昭和19年9月2日 三郎 夏季休暇から帰校して十日余り…もうホームシック?

 

二週間の夏季休暇を頂き故郷三次での「命の洗濯」から十日余り。

「将校生徒 三郎」がホームシック?

 

昭和19年9月2日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年9月2日 三郎から芳一への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
前略 其後お変り有りませんか 大分家からの通信が
遠のいた様に感じますが と云ってもお別れしてから未だ十日余り
しか経って居らぬのですからね 敬兄さんは其後如何ですか
私が別れる時大分悪化された様でしたから何時も氣にかかっ
て居ります 二人しか居られぬ兄様ですからね
お母様は私が帰三した時も早や病氣前の如き躰になられ
て居られたのを見て非常に嬉しくありました
家は変って居ませんね
本日夜は(二日)中秋の名月で二ヶ中隊(私の中隊と前の中隊)
が合同して学校正門を入ると左手にあったでしょう 池が
その周りに坐って月を仰いで詩吟を吟じました 池の周りに
「かがり火」を燃いて月は眞円く何か物思わせるものが
ありました この手紙もこの詩吟会が終った直後に心に浮
ぶまゝを書いて居ります 本日は土曜日で随意自習ですから
それからこの手紙を書こうと思ったもう一つの因は本日より
馬術が始まりました 早速今日午後乗りました 私でも馬上の
勇姿颯爽たるものです 速足といってパカパカと普通に
歩くより速く人間で云う駈足をやりました の仲々尻の方が
落着きません
予科の地はもう朝晩涼しくなりました 武蔵野の秋
は早くあります 虫は今も盛に鳴いて居ります
中谷の写真は未だ出来ませんか 出来得れば我家(家・屋)の
写真・芳子・敬兄さん・康男兄さん・お父さん・お母さんの写真
(敬兄さんが写されたので良いですから)思い出の種となる様
なのをお願い致します 模型機のも良いです(写真帳ニアリ)
私が一人で(中学で)写った分は区隊長殿に一枚呈出しますからその積り
で送って下さい
十七日に第二期第一回の外出があります 相変らず■■様方
へ行く積りです 第二期は色々と行事があります
先づ二年生の卒業 一年生の入校 私達の野営演習
其の他 お正月もありますからね 今の所冬休暇は有りま
せんから では今日はこれまで
隙があったら御通信下さい
敬具

二伸
金は区隊長殿に三十五円預入 手許に二十円ばかりもってゐますが予備の爲■■様の方へお送り下さい
倉野さんにも会い色々話をしました 菅にも葉書を出すつもりです
それから家で作って持って来た糊は決して腐りませんからあの糊
の素があったら買っておいて下さい
***********************

9月2日の時点で「お別れしてから未だ十日余りしか経って居らぬ」とあるので、三郎の夏季休暇はおそらく8/9~8/22頃だったと思われる。

この夏季休暇をどのように過ごしたのか、家族でどんな話をしたのか、楽しかったのか、切なくなかったのか…等々知りたい事は沢山あるのだが、当然の事ながらこの間は家族間の通信はなく想像するしかない。
戦況は激化・悪化の一途を辿り、次の家族全員での再会が果たしてあるのか…すら判らない状況下での一家団欒であり将に「一期一会」であったのである。
少なくとも小生などの戦後世代の過ごした「夏休み帰省」とは一線を画すものであったことは間違いない。

「思い出の種となる様な」家族や我家の写真を送ってもらうことになっていたらしくその催促をしている。
次兄敬の病状も気掛かりであっただろうし、中秋の名月の下で感傷的になっていたことも手伝ってか、さすがの「将校生徒」もホームシックに陥ったのであろう…

まだ十代の青年である。さもあらん…

 

昭和19年10月11日 三郎から父芳一への手紙 畏まった候文の巻き手紙…理由は?

 

今回は三郎が芳一に宛てた手紙であるが、畏まった候文で認められた毛筆の巻き手紙である。

また、前回投稿の手紙から一ヶ月以上経過しているが、内容からするとその間に芳一或いは千代子からの通信はあった様子なのだが小生の手元には存在していない。

 

昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙②
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙③
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙④

解読結果は以下の通り。

***********************
御尊書難有く拝誦仕り候
其の後御壮健に御暮しとの事大いに安心仕り候
又種々御懇篤なる御教訓我が肝に
銘じて夢中にても忘却仕り申さず候
扨て當方は二年生の卒業を寸前
にひかえ又私達の浅間山麓に於ける
野営演習も近付き稍多忙の感有之
教授部学科等もさきて環境整理
を実施し居り候 氣候も去る四日間
連続の大雨により一転致しめっきり秋の
深きを思わせる如く相成り申し候
来る十五日外出致す予定に候へども
母上様の御丹精の物未到着の事
と思い候も野営終了後廿九日に
再び外出致す所存に候へば其時
にても良く候
本日頃康男兄様の所属決定致
すとの事 色々と期待仕り候
板木の伯父様の一週(周)忌有りたとの事 私は
遥かこの振武の地にて禮拝致し置き候内
悪しからず御承被下度候
三井田村先生よりの御報せにては合格者
は数名有れど海兵と両校突破致したもの
殆どにて本校に来ると思はるゝは一名のみ
にて稍落膽仕り候 尚柳原君は
海兵も駄目らしく候
三次の祭も近付きた事に候 去年の秋
はと思い候もこの予科の如き幸福なる
所は他になきものと今更乍ら考え候
区隊長殿へも手紙を出されるも可く候
河村曹長殿は全快され候も今は私の
区隊付にては無之候ど御通信せられるも
悪しからず候
末筆乍ら母上様 敬兄様 芳子殿
によろしく御鶴声の程御願申し上候
時節柄御身御大切の程御祈り
申し上候
頓首
三郎
父上様
***********************

