昭和20年1月17日 三郎から母千代子への絵葉書 B29が十機ばかりやって来ました…

 

今回は三郎が母千代子に宛てた葉書。

学年試験が始まったことや見ず知らずの少年から慰問状が届いたこと等、一見平穏な日常を記しているような内容であるが…

因みに絵葉書の場所の「名栗川」は入間川のことらしい。

 

20年1月17日 三郎から千代子への絵葉書①
20年1月17日 三郎から千代子への絵葉書②

解読結果は以下の通り。

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拝復 御手紙有難う御座居ました 皆様
御元気との事安心致しました 私方は本日
より學年試験始り奮斗致して居りま
す 寒稽古も十三日に完りました
八日に出ればよかったのですが五日に出る様
になってゐたので 癪でした 一日の違いですのに
試験が土曜日(廿日)に終り何やかやと一
月は終り二月十一日に外出が出来る予
定です 待遠しき事哉です
康男兄さんの事未だに不明で御心配で
しょうがあまり心をつかわない様にお願い申
し上げます それからこの間敷地国民学
校の伊達誠之君から慰問状を頂きました
私は実はこの人を知りません 伊達君も私を
なぜ知ったのでしょうか? では取急ぎて

(裏面)
この絵葉書
のところは十二月
に測図演習
に行った所で
この橋の上で
河流の状況
を説明され
たのです
この日は丁度
この様なよい天
気でしたが
B29が十機
ばかりやって
来ました
被害は勿論なかったのです
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頻繁にお邪魔させて頂いている芳一の知己宅へ小包を送って貰ったらしいが年明けに伺った時には届いておらず次回迄の「お預け」になってしまったことへの愚痴と思われる一節がある。
陸軍予科士官学校の「将校生徒」としては少々情けない感じもするが、要はそれ程までに物資(特に食料)不足が深刻であった証であろう。

慰問状の件についてはよく解らないが、「敷地国民学校」は三郎の実家のある三次の近隣にあったと思われ、おそらく地域の自治体等で出征者や軍関連学校へ進学した者の名簿を用意して子供達が慰問状を書いていたものと思われる。

「B29が十機ばかりやって来ました 被害は勿論なかったのです」とあるが、
(※最後の一行は絵柄と重なって判読が難しかったので正確ではないかも…)
三郎も軍人の端くれである。日本本土上空を敵爆撃機が十機も飛んでいる事がどういう状況であるかを知らない筈はなく、事の重大さは解っていたであろう。
実際に当時(昭和19年11月~)東京の飛行機工場を中心にB29による空襲が何度も行われており甚大な被害が発生していた。
但しこの時期はまだ焼夷弾が使用されていなかったことと軍需工場中心の空襲であったことで(後の大空襲と呼ばれるものと比べると)比較的被害が小さく、また当然大本営の隠蔽等もあり広く一般人には知られていなかったと思われる。

長男康男とは未だ音信不通のままの様である…

 

昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書 待望の兵科発表 ん?消印が「大和」? 振武臺は埼玉県のはず…

 

今回の投稿は三郎が父芳一に宛てた葉書。

入校後約一年が経過し「待望」の兵科が発表された事を知らせている。

 

昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書①
昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書②

解読結果は以下の通り。
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冠省 其の後お変りは御座居ませんか お蔭様で私
は風邪も引かず元氣にやって居りますから御安心下さい
さて待望の兵科が発表されました 私は予期の如く地
上兵科です(地上兵科中の細部は未だ先のことです)
ですから又當分予科に残る事となりました すぐ航空士官
學校の方へ行くものもあります 惜別の情に堪えないもの
があります 次の外出日は二月十一日 紀元節 其の間三週間
待遠しい事オビタダシイです 小包(十三日提出された)未到着
(廿日現在)です まだ日数がかかるとおもいます 試験も本日(廿日)
をもって終り成績は良好です 試験の終った喜はどこでも同じですよ
では早速お報せまで 草々
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冠省(かんしょう):「手紙の時候の挨拶などの前文を省略する」という意味で手紙の冒頭に使われる頭語。
結語として「草々」「怱々」「草々」「不一」が使われる。

