1944に遭遇してしまった母の家族

小生、昭和34年生まれの59歳。今年還暦を迎える。
”昭和・平成”をそれぞれ30年づつ生きて来た節目の年に”令和”に改元とか何か不思議な巡り合わせを感じる。因みに今度即位される皇太子殿下は同学年(無論面識などないが)であり、子供の頃から入学・卒業が同時期だったので一方的に親近感を持っており一層お目出度い気分だ。

そういった”お年頃”なのでそろそろ終活でも始めるべきと考え、先ずは手始めに長年ホッタラカシになっていた祖父から母を経由して引継いできた遺品の整理を開始したのだが、その中に戦前~終戦後の母の家族(父、母、長男、次男、三男、長女の6人)を取巻く手紙・葉書・写真や書類諸々が積年のホコリとともに出て来た。

チョコッと眺めてみたが昔の人は達筆?なので全く内容が理解できなかったのだが、このまま捨ててしまうのも御先祖様(6人の家族全員既に他界している)に申し訳ないので、ここは一念発起し”解読してやろうじゃねーか‼(腕まくりまくり)”となったのだが…。

実際に”解読作業”を始めてみるとこれが想像以上に難敵であった。大半が戦前のモノなので文語体や旧仮名遣いに旧字体のオンパレード。これが人によっては素晴らしく達筆?なのだからたまらない。最初は1枚の葉書を”解読”するのに一晩かかった。だが不思議と嫌気はささず幾つかの手紙や葉書を読み解いてゆくうちになんかハマってしまった。少しだけ”シャンポリオンの苦心”体験が出来たかも(藁)

象形文字の様な筆跡をネットを駆使して調べることで旧字体や旧仮名遣いなどのちょっとしたトリビアを知る事も愉しく飽きない理由の一つではあるが、当時の一般人(母の家族やその知人)がどの様な事を考えどの様な気持ちで生きていたのか、その生の言葉を感じられる事がとても嬉しい。当時母の家族6人全員が今の小生より若かった訳であり、特に国民学校から女学校へ進学する時期の母の手紙を読んでいると異空間に迷込んだ様な不思議な感覚になる。

小生含め戦後(特に昭和30年代以降)生まれの人々は先の大戦の歴史を結果ありきで考えがちだが、学校などで学んだ歴史だけでなく(勿論これも重要だが)当時の一般人の生の状況を感じそれを追体験することが大切だと感じる。振り返って現在(特に周辺諸国との間に)歴史を発端とする様々な問題が勃発しているが、これらに我が国として正しく対応していくために嘘の歴史に惑わされることなく確固たる歴史認識を持つ上でもこの”追体験”が非常に重要だと思う。

と云った気持ちから今回このブログを開設した。特に若い人にいろんな事を感じ取ってもらいたいが、小生と同年代の方や実際に先の大戦時代を生き抜いて来られた大先輩の方々からもご意見頂ければ幸いである。また、小生は特に右寄りな考えを持っている訳ではないが、先の大戦で命を懸けて戦って下さった先人を蔑ろにする風潮には正直腹が立つ。そもそも大半の一般人は戦争など望んでいなかったと思っている。そう云った意味でも右だろうが左だろうが、或いは日本人であろうが(日本語が読めるなら)外国人であろうが、読んで頂きたい。

次回以降少しづつではあるが、手紙・葉書を読んだ結果等を投稿してゆくので乞うご期待。

昭和19年5月20日頃? 三次中学同級生Yさんからの葉書 陸士に憧れるも学業に専念

 

今回は当ブログ4回目の投稿となるYさんからの葉書。

以前の手紙で熊本薬専への入学を果たしたYさんであるが、陸軍予科士官学校への想いも捨てきれないでいた様子が綴られている。

 

昭和19年5月20日頃? 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

**************************
其の後如何と案じている。もう一人前に堂々とやっている
事だろう。慣れた手付きで…。今年もう一回そこを受け
て見ようと思ったが、學業がどっちつかずで中途半端と
なるので取消にした。又、近視もあるから。何にして
も、俺も陸士を憧れていたのだから、此處に帰る以上は
此處を陸士と思い、動作もその様になる様に気を付けて
気合を入れてやっている。勉強の方面は勿論。
専門学校では出身中学を問われる事が多いの
で、三中の名聲を示す可くやっている。君の方は
どうだ。音信不通により一筆致すなり。では又。
**************************

今回の葉書に関しては消印が不明瞭(と言うよりは見えない)であるため、実際にはいつ出されたものなのかはっきりしないのだが、束ねられていた順序或いは陸豫士受験をキャンセルした由の内容から恐らく5月20日頃であろうと判断した。

Yさんは既に熊本薬専への入学を終え熊本の地で新たな学業生活を始めていたのであるが、文面からは昨年に続き再度の陸軍予科士官学校への受験を考えていたがキャンセルした旨が書かれている。