内容の前に2~3難しい語彙があったのでググってみた。

・稍 :「やや」と読むらしい。
・鶴声:鶴が鳴くとその迫力で一瞬であたりが静まり返る事に因み権威ある人の言葉に例えた。
・頓首:頭を地面にすりつけるようにお辞儀すること。ぬかずくこと。中国の礼式に因む。

扨て、何故畏まった候文なのか?
はっきりした理由が判らないので想像してみた。

「種々御懇篤なる御教訓我が肝に銘じて夢中にても忘却仕り申さず候」とある。
おそらく父芳一からの手紙に「種々御懇篤なる御教訓」が書かれていたのであろう。
その有難い教えを戴いたことに対して感謝と敬意を示すための「畏まった候文」しかも「毛筆書きの巻き手紙」であったと思われる。

更には「本日頃康男兄様の所属決定致すとの事」ともあり、尊敬する兄康男の戦地へ出兵が決定する事への「祝意」と「武運長久祈念」を示したものでもあったかもしれない。

芳一が三郎に対して教訓を与えたのは、多分に康男の戦地出兵が決定する事が影響していたであろう。
いや、むしろ康男への教訓をそのまま三郎へも教えたのかも知れない。

小生など戦争を体験した事のない世代は「戦地へ赴く」を言う事実を軽く考えてしまいがちであるが、実際には本人は言うまでもなく家族・恋人・友人等の身近な人々にとっては「二度と逢えないかも知れない」という恐怖に押しつぶされんばかりの心境であった筈である。
芳一だけでなく「戦地へ赴く」身近な人を持った人々は「何とか生きて還って来て欲しい…」と教訓や祈りを必死で送ったのである。

 

昭和19年10月29日 三郎から芳一への手紙 仕送りへの感謝と外出予定の連絡

 

今回は三郎が芳一に宛てた葉書。
芳一の知己宅にお邪魔した10/29(日)に書いたと思われるのだが、なぜか消印は11月(何日かは判別できず)になっているので恐らく帰校後に書き翌日以降に投函したものと思われる。

 

昭和19年10月29日 三郎から芳一への手紙(宛名面)
昭和19年10月29日 三郎から芳一への手紙

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
拝復 御手紙有難く拝見仕りました。本廿九
日無事外出して帰って参りました。ご配慮の
品々一々味わいました。有難うございました。本日は
■■様は丁度御留守で故郷の方へ行かれて
居られ正午頃十日間の旅行を終えて帰
っ(て)来られました。そして種々お土産を頂き
満足して帰って参りました。厚く御礼申し上
げて下さい。次は十一月三日と十一月十二日と
です。以後は今の所不明です。では又。
***********************

前回の投稿もそうであったが今回の葉書もこの前に届いている筈の芳一からの(恐らく小包と一緒に届いたと思われる)手紙が小生の手元には残っていない。
ただ単に紛失しただけなのか或いは何かの事情があったのかは不明であるが、丁度この時期に長男康男(海軍船舶司令部暁部隊所属)の激戦地フィリピン出征が決定したことで家族全体に激震が走っており、その動揺が影響したのではないかと考えている。

次回以降の外出予定を「次は十一月三日と十一月十二日とです」と伝えているが、現在11/3は憲法記念日でありこれは1948年に制定された祝日であるから「それ以前は?」とググってみたところ戦前は明治天皇の誕生日に因み「明治節」と云う祝日であった。

今回の葉書は内容的には多くなくチョット物足りないので最近出てきた康男が撮ったと思われる軍隊訓練時の写真をアップしておく。

訓練の合間に①
訓練の合間に②
訓練の合間に③
訓練の合間に④

皆さん良いお顔をしていらっしゃる…

 

昭和19年11月2~3日 康男の比島出征を知った三郎から芳一への手紙 「何だか胸に込み上げて来る様な変な氣持ち」

 

今回は遂に康男の出征が決まったとの連絡を速達で受取った三郎が芳一へ宛てた手紙である。

心中複雑なものがあった状況が読み取れる。

昭和19年11月2~3日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年11月2~3日 三郎から芳一への手紙②
昭和19年11月2~3日 三郎から芳一への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
拝復 速達本日(二日)受取りました かねて思っ
ては居ましたが康男兄さん遂に出動との事
何だか胸に込み上げて来る様な変な氣持ちになりまし
た。これが感激と云うのでしょうか。それに行先が比島
との事 又々一層この感じが大です
兄さんも日本軍人です 将校です この三千年来
の歴史を有する日本帝國が國運を賭して戦ってゐる
大東亜戦争の其の最も大切なる比島に出陣され
るのです これ程の喜びは又と有りましょうか
お父さんもお母さんも敬兄さんも芳子ちゃんも皆
一緒に康男兄さん萬歳を唱えて下さい そうして喜ん
で下さい 康男兄さんもさぞ嬉喜として出て行かれた
事でしょう 私も十ヶ月の軍人生活のお蔭か少しはこんな
氣持がわかる様になった様な氣が致します
私は今 康男兄さんの寫眞を前にしてこの手紙を書い
て居ります 夏休暇に康男兄さんと一夜を明かしたのが
当分のお別れとなりましたね 兄さんの寫眞を見てゐるとあの
朗らかなる笑いが聞える様な氣がします だが兄さんも私も
互に皇国護持の大任を有する益良夫です 八紘為宇
の皇漢に殉ずるべき責務を有して居ります
軍人たるものは必ず一度は是の如き事があります 私とても
近き将来必ずあります この間兵科の志望がありました
私は船舶 航空 歩兵 戦車 通信 高射 工兵と書きまし
た 航空兵にやられるかも知れません まだ適性検査が
ありませんが何兵になっても国の爲です
一年生が二十九 丗 丗一の三日間に入校しまし
た 三中からは三人位です 丸住は海兵に行ったらしいです
次に康男兄さんの事が忙しくなくなったら文具類を送
って頂きたいのですが 先づ手簿(紙質の良いのがあればそれが可いのですが)
歯ブラシ 吸取紙若干 計紙(全計紙)等が欲しくあります
廿九日には■■様方に行き非常に御地走になりました(餅)
本日(三日){この手紙は両日に渡って書きましたから}も外出する予
定ですが 遥拝式があって少し遅くなります 次は十二日
です。これ(手紙)は■■様方より出しますからあまり大ぴらにせられ
ぬ様にお願い致します
忘れて居ましたが廿九日にはちゃんと小包は着いてゐました
異常なく故郷の香髙かく頂きました 有難うございました
本日(三日)は珍らしく雨天です 明治節に雨の事は少ないです
ね それから顧みれば今日私の合格発表があったのですね
思い出すと何か因縁の様です あの日は快晴でしたね
迂頂点になったのですね お母さんにも申し上げて下さい
あれから一年になります 早いものです
では要用のみ 敬兄さん 芳子に体に氣を付ける様
お傳え下さい            敬具
***********************