これまで気付かなかったのだが、葉書の消印が「大和」となっている。
振武台(陸軍予科士官学校)は埼玉県北足立郡朝霞町である。ひょっとすると振武台からの通信物(手紙・葉書等)は一旦(神奈川県大和市に隣接している)相武台(陸軍士官学校)に移送され再度検閲されて発送されていたのではと思いググってみたが真偽の程は解らなかった。

また、一年程前の入校当時の郵便物は大体3~4日で配達されていたのだが、この時期になると一週間~10日程要しており、空襲等による戦況悪化が交通機関へも大きな影響を与えていたと思われる。

扨て、陸軍予科士官学校入校からほぼ一年が経過し、三郎「待望」の兵科が発表された。
予想通り?の「地上兵科」となったが細かい兵科区分は未定との由。

飛行機好きの三郎は本心では「航空兵科」に進みたかったのではないかと思うが、以前「船舶兵となって(故郷三次に近い)宇品へ行きたい」と云っており思惑通りだったのであろう。学年試験の首尾が良かったこととと合わせて安堵している様子が伺える。

この後三郎たち生徒は約半年間程各兵科に分れて専門教育を受けてから、本科(相武台)へ入学するのだが、実際にはこの後半年間は終戦までの混沌期間であり実際に予定通りに入学したかどうかは不明である…

 

昭和20年1月30日 三郎から母千代子への葉書 届いた小包は「お母さんの香が致しました…」

 

今回は待ちに待った小包がやっと届いた嬉しさを込めて三郎が母千代子へ宛てた葉書。

「これはお母さんの香が致しました」
本当に待遠しかったのであろう。
嬉しさが溢れている。

 

昭和20年1月30日 三郎から千代子への手紙①
昭和20年1月30日 三郎から千代子への手紙②

解読結果は以下の通り。

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御葉書並に封緘ハガキ正に受取りました 家には皆変り
ないとの事安心致しました 私も至極元氣と云いたい所です
が少々風邪ギミです が大した事はありません 兵科が定
りそれにつれて當然編成換があり私達は第七区隊
となりました 区隊長殿は増澤一平大尉殿ですから
その様御承知下さい 小包は仲々到かず小包がついたら
一緒に手紙を出そうと思っていてこんなに御無沙汰致し

※赤字は区隊長のコメント
三郎君 元気ニテ修養セラレ居リ益 御安心ヒ下度候 増

ました譯です 遂に本丗日到着致しました ほんとに有難うございました これは
お母さんの香が致しました
別段忙くのではないのですがついでの時 チリ紙 白モメン(カタン)
糸 筆(小筆ニ属スルモノ休暇ノ際ノ如キ)をお送り下さい
しもやけはなおりましたがなお注イしてゐます では又
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実家から送られてきた小包を開いた瞬間「我が家の香」が鼻腔を刺激し言い様の無い懐かしさを感じる事を小生も経験した事はあるが、「お母さんの香が致しました」とは本当に待ち焦がれ嬉しくそして懐かしかったのであろう。

チリ紙、糸、筆等の日常品を仕送りして貰わねばならない程物資不足が深刻であった当時、母親の愛情が詰まった小包ほど有難く嬉しいモノは無かったかも知れない…

因みに「白モメン(カタン)糸」とは「綿のミシン糸」のことで「カタン」とは「コットン」からきた言葉らしい。

「小筆」も所望しているが、確かに今回投稿の葉書は少々文字が読み辛く筆先が揃っていない様に思われる。
まぁ、それでも小生の文字よりは全然上手であるが…

 

昭和20年1月31日 三郎から父芳一への葉書 「安の目薬」とは?

 

今回は三郎から芳一に宛てた葉書。

年末年始だからかも知れないが、このところ三郎と実家とのやり取りが多少増えている様子である。

 

昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書①
昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書②

