振武台日記 第四弾。
今回は2月29日の日記。
ここまでの数日の日記を見ると、寒い時期であることも手伝ってか”朝起きる時”の様子が度々記されている。
今も昔も”朝は辛し”なのか…。
解読結果は以下の通り。
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二月廿九日 火
夜寒くて餘り良く眠れず
顔が重くはれた様にて朝
食うまくなし。午前中
区隊長殿の勤務について
の学科。その前に
武道の租(素?)養検査。試合があ
り、少しあわててた様だったが
勝つにはかった。
午後体操の租(素?)養検査。体力の
少なきをつくづく知る。大いに力を
つけるべきなり。夜は自習
時間。非常に眠たい。晝の
疲れがでたのかも知れない。
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2月29日 ん?
ここでこの昭和19年がうるう年だったことに気づいた。
そう、オリンピックイヤーである。
残念ながらこの年のオリンピック(開催地ロンドン)は大戦の影響で中止となっているのだが、遡ること4年前の昭和15年は元々東京オリンピックの開催が決まっていた。しかしこれも日中戦争等を理由に中止となっている。つまり厳密に云えば来年(令和2年)は東京で3回目のオリンピックが開催される年なのである。(まあ、昭和15年に開催されていれば昭和39年は他の都市になっていたと思うが…。)
更にもう少しググってみたところ、昭和15年前後には夏季に加え冬季オリンピックそして万国博覧会も日本での開催が一度は決まっていた。結果的には全て中止ないしは延期となってしまったが…。
当時欧米諸国でしか開催されていなかった大きな国際大会が日本で3つまとめて開催されようとしていたのである。これは驚くべきことで、日本国内の盛り上がりは想像以上のものであったろう。当時小学生だった三郎もそんな話題で大喜びしたことに違いない。
しかし、この東洋の島国の勢いを西欧諸国が大きな脅威と感じていたことは疑いの余地がなく、そしてこの”脅威”が太平洋戦争勃発の大きなファクターであったこともまた疑う余地がないのである。
さて日記に戻る。
自身も”非常に眠たい。晝の疲れがでたのかも知れない。”と書いている通り、相当つかれているのであろう。文字がかなり読み辛い。幸い日記は2週間分位あり内容的に同じ様な記述も多く大抵は推測で読むことができたが、単独で書かれたらギブアップ級のものも結構あった。
2月末の振武台の夜は寒さが厳しく寝不足が祟って”朝食うまくなし”とある。
戦時下の物資の乏しい状況下であるから、当然(?)生徒たちの部屋には暖房などなかったであろう。しかも写真で見る限りでは振武台の校舎は当時の小学校と同じ様な建屋のようであり、断熱(防寒)に優れていたとは到底思えないから相当な寒さであったと思う。
実際の所、この振武台は日中戦争の拡大や対米関係の悪化に伴い生徒数が増加したため元々の市ヶ谷台での対応が難しくなり、700日の突貫工事で完成させたと云ういわくつき(?)である。昨今の”〇〇パレス”と比べては失礼かもしれないが必要最低限の設備であったのではないかと思う。
加えて(一般国民よりは優遇されていたであろうが)食料事情も悪く、栄養状態も万全でない中の激しい訓練である。生徒たちにとって体調の維持管理は本当に大変であったろうと思う。