昭和18年 三男(三郎)陸軍予科士官学校受験志願 関連書類vol.1

時系列順という形で前回までは長男(康男)の手紙・葉書の投稿となっていたが、昭和18年3月23日の葉書を最後に昭和19年2月28日の父(芳一)から三男(三郎)への葉書まで約1年間分の通信物が小生の手元には残っていない。実際にはあったものと思うが所在不明である。

と云う事で上述の芳一から三郎の手紙の投稿となるのだが、この手紙の内容は芳一が陸軍予科士官学校に合格し埼玉県北足立郡朝霞町(当時)にあった振武台校の生徒となった三郎に宛てたものである。そこに至るまでに”志願~受験前身体検査~受検~合格発表~入校”に関する諸々の書類が遺っており、今後の投稿内容にも拘わってくるので数回に亘ってそれらの投稿をしたいと思う。

1.昭和十九年度 陸軍予科士官学校・幼年学校 生徒志願者心得
まずは、受験要綱にあたる”昭和十九年度 陸軍予科士官学校・幼年学校 生徒志願者心得”である。
結構大きなサイズでA2サイズに近い”420mm×545mm”で、昭和18年2月に教育総監部より発行されている。全体画像を冒頭にアップしてあるが以下にもう少し見やすく4分割のもの表示するのでご覧頂きたい。(大きな書類の爲、PC等ピンチアウト操作の出来ない場合はかなり見辛いと思うがご勘弁願う。)

生徒志願者心得(右上)
生徒志願者心得(左上)
生徒志願者心得(右下)
生徒志願者心得(左下)

内容は
①.採用要領(志願資格、出願期限、採用検査内容詳細、検査場一覧)
②.出願より受験迄(願書記載の注意、願書差出上の注意、願書差出後の注意、受験心得)
③.陸軍部内より陸軍予科士官学校生徒を志願する者に関する特例
④.注意
⑤.身体検査に就て志願者の参考
⑥.其の他
となっている。
学科試験は”国語・作文・数学・歴史及地理・理科、物象”であり、さすがに英語はない。
注意する部分に赤線を引きミスの無い様注意している様子が覗える。
その当時(旧制)中学3年(或いは4年になったばかりか?)であった三郎が受験志願を決意した大きな理由には、戦局の重大化による長男(康男)の徴兵があったものと思われる。加えてこの三男は上の二人の兄達に比べて体格も良く頑強だったこともあったかもしれない。いずれにせよ”どうせ軍隊に行かざるを得ないのなら…。”と云う思いがあったのは間違いない。

余談であるが、小生広島の出身で”⑥.其の他”に広島陸軍幼年学校の所在地が広島市基町とあるのをみて、その場所が2年後の昭和20年8月6日の原爆投下によって壊滅した場所であることを思い浮かべた。このとき三郎と同じように意気軒高に幼年学校を受験し合格した若者達が皆その惨劇に巻込まれてしまったのかと思うと言葉が無い…。

2.陸軍予科士官学校生徒 志願者身体検査出頭通知書

志願者身体検査出頭通知書

学科試験の前実施される身体検査への出頭通知書。
この身体検査に合格して初めて学科試験が受験できる。ただ、学科試験に合格し予科士官学校に入学する際にも再度身体検査がありその時点で合格取消しとなる場合もあったようである。因みに”広島偕行社”とは大日本帝国陸軍の元将校・士官候補生・将校生徒・軍属高等官の親睦組織であったとのこと。詳細はインターネット等でご確認願う。

3.昭和十九年度 陸軍予科士官学校生徒志願者学科試験日割表及受験者心得

学科試験日割表及受験者心得

こちらは昭和18年7月に教育総監部が発行したもので、志願者に対して学科試験の詳細要領を説明したもの。
・学科試験の日程・時間割
・学科試験の集合時間、服装、携行品、解答方法、試験場での態度等の注意
・学科試験終了後に必要な提出書類、合格時の通知方法及びそれに対する返信方法
・合格時の現在学中校への退校手続に関する注意
・教育総監部、陸軍予科士官学校(朝霞振武台)の連絡先
が記載されている。