「康男出征日決定 フィリピン島」旨の速達が届いたのであろう。
既にフィリピン島には米軍が上陸し激しい戦闘(と云うよりは圧倒的不利な状況下で壊滅的な打撃を受ける日本軍)が行われており将校生徒たる三郎もその状況はある程度知っていたと思われ、覚悟はできていたであろう…が
「何だか胸に込み上げて来る様な変な氣持ち」
と云うのが正直な感情だったと思う。

当時、康男や三郎など軍人にとっての「お国の爲」とは「八紘為宇の皇漢に殉ずる」と云うことであった。
「身を挺して国を、家族を護る」ことが使命だったのである。

「これが感激と云うのでしょうか」
「これ程の喜びは又と有りましょうか」
「皆一緒に康男兄さん萬歳を唱えて下さい そうして喜んで下さい 康男兄さんもさぞ嬉喜として出て行かれた事でしょう」
これらの言葉は三郎の本心では無かったであろう。いやむしろ逆であったと思う。
戦争と云う狂気が「悲しみ」を「喜び」に書き換えさせているとしか思えないのは小生が戦争を知らない世代だからであろうか…

祖父芳一も、伯父三郎も、母芳子もこの当時の家族や康男の様子を話してくれた事はないので想像でしかないが、
本人も家族も皆「本当に悲しく苦しかった筈だ!」としか思えない小生である…

康男 昭和19年頃 撮影日不明

 

昭和19年11月23日 「新嘗祭」⇒「勤労感謝の日」なのに…午後四時から徹夜の教練…

 

今回の投稿は「新嘗祭」の祭日に書かれた手紙。

祭日ではあるのだが「午後四時から明朝迄徹夜の教練」とある。
戦況は悪化の一途を辿り国家の危機であることを考えれば当然なのだが、現代の「平和ボケ世代」からすればつくづく大変な時代であったと実感する小生である…

昭和19年11月23日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年11月23日 三郎から芳一への手紙②

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓 其の後お変りは有りませんか。私は至極元氣に毎日々々を
送って居りますから御安心下さい。本日は新嘗祭で中隊にて休養して居
りますから近況をお報せ致します。所で今日は午後四時から明朝迄徹夜
の教練があります。仲々行軍距離も長く激しい方です。試みに課目をお知ら
せ致しますと「夜間神速ナル機動ヲ以テ所望ノ地点ニ進出シ敵ヲ急襲スル
要領」と言うのです。だが浅間山の教練を思えば何でもありません。まだまだ
東京は暖かですから。何といっても浅間は(あの時は十月の半ばでした)氷がはる、霜柱
が一寸五分位もちあげる程です。そうして雨がよく降り又浅間が一大轟音と共に煙を
吹き上げそれが雨と一しょにびしょびしょと降って冷たいのに加えて気持の悪かった事は
筆紙に云いつくせません。ある晩などは浅間が眞赤な溶岩をふいて山の頂上を
ながれてゐるのを見ました。 仲々雄大です。そう云う経験がありますから大丈夫です。
ここで一大悲報をお傳えせねばならぬ私の心をお察し下さい。それは私達の
最も敬愛する前田区隊長殿が転出されました。入校以来十ケ月、私を
かくまで育てて下さった区隊長殿と別れるのは実に断腸の思(い)です。だがしかし
区隊長殿は近くの航空士に行かれるのですからせめての喜です。
昨夜はお別れの会を開いて皆泣きました。実に残念です。皆と「こんな良い区
隊長殿は他に居られない」と云って居ります。が大命です。止むを得ません。
次の区隊長殿は第十区隊の陸軍大尉岡田生駒区隊長殿が二ケ区隊を持たれる
事になり私達の新区隊長殿になられました。岡田区隊長殿は私達も同じ
中隊の区隊長殿として入校以来よく知っていますから安心です。
次に、この間行われた航空の適性検査について、この検査は航空の方の人が
来られて実に綿密に行われました。精神機能、内科、眼科、耳鼻科等々
各科に軍医殿が精密に検査されます。私は耳鼻科以外は全部甲(甲が
最上です)で喜んでゐたのですが、最後に耳鼻にて肥厚性鼻炎自覚症とい
うことになって乙になりました。中耳炎の方は全然異常なし、聞く方も人一倍
よく聞えました。私の鼻はなおさねば不可ませんか。効能百%で手数のいらぬ
薬があれば…。私の体はこれ程精密にやっていただいたのですから自信がつきま
した。又お父さんお母さんに感謝してゐます。それでまた兵種志望があるのですが、航空は何ともわか
りませんが私は船舶兵も好いと思ってゐます。志望通りに行くかどうか
あれでも航空兵になるかも知れません。
小包は異常なく当着。非常に嬉しくありました。康男兄さんの折襟の
服を着て屋上で寫ったのは何時頃ですか。仲々立ぱですね。私も早く
将校になりたいです。それから日本刀の件は身に余りますね。実(本?)当に早く見たい
ものです。それから、お隣りの森島の国民学校の四年生の陽子様より
慰問文を頂きました。お禮を云って下さい。
では益々寒くなりますからお躰を大切に。
この手紙は二十三日に大部分書いて二十五日に出します。
次の外出日は未だ不明。十二月の三日頃かとも思ってゐますが分かりま
せん。分かり次第直ちにお報せ致します。
***********************

