昭和19年6月28日 母千代子から三郎への手紙 心配事、言伝、愚痴等々…取り止めもつかぬ事を永〃と

 

今回は母千代子から三郎へ宛てた手紙。

前回千代子が三郎に宛てたのは6月4日でひと月経っていないのだが「永らく御無沙汰して居ります」と書き出している。
当たり前であったとはいえ携帯やメールは存在せず電話さえ使えない環境での手紙のやり取りである。我が子想う母親にとっては将に「一日千秋」の想いであったであろう…

昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙④

昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙⑥

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。
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永らく御無沙汰して居ります。其後も相変
りなく元氣で勉強しています事と思います。
先日はお便り有難くその返事は父様
が何とか様子された事と思いますが
家の方には別に(変り?)ありません。兄様も二十五日の
日曜日に一寸帰省と電話していましたが
矢張り都合で帰る事が出来ませんで
した。七月になったら三島へ転隊すると
か。広島も今しばらくお別れだと申して
居ります。夏休みまで広島に居れば
よろしいが二三ヶ月が半年も居られたので
此の上充分は申されませんよ。
敬兄さんは快方に向って一寸他人が
見たところでは病人とは見えませんよ。
まだまだ養生をさせるつもりです。
芳子も二週間も続けて田植にでました。
少しつかれが出たらしいですが別に
休む事もなくやって居ります。
父様も元氣です。二十五日から二十八日まで
高田郡方面へ久しぶりに出張された。
三次の中所の方は雨が降らぬので水
がなくて田植になりませんのよ。
それから甲種予科練習生が伍長に
なって三次から出た子供が休みをもらって
久しぶりに二十四日に帰って二十八日には三次
を立って帰隊。七月中旬に卒業式
があって七月末にはそれぞれ外地に向う
とかお別れの気持ちの休みかとも思うが
藤川君も私の方へ来てくれた。お前の
後に送った写真を一枚渡したよ。
此度はお前とは何時逢えますやらと
申して居たよ。三年生から出た米やの
前岡君の父様も親子久しぶり
に逢ってよろこぶ間もなく父様に召集が
来て七月一日入隊とか親子ともども目出
度い事だ。
母様も六月で婦人会の班長の任期
満了致し(成可現班長の留任を)との
ことだが二年も續けてつとめさせていただ
いたのだから家庭の都合もあるし退せて
いただく事にした。母さんも兄様が病気
だし家の事が多忙で充分勤められん
から兄様にお嫁さんでもとりたら又
世話させてもらいます。
兄様のお嫁さんを次々進めてもらいます。
今一つ話しが進みつつあります。
中学校四年五年は二十六日に来年
三月まで呉へ行きましたよ。
夏休みに帰っても同級生には逢えん
かも知れませんよ。今日■■様よりハガキが
来ました。三郎君もあれ以来外出がない
らしい。よってくれないと申してよこされた。
二十八日には父様も出張先から帰られるから
御返事されると思います。
父様が苦心して作られたがジャガイモが多
くとれましたよ。種イモをもらったから一〆に対し
て三貫匁の供出にして私の方には一〆匁
もらったから三貫匁出してあと七貫匁
位は残ります。供出をほしまれる家も
あるけれど出して又お米へつけてもらうのだ
からね。気持ち良く出さねばいけませんよ。
沖の方には矢張り出さない方らしい。多く
作りながら。今夜はこれでよします。
取り止めもつかぬ事を永〃書きましたね。
暑くなるから充分気をつけて此の上ともに
勉強してくれよ。上官の命を良く守り
友達とは仲よくしてね。三郎さんはよくよく
心得えて居ますからね。たのみますよ。
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「取り止めもつかぬ事」が「永〃」と綴られている。

長男の康男は近く広島から愛媛の三島へ転隊するらしい。
これが戦地への出兵を意味するかもしれないことを千代子は知っていたのだろうか…
次男の敬は快方に向かっているとは言うものの未だ病床にあり「まだまだ養生をさせる」必要がある。
長女の芳子は女学校に入学したばかりなのに「二週間も続けて田植にで」て疲れている様子である。
父芳一は「元気です」