これらの手続きを経て、昭和18年9月20日~22日の三日間の学科試験に臨んだのである。

昭和18年 三男(三郎)陸軍予科士官学校受験志願~合格手続き 関連書類vol.3

前回に引続き学科試験合格後に軍部側から届いた御祝・激励・挨拶状2枚を投稿する。

1枚目は12月4日に三郎宛に届いた広島師団兵務部長 両角少将からのもの。画像では判読出来ないと思うので”解読結果”を記す。

陸士広島師団兵務部長封筒
広島師団兵務部長 両角少将からの御祝・激励状

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私は広島師団兵務部長両角少将です
熾烈な決戦が大東亜の全地域に於て連日繰返されている時勃々たる雄
心と報国挺身の気概を凛然たる眉宇に漲らし若く逞しき諸君が例年に
見ず数多く陸軍予科士官学校を志願され而も其の数多き志願者の中か
ら選ばれて見事合格の栄誉をうけられた諸君は正に俊材中の俊材にて
衷心よりお祝い申上げると共に益々心身を練り健康に注意し晴の入校
に萬一の差支えなき様充分に注意されたいと念願する次第です
戦局は今や誠に重大なる段階に入り北に南に東に西に大御稜威の下忠
勇無比なる皇軍将兵の勇戦奮闘により赫々たる戦果を挙げつつあるの
でありますが敵米英の飽くなき非望は益々執拗に且つ強力に反攻を挑
み中部太平洋に印緬国境に将又中支に死物狂いの動きを示している事
は既に諸君の承知している通りであります
此の時に當り元気溌剌たる諸君が国軍将校として明日の戦線に活躍せ
んとし見事難関を突破し入校せらるる事は誠に重大なる意義を有する
と共に諸君の責任も又重大なりと云わねばなりません
諸君は今や合格の喜びにひたると共に胸中深く期する所あり敵米英撃
滅への強き闘魂に漲り一死国難に赴く烈々たる赤誠は溢れ国運を双肩
に擔い仇敵必滅せずんば止まざるの一念に燃え立って居る事と信じま
す此際諸君の感激と覚悟を次に来るべきものに伝え二陣三陣続くもの
への激励と致したいと思いますので諸君の意気と感激と決意を一文に
綴り私宛に是非送ってほしいと思います
では諸君が元気に入校せられ一日も早く立派な将校となり戦場に存分
の活躍せらるる様希って居ります
***************************

少将辺りの階級の人になると大分文書内容が変って来る。まず句読点と云うかセンテンスに切れ目がない。当時は若い人でもあまり句読点など使わないのではあるが、これくらい完璧に使っていないとむしろすがすがしい。小生などはダラダラと書いてしまって読み辛くなると思い句読点を多用しがちなので参考になる。元々句読点は無学の輩に対する補助的なもので教養のある者に対して使うのは失礼であった(現代でもそう感じる方はいらっしゃる)のだから今後は出来るだけ使用を控えたい。

また激励文だから当然と云えば当然であるが、激励や気持ちを鼓舞するような言葉が非常に多い。
例えば
・勃々たる雄心
・凛然たる眉宇に漲らし
・忠勇無比なる皇軍将兵の勇戦奮闘
・赫々たる戦果
・一死国難に赴く烈々たる赤誠
・仇敵必滅せずんば止まざるの一念
など、ひと昔前の経営者が年頭の挨拶等で好んで使いそうな文言が並んでいる。まさに軍国主義的な表現である。
がしかし、このいわゆる軍国主義的な言葉や行動を一概に”ダメ”とする風潮には反対である。誤解を恐れずに云うが”使いよう”である。やる気にさせる際に使うのなら良いのに、無茶をさせるためや洗脳するために使うからダメなのである…と思う。
そうそう、もう一つ特筆する部分がある。先にあげている封筒の画像をよく見て頂くと判ると思うが、この封筒は事務用書類か何かの裏紙で作られている。更には書面自体も試験解答用紙(さすがに未使用分であるが)の裏紙である。仮にも陸軍少将の文書であるにも拘わらずである。それ程物資不足が逼迫していたと云うことなのか、或いは国民に対し質素倹約を強いている立場上のパフォーマンスだったのか…。多分その両方であろう。