三郎の夏季休暇(8月10~22日頃)以降はそれまでに比べると小生の手元に残っている手紙・葉書が少なくなっている。
実際に少なかったのか或いは単に手元に残っているものが少ないのかは定かではないが、6月のサイパン陥落による絶対防空圏崩壊~本土空襲開始などによる戦況の悪化で国民生活への影響が大きくなったことも原因しているのであろう。
実際に三原家に於ても長男康男が激戦のフィリピン島へ出陣しており、父芳一以下家族の心労は大変なもので手紙どころではない部分もあったと想像される。(ただこれは三原家に限ったことではなく日本全体の多くの家族で勃発していた状況であるが…)

今回投稿の三郎が芳一に宛てた手紙も二十日ぶりのものである。
そのせいもあってか一枚の便箋の表裏に”びっしり”と書き込んだ感がある。
内容も徹夜教練の話に始まり前田区隊長転出~航空適性検査~届いた小包の事等色々と書かれている。
特に航空適性検査の件では花形である航空兵になりたい気持ちと、より危険度が髙い(と思っていたであろう)航空兵に敢てなるよりは船舶兵でも…と云った気持ちとが相半ばする心情が表れている。

現代の我々からすれば「できるだけ安全な部署へ…」と考えるのがまっとうだと思うが、当時(特に軍人)は「国家、家族、子孫そして何よりも自信の名誉を守護る」と考えるのが当然であった。
その精神発露の最たるものが「神風特別攻撃隊」いわゆる「特攻隊」であろう。
小生は「自らの命を国家、家族、子孫そして何よりも自信の名誉を守護る爲に捧げた」特攻隊員は間違いなく「英雄」と考えるが、一部からは「犬死」「無駄死」等の中傷もあるが日本人として許されない暴言である。

ただその「暴言」も「英雄」に先立たれた御母堂様だけには許されるのかなぁ…と考えてしまう小生である…

 

「素養検査ニ関スル筆記」vol.1

 

小生の手許には三郎が記した「素養検査ニ関スル筆記」なるノート(メモと言った方がよいかも…)が遺っているのだが、これは陸軍予科士官学校の各教練に於ける種々の動作や行動のマニュアル或いは理論説明の様なものである。
今回以降数回に亘ってこの内容を投稿してゆく。

 

素養検査ニ関スル筆記 表紙
素養検査ニ関スル筆記 通則1
素養検査ニ関スル筆記 通則2

解読結果は以下の通り。

***********************
     各個教練(基本)
通則
一、各個教練ノ目的ハ諸制式及諸法則ニ習熟シ
  部隊教練ノ確乎タル基礎ヲ作り併セテ軍隊
  教育トノ連携ヲ特ニ密接ニスルニ在リ
二、本教育ヲ通ジ特ニ服従心 堅忍持久 闊達敢為
  規律節制等ノ諸徳ヲ涵養スベシ
三、各個教練ニ於テ生ジタル固癖ハ常ニ固著シテ之ヲ
  矯正スルコト難ク其ノ不備ハ部隊教練ニ於テ之
  ヲ補ウコトモ亦難シ 故ニ周密厳格ニ之ヲ行ウ
  ト共ニ教練ト連撃(繋?)スル体操ノ利用ニ留意シ以
  テ動作ノ正確ヲ期スルコト緊要ナリ
四、教練実施ノ要ハ巧妙ニアラズシテ熟練ニ在リ
  而シテ熟練ハ方法ノ適切ナルト復習ヲ厭ハザ
  ルトニ依リテ得ラルルモノナリ 故ニ各個教練ハ各
  学年ヲ通ジテ絶エズ之ヲ行ウヲ必要トス
***********************

ご覧頂いてお分かりの通り、内容的には左程難しいことが書いてあるわけではない。
しかしながら個々の教練内容に関して目的や具体的な方法が示されているのは(特に)短期間で体得せねばならなかった将校生徒たちにとっては重要かつ有難かったのではないかと思う。

当時の日本軍は「やる気と能力のある奴だけが残る」世界ではなく、「短期間で大量のやる気と能力のある奴を一人前の将校に育成することが絶対」とされていたのである。

因みにこのメモ帳はA5サイズのノートを上下半分に切って使っている。
愈々物資不足も深刻化していた様である…
 

「素養検査ニ関スル筆記」vol.2

 

今回は「素養検査ニ関スル筆記」の第二弾で「徒手」の章である。

内容とは直接関係ないが漢字や語彙に於て現代では殆ど見かけなくなった表現が散見されたので、それらについてもググってみた。

 

素養検査ニ関スル筆記 徒手1
素養検査ニ関スル筆記 徒手2
素養検査ニ関スル筆記 徒手3
素養検査ニ関スル筆記 徒手4
素養検査ニ関スル筆記 徒手5
素養検査ニ関スル筆記 徒手6
素養検査ニ関スル筆記 徒手7
素養検査ニ関スル筆記 徒手8
素養検査ニ関スル筆記 徒手9

解読結果は以下の通り。

***********************
第一章 徒手
一、不動ノ姿勢
[要旨]不動ノ姿勢ハ教練基本ノ姿勢ナリ
    故ニ常ニ精神内ニ充溢シ外厳肅端正ナラザル
    ベカラズ
[號令]気ヲ著ケ
[要領](イ)両眼ハ正シク開キ前方ヲ直視ス
    (ロ)両肩ヲ稍々後ロニ引キ一様ニ下ゲ (ハ)両膝ハ
     凝ラズシテ伸バス (ニ)両踵ヲ一線上ニ揃エテ
     之ヲ著ケ両足ハ約六十度ニ開キテ齊シク
     外ニ向ク (ホ)掌ヲ股ニ接シ指ハ軽ク伸バシテ
     竝ベ中指ヲ概ネ袴ノ縫目ニ當ツ (ヘ)両臂
     ハ自然ニ垂ル (ト)上體ハ正シク腰ノ上ニ落着
     ケ背ヲ伸バシ且少シク前ニ傾ク (チ)口ヲ閉ヅ
    (リ)頸及頭ヲ真直ニ保ツ

