昭和16年1月14日 長男(康男)から父(芳一)への手紙

今回は前回分より1年半経過した昭和16年初めの葉書である。昭和14年後半~15年全部がすっぽり抜けているが、小生の手元の遺品の中には見当たらないので仕方がない。もしも何処からか出て来たらその時対応する。
今回の解読結果は以下の通り。

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拝啓 其の後父上様御変り無く御送日のことと
存じます。小生も相不変元気で通学しています。
歯医者へも数回通い、神経を取去ったのでもう痛み
ません。金属を被せる技工はこちらでしようと思って
いますがどうでしょう。芳子が級長になったそうですね。
うれしいことです。今後しっかり勉強させてやって下さい。
今月は授業料、加入諸団体の送別会費、歯の治療費
等、相当嵩みます。授業料は六十円、二十二日迄に必要です。
一緒に七十五円送って下さっても結構です。
では御願い致して置きます。  靴下は早速送ります。敬具
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小生も大分昔の手紙に慣れてきた感はあるが、今回も結構難解だった。

今回の内容は授業料の送金依頼がメインである様だが、当時は学生が直に學校へ現金支払していたのだろうか。授業料は現在の6万円/月位だろうか、現在の大学にあたると思えば妥当な額かと思う。

2行目の”相不変”はもう漢文である。”あいかわらず”と発音するのだと思うが、当時は”あいふへん”と発音していたのか???ご存知の方がいらっしゃったら御教示乞う。

”齒醫者”は単独で書かれていたら多分解らなかったと思う。その後に書かれている内容で”ハハ~ン 歯医者のことだな”と判ったわけである。

末っ子の妹(芳子)が級長になったことを喜んでいる。彼女が小学5年生の時だと思うが小生の母なのでちょっとうれしい。他の葉書などを読んでみて感じるのだが、当時は現代よりも”級長(今風には学級委員か)”に威厳があった様に思う。”〇〇が級長になった”とか”副級長は〇〇だ”等の話題が結構出てくる。ある意味成績のバロメーターだったのかもしれない。だから親兄弟も喜んだのだろう。

中央が康男

昭和16年6月8日 長男(康男)の現況報告

松山高商自動車班

 