さて、もう1枚は年が明けた昭和19年2月の入校直前に届いた陸軍予科士官学校生徒隊富士隊長の服部少佐から父母宛に届いた御祝・挨拶状である。

富士隊隊長 服部少佐 挨拶状

この服部少佐が三郎が配属される富士隊の隊長である。
こちらも画像では判読できないと思うので”解読結果”を記す。

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拝啓 戦闘益々苛烈を極める大東亜戦下高堂益々御清建の段奉賀候
陳者今般御子弟には年来の志望達せられ目出度入校の栄に浴せらるるに
至りしこと御本人は素より御一統様には嘸かし御満悦の御事と拝
察仕り候 御子弟には當中隊に編入せられ私共直接御世話
致す事と相成候就ては御一家の玉寶を預り訓育指導の任に
當るの責務重且大なるを自覚し粉骨砕身全力を竭して
努力仕り以て国家の要求と御父兄の御期待に副いたき
所存に御座候 惟ふに御子弟教育の爲には御家庭と當方
との終始隔意なき連携を保ち一致協力其完璧を期するに
非れば到底良果を収め得ざる事と存候間本校よりの諸注
意を熟読被下入校のための諸準備と御本人の健康増進
と中隊に対する緊密なる御協力とを願い上ぐる次第に御座候
時下折角御自愛の上目出度入校の日を御待被下度候
先は右乍畧儀御祝旁々御挨拶申逑候          拝具
   昭和十九年二月三日
            生徒隊富士隊長 陸軍少佐
                     服部征夫
 父兄各位殿
          中隊長 陸軍少佐 服部征夫
          区隊長 陸軍大尉 栗山俊明
              同    小池三郎
                   堀 貞雄
                   前田八郎
                   岡田生駒
              陸軍中尉 増澤一平
                   安藤仁一
                   海老澤英夫
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陸軍予科士官学校からのものは2通目であるが、前回のものが学校公式のものだったのに比べ、こちらは実際に生徒を受持つ隊長(担任)からのもので、手書き(ガリ版ではあるが)の多少親近感を醸したものである。
前回のものと同様”漢文調の候文”である。見慣れない語彙としては
・高堂:この場合は”御両親様”又は”御家族様”の意と思う
・陳者:”のぶれば”と読むらしく”申し上げますが…”の意
・御一統様:入校する全生徒及びその御家族皆様
・嘸かし:”さぞかし” 現代では漢字で書くことは殆どないと思う
・責務重且大:単純に”重大”とせず”重且大”としているところが興味深い
・全力を竭して:”全力をつくして”と読み”尽くして”と同意
・候間:”そうろうあいだ”と読み”間”は理由を表すらしい
・熟読被下:”熟読くだされ(り)”と読むらしい
・折角御自愛:”折角”には”全力で”の意味もあり”努めて”とか”精一杯”の意
等々沢山ある。
内容的にも前回同様に”御子弟を大事に責任を持って教育しますので御安心下さい”的な内容であるが、しかし軍隊とはあらゆる面で厳しい世界であり両親としては息子の事が心配で心配で仕方なかったようである。【次回以降の投稿での内容となるが、父(芳一)は三郎入校当日に付添ったにも拘らず、一旦帰広した後再び(三郎に内緒で)生徒隊長に面会に行っているのである。】

これらの他、陸軍予科士官学校長への身元保証書(父芳一が保証人)の提出や在学していた中学校への退学手続き等を終えて入校となる。

昭和19年2月28日 三男(三郎)陸豫士官学校入学 父(芳一)からの葉書

昭和十九年四月九日 三郎十八歳 陸軍予科士官学校にて

今回は陸軍予科士官学校(振武台)に合格し入校した三男(三郎)に父(芳一)が送った葉書。

長男(康男)の手紙・葉書で大分続き文字に慣れたつもりの小生であったがこの芳一(小生にとってはじいちゃんなのだが)の文字はしんどい。とりあえず”解読結果”は以下の通り。
注)■■様は東京在住の芳一の知己。長男(康男)に続き三郎もお世話になっている。

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多分大丈夫とは思い乍らも不安の裡に二十七日学校
に行き、即日帰郷。或は区隊変更等の事あるを聞き、生徒
隊長殿の御挨拶を承って一先安心した。そして正服姿のお前
を見て嬉しく思った。此上は諸先生殿の御命令を尊奉して
一意勉学に精進し、三中代表者として恥ぢざる将校生徒
たるに専念せよ。それには食事と運動に留意して身体
の健康増進が第一である事を常に念頭に置けよ。お父さんは
二十七日午後九時三十分発急行にて福塩線経由二十八日午後六時に無事
帰宅したから安心せよ。■■様へ礼状を差出して置けよ。
挨拶状は書いて送ってやるから、そちらから発送せよ。詳細は又
手紙で通達する。同僚と仲良くし皆の世話をする事を忘る
なよ。先輩加藤美明君に従えよ。父母はお前の健生を祈る。
では帰郷通達まで。当方は一同無事。母も元気になった。恙し
****************************

難読文字のオンパレード。何なんだこれ?って感じである。受取った側は本当に読めていたのだろうか…。
即日帰郷、生徒隊長殿、聞き、午後九時三十分発急行、福塩線、等々判読できたのが不思議なくらいの象形具合である。加えて文字が小さいのが難易度を増している。最後の”恙し”も暫く解らなかった。
内容は、多分この一週間くらい前に三郎に付添って入校手続きに上京(埼玉であるが…)したはずなのだが、何かの心配事(学校側から何か問題があって区隊変更するかもしれない旨の連絡があった?)があり、三郎には黙って再度学校へ行っている。何が問題だったのかは不明だが、生徒隊長と話をして一安心したと書いている。当時、広島それも結構山奥の三次からの上京は時間も費用も相当かかったと思う。さらに戦況の悪化に伴い列車の便も少なくなっていた様だから余計であっただろう。短期間に二度の上京しかも2度目は”とんぼ返り”と来れば疲れない理由がない。
小生が思うに、芳一の心配もさることながら恐らく母親(千代子)が”行ってきなさい!”と芳一の尻を叩いたのではなかろうかと…。母は強しなのである。

昭和19年3月14日 三郎から父(芳一)への状況報告

今回は陸軍予科士官学校に入校して間もない三郎が父(芳一)に送った近況報告。

A5サイズの両面書きとなっている。
A4サイズのものを半分に切ったものかと思ったが”規格A5判”とあるので最初からこのサイズの様である。便箋と云うよりはノートの様なものかも知れない。
しかし、他の手紙等にも通常の便箋で両面書きして節約しているものが目立つ事から、物資不足が相当深刻な事が判る。