自分自身(母千代子)含め家族全員皆「大変」である。
いや、当時は日本国中が同じような状況であった。

「甲種予科練習生が伍長になって」一時帰郷したとある。
当時軍隊に於いても最精鋭で若者の憧れであった「飛行機乗り」である。
外地へ向かう前の一時帰郷だったらしく単なる帰省ではなく「今生の別れ」となる可能性も高かったであろう。
千代子からすれば康男や三郎ともそう遠くない将来に同様の再会がある筈であり心穏やかならぬものがあったのではないか…

三郎の同級生や下級生であった三次中学の五・四年生は通年動員で呉海軍工廠の軍需工場へ動員されていった。

「小中高の春休みまで休校」や「外出自粛」等で今般大騒ぎの「コロナ新型伝染病」も大変な事態であるが、(軽重を比べる訳ではないが)こと「国民に強いた大変さ」と云う意味においては当時と比べるまでもないであろう。

国家の存亡を賭けた大変な時代であった。

 

昭和19年7月2日 三次中学同級生FUさんからの葉書 鹿児島海軍航空隊 いわゆる予科練…

 

今回の投稿は三次中学の同級生で「甲種飛行予科練習生」いわゆる「予科練」として鹿児島の海軍航空隊に入隊されていたFUさんからの葉書である。

先日一時帰郷した際の故郷三次や同級生達の様子を伝えている。

昭和19年7月2日 三次中学同級生FUさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 長らく御無沙汰したが貴様元気か。勿論元気
だろう。俺も元気か?元気だ。二十一日より帰省がかなって
本日帰隊した所だ。帰省中の感想をのべたい所だが紙が
ないので止めておく。兎に角三次は変っては居ない。まあ尾関
山や土手が畠になっている位のものだ。しかし君や桑原が居
ないので物足ない感じがした。つまり淋しかった。君の家には皆元気
だから御休神下され度候。二十六日は四年五年が挺身隊として
呉へ行った。非常な張切り方元気で出発した。俺達はそれを
見送りに帰ったような形になった。あいつらとは十分會い又遊
びもしながら心おきなく行ったと思う。二十七日は一寸学校へ行って
一席辨じたけれど元よりあまり口が達者でないので赤くなったり
青くなったり七面鳥が顔負しそうだ。然し皆感銘したようだった。
長い事便りをしなかったので気分を悪くしただろうが切角君から
もらった葉書を置き忘れていたのだ。許して呉れ。君の写真は君の
家へ行った時君のお母さんから一葉もらった。ではお体を大切に。
お互いに頑張ろう。
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当時の若者達の憧れでもあった「予科練」である。
戦況の悪化に伴う増員もあったとは言え頭脳だけでなく身体も優秀な人物しか入隊できない狭き門である。
当然FUさんも非常に優秀であり葉書の内容だけでなく達筆からもそのことが推し量られる。

葉書には赤鉛筆で米軍機らしき「空ノ毒蛇エアーコブラ(P-39か?)」とそれを撃墜せんとするゼロ戦とおぼしき「新鋭セントーキ」の戦闘シーンが描かれている。

「新鋭セントーキ」と「空ノ毒蛇エアーコブラ」

優秀であっても17~8才の青年である。
まだまだ子供の一面を持っているのだ。

「予科練」に関しては多くのサイトで当時の様子などの詳細が語られており、拙ブログでの解説は無用であるが、当時戦況の悪化は著しく、「予科練」は空だけでなく海でも特攻隊員の養成所の様相を呈していたようである。
以下サイトを参考頂きたい。

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2260

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2277

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2303

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2321

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2363

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2394

「特攻隊」に関しては現代に於いても賛否両論あるが、特攻に於て殉死された方々を「英霊」として崇めることは決して戦争を美化しているのではなく我国の国難に際して勇敢に戦って下さった方々への感謝と弔いの表現であると小生は思う。

FUさんが「特攻隊員」になられたか否かは定かではないが…

 

昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙 物のない時代…

 

今回は病気で静養中の次兄敬から三郎に宛てた手紙。

以前の手紙では過激な言葉で三郎へ檄を飛ばしていたが、(病気で)家族に迷惑を掛けてしまったと云う負い目からか多少の自虐も含めた大人しい内容になっている。

昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙①
昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙②
昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙③
昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。