昭和16年6月8日 康男の手紙①
昭和16年6月8日 康男の手紙②
昭和16年6月8日 康男の手紙③
昭和16年6月8日 康男の手紙④

今回は便箋四枚の大作。数ヶ所??な部分があった。
解読結果は以下の通り。

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大分暑くなって参りましたが、皆様御変りありませんか。
小生は相変わらず元気です。やっぱり暑くなると目方が減
って来るのは争えませんが、今年は昨年の様な失態を演
ずる様なことはありませんから、どうぞ安心していてください。
一昨日は松前町というところの東洋絹織の見学を致
しました。スフ・人絹工場で相当大規模なものですが、
今年出た先輩が職工と同じ菜葉服で妙な志那兵
みたいな帽子を被って、やかましい、暑い、綿片の一ぱいの
各工場を案内して呉れるのを見て、少々考えさせられ
ました。こんな工場へ入れば、最初は職工と同じ様
に各工場で一通り実習するらしいです。
どこでも、ですが工場は健康にはあまりよくない様です。
金融業の筆頭たる銀行なんか、真実非常に楽
ですね。大して創意の発揮は出来ないかもしれ
ませんが、現今の社会状態に於て専門学校出位で
自分の意志によって経営をする、という様なことはちょっ
と無理な話ですね。中央銀行といえば確かなこと
  ※余白に追伸のような書込みあり。
 (蓮池のオバサンが東京より帰られましたので、すみませんが御手紙を差上
げて下さいませんか。僕が厄介になった御礼だけでいいですから。)
此上無いですからね。僕みたいなのが結局一番幸福
なのかもしれません。未だ、先生から何も通知があり
ませんので、何んとも報告の申上様がありませんが、
まあ焦る必要も無いことと思います。大体夏休み
以降に於て取決めらるべきことなのですから、欲張るの
も我慢な話ですからね。大概大丈夫らしいですから
安心している様な訳ですが、万一の失敗?があったと
しても悪しからず御諒承下さい。ふつつか乍ら日銀
へ推薦された位ですから、今の世の中、落着いて、だまっ
ていても会社の方から雇いに来ますよ。こんなことを言
ってえらい呑気に構えている様ですが焦ったって仕様の
ないこと。最善を盡して天命を待つのみです。
が、重ねていう様ですが大抵大丈夫でしょう。日銀は最初
一、二か月は実習といいますか、事務の講習ですね。
それの為、東京へ行くらしいです。本社へ全国から専門学校
以上の卒業生たる新入行員が集まる訳です。
先日遂に本棚を買いました。結局十円近くしました。
整理がつかぬので仕様なしに買ったのですから、決して
不用品では無いと思います。卒業後の必要なもので
すから。卒業してからの勉強は相当重要なる役割
を成すものではないでしょうか。先日金融関係の本
二、三冊買いましたが、インフレ悪性への徴をみせている
今日、専門書の高いことは驚くばかりで、結局御父さんの
負擔になるのですから心苦しいですが仕方がありません。
明後日ゼミナールでは僕の研究発表がありますので
発表事項の整理に大童です。題目は「ディールの信用
理論」、昨夜は二時過ぎ迄。十数名の前で意志
発表を行うのは仲々いい経験になると思います。
自動車も相当練習してちょっとした運転手ですね。
同封の写真は敬のカメラで芳野君が撮影して
呉れたものです。ダットサンもちょっと綺麗でしょう。
二百円也には見えないでしょう。修繕代が四百円ですか
ら六百円ですかね。練習はとても面白いですよ。
他の班より少々経費が余計掛かって、班員の負擔が多い
のが難点です。近来は教授連が子供みたいに
のぼせてしまって授業がすむとすぐ飛んで来て乗る
ので、班員は迷惑此上なしですよ。下手なくせに
一人で乗ってよく毀します。練習用自動車は此の
写真の小型でなしにフォードの中型車でやっていま
す。県廳の保安課の技師が本校の講師をしていまし
て、ガソリンから自動車から色々と便宜です。県の自動車
の親玉ですからね。マンドリンの方も近来練習して
近々放送する予定です。僕共で四人、先日四日の
六時からハーモニカは放送しました。
先月末御送付の五拾円中、先月分経費として十円
余り、本棚 十円、参考書 八円、自動車班費 二円、
食券(晝食用) 五円、その他支出致しました。
右、日曜日の午前、気持よき微風に頬をなでられ
つつ、御報告致します。            敬具
六月八日                康男
御両親様
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先ず、3行目の”争えませんが”に難儀した。母親が病弱な事を意識しているらしいが、体重の減少を”血のせい”と云っているとは思わなかったのでなかなか読めなかった。もっともこの1年前に体調を崩して(肺炎か?)療養した事があるらしく、そちらの方を指しているのかもしれない。

最終学年でもあり就職活動の一環らしく繊維織物工場の見学に行ったようだが、父親(小生の祖父)が銀行マンであったことから本人も銀行への就職を目指していたようで、”菜葉服”や”妙な志那兵みたいな帽子”とか工場現場での作業を少々バカにした眼つきで見ている様子が伺える。

1枚目の13~14行にある”銀行員なんか〇〇非常に〇ですね”の部分はよく解らなかったが、多分”真実”と”楽”ではないか…。間違っていたら御指摘乞う。ただ、これが正しければかなり強烈な父親への嫌味になると思う。

学校から日銀へ推薦されたようでそんな事も手伝ってか結構テングになっていたのかもしれないが、実際に翌年明けに東京の日本興業銀行で入行講習を受けた時の手紙もあるので受かったのかもしれない。しかし実際にはその後は陸軍に召集されて銀行マンとしては活躍出来なかった。