解読結果は以下の通り。

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前畧 廿八日出しの御葉書
本丗一日受取りました 色々と御心
配有難う御在居ます 私も
お蔭で風邪も快くなり元氣に
教練に學課に邁進致して居り
ますから御安心下さい 「安の目薬」
の効力偉大か 今の所昨年の凍傷
は全快 以後かからぬ様に注意して
居ります 手の甲はカサカサになって
ヒビの方がきれそうで この方に注意
して居ります 当地は早や二ヶ月以上
晴天が續き空氣乾燥し切って
居ますのです。猛烈に風邪を引き
易く咽喉の方が侵され易い状況
ですから學校等にも注意され稀
に「マスク」をつけさせられたり「ウガイ」ノ励行を叫ばれてゐます 殊にこの學校付近
は猛烈な「ホコリ」が立って一米先が見えなくなり舎内に五粍位「ホコリ」がつ
もることは稀ではありません これから風でも吹きつのると余計です 待ちにまった
小包は丗日(昨日)受取り開いてみて非常に嬉しく感じ家で包みをつくられた状況が
目の前にありありとうかんで来ました 腹巻の方は早速使用してゐます これを
してゐるとお母さんと一緒です 何事も安心して腹に力を入れて出来ます
時々腹の方をなでて見てゐます 内容品其他外部も全然異常ありま
せんでした 念の為にもう一度申し上げますが区隊が変り地上部隊は
第七区隊となりました 心氣一転して大いに張切ってやります 地上兵科
となった以上は大分私の本望兵科に近づく予算が大となりましたから
喜んで居ります こちらはまだ雪が降りません 乾燥一点張りです
明日から二月となりますが昨年の今頃は家で何をしてゐましたやら 私も
この振武臺に来てから早や一年も過ぎんとしてゐます 一刻も早く
将校となって第一線に出て米英をやっつけねばと思えばまだ月日のたつの
がおそい位です 康男兄さんから通信があったら知らせて下さい では又

※赤字は区隊長のコメント
三郎君 一生県命元氣でやってゐます 区隊長
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『「安の目薬」の効力偉大か 今の所昨年の凍傷は全快』とある。
「安の目薬」?
目薬で凍傷全快?
早速ググってみた。

どうやら広島安佐地区の上安と云う所で製造されていた「目薬」なのだが、目薬ではあるが軟膏で下瞼につけ体温で自然に溶けて眼に入ると云う薬で、塗り薬として他の効用もあったようである。
おそらく「凍傷にも効く」と実家から送られてきたものを患部に塗り込んだのであろう。

http://masuda901.web.fc2.com/page5etx28.html

今年はコロナウイルスの影響で「マスク」が生活必需品に定着してしまったが、75年前の陸軍予科士官学校でも「マスク」と「うがい」が必須だったようである。

上州名物と呼ばれる「からっ風」であるが、埼玉朝霞辺りでも猛威を振るっていたのかもしれない。
『気温の低い時期に乾燥し「からっ風」でホコリが舞う』
と云うインフルエンザが流行る典型的な状況だったと思われる。
将校生徒のみならず教官たちも沢山ダウンされたのではないだろうか…

以前の投稿で「戦況悪化の影響で郵便への影響が出ている」旨の事を書いたが、今回の葉書は消印が「2/3」で芳一の手許に届いたのが「2/7」(宛名下部に記載されている)となっており、また葉書の中にも
「廿八日出しの御葉書 本丗一日受取りました」
とある。
広島埼玉間は3~4日で届いており、未だ郵便配達状況の悪化が常態化していたのではなかったのかも知れない。

「康男兄さんから通信があったら知らせて下さい」
長男康男の消息は未だ不明の様である…

 

昭和20年2月12日 三郎から父芳一への葉書 入校から早や1年…「月日の過ぎるのは早 いものです」

 

今回は三郎が芳一に宛てた葉書。

上京し陸軍予科士官学校入校から1年が経過し、月日の経つのが早い事を感じながらも「今からは段々と暖かな方に向うのですから楽しみです」と漸く酷寒から解放されることを喜んでもいる。

昭和20年2月12日 三郎から芳一への葉書①
昭和20年2月12日 三郎から芳一への葉書②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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前畧
大分御無沙汰致しましたが
其の後お変りは御座居ま
せんか 御蔭で私も元氣に毎
日を送って居ますから御安心
下さい 月日の過ぎるのは早
いものです 最早二月も半
ば終らんとし この葉書が到
着する頃は丁度私が上京
してから一年になるでしょう
今からは段々と暖かな方に向
うのですから楽しみです
扨て 去ると謂っても昨日ですが紀元節に一月五日以来の
外出が許可され喜び勇んで常の如く■■様方にお邪魔
致しましたら岩本に頼まれたものがきれいにとってあり 私は
非常に嬉しくありました 水にひたしてあり全然かたくなく実
に感謝致しました お父さんの御言葉を讀み女々しき氣
持等絶對に起しませんから充分御安心下さい お母さん
敬兄さん 芳子ちゃん皆様の御心づくし「有難う御座居
ます」と云って頂きました 康男兄様の事は御心配でしょ
うがあまり氣をつかわれない様特にお母様にお願申し
ます 三月十一日迄外出はないのですが それまでにノートを心配して頂け
ませんでしょうか 三月十一日に着く様 ■■様方へでも送って頂きたいの
です お母様に腹巻が非常に暖かいとお傳え下さい では要用のみ
***********************

