昭和19年5月20日頃? 三次中学同級生Yさんからの葉書 陸士に憧れるも学業に専念

 

今回は当ブログ4回目の投稿となるYさんからの葉書。

以前の手紙で熊本薬専への入学を果たしたYさんであるが、陸軍予科士官学校への想いも捨てきれないでいた様子が綴られている。

 

昭和19年5月20日頃? 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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其の後如何と案じている。もう一人前に堂々とやっている
事だろう。慣れた手付きで…。今年もう一回そこを受け
て見ようと思ったが、學業がどっちつかずで中途半端と
なるので取消にした。又、近視もあるから。何にして
も、俺も陸士を憧れていたのだから、此處に帰る以上は
此處を陸士と思い、動作もその様になる様に気を付けて
気合を入れてやっている。勉強の方面は勿論。
専門学校では出身中学を問われる事が多いの
で、三中の名聲を示す可くやっている。君の方は
どうだ。音信不通により一筆致すなり。では又。
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今回の葉書に関しては消印が不明瞭(と言うよりは見えない)であるため、実際にはいつ出されたものなのかはっきりしないのだが、束ねられていた順序或いは陸豫士受験をキャンセルした由の内容から恐らく5月20日頃であろうと判断した。

Yさんは既に熊本薬専への入学を終え熊本の地で新たな学業生活を始めていたのであるが、文面からは昨年に続き再度の陸軍予科士官学校への受験を考えていたがキャンセルした旨が書かれている。

当時、「お国の爲に」と陸海軍への志願が青年たちの憧れとなっていたことは間違いないだろうが、他の選択肢(言い方は悪いが「戦争に征かなくて済む」と云う選択肢)があればそちらを選択するのが人情だったのではないかと思う。
既に学徒動員も開始されており専門学校生徒だろうといつ召集されてもおかしくないが、軍関連の学校に比べれば可能性は低いであろう。
また、化学・薬学の専門知識があれば前線ではなく後方支援部隊等での勤務の可能性もある。
できるだけ危険の少ない環境に行きたいと考えるのは人間としてごく当たり前の感覚であると思うが、国家存亡の危機に直面し多くの若者達が命を賭して戦っている中では、その「当たり前」の感覚が多分に麻痺していた…

この手紙に「三原よ、すまん!」と云う気持ちを感じるのは小生だけだろうか…

 

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙 まだ6月なのに待ち遠しい夏休み、故郷、家族…

今回は先日投稿した母千代子からの手紙への三郎からの返信。

入校から3ヶ月。
振武台(陸軍予科士官学校)にも初夏が訪れ、厳しい訓練にも漸く慣れたのか或いは家族を心配させまいとやせ我慢しているのか不明であるが、文面からは「元気」な様子が溢れている。
学校からも夏休みの予定等が知らされたようで2ヶ月も先の事なのに既に待ち遠しい様子である。

 

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙①
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙②
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙③

解読結果は以下の通り。

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拝復 御手紙有難う御座居ました。
其後皆様変り無しとの事、安心致しました。
お蔭で私も病気の「ビ」の字も着かずに張
切って邁進して居りますから御安心願います。
敬兄さんも更生の一途をたどられ、私が見違
える程になられるとの事、大いに喜び居ります。
芳子も元気で作業しているとの事、嬉
しく思いますが、余り過度に渡り身体をこわ
さざる様御注意御願申し上げます。
此の振武臺の地にも新緑の夏がやって
来て流汗淋漓と云う所です。
最早、水際訓練所(プール)に於て水泳も
始り、衣服も防暑衣袴という小開襟の服
を着用して居ります。私も入校以来、体重
約三瓩ばかり増加し大いに意を強くして居
ます。聞く所によると八月上旬に遊泳
演習で海岸に行き、それが終るや直ちに
夏季休暇と思います。多分八月中旬とな
る見込です。その位の心構えで居て下さい。
次は少しお願いが有るのですが、それは、
雑記する雑記帳が少し入用なのですが、
これは私が中学校時代の物が残って居る
筈ですが、芳子には済まんのですが、御送付
願います。又、ついでに西洋紙、印鑑用の印
肉、事務用糊、手帳、スタンプを押す時に
用いる「スタンプ」(インクを滲ましたるもの)をお
願い致します。「ノート」、西洋紙は少し多く、とい
っても程度の問題ですが、良い様にお願い致します。
では成る可く早
くお願いします。夏季休暇に成りますから。
一寸お訊ね致しますが中隊から何か通信が
行った筈ですが、どんな事ですか。
では本日はこれで筆を措きます。
お父さんに無理をなさらぬ様、末筆で
失禮ですがお傳え願います。

母上様            三郎拝
               三原 三郎
康男兄さんは矢張り廣島
に居られますか。状況お知らせ下さい。
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6月も中旬となれば初夏よりは梅雨であろう。将に「流汗淋漓」と汗がしたたり落ちる訓練はさぞかし厳しいものであったと思う。
しかしその厳しさにもある程度順応した事や家族に余計な心配をさせまいとする気持ちからなのか、手紙の内容はとても明るい感じである。

「八月上旬に遊泳演習で海岸に行き、それが終るや直ちに夏季休暇」と早くも帰郷が待ちきれない様子である。
つい最近三次中学の同級生たちから、呉海軍工廠への通年動員の命令が下った事を聞かされたばかりでもあり、余計に家族や故郷への思いが増していたのかもしれない。

学校からの状況報告(通信簿のようなもの?)は本人には知らせず保護者に直接届けられたようで、その内容が気になっている様子である。

以前にもあったが、今回の手紙は毛筆書きである。
ペンと毛筆とをどの様な基準で使い分けていたのかよく解らないが、習字が大の苦手であった小生からすれば羨ましい位達筆である。
封筒の方も是非ご覧頂きたい。

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙(封筒表)
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙(封筒裏)

ん? 廣嶋県?

あの世の三郎おじさんへ
 嶋✖ → 島〇
 じゃないですか?
       愚甥より