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どうだ、其の後手紙を見ると元気の様
だが、まあせいぜい張切って御奉公して
くれ。充分体に気を付けて兄さん見
たいに張切ったのは良かったが… 此んな
事になって終い仕事は出来ず皆には
心配掛けるし何も得はない。一番損だ。
呉々も気を付けてくれ。
今は大分良くなりどうにか起きて
居る。未だ外には出ないが家の中でごそごそ
している。安心してくれ。殆ど大丈夫と思う。
ぼつぼつ相當ごちゃごちゃしていた本箱
や色々の本の整理をしている。芳子も良
く手傳ってくれるのではかどる。
芳子のは敵は本能寺でノートの古いの
を出しては使ってない所を切っている。
今頃の子供は変ったよ。仕方はないと言
うものの新しいのを余り使わない。
そんなのを持っていると気が引けるのかも
知れぬ。今になって自分等のノートの
残りが役に立った様な訳。
きゅうりが沢山なるので毎日きゅうり計り。
小学校の壁際(家の前の道路の)にづうー
と南瓜を植たのがもう沢山実がなって
いる。早く家に手を付ければよかったのに
小学校に先手をとられて終った。
毎日大きくなるのを見ているだけ。
畠の南瓜も大きくなり道行く人が
皆立止まって見ている。御父さんが大き
な棚を作られたので。
“なす”も元気良く大きくなりつつある。
ぢゃがいもが十貫計りとれた。三貫計り
献納して七貫程ある。
豆も沢山とは言えぬ迄も畠に位べて良
く出来た。
今日板木の御祖母さんが来られた。
税務署に要件があるとかで
今晩は泊まられる。
今日は此の辺りで
元気で勉強せよ
 四日
        敬
三郎殿
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「敵は本能寺」…
物資が不足しノートや便箋も新品を持つことが憚られた時代。
我が母芳子は敬の本箱整理の手伝いをしながら、兄達が使ったノートの未使用ページや未だ使えそうな余白部分を切り取って「再」利用していた様である。

以前にも述べたと思うが、息子である小生から見て芳子は決して「ケチ」ではなかった。それどころか身の回りのモノ(食器類や衣類、電化製品等)に関してはこだわりがあれば結構値の張るモノでも購入していた。

しかしながら「あの時代」を経験した世代だからであろう…何時使うかわからない様な包装紙や紙袋、古着など「捨てられない」ひとでもあった。

鉛筆を小刀(肥後守と云う折畳み式のもの)で削るのがとても上手だった。
紙縒り(コヨリ)も細くてピシッとしたものを縒ることが出来た。

「お母ちゃんはねぇ、クラスで一番上手じゃったんよ」と自慢たらしく幼い小生に鉛筆を削ったり紙縒りを縒って見せてくれたものである。

日本中にモノが溢れ何でも手に入る便利な世の中にはなったが、小刀で鉛筆を削りピシッと紙縒りを縒れる人はどれくらいいるだろうか…

 

昭和19年7月5日 康男から三郎への葉書 愛媛県宇摩郡三島町字中ノ庄に転地…

 

今回は長男康男が四国へ転隊後すぐに出した葉書。

康男は宇摩郡三島町にあった暁二九四〇部隊矢野部隊(陸軍潜水輸送教育隊・通称マルユ部隊)に配属された様である。

肉体的にも精神的にも疲れていたのであろうか、文字も多少「殴り書き」の様である…

 

昭和19年7月5日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 本格的な夏を迎えんとする候と
なったが、其後どうだ。訓練も暑さの砌、
仲々苦しい事と思うが、今緊張を欠いたら
今迄の苦心も水の泡となる。大いに自粛、百戒。
体には細心の注意を要する。八月ともなれ
ば帰省の機会もあるとの事。家では楽しみ
にして待っている。小官、本月初め当地に転じ
て新しく服務している。田舎はおおらかで、
仲々よろしい。帰郷して御前と会える
機会を今から待っているが、どうなるか分らん。
とにかく充分体に気をつけて頑張るべし。
早々
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康男の新しい住所は
愛媛県宇摩郡三島町字中ノ庄○○○○方
となっている。
現在の四国中央市の三島中ノ庄辺りであろうか。

当時帝国陸軍は戦艦や船舶をほとんど失っていた帝国海軍に頼らず自力で戦線へ物資を輸送するために中型潜水艦マルユ(○の中にユ)を極秘で開発・製造しており、康男はその潜水艦の運用任務にあたったと思われるが、この同時期に暁二九四〇部隊矢野部隊は小豆島に「陸軍船舶幹部候補生隊」を設置し「海の特攻隊」と呼ばれた通称マルレ(○の中にレ)艇の訓練を開始しておりそちらの作戦行動に関与していた可能性もある。

