昭和19年4月1日 敬から三郎への葉書

 

前回投稿した長男(康男)の手紙で”最後”と書いたが、次男(敬)も出していた。

以前の様な弟に対する厳しい内容ではなく、むしろ優しい感じの内容である。
気候が良くなり気分が良い旨も書いてあり、体調が良いのであろう。

 

昭和19年4月1日 敬から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

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拝復 元気で勉励して居る由安心した。自分も元気で生産
増強に邁進している。此方も気候が良くなりも窓を一パイ
明けて仕事をしている。気も身も心ものびのびと
活発な運動の出来る時だ。御互いにしっかりやろう。
空襲必須の時局に鑑み御前の処も万全を期して
あると思う。俺の所も準備を万している。
俺も今日昇給した。有難い事と思っている。兄さんも
元気で軍務に精励されている。芳子も無事
女学校に合格。五日に入校の予定だ。
どうぞ上司、同輩に可愛がられる様、言い付を
良く守って、校則の中に生きる生活をせよ。   では又
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前回の康男の葉書の投稿の中で「敬の徴兵検査が間もなくある」様な内容を書いたが、どうやら間違いで、実際は康男の徴兵検査であった様である。
この時康男は”船舶練習部学生”であり、新たに配属を決めるための徴兵検査だったらしい。

敬は、手紙にもある通りこの日(4月1日)昇給しており、仕事に対するモチベーションも一層上ったようである。

空襲について触れているが、実際に本土への空襲が始まったのは2カ月程後の6月16日で北九州が標的となった。
つまりこの時点では本土への空襲は無かったのであるが、太平洋各地での敗退により制空権を失ったことで、空襲が時間の問題であることは周知の事実となっていたのであろう。
広島などの軍都も当然標的となったが、三郎のいた振武台(陸軍予科士官学校)も空襲に備える必要があったはずである。

空襲に関して、小生が子供の頃に母(芳子)から聞いたのは
「空襲警報が鳴ったら電灯を消して外に出て空を見るんよ。そしたらね、たーかい所を豆粒みたいなB-29がいっぱい飛んどるんよ。”あー、ありゃー呉にいったねぇー” 言うてね。三次なんか空襲されん思うとったけぇねぇ。あんまりこわーは無かったね。」
と云った話で、実際に爆撃された経験はなかったようである。

その後、映画やテレビなどで空襲の場面を幾度となく見ることがあったが、その度に母の云った「B-29の編隊」が轟音と共に夜空の彼方を飛んで行く光景を想像しては不気味な恐怖を感じたものである。

 

閑話休題 8月6日 原爆の日

今日は令和になって最初の8月6日
「原爆の日」である。

 

昭和20年8月6日

芳子(小生の母)は当時三次高等女学校の生徒で、午前八時十五分は勤労奉仕をしていた。
あの日の様子を話してくれたことがある。

朝草むしりしよったらね、広島の方が”ピカッ!”と光ったんよ。
「今、広島の方が光らんかった?」
ゆうて皆で話しよったら、そのうち
「広島がおおごとになっとるそうな」
云う噂が流れてきてね、
「どうなったんかね」
言うて心配しとったら
夜になって怪我人が汽車やらトラックやらでいっぱい運ばれてきたんよ。
そりゃ大変じゃったんじゃけぇ。

その後どうなったのかは話してくれなかったのだが、
今回ブログに投稿する関係で当時の状況をググったところ、
以下の記事を見付けた。

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=48894

まさに芳子の同級生たちの記事であり、恐らく彼女も救護にあたった筈である。
「修羅場」だったのであろう…
小生に話さなかったのは、思い出したくない記憶だったのだと思う。

芳一(小生の祖父)は被爆者手帳を持っていた。
直接被爆した訳ではないが、当時広島市にいた次男の敬の安否を確認するために、翌日か翌々日に広島市に入っており、入市被爆者となった。

当時の広島での状況については芳一からも芳子からも聞いておらず、また手紙や書類も残っていない(未だ紐解いていない手紙類もあるが昭和20年3月頃を最後に残っていない様子である)ので想像するしかないのだが、敬は爆心地からは4Km程離れた祇園町と云う所に住んでおり、爆発による直接の被害は受けていなかったと思われる。
しかし、この大惨事は元来病弱であった敬のその後の健康状態に少なからぬ影響を与えたであろう。

三男の三郎は当時、陸軍士官学校(神奈川相武台)在学中で被災していないが、戦後昭和30年頃から爆心地にほど近い相生橋の袂にある「和田ビル」というアパートに住んでいた。