毛筆で書いているが案外達筆で難読部分はなかった。

昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙②
昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙③
昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■様は芳一の知己で当時三郎がお世話になっていた方

***************************
拝復 陸軍記念日出しの葉書確かに受取りました。
私も元気一杯張切って豫科の深奥に向い猪突猛
進中であります。家の方も皆元気でお母さんが働き出
され芳子も頑張って居るとの事大いに安心致しました。
少し過ぎ去った行事を羅列してみましょう。先づ三月六
日、入校式東校庭に整列、校長閣下、代理幹事閣下
の命令を以て正式に予科生徒となり大いに感激致しま
した。三月九日、六十期生の一部我等は早朝学校を出
発。宮城、靖国神社、明治神宮に参拝し入校の報告
をなし決意を新にしました。翌十日、陸軍記念日(三十九
回目)には早朝春雨けぶる中に払暁遭遇戦を行い血を
湧き肉躍るを感じました。次に来るべき事について一言。
三月十七日に航空士官学校に行かれる航空関係の方の
卒業式があります。優等生は六人で御賜品を戴か
れます。三月二十日より私達の学科が始まります。
数学、物理が断然多く、法制、化学、国漢、国史、心理、
修身等。私は語学は支那語であります。又
三月二十一日、春季皇霊祭には第一回の外出が許可
されました。私は■■様の方へ行く積りです。非常に
皆喜びました。東京を大手を振って闊歩出来ます。
未だ倉野さんに逢えていませんが、元福山に居た時
一級上であった(南校)髙畠尚志さんが伊吹隊の第二区
隊居られ逢いました。二年生です。地上部隊ですか
ら残られます。倉野さんも地上です。三中出身者に
も未だ誰にも逢いません。早く逢いたいのですが、
中隊が離れていて一寸行けませんが、最少し経ったら
各縣出身者の集会があるそうですから、その時には
明瞭に分かります。分かったら又お知らせ致します。
我が富士隊の広島縣出身者の二年生の芸備
線の駅向原町出身の今岡さんと云われる方が私
の区隊に逢いに来て下さいました。非常に嬉しかったです。
同縣というと非常に親しみを増します。私の区隊の戦友
に呉一中出身者が一名(本籍府中出身)、廣幼出身者一名 合計廣島縣出身者は我が
区隊には三名、山口縣一名、岡山縣一名、島根縣一名という
様なことですが、一年生の区隊には指導生徒殿と
云われる方が居られて勿論二年生の方の優秀な方で
すが、私の区隊の指導生徒殿は市井忠夫様と云われる方
です。私達が色々実際何から何まで教えて戴くのです。
その方が廣島幼年学校出身者で私の言葉を聞かれ
て直に「貴様は廣島だな」と云われました。本籍地
は新潟だそうです。お知らせして置きます。
あ、忘れましたが入校式の時の写真が十種類出来、私は全部
購入しましたから受領したらお送り致しますから、それにて
お察し願上ます。又外出したら私の写真を撮る
積りです。では未だ寒気厳しき折柄御身体を大切
に無理をなさらぬ様呉々もお願い申し上げます。
乱筆御免下さい。              敬具
***************************

まず、”宮城(キュウジョウ:ミヤギではない)だが、当時は”皇居”ではなくこちらが通称だったらしい。靖国神社、明治神宮と参拝し皇国軍人の一員となったことを実感したであろう。文面からもナショナリズム的な意気込みが感じられる。

ところで、ナショナリズムは何故我々の血をたぎらせるのだろうか。
小生の若い頃の暴走族などは”ヤンキー”と云いながら”特攻ハチマキ”や”日の丸ステッカー”で日米ナショナリズムの融合体(?)であったが、深く歴史など勉強をしていない若者達(一部ではあるが)を惹きつけてしまう魅力(魔力?)があるのは間違いない。
妄信的なナショナリズムは害悪でしかないが、オリンピックやワールドカップを観るにつけ適度なナショナリズムは人間としての正常な感性だと思う。
しかし、悲しいかな戦時中の我が国におけるナショナリズムは妄信的なものになっていた誹りは免れない。

”払暁遭遇戦”とは歩兵隊が前進する際に敵部隊と遭遇した事を想定した戦闘訓練でこれが明け方(払暁)に実施されたと云う事である。

春季皇霊祭は現在の春分の日だが、初めての外出が許可されたことを甚く喜んでいる。三郎だけでなく”皆”が喜んでいたようであるから強がってはいても学校生活は厳しかったのであろう。

後半は同郷や近県の出身者の話になっている。やはり故郷は恋しいのであろう。郷愁…。これは今も昔も変わらない。

昭和44か45年の正月(小生が小学4か5年生の頃)だったと思うが、広島市にあった三郎の自宅で三郎一家と小生一家に父芳一も集まって新年会を開いていた際、芳一が”これは三郎が小学校の時に書いたんじゃぞ。上手じゃろう。”と自慢げに半紙に書かれた書を皆に見せたのだが、三郎はちょっと恥ずかしかったのか芳一からそれを奪い取り”余計な事せんでもええ。”と怒ってチリジリに破いてしまった。こんな事もあったせいで小生にとっては”軍隊経験のある怖い伯父さん”なのであった。今回の毛筆書きで思い出した話である。

