳子と同じ
位の正さんは戸手実業に入学されたそうだ。
矢張り躰が思う様にないらしいが、
どうせ勉強も充分出来んから躰を作る
ために農業方面に入れて兄と農業
させた方がよろしいと申されている。
石黒さんもあまりよろしくないらしい。
病気してはほんとにつまらないよ。
板木の御祖母上様が次々と心配の多い事
ですよ。三原校長が塩町にある中央青年
学校長になられた、十日市、三次、河内、酒河
四ヶ町村立組合青年学校長に太田章
さんが校長で、今、久留島様のあとへ来た。
母さんも力(強?)よくなった。康男兄さんに嫁さん
を心配して居る。夏休みには兄さんも広
島へ居られればよろしいが、どうなる事やら。
三ヶ月召集で明五日に三次から十六人も
出られる。銀行の裏の豆はよく出来たよ。
早や二、三度食べました。お初はお前にも
上げましたよ。近頃外出しましたか。
東京も物が不自由な(の)でしょう。■■へ送りて
上げ度いが、どんな物がよろしいやらね。
どうか病気にかからん様に心がけなさいよ。
今日は久しぶりに三次は雨が降りました。
入梅になれば又、雨だ雨だというのでしょう。
持ち物に気をつけてカビを出さんようにね。
では元気でやってくれよ。
又様子します。          母より

※修さんに一枚写真をやりましたよ。
************************

父芳一は一葉の葉書に小さな文字で内容を詰め込んだが、母千代子は紙面を沢山使って内容を多くしている。

多分育った環境なのだと思うが、若い頃から苦労して婿養子になった芳一に比べ、千代子は結構裕福な家庭に育ったらしくあまり貧乏臭い感じがない。

芳子(小生の母)も小生4歳の時に亭主(無論小生の父である)を亡くしてからは貧乏生活の連続であったが、こちらも貧乏臭い感じを嫌っていた感がある。

小生が小学生の頃、自転車やおもちゃなど友達の間で流行ったものは当然欲しくなり母(芳子)にねだったものだが、全部では無いにしてもほとんどの場合は手に入れていた記憶がある。
子供が欲しがるものを無暗に与えることは決して褒められた行為ではないが、自分がそうであったように自分の子供達にも極力貧乏臭い思いをさせたくなかったのだと思う。

これまで芳子が貧乏臭さを嫌っていたのは父芳一に末娘として可愛がられていたためあまり苦労しなかった事が原因だと思っていたが、このブログを開始して以降「案外母千代子の生活スタイルが影響しているのかも…」と思い始めている。

かと言って、貧乏臭い部分が無かったのか?…と云うとそうでもない。
デパートの包装紙や紙袋は山の様に貯め込んでいたし、母(芳子)が亡くなった後に姉と実家の遺品整理をした際に我々兄弟の幼少時代の衣類が沢山出てきた時には
「捨てられんかったんかね~」
と泣き笑ったものである。

芳一の血もしっかりと受け継いでいたようではある…

昭和12年4月6日 芳子幼稚園入園記念 母千代子と