和田ビル

現在の様子は画像の通り古びたアパートであるが、当時は広島の中心地のハイカラなビルで、かなり立派な感じであった。

子供の頃、正月の年始の挨拶に行ったときには、ベランダから間近に見える原爆ドームや真下を走る路面電車を飽きもせず眺めたものである。

 

昭和19年4月20日 母(千代子)から三郎への手紙 75年前の桜の押花入り

 

今回は約二週間ぶりの母(千代子)からの手紙。

中国地方ではどちらかと云えば寒い地域の三次も桜が盛りとなる季節となったことで、千代子の体調も少し良くなった様子が伺えるが、入れ替わる形で次男の敬が体調不良で自宅療養となってしまった。
心労の種は尽きない…

昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙④

今回の手紙は少々乱筆気味で難読文字が幾つかあったので、誤読があるかも知れないことをご容赦願う。
解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。
**************************
三郎殿 其後変りなく元気でやっていますか。
家の方にも皆変りた事はありませんから安心して下さい。
お父様も時々出張されます。芳子も元気で通学
しています。ほとんど仕業らしいですよ。

敬兄さんが先日来より躰の具合が一寸と思う様
にないので帰っています。少し無理をして勤め
たらしいです。三月二十八、九日に一寸と帰りた時は
元気であったが、今少し静養させた方がよろしい
と気分を安心に幾年かかっても元気にして
やらねば可愛想ですからね。別に心配せんでよろしい。

三次の桜も今頃が盛りです。昨日一寸と雨が降り
て、盛も一、二日中でしょう。桜の花も昔からよく
申した言葉で、パット咲いてきれいにちります。
唯れ一人花見らしい姿も見受けませんよ。
どうでも尾関山は桜の木を切って畠にするとか、
国民学校の生徒が今日も今日もと尾関山の下へ
ジャガイモやナンキンをうえつけています。

ニ、三日前に森保君が写真の代金のつりを
持って来てくれられた 手紙の中に写真は入れて
送りてやると申しておられた。お母さんも毎日
ぼつぼつ家の事や兄さんの食物におわれて
居ります。■■様方へ小包を送り出して
おきました。何かよい物があればと思うが
これとてなく、近日心配して送りますから
別に気をかねる事なく、よらしてもらって
遊びなさい。■■様方へはめいわくはかけませんから。

芳子の写真も兄さんが今少し気分がよろしく
なったら、うつして送らせますよ。
此の中の桜の枝は国民学校の桜ですよ。
芳子が取って来て、兄さんに送ってあげるのだ
と、本の中に入れておりた。

時々は板木の御老人へお便りを出してくれ。
又様子してあげます。
此の上とも充分躰に気をつけて病気に
ならぬ様注意しなさいよ。
兄さんよりもよろしく。

三郎様
              母より
**************************

次男の敬が体調を崩して自宅療養をしているようである。

敬は元々虚弱体質で、恐らくその影響で徴兵検査に合格できなかったらしい。
「…らしい」と書いたのは、敬のこの件に関しては母からも祖父からも詳細は一切聞いたことがなく、「あまり体が丈夫ではなかった」としか聞かされなかったからである。
恐らく内臓疾患か結核(発症前)だったのではないか?と想像するが定かではない。
千代子は軍人になった康男と三郎の行く末を大いに案じていたが、それにも増して「軍人になる事さえも叶わない」敬を不憫に思っていたようである。
因みにこの年の旧盆に三郎が帰省した際に撮った敬と三郎の写真があるので貼っておく。
(※敬はやはり生気がない様子。三郎の写真は露出に失敗したのか、かなり不鮮明)

昭和19年8月19日 敬自宅にて①
昭和19年8月19日 敬自宅にて②
昭和19年8月19日 三郎自宅にて①
昭和19年8月19日 三郎自宅にて②

桜の花にも触れている。
三次の名所である尾関山は桜の名所でもあるのだが
「唯れ一人花見らしい姿も見受けませんよ」
と千代子も言っている通り、当時は花見に興じるような情勢でないことは皆判っていたのである。

「あの時の桜」を芳子が押花にして三郎に送っていた。
手紙の最後に添えてある「ひとひら」がそれである。

色褪せてはいるが辛うじて「さくら色」だ。
75年前に愛でられることなく散っていった桜
今から愛でてやるか…

昭和19年 桜の押花

 

昭和19年5月4日 母千代子から三郎への手紙 軍隊に征く我が子も病弱な我が子も 母の愛は海よりも深し…

 