「岩本に頼まれたものがきれいにとってあり」の「岩本」が解らないのだが、おそらく地元(三次)にある和菓子屋さんなのではないかと思う。実家から送られてきた後■■様方で、お餅等を固くならない様に保管しておいて下さったと云うことであろうか…

「康男兄様の事は御心配でしょうがあまり氣をつかわれない様特にお母様にお願申します」
とあるように長男康男の消息は未だ不明であり、(当然の事であるが)家族全員特に母千代子が心配している様子である。
康男が出征してから既に3ヶ月が経過しており、皆最悪の事態(戦死)を恐れながらも最後まで望みを捨てずに堪えていた。
父芳一はその様な状況下で三郎が弱気にならぬ様「檄」を飛ばしたのであろう。
「お父さんの御言葉を讀み女々しき氣持等絶對に起しませんから充分御安心下さい」
と三郎が応えている…

 

昭和20年2月13日 三郎から母千代子への葉書 「お母さんの手紙を讀んで居ると家の中が眼前に浮かんで来ますよ」

 

今回は三郎が母千代子へ宛てた葉書。

前回投稿した父芳一への手紙と一緒に認めたのであろう、翌日付にて投函されている。

 

昭和20年2月13日 三郎から千代子への葉書①
昭和20年2月13日 三郎から千代子への葉書②

解読結果は以下の通り。
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前畧 二月七日夜出された封書
本十三日受取りました 待ち兼ねて
居たので非常に嬉しくありました
三次に雪が降ってゐる様ですが皆元氣
との事安心致しました 此方も時々雪
が降りますが大した事はありません
雪の朝でも張切って上半身裸体となり
予科自慢の裸体操をやります
第二次の一年生が又入校して来て中
隊は満ち満ちて居ります 一年生も
大いに張切って居ります 三中からは
来なかった様ですね
お母さんの手紙を讀んで居ると家の
中が眼前に浮かんで来ますよ
外は雪がしんしんと降り人の足音がキシキシと聞える等 実に実感
が出て居ます 敬兄さんは寒さに負けては居られませんか 氣持ちは充分
丈夫に持って そうして用心して下さい 芳子ちゃんも日曜迄學校に行って
居るとの事 御苦労ですね だが何處も同じです 兄さんも日曜日
に作業等やってゐますよ 日髙君は神経痛で熱海の方へ療
養に行って居り阿野君も「カリエス」か何かで入院して居る様です
二人の兵科は不明ですが多分地上と思います お父様にも葉書は
出しましたが十一日に外出したら完全にとってあって非常に嬉しくありました
厚くお礼を申し上げて下さい 次は三月十一日と思いますが其れまで
外出を楽しみに大いに張切ってやります それから今日三原の修
君から葉書を頂きました 修君も広で働いて居るのですね
私もそれを思い感謝して居ります私達の様に満足に勉強で
きる所は他にありませんからね では風邪にかからない様にお願い申します
さようなら
***********************

「第二次の一年生が又入校して来て中隊は満ち満ちて居ります」とあるが、
三郎たちは陸軍予科士官学校第60期生で昭和19年2月入校であるが、次の61期は戦況悪化における将校の消耗を補うべく多数の生徒を採用したため、昭和19年11月に1648名、昭和20年2月2700名、4月に幼年学校から900名が入校している。
3回に分かれての入校となったのは、三郎たち60期が航空士官学校や座間の陸軍士官学校(相武台)へ進学して部屋が空くのを待ったためである。
上記の状況からすると三郎は昭和20年4月に本科(陸軍士官学校)に入校したと思われる。