二、休憩
[號令]休メ
[要領]先ヅ左足ヲ出シ爾後片足ヲ舊ノ所ニ
    置キ其ノ場ニ立チテ休憩ス 休憩中ト雖モ
    許可ナク話スコトヲ禁ズ

三、右(左)向 半右(左)向 後向
1.右(左)向
[號令]右(左)向ケ右(左)
2.半右(左)向
[號令]半(ナカバ)右(左)向ケ右(左)
[要領]イ、左足尖ト右足トヲ少シク上ゲ
    ロ、左踵ニテ九十度或ハ四十五度右(左)
      ニ向キ
    ハ、右踵ヲ左踵ニ著ケテ同線上ニ揃ウ
3.後向
[號令]廻ワレ右
[要領]イ、右足ヲ其ノ方向ニ引キ足尖ヲ僅
      カニ左踵ヨリ離シ
    ロ、両足尖ヲ少シク上ゲ
    ハ、両踵ニテ後ロニ廻ワリ
    ニ、右踵ヲ左踵ニ引著ク

四、行進
[要旨]行進ハ勇往邁進ノ気概アルヲ要ス
1.速歩行進
[號令]前ヘ進メ
[要領]速度ハ一分間ニ百十四歩ヲ基準ト
    ス 頭ヲ真直グニ保チ口ヲ閉ジ両臂ヲ自
    然ニ振ル 両眼ハ正シク開キ前方ヲ直
    視ス
1.左股ヲ少シク上ゲ脚ヲ前ニ出シ
2.左脚ヲ伸バシツツ蹈著ケ同時ニ概ネ膕ヲ
  伸バシ体ノ重ミヲ之ニ移ス
3.左足ヲ蹈著クルト同時ニ右足ヲ地ヨリ離シ
  左脚ニ就テ示セル如ク右脚ヲ前ニ出シテ
  蹈著ケ行進ヲ續ク
2.停止
[號令]分隊止レ
[要領]後ロノ足ヲ一歩前ニ蹈出シ次ノ足ヲ
引キ著ケテ止ル
3.行進間ノ右(左)向
[號令]右(左)向ケ前ヘ進メ
[要領]イ、左(右)足尖ヲ内ニシテ約半歩前ニ蹈著ケ
    ロ、体ヲ右(左)方ニ向ケ
    ハ、右(左)足ヨリ新方向ニ行進ス
4.行進間ノ後向
[號令]廻レ右前ヘ進メ
[要領]イ、左足尖ヲ内ニシテ約半歩前ニ蹈著ケ
    ロ、両足尖ニテ後ロニ廻ワリ
    ハ、續イテ行進ス
5.歩調止メ
[號令]歩調止メ
[要領]正規ノ歩法ニ依ルコトナク速歩ノ歩長
    ト速度トニテ行進ス
6.歩調取レ
[號令]歩調取レ
[要領]正規ノ歩法ヲ取ル
7.駈歩行進
[號令]駈歩進メ
[要領]速度ハ一分間ニ約百七十歩トス
1.「駈歩」ノ豫令ニテ不動ノ姿勢ノ儘右
  手ヲ握リ腰ノ髙サニ上ゲ肘ヲ後ロニスルト
  共ニ左手ニテ剣室ヲ握ル(剣ヲ帯ビタル場
  合)
2.「進メ」ノ動令ニテ両脚ヲ少シク屈メテ左股ヲ
  僅カニ上ゲ
3.右足ヨリ約八十五糎ノ所ニ蹈著ケ次ニ左脚
  ト同法ヲ以テ右脚ヲ前ニ出シ
4.常ニ体ノ重シヲ蹈著ケタル足ニ移シ続イテ
  行進ス
8.駈歩ヨリ停止
[號令]分隊止レ
[要領]二歩行進シ後ロノ足ヲ一歩前ニ
    蹈出シ次ノ足ヲ引著ケテ止リ剣室放
    ツト共ニ右手ヲ下ロス
9.駈歩ヨリ速歩
[號令]速歩進メ
[要領]二歩行進シタル後速歩ニ移リ剣室
    ヲ放ツト共ニ右手ヲ下ロシ續イテ行進ス
10.駈歩間ノ諸動作
[要領]駈歩間ノ諸動作ハ速歩行進間ニ於
    ケル要領ニ準ズ 但シ速歩ニ於ケルヨリモ二歩
    多ク行進シタル後動作ス
***********************

飽くまで機械的な説明なのだが、[行進]の部分に「勇往邁進ノ気概アルヲ要ス」とあるのが面白い。現代であれば「元気いっぱいに」のような感じであろう。

語彙としては
・徒手 :手に何も持っていないこと。(第二章に[小銃]があるのでそれとの対比であろう)
・稍々 :「やや」
・齊シク:「ひとしく」 齊には、そろう・ひとしい・平ら・揃える等の意味がある。
・股  :「もも」 どちらかというと「また」の方が主のような漢字であるがここに於ては「もも」である。
・速歩 :「はやあし」
・駈歩 :「かけあし」
注)「剣室」の”室”は本来”革ヘンに室”と云う字なのだが、当該フォントに存在しないため”室”とした。

速歩の要領が「速度ハ一分間ニ百十四歩ヲ基準トス」、駈歩は「速度ハ一分間ニ約百七十歩トス」と結構細かいのにも驚いた。そのくらい全体が細かく統率されていないと軍隊としての力が十分に発揮できないと云う事なのかもしれない。