小生、これまで「特攻」と云う史実についてそれなりに理解しているつもりであったが、今回肉親である康男(大叔父)がこの「特攻」に関与していたかも知れない事を知るにつけ、これまでとは違った視点からこの「特攻」を知らなければならないと感じている。

「帰郷して御前と会える機会を今から待っているが、どうなるか分らん」
帰郷の予定も定かでなかったのは極秘任務にあたっていたためなのかも知れない…

 

昭和19年7月18日 鹿児島海軍航空隊FUさんからの葉書 これが最後の通信かも知れない…

 

今回はつい一ヶ月程前にも投稿した三次中学同級生で甲種飛行予科練習生として鹿児島海軍航空隊に所属していたFUさんからの葉書。

 

 

昭和19年7月18日 鹿児島海軍航空隊FUさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 御手紙拝見。貴様も元氣との事、安心した。
俺も元氣だ。貴様等も通信をやっとる相ぢゃが通信上達法
の密(秘?)ケツを伝授しよう。先づ符号を誰ヨリも先に確実に覚えること。
そして常に人より先を行くことだ。不断の努力無くして勝利は望め
ないからの。俺は通信に於ては決して人には負けて居らんぞ。貴様も
大いに頑張れ。戦いは将に激烈だからの。前線の将兵は我等を
待って居るのだ。此の国難を開拓するのは我々だからの。
帰省の時、桑原が居なかったので全く面白くなかった。彼は山梨
の航空機関学校へ今年四月から行っとる。(住所は後記ノ通り)
エンヂン機は見なかった。あの日の飛行が最初にして最後だった
らしい(?)又級友諸君もそれぞれ所を得た所へ行って居る。山縣君は薬専
へ、三宅は師範へ、秋本は?、廣澤は忘れた(“ーー”)。帰って学校で一・二・三年生を
集めて一席話したがどうもはなはだ心ゾーが破裂せんばかりに高鳴った。
幸便に任せて五年生諸君が働いて居る所もお知らせしよう。
山梨縣中巨摩郡玉幡村玉川 込山良作方 桑原義憲
廣島縣呉市阿賀寄宿舎第三寮三十七室 五年生一同
なお、これが最後の通信かも知れないから返信無用。さようなら
************************

「通信」とは暗号も含めた無線通信の事であるが、戦争の拡大により通信要員の需要が増大し陸海軍共に軍部内での要員育成を行っていた様である。

「エンヂン機は見なかった。あの日の飛行が最初にして最後だったらしい(?)」の件は前回投稿した葉書への三郎からの返信に対してのやり取りらしく内容が不明である。
「エンヂン機」とは戦争末期に帝国海軍が開発していた「ジェットエンジン機」のことではないか?と思ったのだが、ググってみたところ国産初のジェット機の飛行は翌1945年8月7日の事でこの件にはあたらない様である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%8A%B1_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

「なお、これが最後の通信かも知れないから返信無用。さようなら」
最後のこの一文が気になったのであろう。三郎が付けたと思われる赤い線が引かれている。
FUさんが故郷三次へ一時帰郷し三郎宅(三郎は不在であったが)を訪問した際の様子を見て父芳一が
「お前等と逢う事はもうあるまい。」
と三郎への手紙に記している。
これは芳一が「FU君は特攻隊に志願したのかも知れん」と思って書いたものだと思っていたが、豈図らんや本人自身が同様の事を書いている。
葉書の内容からはさほど悲壮感や惜別感は感じられないのであるが、やはり特攻隊員に志願されたのであろうか…

 

昭和19年7月25日 康男から三郎への葉書 戦局悪化の中「御前とも逢える可能性が増大した」…

 

今回は直近に広島への再配置転換となった長男康男から三郎に宛てた葉書。

逢えないと思っていた三郎との再会が叶いそうになった喜びを「可能性が増大」と表現している。

 

昭和19年7月25日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 愈々暑さ厳しき時候となったが、
其後元気で精励しているか、待望の
休暇も近付いて大いに張切っている事と
思う。兄さんは都合でまた広島へ帰る事
になって廿日からこちらに来ている。
家にもチョット帰って来た。広島はどうも
縁が深い。又当方御厄介になる筈。
御前とも逢える可能性が増大した訳だ。
体に充分気をつけて、逢える日を待っている。
早々
***********************