「日髙君は神経痛で熱海の方へ療養に行って居り阿野君も「カリエス」か何かで入院して居る様です」
おそらく日髙君、阿野君ともに三次中学の先輩か同級生と思われる。
「カリエス」とは結核菌などの感染による脊髄の病気で、結核が「国民病」と恐れられていた当時は大変心配な状態だったのではないかと思われる。

次兄の敬もそうであったように「病気である上に(お国の為に戦えないと云う)世間的に肩身の狭い思い」をしながら生きることは、本人はもとより家族や親戚も辛い思いを強いられる時代であった。

 

昭和20年2月22日 三郎から父母への葉書 「敵米国が遂に硫黄島に上陸しました」「十九日のB29の大挙来襲」・・・

 

今回は三郎が父母に宛てた葉書。

戦況がますます悪化し敗戦の様相が色濃くなる中、終戦後までの半年間程の通信物はこれを最後として小生の手許には無い…

 

昭和20年2月22日 三郎から父母に宛てた葉書①
昭和20年2月22日 三郎から父母に宛てた葉書②

解読結果は以下の通り。
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前畧 二月十七日出の御母さんの
封緘葉書昨廿一日受取りま
した 家の方には皆変り無いとの事
安心致しました 私も別段変りなく
毎日を過して居ります 敵米国
が遂に硫黄島に上陸しました。
実に憤慨に堪えませんが現
在の所仕方が有りません 硫黄
島より東京迄は鹿児島東京
間に等しいと言われますから空
襲等尚一層烈しくなる事
と予想して居ります 十九日のB29の大挙来襲其の前の
艦載機の来襲共に學校には被害なく学校上空にて
空中戦が展開されました 私達は防空壕の中に退避して空を
見上げて居ります 次に町役場の方より御父さん宛に臨時陸軍
軍人(軍属)届と云うものが来る筈ですがその中に不明と思われ
る所をお知らせ致して置きます 徴集年・・・昭和十八年(コレハ
受験ノ年ヲ書ク様ニナッテイマスカラ)役種兵種官等・・・陸軍予科士官学校
生徒 官等発令年月日・・・十九年三月六日(入校日)部隊編入年月
日・・・十九年三月六日(入校日)部隊編入区分・・・入校 残りは皆父上
でお判りと思います 私の家には康男兄様と二枚来る筈ですね
本日は朝から雪が降りつづけ今では約三十糎積もりました まだ依然
と降ってゐます 三月十一日の外出を楽しみに大いに張切って
やります では風邪を引かれない様に特に出張等されて
***********************

「敵米国が遂に硫黄島に上陸しました」
昭和20年2月16日に米軍の攻撃によって開始された硫黄島の戦いは2月19日の米海兵隊の上陸により激戦の度を増してゆく。
絶対防空圏死守の為絶対に負けられない日本軍の頑強な抵抗に遭いながらも、圧倒的な物資に物を言わせた米軍の攻撃の中で戦闘は一ヶ月続き両軍合わせて4万人を超える戦死傷者を出すと云う大東亜戦争でも屈指の激戦となった。

硫黄島を奪われることは(三郎も手紙の中で触れている)距離的な部分のみならず、B29等米軍機襲来を事前察知したり南方の米軍飛行場にある戦闘機や爆撃機を攻撃破壊するための前線基地を失う事であり、本土空襲に対して「丸腰」になってしまう状況であった。
そして実際に硫黄島陥落後にB29による本土空襲は激化の一途を辿るのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

「十九日のB29の大挙来襲其の前の艦載機の来襲共に學校には被害なく」
学校に被害が無かったのは偶然ではなく、当時既に米軍は対日戦争に勝利した際の占領プランの検討を進めており、陸軍予科士官学校を占領軍の駐留地として確保使用する計画であった為、意図的に爆撃対象から外していたと云う話もあるらしい。

然し、将校生徒とは云え日本陸軍の軍人として中心都市東京の上空に米軍機が襲来する現実を三郎はじめ皆本当に悔しかったであろう…

「陸軍軍人(軍属)届」とは退役後に恩給を貰う際などに重要になって来る書類だと思うが、
「私の家には康男兄様と二枚来る筈ですね」
康男の安否は未だに不明の様である…

 