後半は楽しいキャンパスライフの様子が書かれている。当時既に自動車班なるものがあったことに驚いた。冒頭の写真はその様子であるが、今も昔も変わらぬ若者らしさが伝わってくる。因みに上の写真には裏書があって”怖しき喜劇”とのタイトルが記されている。
他にもマンドリンやハーモニカそして本分である勉強の話をして、父親へのお金の無心も”仕方ないんですよ~。”とやんわりアピール。やっぱこの伯父さん長男だわ。(藁)

昭和16年12月1日開戦直前の砌 長男(康男)から父(芳一)宛の手紙

今回は昭和16年12月1日の手紙なのだが、この時点で”学生生活に別れを告げるべき日も間近に迫って参り…”と早や卒業を仄めかしており実際12月26日に卒業している。
戦前は元来そうだったのかと思いきや、ググってみるとこの”昭和16年”から学徒動員のために大学や専門学校の修業期間が3ヶ月短縮されたのだ。因みに翌年の昭和17年は6ヶ月短縮されたようである。その他にも米・酒類の配給制開始や金属の供出を強要する金属回収令の発令など、国民生活に影響のある動きが大きくなった年である。
当然の成行きとして”徴兵検査”が待ち構えており、今回の手紙の中にも悩み迷う不安な気持ちが吐露されている。

昭和16年12月1日 康男の手紙①
昭和16年12月1日 康男の手紙②
昭和16年12月1日 康男の手紙③
昭和16年12月1日 康男の手紙④
昭和16年12月1日 康男の手紙⑤

今回は5枚に及ぶ”超大作”であったが丁寧に書かれており比較的読み易かった。
解読結果は以下の通り。

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拝啓 その後御変わりなく御送日のことと存じます。
当方も相変わらず元気で暮らしていますから御安心の程願上ます。
扨て愈々十二月に入り、学生生活に別れを告げるべき日も
間近に迫って参り、毎日多忙なる一日を送っています。
十二月に入ったと思うと、現金に寒さが加り、木枯しが我物顔
に振舞い出してきました。師走の感じは街に出て益々切
なりです。本日より実施の増税の為か、それともエビス市の為か、
昨三十日の繁華街の賑やかさは正に歳末を一か月繰上げた
という感じでした。何分一割から二割の値上げがあきらかに
されているので、どうせ費るものなら少しでも安く買う方が得だ
という心理状態は無理もないとは思います。こんなことを
喋々して僕を弁護するという訳でもありませんが、先日の御
父さんへ返事に帽子、ネクタイ、カフス等、買わないように申上げ
て置きましたが、同じ物を買うのに、たとえ二、三円でも余計出す
のは馬鹿らしいと考えましたので、芳野君等と一緒に昨日、
帽子とネクタイを買って置きました。帽子は先輩等の言を
参考に致し、少々高くついても、いい品を買って置いた方がよろしい
と思いましたので金十五円也の東京ハット濃いネズミ色のを
買いました。芳野君のも同じです。いいものは洗濯もよく利く
し、持ちも大分違いますし、体裁もいいですから、兵隊から
帰っても着られる様なのがいいと思いましたから。
ネクタイもどうせ三本や四本は入用と思いましたので、二本
丈買いました。両方で七円、合計二十二円也の買い物です。
洋服の方が学生の卒業繰上げと年末のため仕事が多いため、
ちょっと遅れましたのでその方をまだ支払っていません。が、少なく共
四、五日中には出来ると申して居ます。で、先月二十日過、二百
五十円御送付を受けましたが、其中、五十円は月謝と自
動車班費其他で支払いをなし三十五円は下宿代及食費
(中食費込)、八円余りは歯の治療費の一部として支出し、
二十二円を帽子等に費やしましたので、残額は百二十円余り
になりました。勿論、前述のもの以外に書籍代其他、送別会
の一部支払い、等々がありますから、そういう計算となる訳です。
それで、ワイシャツとカラー其他は、送って頂くとして、未だカフスボタン
を一揃い買わねばなりません。それに洋服代百五十円也の支払
いがありますので、また御願いをしなければならない様になりまし
た。今月分の諸支払い、荷造り費、帰省費、其他は別で
も又一緒でも構いませんが、洋服代不足分と
カフスボタン代三十二、三円、食費等経常費三十五円、帰省費、其他
荷造費、等々を合わせますと、八十六、七円御願いしなければならなくなり
ます。卒業となると三百円以上の金を費う訳です。全くすまない
と思います。銀行員となると一応は一人前の風体をせねばならず、
月給の少々は、すぐ飛んでしまいます。が、現役入営中は半額の
支給があるようですから、(今迄の例によると)兵隊に行っている間の入
金でまかないをつけるより仕方がありません。それにしても何かと
いえば金の費る世の中だと思います。僕が停年に達する迄
に、御父さん位の地位収入が獲られるかどうか。子供に僕が受け
た程度の教育を受けさせ得るかどうか。いささか心細い次第では
ありますね。然し、これ丈の学歴を持って出来る丈のやり度い
と思います。一生の半分は学校と兵隊で過して、結局自分で金
を儲けるのは、あとの半分ですからね。幸福といえば幸福ですね。
兵隊検査もあと一週間に迫りました。僕の予想では第一乙か第二乙だろう
と思います。何れにしても入営する様になりましょう。兵種決定、部隊決定
は十二月廿七日頃らしいです。丙種でも応召するこの時代、第一乙で入営する方
が大分いいとは思います。第二乙になると幹候にちょっとむつかしい様ですからね。
甲種にはちょっとなれないだろうと思います。ちょっと心配?なのは、
厚生省体力手帳に「要精密検診」の注意があるのです。例の二年の夏休み
の右肺の浸潤がレントゲンで少しみえるらしいのです。これで案外第二乙
になるかもしれず、丙種になるかもしれませんが、現在が至極強健なので、
問題にならぬかとも思います。検査官の裁量如何です。が、僕としては
こんなものにすがって、第三乙や丙種になるつもりはありません。
向こうがそうすれば仕方がありませんが、なるべくなら第一乙位で入っ
た方が少尉になる率が多いですし、若しかして運がよければ、
経理部の将校になれないとも限りませんからね。教科の成績は優
ですから、士官適化の推薦は貰える筈です。経理部候補生の試験
も、パス出来る自信はあります。まあ、出来る丈のことをやってみます。
あとは成行きにまかせます。それから、先日御願いした、褌の件、
出来たら至急御願い致します。
本日大阪銀行通信録受取りました。東京銀行通信録も受取ったこと
併せて御返事致します。                 早々
御父上様
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1枚目3行目の”扨て”は現代では使わないだろう。これだけを書かれたら”さて”と読めるかどうか自信がない。