 

「素養検査ニ関スル筆記」vol.3

 

今回は「第二章 小銃」なのだが、ちょっと長編過ぎるので半分で区切る事とした。

語彙に関しても小銃に関する専門用語が多く、結構知らないものや難しいものがあったのでググった内容を記しておいた。

 

素養検査ニ関スル筆記 小銃①
素養検査ニ関スル筆記 小銃②
素養検査ニ関スル筆記 小銃③
素養検査ニ関スル筆記 小銃④
素養検査ニ関スル筆記 小銃⑤
素養検査ニ関スル筆記 小銃⑥
素養検査ニ関スル筆記 小銃⑦
素養検査ニ関スル筆記 小銃⑧
素養検査ニ関スル筆記 小銃⑨

解読結果は以下の通り。

***********************
第二章 小銃
第一節 基本
一、 不動ノ姿勢
[號令]気ヲ著ケ
[要領]1.銃ヲ握ルニハ腕関節ヲ稍々前
      ニ出シ 銃身ヲ拇指ト食指トノ間ニ置キ
      他ノ指ハ食指ト共ニ閉ヂ軽ク屈メテ銃床
      ニ添ウ
    2.銃口ハ右臂ヨリ約十糎離シ銃身ヲ後
      ロニシ
    3.床尾踵ヲ右足尖ノ傍ニ置キ銃身
      ヲ概ネ垂直ニ保ツ

二、 休憩
[號令]休メ
[要領]徒手ニ同ジ 此ノ際照星ヲ擦
    ラザル如ク銃ヲ保ツ

三、 右(左)向 半右(左)向 後向
[號令]徒手ニ同ジ
[要領]徒手ニ同ジ 但シ右手ニテ銃ヲ少シク
    上ゲ腰ニ支エ動作終レバ銃ヲ静カニ下ロス

四、 擔銃・立銃
1.擔銃
[號令]擔エ銃(ニナエツツ)
[要領]1.右手ニテ銃ヲ上ゲ銃身ヲ概ネ右ニ
      且垂直ニシテ拳ヲ略〃肩ノ髙サニスル
      ト同時ニ
    2.左手ニテ照尺ノ下ヲ握リ
    3.銃身ヲ半バ前ニ向ケ
    4.銃ヲ少シク上グルト同時ニ
    5.右臂ヲ伸バシテ食指ト中指トノ
      間ニ床尾踵ヲ置ク如ク床尾ヲ握
      リ
    6.銃ヲ右肩ニ擔イ銃身ヲ上ニスルト同
      時ニ左手ヲ遊底ノ上ニ置キ右上膞
      ヲ軽ク体ニ接シ
    7.床尾ノ環ヲ体ヨリ約十糎離シ
    8.銃ヲ上衣ノ釦ノ線ニ平行セシメ
    9.槓桿ノ髙サヲ概ネ第一第二釦ノ
      中央ニシ
   10.左手ヲ下ロス
2.立銃
[號令]立テ銃
[要領]1.右臂ヲ伸バシテ銃ヲ下ゲ銃
      身ヲ半バ右ニ向ケ且概ネ垂直ニ
      スルト同時ニ左手ニテ照尺ノ下ヲ
      握リ
    2.銃ヲ少シク下ゲ銃身ヲ右ニスルト同
      時ニ右手ニテ木被ノ所ヲ握リ其ノ拳
      ヲ略〃肩ノ髙サニシ
    3.銃身ヲ後ロニシ之ヲ下ゲ腰ニ支エ同
      時ニ左手ヲ下ロシ
    4.銃ヲ静カニ地ニ著ク

五、 行進
1. 速歩行進
[號令]前ヘ進メ
[要領]イ.豫令ニテ擔銃ヲ為シ動令ニテ
      行進ヲ起スモノトス
    ロ.銃ヲ擔ウコトナク行進スルニハ 右
      手ニテ銃ヲ少シク上ゲ腰ニ支ウ
2. 駈歩行進
[號令]駈歩進メ
[要領]豫令ニテ擔銃ヲ為シ剣室
    ヲ握リ 動令ニテ行進ヲ起スモ
    ノトス 銃ヲ擔ウコトナク駈歩
    スル場合ニ於テハ速歩ノ要領
    ニ準ズ 但シ豫令ニテ剣室ヲ握ルモノトス
3. 停止
[號令]分隊止レ
[要領]「止レ」ノ動令ニテ停止シ立銃ヲ為
    ス 銃ヲ擔ウコトナク行進シタルトキ
    「止レ」ノ動令ニテ停止セバ直チニ不
    動ノ姿勢ヲ取ルモノトス

六、 著剣 脱剣
1. 著剣
[號令]著ケ剣
[要領]1.不動ノ姿勢ニ在ルトキハ 右手
      ニテ小銃ヲ左ニ傾ケ銃身
      ヲ少シク右ニ
    2.銃口ヲ概ネ体ノ中央前ニシ
    3.左手ニテ柄ヲ逆ニ握リテ
    4.銃剣ヲ抜キ注目シテ確実ニ銃
      口ノ所ニ著ケ
    5.両手ニテ銃ヲ起シ不動ノ姿勢ニ
      復ス
2. 脱剣
[號令]脱レ剣
[要領]1.不動ノ姿勢ニ在ルトキハ 右
      手ニテ小銃ヲ左ニ傾ケ注
      目シテ左手ニテ銃剣ノ柄
      ヲ握リ
    2.右手ヲ上ゲ拇指ニテ駐子ヲ押シ左手ニ
      テ銃剣ヲ脱シ
    3.之ヲ右ノ方ニ倒シテ剣尖ヲ下ニシ
    4.右手ノ食指 中指ト拇指トニテ刃ヲ
      挟ミ持チ他ノ指ニテ銃ヲ保チ
    5.左手ヲ翻シテ柄ヲ握リ銃剣ヲ室
      ニ納メ左手ニテ右手ノ下ヲ握リ
    6.右手ヲ下ゲテ木被ノ所ヲ握リ両手ニテ
      銃ヲ起シ不動ノ姿勢ニ復ス