最後の辺りで三郎が言っている入校式の写真については次回の投稿にてご紹介させて頂く。

 

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校(振武台)第六十期生徒入校式の様子

今回は前回の投稿にあった陸軍予科士官学校(振武台)第六十期生徒入校式の様子を写した写真を紹介する。

厚みのあるしっかりした写真なので学校側が公式に撮影し生徒に販売したものと思う。

裏書のあるものと無いものとがあるので、説明書きが不十分であることをご了承願う。

1.校長閣下代理學校幹事 宮野正年少将閣下の閲兵①

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式①

2.校長閣下代理學校幹事 宮野正年少将閣下の閲兵②

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式②

3.校長閣下代理學校幹事 宮野正年少将閣下の命下

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式③

4.入校式(整列)の様子①

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式④

5.入校式(整列)の様子②

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式⑤

6.入校式(整列)の様子③

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式⑥

7.入校式(整列)の様子④

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式⑦

写真で見る限り、当日は晴れていた様子であるが、雪が積もっており寒かったのではないか。
今日では朝霞辺りはそんなに雪が降る地域でもない様に思うが、当時は”ちょくちょく”降っていたのか、或いはこの時も”たまたま”だったのか。
校舎の屋根の雪の残り具合から察するに”たまたま”の様な気がするが…。。

ググってみたところウィキペディアに「60期 陸士 1824名」とあった。ただ、正確かどうかは自信がない。しかし、写真で見る限りその位は居そうな感じの生徒数である。

この写真をみて父(芳一)は喜んだであろう。しかし母(千代子)はどうだったか。むしろ息子の行く末を案じ不安が増大したのではないだろうか…。

昭和19年3月15日 次男(敬)から三郎への檄文

今回は次男(敬)からの葉書。

三郎も大変である。家族全員や友人たちからの返信が引きも切らさず届くのだから…。
訓練後の束の間の時間を手紙を書くことに取られ肉体的にはしんどかったであろうが、故郷とつながる嬉しさと安堵感が勝ったのであろう。まめに返信している。

敬は前回の葉書でも結構厳しい言葉で檄を飛ばしていたが、今回もかなり厳しい。

昭和19年3月15日 敬から三郎への葉書①
昭和19年3月15日 敬から三郎への葉書②

かなり横長の葉書なので画像では文字が読み辛いかも知れないがご勘弁を。
解読結果は以下の通り。

**********************
御葉書有難う。元気で勉励している由安心した。
どうだ、もう大分軍隊生活にも馴れた事と思う。
御前自身の名誉でもあり、一家・三次町として
の誇りでもあるのだ。
御前も今迄の子供では無いのだ。
自覚してやれ。一生懸命やるつもりだ
とか言っているがそんななまぬるい事では
駄目だぞ。死ぬる迄やれ。
御前の体であって御前ではないのだ。
自分と言うものを持て。自分の一挙手一投足
が天に通ずる様行動せよ。
何事についても他人に遅れをとるな。
例え死に直面してもだ。
御前も今迄家にづうーと居て相当わがまま
に育って来た。御前にも悪いとは良く
譯っていた事と思うが。まあいい。
今度と言う今度は一番大きな親孝行
の出来る体になったのだからな。
此の上まだ親に心配に掛る様な事したら
腹を切って死ね。
御前は幸運にも選ばれて入校出来た。
而し、不幸にも選ばれざりし幾百幾千
万の同胞の居る事を心せよ。
又、うらみをのんで南海の底に沈んだ
幾千万の英霊に答えよ。
いゝか今更此んな事言わなくったって
よく解っている事と思うが。
御前の行動は御前自身で処して行く
のだぞ。やがては幾百数千万の部下を
指揮して作(策)戦する様になるのだ。
心して動作せよ。
今のその気持ちを何時迄も持って益々
決心を新にし奮闘せよ。
御前の健康と武運長久を
広島の地より祈る。
**********************

今回は葉書ではあるが”封緘葉書”と云うもので、実質4面に書くことが出来るもので、”檄”の量も多い。
割と大きめの文字でそこそこ綺麗なので読み易く、難読文字はなかった。

ありとあらゆる檄のオンパレードであるが、小生には何故か懐かしい響きなのである。
よくよく考えてみたら、以前勤めていた会社では案外普通にこんな檄が飛び交っていた。
・子供では無いのだ
・死ぬる迄やれ
・他人に遅れをとるな
・例え死に直面してもだ
・腹を切って死ね
・決心を新にし奮闘せよ
等々、日常的に浴びせられていたフレーズであり、夜寝るのが怖かった時期もあった。(寝るのが怖いと云うよりは目が醒めるのが恐怖だった。)サザエさんシンドロームも嫌というほど実感した。
それと全く同じ”ブラックの香り”である。