何故康男が四国への転隊直後に再転隊で広島へ戻って来たのか本当の理由は不明であるが、以前の投稿にも記した様にこのひと月程まえに日本軍がサイパン島での戦いに敗れ「絶対国防圏」を突破されたことで一層の戦況悪化を招いた事が関係していたのではないかと考えられる。

しかし皮肉な事に、その結果おそらく逢えないと思っていた三郎と逢える「可能性が増大した」のである。

葉書では「逢える」と云う言葉を遣っている。「会える」ではなく…
「会う」は単に「顔を合わせる」とか「集まる」と云った意味で用いられるが、一方「逢う」は「大切な人」や「強い思い入れのある人」とあう場合に使われる。

遠く離れた場所(陸軍予科士官学校)へ行ってしまった三郎とは「もう二度と逢えない」と康男は思っていたのであろう…

 

昭和19年7月29、30日 もうすぐ故郷へ… 三郎から父母へ帰省の連絡 

 

今回は二週間後に迫った帰省について三郎が父母に宛てた便り2通。

29日(土曜日)に父母宛にざっくりとした手紙を出し、翌30日(日曜日)に母千代子宛に詳細を記した手紙を出している。

まずは7月29日の葉書から

昭和19年7月29日 三郎から父母への葉書

解読結果は以下の通り。
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前略
期末試験も二十六日に終了し遊泳演
習等ノ準備をして居ます。
お見通りするのも近附いて来ました
ので張切ってゐます
ではお知らせ迄
休暇にはよろしくお願い致します
三十日には外出します
***********************

続いて7月30日の母千代子宛の手紙

昭和19年7月30日 三郎から千代子への手紙①
昭和19年7月30日 三郎から千代子への手紙②
昭和19年7月30日 三郎から千代子への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。
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前略 お手紙拝見致しました。休暇
も近づき喜んで居ます。康男兄さんも
又廣島に帰られた相で対面出来ると
思いこれ又喜んでゐます。今日(三十日)
は雨天ですが外出して■■様の所にお
邪魔してこの手紙も書いて居ます。
明三十一日は遊泳演習ノ準備。一日より
沼津海岸に行きます。私は皆が下
手なのかしれませんが最上級の班に入れら
れました。沼津には一日より八日迄居て
八日に帰校。九日一日学校に居て十日の
十二時二十四分発の特別仕立の列車
で帰郷する事になってゐます。予定では福
山には停車せず糸崎に翌十一日の午前
九時頃に着く予定です。ですから家につ
くのは福塩線で十二時頃と思いますが
今年は非常に対して背嚢等を持ち帰
ることになりましたから出来得れば駅まで
誰か来て頂けば幸甚ですが。
休暇は大体二週間の予定です。
では敬兄さん、芳子によろしくお傳
え願います。
***********************

29日の葉書は単に帰省の予定を伝えたものであるが、30日の手紙は26日に届いた母からの手紙(2020年4月19日投稿)への返信となっており、いつもお世話になっている父の友人宅へお邪魔してゆっくりと手紙を認めている。

戦況悪化に伴い鉄道の運行本数もかなり削減されている中で「特別仕立の列車」が出されるほど優遇されていたことには少々驚いたが、将校不足にあえぐ軍部の彼らに対する期待の大きさを示すものであったかも知れない。

さて、陸軍予科士官学校での遊泳演習をググっていたところ「昭和19年10月制作」の「将校生徒の手記 陸軍予科士官学校」と云う動画を見つけたのでリンクしておく。
多分にプロパガンダ的な動画ではあるが将に三郎在校当時の学校の様子であり興味深いものがあるので是非ご覧頂きたい。
https://www.youtube.com/watch?v=LBZTZts4Zvk

 

昭和19年8月1日 三次中学同級生MOさんからの葉書 「勤労動員は夏季休暇無しだよ~( ノД`)…」

 

今回は(これまで何度か投稿したことがあるが…)三郎の幼馴染で三次中学同級生のMOさんからの葉書。

6月26日に呉海軍工廠への勤労に動員されてから一ヶ月程経過してからの便りである。

昭和19年8月1日 三次中学同級生MOさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓
長らく御無沙汰したが変りはないか
僕も元氣で表記の所で国家の爲に
働いて居るから安心してくれ。
君等は八月に休暇があると言う事だ
がこちらではそんな暇もないよ
次に写真の事はよくわかった。しかし
まだもらいに行っておらない。それと
丸住、中村、日南、向井、新田等に陸士の第
一次試験に合格したよ。
ではさようなら
***********************