今回は母千代子から三郎への手紙。

軍人となった長男、陸軍予科士官学校で軍人を目指す三男を心配しながらも、病気療養にて軍隊にも征けない次男のことを「可哀想だ」と我が身の病気も忘れ看病している。
将に「母は強し」である。

昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙④
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙⑤
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙⑥
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙⑦
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙8

千代子の手紙は字が大きく(亭主の芳一とは対照的)読み易いが、今回は8ページに亘る”大作”である。幾つか誤字と思われる部分もあった。

解読結果は以下の通り。
注)■■は父芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

**********************
三十日出しの写真受取りました。
なつかしく家中で見ました。
相変りなく元気で何よりだ。
家に居た時、兄様の服など
かりて、早く学校へ行き度い
と云れて着て見た時と同じだ。
矢張り年は争えぬ。まだまだ
大きくならねばいけませんね。
家にも別に変りありません。
敬兄さんも安静に三階で
休んで居ます。三十日に父様
は祇園へ行って大兄様と二人で
下宿へ行って、あらかじめ荷物を
しまって、自動車の便があったので
送りました。(新見様の荷物が広島
へ行ったので、其の帰りに積ませて
かえりました。)まあ、当分休まねば
いけまい。別に心配もないが、一寸と
無理をしたらしい。静養の必要が
いりますのよ。夏休みには見られます。
電蓄もかっています。病気する
子供は、なお可愛想だ。これも運命
とあきらめねば仕方がない。
せめて軍隊に出てからならとも
思うが、世の中は一升にあまる事
はないと昔から云うが、ほんとだよ。
大兄さんも六月中は広島にまだ
居られるらしい。二十六日から四日間、大阪
の方へ実習に行ったらしい。大阪では
大もてであったとか。汽車のせいげん
で、なかなか帰って来ませんのよ。
お前の写真も兄さんへ送ってあげろ。
芳子も元気で休みなく通学して
います。三次の桜も散りて
今はツツヂの盛りですよ。
内のカヂカも去年と同じく
元気です。三階で兄さんと寝て
います。夜三階で居れば尾関山
の下の川で、カヂカが鳴ているよ。
兄様が病気せねば、家で三人の出世
を祈って他の心配はないけれどね。
敬が帰ってからは、私の病気は
どこへ行ったやら。とても元気になった。
メタボリンの注射もやめて、敬にして
います。三階の上り下りも一日一回
でも、足がだるくていけなかったのに。
一日には何度するか知れんが、夜分は
すっかりつかれてねますれど、又朝
は早くから眼がさめて、父様と
二人で看病しています。私等が
ついているから病人の方は心配せんでよし。
夏休みに帰るのを待って居るよ。
先日、隊付きで居られた代々木様が
帰られて宅へ来て下さった。
もし、豫科へ行ったら面会して
やると申された。よい軍人さんだ。
よく聞いてみると、あの人はお母さん
が、ちがっているのだそうだ。
前の母さんは死れたのだとか。人の
話だ。一日も元気で生人する
まで生きて居たいものだ。
■■様方へ何か送りたいと心配
して、田舎からウドンを心(手?)配した
から近日送ります。
■■の奥様からも手紙を今日
頂いた。お前は気嫌(気兼?)はせんでよろしい
から、外出の時はよりなさい。お礼は
きっとしますからね。
今度の外出は中旬の休みですか。
兄さんの方へ滋養を取るのに心配す
るので、お前へにも何か送ってやり度い
が、前の様に入手出来んので、気に
かからん事はないが、送る事が出来
ん。小包の都合も悪いし許して
くれよ。毎日気にはかかるのだがね。
お前は家の事は心配する事はいらぬ。
敬兄さんの病気の事も知らせん方が
よろしいとは思ったが、何れは知れる
と思って、つい書いて。心配させたね。
■■へ送った小包の中に食べる
物が入れてなかったから、何だか
淋しく思ったであろうが、都合が
悪いからね。入用の物があった
ら知らせなさい。出来たら送ります。
忙しくなかったら、板木へも時々は
便りをしてあげよ。お祖母様も年
だから、元気そうでも、まあ先は
短いからね。父様も来る
六、七、八日と福山で主事会議
があるので出席される。父様も
なかなか忙しい。母さんが畑の手入れも
ようせんので、みなやられる。日曜日も
度々はないし、私も今年だけ
用心すれば又、何でも出来るからね。
大掃除があるが、今から気にしている。
まあ、其の時はどうにかなりましょう。
今夜は雨が降っている。オコタは
いらぬ様になったよ。
旧官内の藤井へ便りをしたか。
出逢うたびにお前の話をされるからね。
又、父様からも便りがあろう。芳子も
送るよ。元気でやってくれよ。
病気では駄目だからね。
今夜はこれでおやすみするよ。
明日も元気でやってくれ。よくねむれよ。
五月四日 夜九時半
三郎どのへ              母より
**********************