がしかし、同じ”ブラックの香り”はするのだが、片や戦地に向う実弟に”生きるために頑張れ”と飛ばす檄であり、もう一方は”給料欲しければ働け”と飛ばす檄である。持つ意味のレベルが根本的に違う。当時の軍隊では任務遂行しつつ生存するために必要な檄であったと思う。

現代社会における企業が当時の軍隊教育や軍人精神をそのまま取り入れる事には同意しないが、かといってこれら”軍隊”のエキスを全く排除してしまう事もどうかと思う。要は使い方であり、更に重要なのは上下の信頼関係である。

少し脱線したが、長男の康男と違って次男の敬が三郎に厳しい檄を飛ばすのは、年齢が近く(3歳違い)多分10年近くは一緒に幼少期を過ごしていた事と、病弱で軍人になれない悔しさを弟の活躍に託したかった事が大きいと思う。

三郎と敬 昭和15年頃か

振武台(陸軍予科士官学校)入校直後の三郎の日記発見!vol.1

遺品の中の手紙・写真等に混じって三郎の”素養検査ニ関スル筆記”と云うメモ帳があったのだが、ここまで内容を見ておらず気になったのでパラパラとめくってみたところ、最初から終盤までは各教練のノート(メモ)だったのだが、最後の20ページ位に入校直後の2月25日~3月8日までの日記及び落書きが見つかった。

これまで葉書や手紙の記述だけでは判明しない内容に関しては小生の判断や想像で記載していたが、それらの幾つかについてはこれらの日記に記載があったので訂正もしながら投稿してゆく。

三郎は2月24日に振武台(陸軍予科士官学校)に入校した様で実際に教練が始まったのは翌2月25日からだった。まずはその2月25日の日記から。

昭和19年2月25日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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昭和十九年
  二月廿五日

軍人生活第一日の朝だ。「起床」‼ の聲と共
に飛び起きたと云いたいが、毛布の中よりゆすぶり
出た。直ちに洗面。それが終って舎前集合。
雄健神社参拝。皇居 皇大神宮 故郷
遥拝。朝食。朝の自習
~英語の素養検査あり。不出来だ。
も少し勉強しておくべきであった。
後で聞くと語学優秀の生徒のみ試験し
たのだそうだ。午食。
午後、矢張自習~室にて自習。身上
調査あり。区隊長殿と面接す。
中学校の成績を下げない様に 又
武道をしっかりやる様に 又 三男
だからピンピンはねまわる様に 又
早く俗塵から脱する様にお話しがあっ
た。つづいて自習、夕食、入浴。夜は適意自習、反省。
It is long since I sow last.
***********************

・雄健神社:”おたけび じんじゃ”と読む。
ウィキペディアには以下説明がある。
【振武台・陸軍予科士官学校の営内神社である。 祭神は「天照皇大神、明治天皇、経津主命、武甕槌命、大国主命」と「陸軍予科士官学校出身将校及本校職員文武官戦没者」である(境内立札)。戦没者は1943年(昭和18年)時点で3032柱だったという。】
前年時点で3千人以上の戦没者だと云う事を生徒たちが知っていたかどうか分からないが、戦慄の数字である。小生含め現代の軟弱男子ならこの数字を聞いた時点で退校を考えるであろう。もっともそれ以前に受験する勇気があったかどうかも怪しいが…。

入学試験に英語は無かった筈だが入学後は授業があった様子。当時世の中では英語は敵性語として排斥運動が起きており、米国発祥スポーツであるプロ野球などは興行中止を免れるために徹底的に和訳用語に変更されたらしいが、実際には和訳できない用語も多く軍内部含め社会全体ではあまり浸透しなかったらしい。この辺りの状況は現在のどこかの隣国とよく似ている。

区隊長殿との面接の中での”三男だからピンピンはねまわる様に”の意味が不明。”家を継ぐ必要が無いからケガや死を恐れずガンガン行け”の意味であろうか…。
また”俗塵から脱する様に”とは”シャバの事は忘れろ”であろう。まだまだ若い少年たちである。本来ならなら彼女とデートしたり家族と旅行に行ったりと楽しいことが沢山ある時期であり、ホームシックになる生徒も沢山いたであろうことは容易に想像できる。指導する側としては単に厳しくするだけでなく、メンタルの部分からの指導が大変であったと思う。最終的には”信頼関係”なのである。

最後の英文も意味がよく分からない。
”sow”だと”種まき”となり???である。多分”saw”の間違いで”最後に英語(の教科書)を見てから時間が経ってしまった。(だから試験ができなかったので勉強しよう)”の意味ではないかと思う。

何十年も英語の勉強をしておらず、最近頻繁にグーグル翻訳のお世話になっている小生の見解なので正しいか否か保証はしない。(笑)

振武台(陸軍予科士官学校)入校直後の三郎の日記発見!vol.2

 