親元を離れ慣れない環境の中での勤労動員で体力的にも精神的にも相当疲れていると考えられるのだが案外元気そうである。
まあ、当然検閲されるのであるから元気なフリもしなければならなかったのかも知れないが…

呉海軍工廠でのMOさんたちの生活がどんな状況だったのかググってみたところ「NHK戦争証言アーカイブス」に以下の動画があった。
かならずしも勤労動員の日々の生活を映したものでは無いが、空襲の際の惨状など当時の状況が生々しく語られている部分もあり(長編ではあるが)是非ご覧頂きたい。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001150116_00000

 

 

昭和19年8月3日 父芳一から三郎への手紙 三郎帰省まであと一週間…「皆一緒に話せる」

 

今回は七月三十日に三郎が母千代子に出した手紙(2020年5月9日投稿)への返信。

何度も言うが芳一(小生の祖父)の文字は本当に難解である。
今回の投稿にも何ヶ所か怪しい部分があるがご容赦頂きたい。

 

昭和19年8月3日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年8月3日 芳一から三郎への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
(今朝手紙が着いたとお母さんが電話で悦んで聞かせた)
其後元氣で勉学してるそうで両親共安心した。随分暑さも
厳しいので相當汗を出してる事と思う。家にも敬の病気も大体
順調にて相當肥満して来たが当分は働けないと思う。暑さで三階
住居は少し困って居る。然し都会地に比べたら問題ではない。
食事も先づ戦時食としては上々の方で栄養物も少し手に入れて居る。
康男も七月一日に四国の三島と云う所へ転居したが十六日やらに又廣島付近
の坂駅近くの部隊へ派遣となり当分居るらしい。一旦千田町の栃木
と云う居宅を引払ったが又舞い戻って居る。然し今度は太田少
尉と二人同居だそうな。船舶将校となったので何時何處へ行くやら
わからんが輸送や〇〇上陸ではないらしいので後方勤務の方らしい。
十三日の日曜日には或いは帰省できるかも知れん。三十一日に帰ったので
多分六日は休みなし。十三日が全休となろうとの事。その時は久々で
皆一緒に話せる。二週間の休暇がいただけたらことに結構だ。
海兵連中先般二週間で来て居た。白服に短剣でブラブラ
して居たよ。 今年の陸豫士学科試験合格者は二人だとか
丸住と中村とか、十二三日頃に陸豫士で体格検査を受ける由今日
新聞に出て居た。昨年は相当合格者を出したが本年は僅少ら
しい。遊泳は上級とか しっかりやれ。陸軍でも海の子だから泳ぎ
は上手に限る。然し無理せぬ事肝要なり。■■さんには度々
世話になる事だ。礼状を出して置く。
お前の休暇中にお父さんも三四日休暇を貰うつもりだ。
福山や広島へも行って見よう。
あと一週間計りで故郷の土が踏める。十一日の到着時刻は
福山から電話して置け。糸崎からでもよい。
敬も芳子も楽しみに待って居る。但し何も土産物はいらな
いから心配するなよ。
  三日午後四時          父より
   三郎へ
***********************

夏季休暇の帰省まであと一週間程。父母兄妹…家族全員が三郎の帰郷を心待ちにしている。
但し現代の様な平時に於ける夏休みの帰省とは心待ちの度合いが違う。
土日返上で”月月火水木金金~♪”だった芳一も「三四日休暇を貰うつもりだ」と気合が入っている。
軍人である康男や三郎は何時戦場へ行ってしまうか判らないし、残る家族にしても「空襲」に遭う可能性がない訳ではない。
実際に長男の康男は出征が間近に迫って来た様子であり、この時の三郎の帰郷は一家にとっては「一期一会」或いは「今生の別れ」の様相を呈していたに違いない。

その康男は「廣島付近の坂駅近くの部隊へ派遣」とあるので坂付近の陸軍部隊についてググってみた。
当時、陸軍船舶司令部は「㋹部隊」という水上特攻艇部隊を創設しその一部が坂駅近くの鯛尾という場所にあった様で康男はそこに配属されたと思われる。
鯛尾は金輪島を挟んで船舶司令部本部のあった宇品の対岸に位置しており「㋹部隊」の訓練等に於ける至便かつ重要な場所であったと思われる。