***********************

・拇指:親指。「拇」だけでも”オヤユビ”と読む。
・食指:人差し指。
・床尾:小銃などの銃床の末端部で、射撃のとき肩に当てる部分。
・床尾踵:床尾の角の部分。
・照星:銃身の先端にある突起状の照準装置。照尺と合わせて用いる。
・照尺:銃身の手前の方に取り付ける照準装置。照星と合わせて用いる。
・遊底:後装銃で弾薬を詰めるために,銃身の後尾を開閉する装置。
・上膞:上腕のこと。
・槓桿:”コウカン”と読む。銃の遊底 (ゆうてい) を操作するための握り。
・木被:銃床(銃やクロスボウの照準を安定させ発射時の反動を抑えるために肩に当てる部品)の木製部分
・略〃:ほぼ、だいたい。
・駐子:留ボタンの事か?

 

昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙 母へは本音で甘えられる?…

さて、今回の投稿に入る前に、前々回の投稿まで3回程続けていた「素養検査二関スル筆記」シリーズに関してであるが以下の理由に因りダラダラと投稿する必要も無いと考え中断したのでご了承頂きたい。
・内容的に多少単調になりすぎてしまった感がある
・原典と思われる「歩兵操典」なるものが以下サイトにある事を発見

歩兵操典
http://www.warbirds.jp/sudo/infantry/souten_index.htm

 

…で、今回の投稿は昭和19年年末に三郎が母に宛てた手紙である。
父芳一へ宛てる時とは異なり本音を出しながら少々甘えている様子が伺える。
「我は将校生徒なり!」とは云ってもまだまだ17歳の青年である。

昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙①
昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙②
昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙③
昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
取急ぎて手紙を書きます。これは請願休暇(一週間一月五日夕食時限迄)で岡山縣の久世町に帰省
するものに(兼先一郎君)頼んで出して頂きますから學校の方へは内緒です。
正月には二日間(一日と三日、三十一日と二日と云う具合に)外出があり、又
一月の五日か八日に外出が一度ある予定です。正月には■■様方へ
行くのですが、もち米・小豆等が無い様です。この間の外出にはなけなしの砂糖で
ぜんざいをして下さって非常に嬉しくありました。この分では正月にも餅
はあまり食べられませんと思います。ほし柿等も絶対という程ありません。
かち栗等も良いです。この間等は九州の方のものですが餅を四角に切って
本の様なかたちにして學校へ送ってもらって外出の際持って出た
ものもあります。書籍・文房具等としてです。案外、學校等へ送ら
れるのは途中も安全ではないのでしょうか。
近頃は非常に家の事を思い出して居ます。こんな事では不可ないと思うので
すが皆外泊したりするとつい思います。思う様に行かぬ事もあったりすると。
學校では腹がすいた等は云えませんからね。甘い物もあまり(ほとんど)なく、つまらないと
思う事があります。外出すれば■■様で大分頂けますから唯一の楽です。
(菓子類は全然ありません。東京は)
腹巻(なるべく毛)が欲しいのですが。寒い時には良いですから。今頃は夜寒くて
毎晩かならず便所に一回起きるのですが、猛烈、嫌です。又便所が
非常に近くなって困ります。まるで老人の様です。
時計の「ケース」が欲しいのですが、防水だけではやはり直グ「ガラス」が割れて
もう二度こわしました。が■■様の隣の時計屋でなおして頂きました。
家に多分有ったと思いましたが[ケースのイラスト画]の様な格好のケースです。私の時計
の大きさを書きますと

[時計の実際のサイズ画]この位です。少し大きいですから無いかもしれませんが
懐中時計用でも良いです。

航空兵になると一月と三月頃に二度に卒業する予定です。
地上は七月か八月ですが。まだ兵科は発表になりませんが
七割位は行く様です。航空に行けば多分
休暇があると思いますが。私は船舶兵(地上)となって宇品に行き
たいのです。船舶兵の教育は宇品であります。倉野さんは
船舶で宇品に行って居られる筈ですが、一度宇品から手紙が来ました。
念の為、三月迄の外出予定日を書きますと
1月は五日、八日のどちらか一日(年始は外いて)二月十一日、三月は十一日です。
近頃敵機がひんぱんと帝都に来ますが、學校には爆弾は一つも落ち
ませんから安心して下さい。余り狙って居ない様です。
区隊長殿が変られてからはあまりおもしろくない様です。前田区隊長殿
は実は航空士官学校に行かれたのです。いつも前田区隊長殿の事を
思い出して居ます。実に良い区隊長殿でした。
康男兄さんからは其後通信ありませんか。康男兄さんの寫眞をいつも眺めて
居ます。芳子の女学生姿の寫眞等も欲しいです。
お正月には家内一同で寫って下さい。私も正月には寫したいと思ってゐます。
敬兄さんの徴兵はどんなですか。あまり無理は考えものですから。
では急いで乱筆お許し下さい。
十二月二十八日  夜

表書は■■様方としておきます。速達で出します。
それからこの間学校で皆行社の「さる又」、お父さんのはかれる様なやわらかい
茶色なメリヤスのものを買ったのですがどうしましょうか。送りましょうか、
もって居ましょうか。■■様に差上げましょうか。質は良いと思います。
軍足のやぶれたぼろぼろがあれば送って下さい。学校では新しいのと換えて
呉れますから。
風邪薬、腹薬、キヅ薬等少々お送り下さい。

(ここからは恐らく千代子がメモしたと思われる)
シモ焼薬 腹薬 キヅ薬 トケイノケース
干柿 菓子 餅 カチ栗
***********************

三郎は正月の休みには何時もお世話になっている芳一の知己宅へ伺う予定なのだが、世の中(特に東京)の食料不足は深刻で御馳走はおろか甘い物一つ食べられなさそうな状況に母親に縋らざるを得なかった様である。