今回は日記シリーズ第二弾 昭和19年2月26日の日記なのだが、振武台二日目の日記はたったの5行しかない。

しかも翌27日の日記は25日の裏ページに書かれており、26日は破り取られたページに書かれて挟まった状態になっていたので、後から書かれたものと思われる。
忙しくて書き忘れたのかもしれない。

昭和19年2月26日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

******************
  二月廿六日
軍人生活第二日目。午前中は前日に同じ。
午後は身体検査。廿四日の
續き。内科一般、尿、等々検査
あり。今日ではん決が下るのだ。
******************

午後は一昨日の続きで身体検査があったようで、この検査結果に何らかの異常があったりすると”入学取消し”や”区隊変更”になる場合もあったらしい。
それを踏まえての”今日ではん決が下るのだ。”であろう。
以前投稿した中で父(芳一)が2月28日にとんぼ返りで学校訪問した事を記したが、ひょっとするとこの身体検査に於いて何らかの異常が見つかり、その件で学校側から呼び出されたのかも知れない。

これだけでは少々淋しいので、メモとして残されていた整理棚の様子や落書きをアップしておきたい。

まずは整理棚の様子。

三郎 振武台 整理棚の様子

最上段:剣道防具、柔道着、飯盒、背嚢、
 上段:帽子、衣類(外套等)
 中段:ひざあて、ひじあて、作業着、寝間着
 下段:ゲートル、石鹸、下着類、手袋、銃器手入具
 壁掛:水筒、麻袋、手拭い、襟布等干し

などが、整理整頓されている様子がわかる。
おそらく、毎日風紀委員がチェックし整理整頓されていないとこっぴどくやられたのであろう。小生も30年位前に”管理者養成学校”なるところでやられた記憶がある。会社の教育制度の一環であり当時半ば強制的に参加させられたカリキュラムであったが、今思えば良い経験であったと思う。

オマケであと2枚アップする。

これは”決意表明”のようなものか…。

三郎 決意表明書?

こちらは”落書き”。男子はやっぱり飛行機に憧れる。

三郎 戦闘機の落書き

17歳と云えばまだまだ幼さの残る歳である。本来あったはずの楽しい時間を犠牲にしてまでも国家や家族を護るために戦ってくれた先達の姿を知れば知るほど感謝するほかない小生だが、振り返って現在の我が国。果して国防に携わって下さっている方々に感謝出来ているだろうか…。

三郎 振武台日記 vol.3

 

三郎の振武台日記 第三弾は昭和19年2月28、29日の二日分

2月24日に入校以来まだ数日しか経っておらず、馴れない事だらけの中で奮闘している様子が良く解る。

まずは27日の日記から。

昭和19年2月27日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

*****************
二月廿七日
本日は軍服を着用するのだと勇んで
起きた。軍服を着、軍帽を着用す
ると名実共に豫科の生徒らしくなった。
十一時頃、父に逢った。これから当分
逢えないと思うと何となく変な気
持がしたが、父に軍服姿を見せて
非常に嬉しい。父も喜んで呉れたと
思う。それから、衣服類一切の適
合があって、色んなものをもらった。
官給品を無くすると榮倉に入る
のだと河村班長殿が仰言った。
大いに注意すべきものだ。
*****************

良く解らなかった部分としては最後から4~5行目の”衣服類一切の適合があって”の部分。”適合”ではおかしい様な気がするのだが、外に”適合”する語彙を思いつかなかった。サイズ合わせの様なものだと思うのだが、解かる方いらっしゃったら御教示乞う。

やはり軍服を身に着けるのは嬉しかったようだ。何と云っても制服を身に着けることで気持ちがシャンとする。しかも初めて着る軍服となれば一入であったろう。
しかも父に逢って晴れ姿を見せたとある。父子ともに嬉しかったであろう。

ここで訂正なのだが、以前の投稿では27日に父(芳一)は三郎に逢わないでとんぼ返りした旨の内容であったが、実際は面会していた。3月10日の芳一の手紙には”逢わずに帰ったのは済まぬ事をした”とあるのだが、どうやら三郎の友人に”逢わずに帰った”事を詫びているらしい。

”榮倉”は懲罰房のことであり軍隊にあったことは知っていたが、陸軍予科士官学校にもあったとは初めて知った。千人を超える生徒が共同生活をしている中で、皆同じ衣類を支給されるのであるから、悪意の有無はともかく”紛失”は頻繁にあったのではないかと思うが、それで営倉行きはかなり厳しい。三郎も”大いに注意すべきものだ。”と書いているが、全くその通りである。

続いて28日の日記。

昭和19年2月28日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

*****************
二月廿八日 月
起床後非常に忙しい。顔もゆっく
りはあらえない。も少し早く寝
具をたたむ様にならぬといけない。
午前中は学科の租(素?)養検査あ
り。大体やったつもりだが、どうだか。
それにつづいて小銃、銃剣の授与
式あり。小銃二五一九〇番
銃剣九九二一五番を授与された。
午後、体操の租(素?)養検査有りし
も変更されて小銃の手入を行
われる。銃に傷をつけると処
罰されるそうだと聞いて肝をひやす。
夜は自習。点呼、遥拝、就寝。
*****************