広島市本川町の三郎宅での新年会…かな? 昭和45(1970)年頃か…

明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

令和三年が明け当ブログも足かけ三年目を迎えました。
本年も出来るだけ沢山の方々にご覧頂けるよう頑張る所存です。

扨て新年第一回は、昭和45年頃の正月に三郎宅に芳一・三郎・芳子の揃った(小生にとってはかなり懐かしい)写真が発見されたので、それを投稿したいと思う。

三郎宅での新年会にて 昭和45年頃

後列の3人の女性は左から、三郎次女・長女・奥さん
前列左より、三郎・常子(芳一後妻)・芳一・芳子長女・芳子
最前列右に鎮座しているのが小生(芳子長男)
である。

実はこの写真は小生の手許にあったものではなく、国際新報社から出版された「新 昭和回顧録 我が人生の記」と云う分厚く立派な書物に掲載されていたものである。

以前よりこの書物が遺品の中にあることは知っていたのだがこれまで内容については知らなかった。
「何か投稿出来るモノはないかなぁ」と漁っていたところ(笑)目に留まったので開いてみた訳である。

この「新 昭和回顧録 我が人生の記」と云う書物は先の大戦で散華された軍人・軍属の方々を称え記録に残すべく広島県遺族会の協賛によって出版されたもので長男「故 三原康男」が掲載されているのだが、編纂当時芳一は既に他界しておりどうやら常子が写真・記事を提供して掲載されたものらしい。

写真でもお判りの様に三郎は(三原家の中では)体格も良く陸軍士官学校で鍛えられた厳格さもあった。
かなり以前の投稿(2019/05/08)の最後の件でこの写真当日の出来事をお伝えしたのだが、その中で三郎は小生にとっては「怖い伯父さん」であったと言っている気持ちが多少分かって頂けるのではないだろうか…
https://19441117.com/2019/05/08/

 

閑話休題 三月一日は芳一の命日 小生高校受験のまっただ中、突然の悲報に芳子は… vol.2

前回投稿からの続きである。

明日三月一日は46回目の芳一の命日。
当時小生は15歳の中学三年生であったが、46年前の事なので正直なところ詳細までは詳しく覚えていない。

夕方18時頃に自宅を出た我々(芳子・姉・小生)は20時位に三次の芳一の許に着いたと思う。
ただ、芳一の亡骸がどの部屋に安置され、その亡骸と対面した芳子や姉がどんな表情であったのかよく覚えていない。
三郎一家も既に到着していたのであるが、その三郎の表情も覚えていない。
さもあらん、そもそも自分自身がどの様な感情を覚えたのかすら記憶にないのであるから…

三次に向うまでと翌日の告別式の事は断片的ではあるものの多少記憶はあるのだが、到着した当日の夜の状況は全くと言っていいほど記憶が無いのである。
悲しみに暮れる母(芳子)の様子は本能が記憶を拒んだのかも知れない…

芳一の最後はあっけないものだったらしい。
常子(芳一後妻)の話では
「いつもは朝6時に起きて(就寝前に振り子の音が気になって眠れないからと止めていた)柱時計の振り子を動かして起きて来なさるのに、今朝はよう寝とられるのう。昨日の夜”胸がザワザワする”言うてトンプクを飲んじゃったんが効いとってんかね?」
と思っていたらしい。
その後
「そろそろ起こしてあげんと…」
と枕元に行ったときには既に冷たくなっていたそうである。

因みにその柱時計は現在小生宅にある。

柱時計

確かに”カチコチカチコチ”と気になるし正時の時報も結構大きな音である。
寝ている間は止めているのが正解かも(笑)

翌日の告別式での様子は以前の投稿でも少し紹介しているが、大勢の方にご参列頂きしめやかに行われた。

https://19441117.com/2019/10/27/

式では三郎が喪主として挨拶を述べたのであるが、小生にとっては強面の伯父も父親の死はさすがに辛かったのであろう。涙声での挨拶であった。

それでも数時間後、三次郊外の火葬場では真っ白な灰となった芳一のお骨を鉄箸で拾いながら
「マサヒロ(小生の名前)、これが踵でこの大きいのが大腿骨じゃ。人間もこうなったら一巻の終わりじゃのぉ。ハハハ。」
と優しく笑っていた様子は今も忘れられない…