当時、「お国の爲に」と陸海軍への志願が青年たちの憧れとなっていたことは間違いないだろうが、他の選択肢(言い方は悪いが「戦争に征かなくて済む」と云う選択肢)があればそちらを選択するのが人情だったのではないかと思う。
既に学徒動員も開始されており専門学校生徒だろうといつ召集されてもおかしくないが、軍関連の学校に比べれば可能性は低いであろう。
また、化学・薬学の専門知識があれば前線ではなく後方支援部隊等での勤務の可能性もある。
できるだけ危険の少ない環境に行きたいと考えるのは人間としてごく当たり前の感覚であると思うが、国家存亡の危機に直面し多くの若者達が命を賭して戦っている中では、その「当たり前」の感覚が多分に麻痺していた…

この手紙に「三原よ、すまん!」と云う気持ちを感じるのは小生だけだろうか…

 

昭和19年5月21日 妹芳子からの手紙 「大東亜戦争の決戦下で…」

 

都合4回目の妹芳子の便りである。

これまで通り大した内容ではないのだが、「大東亜戦争の決戦下で」と云うフレーズには少々驚いた。
凡そ12歳の女の子が遣うような言葉でななく、小生の記憶の中の「母芳子」のイメージではなかったから…

昭和19年5月21日 芳子からの手紙①
昭和19年5月21日 芳子からの手紙②

解読結果は以下の通り。

*********************
兄様、長い間御無沙汰致しました。
ますますご健康でお務めの事と思
います。私も毎日元気よく
通學しております。
三次もだんだん夏らしくなり
四方の山の色緑濃く、太田川の
水も美しくなりました。
大東亜戦争の決戦下で尾関
山の下のぼたん畠も黒田製
材所の所の新道路も増産
の爲、皆畠となって
やさいが靑々とで
来ております。
それから久留島さん
が尾道の方へ転居
されて、その後へ君田の太
田校長先生が十日市の青年學
校長としてこられて家がないの
でお父さんが心配して上げてこら
れる事になりました。
尾関山のかいこんに女學校からも
国民學校からも出動して畠としました。
中學生も出動しています。
敬兄さんも元気です。熱も上がらず、顔色
も良く御飯も大分たべられますし、だ
んだん快方へ向かわれておられます。
これも皆お母さんお父さんのおかげで
す。いつも兄さんと歌を一しょに
歌った事を思い出し、今頃は一人でさび
しくうたっています。お母さんも時々
一しょに歌われます。それから、私が
毎晩兄ちゃんのきらいであった床をし
くので、お母さんが猫よりはまし
だと言って笑われます。お父さんも
お母さんも元気ですから安心し
てお務めにはげんで下さい。
家の事は心配なく。
さようなら
三郎兄様  夏休みを待つ   ヨシコ
*********************

母芳子は小生が知っている限り、どちらかと云えば大人しい性格で過激な発言などとは無縁であった。
加えて当ブログ開始以降「多分に天然」であったことも判明しつつあり、小生の性格も母親からの遺伝だったことが明確になって来た昨今である。

今回投稿の手紙にしても「何か読みづらいなぁ?」と思ったら、ご丁寧に便箋にあしらわれている花模様を避けて書いている。
この「気が利きすぎて間が抜けている」的な思考回路もしっかり引継いでしまったらしい…

そんな芳子が「大東亜戦争の決戦下」などと云う”過激な”言葉を遣っていたのには少々驚いた。
おそらく当時は新聞やラジオなどで頻繁に喧伝されていたフレーズであり、特に過激ではなく「普通の」言葉だったのであろうと思うが…

その「大東亜戦争」と云う呼称だが、小生以降の世代にはあまり馴染みのないものであり専ら「太平洋戦争」と云う呼称の方が主流であったと思う。

「大東亜戦争」とは、開戦直後の昭和16年12月12日の閣議に於て決定された呼称である。
なぜ戦後「太平洋戦争」と云う呼称が主流になったのかに関しては様々な理由や考え方があると思うが、「大東亜戦争」と云う呼称はアジアの安定を謳った「大東亜共栄圏構想」を想起させ「日本がアジア諸国の独立運動の原動力となった」と云う事実が明確になってしまうため、これを隠蔽すべく連合国側が敢て「太平洋戦争」と云う呼称を主流にさせたのではないかと小生は考えている。

芳子の歌好きは以前の投稿でも書いたが、三郎も一緒に歌っていたのは初耳である。
小生にとっては「かなり怖い伯父さん」だったのだが…

「夏休みを待つ ヨシコ」とある。
8月生まれの芳子にとって誕生日もあり兄も帰省してくる夏休みはとても待ち遠しかったのであろう。

追伸
あの世の母上へ
×建康 → 〇健康
です。
愚息より