宇品・坂鯛尾地図

「㋹部隊」に関しては以下サイトもご覧頂きたい。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=21704

このなかで「船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)」の一期生(15~20歳)は1944年4月に入隊したとあるが、康男は彼らの上官として赴任したのかも知れない。

積もる話までもう少しの辛抱である…

 

昭和19年8月9日 陸軍予科士官学校 富士隊 服部隊長から芳一への連絡書

今回は三郎の夏休暇帰省に際し陸軍予科士官学校側から父兄宛に出された連絡文書である。
封筒に「三原芳一殿」とあるだけで住所や切手・消印が無いので帰省の際に三郎が持って帰って来たものと思われる。
達筆な上に経年劣化した昔ながらの「ガリ版印刷」で読み辛い事に加えて小生の無学もあり、かなり「???」な部分もあるが凡その内容は把握出来たと思う。
※B4横の一枚であるがサイズの都合上半分づつの画像掲載とした。

昭和19年8月9日 陸軍予科士官学校-富士隊-服部隊長から芳一への連絡書①
昭和19年8月9日 陸軍予科士官学校-富士隊-服部隊長から芳一への連絡書②

解読結果は以下の通り。

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拝啓時下炎暑の候加えて戦局将に重大の秋貴堂愈々御健康御
奉公の事と相業邦家のため慶賀仕り益此度の御子弟の課業着々
と進み将卒の忠節を期待仕ること只感激の至りにて本人の努力も
勿論先輩各位並に御家庭からの御援助の賜と深謝仕る次第
に御座い益 今般上司よりの配慮に依り生徒に休暇を与え
らることに相成りが今国民等しく戦争を身近に感じ只管
戦斗しある時 生徒には夫々父母或は縁者の許に帰省を許
されし所以のことにて一には以て将卒の英気を養い一には以て孝養
を盡し後顧の憂なくならしめんとの意に別ならず希くは上司
の意を諒とし本休暇をして効果あらしめられんことを
休暇中の心得 往復の心構 非常の処置等に関してを本人に
申聞かせ置きなど 尚家庭に於ても将校生徒たるの矜持を
以て将来国軍の中堅たるべき大切なる赤子なりとの心組にて
放綻安逸を戒め進んで社会の活模範と士気の高揚とに
貢献するの檄を以て御指導を賜らば幸甚に存じ度 我等
も此期間学校に於て次期訓練の準備に邁進し再度旺盛なる
志気を以て御子弟の帰校を期待仕るものに御座い益 此処に休
暇帰省に当り幸便に託し以て御挨拶申述益
尚別紙に個人につき特に連絡申上べき事項相添え御参考に
供し度且生徒帰校に當りては通信蘭に御記入の上持参せらめられ
度御依頼申上益

八月九日
富士隊長   陸軍中佐 服部征夫
同庶務将校  陸軍大尉 小池三郎
同第六区隊長 陸軍中尉 前田長司
同第七区隊長 陸軍大尉 海老澤英夫
同第八区隊長 同    前田八郎
同第九区隊長 同    増澤一平
同第十区隊長 同    岡田生駒
父兄殿
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全体的に判読できない部分が多かったのだが、特に「に、も、が、は、や」等の助詞の判読が難しく文脈から適当に訳した部分もある。
また「益(ます)、度(たく)」も少々適当になってしまったのでご容赦願いたい。

この連絡書と共に三郎は帰省したのであるが、我家では父母や兄妹たちと再会し水入らずの時を過ごしたと思われる。
当然のことであるがこの間は家族間での通信はされておらずどの様な帰省になったのかは想像するしかない。
以前の投稿でも述べたが著しく悪化した当時の戦局の下、軍人である康男や三郎は言うまでもなく一般市民である家族に於ても本土全域が米軍機の空襲圏内になってしまった状況での一家揃ってのひとときはおそらく「一期一会」或いは「今生の別れ」の様相を呈したものになっていたであろう。

文中にある「別紙に個人につき特に連絡申上べき事項」に関しては、芳一が「家庭通信蘭」に記入したものを三郎が帰校時に持参していると思われるのだが(コピーなど存在しない時代であり)芳一が複写したものが残っている。
この「写し」も解読して投稿したいのだが、これがまた、あの芳一独特の難読文字で書かれており解読に少々時間が掛かりそうなのですこしご猶予頂きたい。