親にとってどの子が可愛くてどの子は可愛くないなどない。
況や、我が腹を痛めた母親からすれば尚更どの子も可愛いに決まっている。
しかしながら、病に倒れ身近で療養する敬は母から見て最も「可哀想」な存在であったのであろう。

千代子は軍人となり戦争に征く事が必然となった康男や三郎のことはもちろん心配であるが、国を挙げて戦っているさ中に自分自身が思うに任せない「やるせなさ」を敬本人以上に感じていたのかも知れない。
もっとはっきりと言えば、例え病弱であっても戦争に征かなくて済むのなら母親にとってそれはそれで良い事であったと思うが、当時の状況では世間の目を気にしないで生きて行く事は難しかったのではないかと思う。
このまま肩身の狭い人生を送る敬を不憫に思ったのも無理はない。

「世の中は一升にあまる事はない」の意味がよく解らなかったのでググってみた。
多分「一升徳利に二升は入らぬ」と云う故事のことではないかと思う。
「能力以上の事を望んでも無理」と云った意味らしいが、健康な息子は出征し病弱な息子は肩身が狭い人生を強いられる戦時下では「これも運命とあきらめねば仕方がない」のが多くの母親たちの慟哭であった…

「敬が帰ってからは、私の病気はどこへ行ったやら。とても元気になった」とあるが、その後の状況からすると元気になったのではなく、不憫な息子を護る爲に母性が理性を凌駕してしまったのであろう。

母の愛は海よりも深し…である。

 

昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙 物のない時代…

 

今回は病気で静養中の次兄敬から三郎に宛てた手紙。

以前の手紙では過激な言葉で三郎へ檄を飛ばしていたが、(病気で)家族に迷惑を掛けてしまったと云う負い目からか多少の自虐も含めた大人しい内容になっている。

昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙①
昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙②
昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙③
昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。

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どうだ、其の後手紙を見ると元気の様
だが、まあせいぜい張切って御奉公して
くれ。充分体に気を付けて兄さん見
たいに張切ったのは良かったが… 此んな
事になって終い仕事は出来ず皆には
心配掛けるし何も得はない。一番損だ。
呉々も気を付けてくれ。
今は大分良くなりどうにか起きて
居る。未だ外には出ないが家の中でごそごそ
している。安心してくれ。殆ど大丈夫と思う。
ぼつぼつ相當ごちゃごちゃしていた本箱
や色々の本の整理をしている。芳子も良
く手傳ってくれるのではかどる。
芳子のは敵は本能寺でノートの古いの
を出しては使ってない所を切っている。
今頃の子供は変ったよ。仕方はないと言
うものの新しいのを余り使わない。
そんなのを持っていると気が引けるのかも
知れぬ。今になって自分等のノートの
残りが役に立った様な訳。
きゅうりが沢山なるので毎日きゅうり計り。
小学校の壁際(家の前の道路の)にづうー
と南瓜を植たのがもう沢山実がなって
いる。早く家に手を付ければよかったのに
小学校に先手をとられて終った。
毎日大きくなるのを見ているだけ。
畠の南瓜も大きくなり道行く人が
皆立止まって見ている。御父さんが大き
な棚を作られたので。
“なす”も元気良く大きくなりつつある。
ぢゃがいもが十貫計りとれた。三貫計り
献納して七貫程ある。
豆も沢山とは言えぬ迄も畠に位べて良
く出来た。
今日板木の御祖母さんが来られた。
税務署に要件があるとかで
今晩は泊まられる。
今日は此の辺りで
元気で勉強せよ
 四日
        敬
三郎殿
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「敵は本能寺」…
物資が不足しノートや便箋も新品を持つことが憚られた時代。
我が母芳子は敬の本箱整理の手伝いをしながら、兄達が使ったノートの未使用ページや未だ使えそうな余白部分を切り取って「再」利用していた様である。

以前にも述べたと思うが、息子である小生から見て芳子は決して「ケチ」ではなかった。それどころか身の回りのモノ(食器類や衣類、電化製品等)に関してはこだわりがあれば結構値の張るモノでも購入していた。