勿論学校には知られたくない内容(女々しい?卑しい?)が含まれていると思っており、更には(どさくさ紛れなのか)前区隊長を懐かしみつつ暗に現区隊長を批判する様な事も書いた上で
「これは請願休暇(一週間一月五日夕食時限迄)で岡山縣の久世町に帰省するものに(兼先一郎君)頼んで出して頂きますから學校の方へは内緒です。」
とある。(笑)
実際に封筒の消印は”19.12.31”と兼先さんが岡山へ帰省したと思われる日付になっており、翌元旦に千代子の元へ届いている。

食料の他にも腹巻や本来は学校に常備されているべき薬類も送って欲しいと書いている。
陸軍予科士官学校に於てさえこの様な状況であったのだから一般市民レベルでの物資不足は相当深刻だった事が想像できる。

「康男兄さんからは其後通信ありませんか。康男兄さんの寫眞をいつも眺めて居ます。」
11月9日にフィリピン島へ出征した長男康男の消息が一ヶ月以上途絶えているのである…

 

昭和20年1月1日 三郎から父芳一への巻き手紙 謹賀新年 聖戦第五年目も勝利に明け…

今回は三郎が父芳一に宛てた巻き手紙。

昭和二十年の年賀の挨拶として巻き手紙の形で認められている。

陸軍予科士官学校として生徒全員がこの様な”年賀状”を認めたのか三郎が個人的に認めたのか定かではないが、最後の辺りに「候文不出来の所御訂正をお願い致します」とあるのをみると、どうやら慣れない候文の訓練等で生徒全員が認めたのではないかと思われる。

昭和二十年元旦 三郎から芳一への巻き手紙①
昭和二十年元旦 三郎から芳一への巻き手紙②
昭和二十年元旦 三郎から芳一への巻き手紙③
昭和二十年元旦 三郎から芳一への巻き手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
謹賀新年
聖戦第五年目も勝利に明け我等
は皇國の彌榮を冒頭に祈願致し候
将校生徒として否醜の御楯としての最
初の新春に候へば何となしに意義深き
印象に残るものを感じ居り候も時局は
非常を超え驕敵米鬼は我が神州
を覬覦し止まざる状態に候へば冬期休暇
も僅かに東京付近に直系尊族の住
居し居る者 大阪等々相当遠距離なるも右記人
上京せる場合は許可せられ候
のみに三泊四日間を與へられし程に候間
歸郷御尊顔を拝する事叶はず候
我が家に居らる四人にて楽しく御過し
被遊る事御拝察申上候
私も外出致さば■■様方に御厄介を
御掛け申す心算に候へば
父上よりも宜しく御礼申上被下度候
如是謂ひ居る際にも康男兄様は
南方決戦場比島に於て晝夜を別
たぬ激戦を續行されつつあるやも不知所候
我身の幸福を不可忘却一刻も早く
一人前と可成く努めざる不可所御座候
昨年の此頃は御母上は病床に在られ候も
康男兄様時々歸宅され敬兄様私
等も居り家内打揃ひし事にても本年は
左様に之無く淋しき事とても
母上壮健にあらせられ敬兄様も殆ど全快
されし由私達二人の不在をも補ひて餘り
ある事に存じ上候
一生の問題たる兵科も私事にして只〃
命のまヽ區隊長海老澤英夫大尉殿
にお任せ致し居り候 為念区隊長殿
の御芳名を記し置き候間
御誤り無之き様御願申上候
十二月廿一日出の御芳翰本廿五日受
取り年賀と共に以上書述候
嚴寒の砌り尚〃御躰に御配慮
の程遙かに振武臺上より御祈り
申し上候
敬具
昭和二十年元旦
三郎
父上様

追伸
日附けには廿年と書きましたが十二月廿五日に認めました
小包東京に送られずば書籍・文房具として學校
にお送り下さるゝもよくあります(■■様へ送られずば)
候文不出来の所御訂正をお願い致します

敬兄様
余り動ず元の立派なる躰に一日も早く
なって下さい 風邪は絶對引かざる様
御注意下さい

芳子殿
作業等に負けずしっかり勉強して
この立派な成績を落さない様に
くれぐれも躰に氣をつけて
***********************

あまり馴染みのない語彙があったのでググってみた。

・彌榮:いやさか、いやさかえ、やさかえ、やさか、やえい と複数の読みがある。主に「一層栄える」という意味。「万歳」に意味が近く、めでたい意味でも使われる。
・醜の御楯:しこのみたて。天皇の楯となって外敵を防ぐ者。武人が自分を卑下していう語。「今日よりは顧みなくて大皇(おおきみ)の 醜の御楯と いふ物は 如此(かか)る物ぞと 進め真前(まさき)に」と云う万葉集に歌より。
・覬覦:きゆ。 身分不相応なことをうかがいねらうこと。非望を企てること

冒頭「聖戦第五年目も勝利に明け…」と始まっているが、実際には「時局は非常を超え驕敵米鬼は我が神州を覬覦し止まざる状態に候へば」と本土への空襲が頻繁になり始めた時期でもあり、危機感は相当強まっていたと思われる。
実際に昭和二十年に入ってからは6大都市(東京・大阪・名古屋・横浜・神戸・京都)だけでなく地方都市への空襲も激増した。

この国家の非常時に於ては「我身の幸福を不可忘却一刻も早く一人前と可成く努めざる不可所御座候」と将校生徒としての矜持を見せてはいるものの、まだまだ17歳も青年である。帰郷して家族の顔が見たい気持ちが強く感じられる手紙である…

※追伸にもある通り19年12月25日に認められた手紙であり、前回投稿した手紙とは時系列が前後しているが表向きの日付を優先した。