おそらく日記は就寝前に書いているのだと思うが、筆跡から察するにかなり急いで書いている印象がある。少しでも早く寝たいのであろう。当然文字も読み辛いが、何とか解読できた。

起床の号令から集合までどれ位の時間があるのか判らないが、かなり忙しい様子である。
布団をもう少し早くたためる様にならねばと書いているが、後の妹(芳子)の手紙の中に”兄さん(三郎)の嫌いだった床を私が敷いている”と云う一節があり、三郎は布団の敷き・たたみが好きではなかったようだ。(まあ、基本的に好きな人は少ないと思うが…。)

入学間もない時期なので最初の素養検査(三郎は”租”養と勘違いして書いている)が各学科に於いて実施されている。今日で云う”学力テスト”のようなものか。

その後に小銃・銃剣を授与されている。もちろんこれらも高価な官給品であり傷をつけたりすると処罰(多分営倉行き)の対象となった。

振武台の事をググっていたところ、NHKアーカイブスに 昭和天皇が振武台を行幸された時のビデオがあった。実際の訓練の様子等も撮影されており日記の内容等もイメージし易くなると思う。以下にリンクを張って置くので是非ご覧頂きたい。

チャプター【1】大元帥陛下 陸軍予科士官学校 行幸
因みに、昭和18年12月9日撮影 三郎が入校する2ヶ月半前の事である。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300569_00000&seg_number=004

三郎 振武台日記 vol.4

振武台日記 第四弾。

今回は2月29日の日記。

ここまでの数日の日記を見ると、寒い時期であることも手伝ってか”朝起きる時”の様子が度々記されている。

今も昔も”朝は辛し”なのか…。

 

昭和19年2月29日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

*****************
二月廿九日 火
夜寒くて餘り良く眠れず
顔が重くはれた様にて朝
食うまくなし。午前中
区隊長殿の勤務について
の学科。その前に
武道の租(素?)養検査。試合があ
り、少しあわててた様だったが
勝つにはかった。
午後体操の租(素?)養検査。体力の
少なきをつくづく知る。大いに力を
つけるべきなり。夜は自習
時間。非常に眠たい。晝の
疲れがでたのかも知れない。
*****************

2月29日 ん?
ここでこの昭和19年がうるう年だったことに気づいた。
そう、オリンピックイヤーである。

残念ながらこの年のオリンピック(開催地ロンドン)は大戦の影響で中止となっているのだが、遡ること4年前の昭和15年は元々東京オリンピックの開催が決まっていた。しかしこれも日中戦争等を理由に中止となっている。つまり厳密に云えば来年(令和2年)は東京で3回目のオリンピックが開催される年なのである。(まあ、昭和15年に開催されていれば昭和39年は他の都市になっていたと思うが…。)
更にもう少しググってみたところ、昭和15年前後には夏季に加え冬季オリンピックそして万国博覧会も日本での開催が一度は決まっていた。結果的には全て中止ないしは延期となってしまったが…。
当時欧米諸国でしか開催されていなかった大きな国際大会が日本で3つまとめて開催されようとしていたのである。これは驚くべきことで、日本国内の盛り上がりは想像以上のものであったろう。当時小学生だった三郎もそんな話題で大喜びしたことに違いない。
しかし、この東洋の島国の勢いを西欧諸国が大きな脅威と感じていたことは疑いの余地がなく、そしてこの”脅威”が太平洋戦争勃発の大きなファクターであったこともまた疑う余地がないのである。

さて日記に戻る。

自身も”非常に眠たい。晝の疲れがでたのかも知れない。”と書いている通り、相当つかれているのであろう。文字がかなり読み辛い。幸い日記は2週間分位あり内容的に同じ様な記述も多く大抵は推測で読むことができたが、単独で書かれたらギブアップ級のものも結構あった。

2月末の振武台の夜は寒さが厳しく寝不足が祟って”朝食うまくなし”とある。
戦時下の物資の乏しい状況下であるから、当然(?)生徒たちの部屋には暖房などなかったであろう。しかも写真で見る限りでは振武台の校舎は当時の小学校と同じ様な建屋のようであり、断熱(防寒)に優れていたとは到底思えないから相当な寒さであったと思う。
実際の所、この振武台は日中戦争の拡大や対米関係の悪化に伴い生徒数が増加したため元々の市ヶ谷台での対応が難しくなり、700日の突貫工事で完成させたと云ういわくつき(?)である。昨今の”〇〇パレス”と比べては失礼かもしれないが必要最低限の設備であったのではないかと思う。

加えて(一般国民よりは優遇されていたであろうが)食料事情も悪く、栄養状態も万全でない中の激しい訓練である。生徒たちにとって体調の維持管理は本当に大変であったろうと思う。