しかしながら「あの時代」を経験した世代だからであろう…何時使うかわからない様な包装紙や紙袋、古着など「捨てられない」ひとでもあった。

鉛筆を小刀(肥後守と云う折畳み式のもの)で削るのがとても上手だった。
紙縒り(コヨリ)も細くてピシッとしたものを縒ることが出来た。

「お母ちゃんはねぇ、クラスで一番上手じゃったんよ」と自慢たらしく幼い小生に鉛筆を削ったり紙縒りを縒って見せてくれたものである。

日本中にモノが溢れ何でも手に入る便利な世の中にはなったが、小刀で鉛筆を削りピシッと紙縒りを縒れる人はどれくらいいるだろうか…

 

昭和23年6月5日 投函されず手許に遺ったままの手紙…認められたのは敬が亡くなる二日前…

 

 

今回は終戦後3年程経過した昭和23年に芳一が書いた手紙なのだが、どうやら投函されなかった様である。

 

昭和23年6月5日 芳一の手紙 封筒表
昭和23年6月5日 芳一の手紙 封筒裏
昭和23年6月5日 芳一の手紙①
昭和23年6月5日 芳一の手紙②
昭和23年6月5日 芳一の手紙③
昭和23年6月5日 芳一の手紙④

解読結果は以下の通り。

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六月四日附のハガキ今朝お医者さんへ薬
を貰いに行って帰って拝見しました。茂も可愛そうに
遂にあの世に先立ちました由 姉上様の御心中
お察しするに餘りありです。五月三十日に私が
参りまして見てやったのですが最後であったと思えばせめ
て一夜泊って最後迄見てやりたかったと思います。
然し茂は果報者であったと思います。
可愛い女房に親切に介抱して貰った事は、誰
よりも果報者であります。悪るい顔一つ見せず
に介抱してやってくれた事は私も減にうれしく
存じます。親子は一世 夫婦は二世 と申しま
す。若死にした事は可愛そうでなりませんが
是れも前世よりの運命と諦らめる外はありません。
姉上様も嘸かしお力の落ちた事と思うますが
茂の為めになげかず 元氣を出してあれの瞑福
を祈ってやって下さい。そして残った妻子が路
頭に迷わぬ様にしてやって下さい。何れ君田の
親類も何とか善くされると存じますが姉上
様や兄弟が力になってやらなければと思います。
私も今日でも参上廻向してやり度いのですが
私方にも敬が全く絶望状態となり氣分はハッキリ
して居りますが食事も進まず重態に陥りましたの
で二三日前からは夜もロクロク休まずに見てやって
居ります様な状況で参れません。何れ此処二三日
の内と思われます。可愛そうでなりませんが
もう手の尽くし様もありません。短い寿命と
諦める外ありません。あまりにも意識が明瞭な
ので苦しい事だろうと たまらなくなります。
お互いに子供に先立たれて。情ない事であり
ます。姉上も私も何と不運な事かと存じます
が、まあ私も元氣を出してやって居ります。是れも
私等の前世の種のまき様が悪るかったので因果
の報いでありましょう。善根を施して罪をわびる
外ありません。お寺参りでもして子供の冥福を祈
ってやりましょう。
つまらぬ事を申しましたが世の中は凡て運命で
あります。天にまかす外ありません。
どうか落胆せずに元気を出して居て下さい。
同封の香典どうか茂の霊前に供えて下さい。
残った嫁に呉れぐれもお悔み申したと傳えて
下さい。元気を出して子供を育てる様にと申して
下さい。
先は不本意乍らも書中でお悔み申し上げ
ます。私方にも変った事があれば直ぐに
様子しますから どうか御心配下さらぬ様願
います。
皆様の御自愛を祈ります。
六月五日 夜十二時半
芳一より
玉井姉上様
茂の遺族様

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芳一は小生の実祖父なのだが、その家族関係に関しては正直殆ど知らない。
芳子(芳一の娘、小生の実母)がその類の話を殆どしてくれなかった事が大きいのだが、「何故話してくれなかったのか?」に関しては不明である。

この手紙の宛名にある「玉井タズノ」なる女性が芳一の実姉なのか義姉なのかもハッキリしないのだが、文面から察するに義姉のようである。

手紙には甥の「茂」の訃報に触れているが、この時既に次男の敬は危篤状態であり親戚とはいえ他人の不幸を悲しんでいる余裕は無かった筈である。
事実、手紙の内容からは葬儀の際にお坊さんが説く様な諦めとも自虐ともとれる文言が並んでいる。
そのことに自ら気付いたから投函しなかったのか、或いは混乱に紛れて投函しそびれてしまったのか、これも不明である…

戦争で長男(康男)を失い、戦後の大混乱の中で病に伏した妻(千代子)と次男を必死で看病した芳一。

次男の敬が他界したのはこのわずか二日後の昭和二十三年六月七日であった…