手紙を書いた12月1日に増税があったので、前回”未だ買わない”と言っていた帽子・ネクタイ等々を前日(増税前)にちゃっかり買っちゃうところは相変らず”長男”全開である。小生の記憶では父親(小生の祖父)は”怖いおじいちゃん”のイメージがあったが、案外子供達には甘かったのかもしれない。

内容からすると既に”徴兵検査~召集~入隊”の流れは決まっていたようで、その際のランク分けの結果をかなり気にしている。甲種で合格し確実に将校へなれれば一番良いのだが、それ程身体能力に自信がない事に加え2年次に病気になった際の肺の浸潤が影響して、乙種どころか丙種になってしまう(そうなると将校にはまずなれない)かも…。と不安を吐露している。ただ学業が”優”なのでもしかしたら経理部の将校になれれば…と気を持ち直してもいる。
因みにこの年の7月に一度”徴兵徴収延期”を認められている。以下その證書である。

徴兵徴収延期證書

誰でもそうだと思うが、同じ兵隊になるなら出来るだけ上位階級になりたいし更には内勤(事務方)が良いと思うはず。その意味では恥ずかしい話ではないのだか、軍部等による検閲がされるとなると手紙・葉書の内容が大きく変わってくる。女々しいことは書かず勇ましいことが溢れるようになる。これは今後投稿する予定の三男が陸軍予科士官学校に入学した際の手紙・葉書をみると顕著である。

何にしてもこの頃辺りから一気に戦争の影響が増大し、若者の将来がそれに左右されてしまうのである。勿論若者以外の人々の生活にも暗い影を落としながら…。