昭和19年3月14日 三郎から父(芳一)への状況報告

今回は陸軍予科士官学校に入校して間もない三郎が父(芳一)に送った近況報告。

A5サイズの両面書きとなっている。
A4サイズのものを半分に切ったものかと思ったが”規格A5判”とあるので最初からこのサイズの様である。便箋と云うよりはノートの様なものかも知れない。
しかし、他の手紙等にも通常の便箋で両面書きして節約しているものが目立つ事から、物資不足が相当深刻な事が判る。

毛筆で書いているが案外達筆で難読部分はなかった。

昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙②
昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙③
昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■様は芳一の知己で当時三郎がお世話になっていた方

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拝復 陸軍記念日出しの葉書確かに受取りました。
私も元気一杯張切って豫科の深奥に向い猪突猛
進中であります。家の方も皆元気でお母さんが働き出
され芳子も頑張って居るとの事大いに安心致しました。
少し過ぎ去った行事を羅列してみましょう。先づ三月六
日、入校式東校庭に整列、校長閣下、代理幹事閣下
の命令を以て正式に予科生徒となり大いに感激致しま
した。三月九日、六十期生の一部我等は早朝学校を出
発。宮城、靖国神社、明治神宮に参拝し入校の報告
をなし決意を新にしました。翌十日、陸軍記念日(三十九
回目)には早朝春雨けぶる中に払暁遭遇戦を行い血を
湧き肉躍るを感じました。次に来るべき事について一言。
三月十七日に航空士官学校に行かれる航空関係の方の
卒業式があります。優等生は六人で御賜品を戴か
れます。三月二十日より私達の学科が始まります。
数学、物理が断然多く、法制、化学、国漢、国史、心理、
修身等。私は語学は支那語であります。又
三月二十一日、春季皇霊祭には第一回の外出が許可
されました。私は■■様の方へ行く積りです。非常に
皆喜びました。東京を大手を振って闊歩出来ます。
未だ倉野さんに逢えていませんが、元福山に居た時
一級上であった(南校)髙畠尚志さんが伊吹隊の第二区
隊居られ逢いました。二年生です。地上部隊ですか
ら残られます。倉野さんも地上です。三中出身者に
も未だ誰にも逢いません。早く逢いたいのですが、
中隊が離れていて一寸行けませんが、最少し経ったら
各縣出身者の集会があるそうですから、その時には
明瞭に分かります。分かったら又お知らせ致します。
我が富士隊の広島縣出身者の二年生の芸備
線の駅向原町出身の今岡さんと云われる方が私
の区隊に逢いに来て下さいました。非常に嬉しかったです。
同縣というと非常に親しみを増します。私の区隊の戦友
に呉一中出身者が一名(本籍府中出身)、廣幼出身者一名 合計廣島縣出身者は我が
区隊には三名、山口縣一名、岡山縣一名、島根縣一名という
様なことですが、一年生の区隊には指導生徒殿と
云われる方が居られて勿論二年生の方の優秀な方で
すが、私の区隊の指導生徒殿は市井忠夫様と云われる方
です。私達が色々実際何から何まで教えて戴くのです。
その方が廣島幼年学校出身者で私の言葉を聞かれ
て直に「貴様は廣島だな」と云われました。本籍地
は新潟だそうです。お知らせして置きます。
あ、忘れましたが入校式の時の写真が十種類出来、私は全部
購入しましたから受領したらお送り致しますから、それにて
お察し願上ます。又外出したら私の写真を撮る
積りです。では未だ寒気厳しき折柄御身体を大切
に無理をなさらぬ様呉々もお願い申し上げます。
乱筆御免下さい。              敬具
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まず、”宮城(キュウジョウ:ミヤギではない)だが、当時は”皇居”ではなくこちらが通称だったらしい。靖国神社、明治神宮と参拝し皇国軍人の一員となったことを実感したであろう。文面からもナショナリズム的な意気込みが感じられる。

ところで、ナショナリズムは何故我々の血をたぎらせるのだろうか。
小生の若い頃の暴走族などは”ヤンキー”と云いながら”特攻ハチマキ”や”日の丸ステッカー”で日米ナショナリズムの融合体(?)であったが、深く歴史など勉強をしていない若者達(一部ではあるが)を惹きつけてしまう魅力(魔力?)があるのは間違いない。
妄信的なナショナリズムは害悪でしかないが、オリンピックやワールドカップを観るにつけ適度なナショナリズムは人間としての正常な感性だと思う。
しかし、悲しいかな戦時中の我が国におけるナショナリズムは妄信的なものになっていた誹りは免れない。

”払暁遭遇戦”とは歩兵隊が前進する際に敵部隊と遭遇した事を想定した戦闘訓練でこれが明け方(払暁)に実施されたと云う事である。

春季皇霊祭は現在の春分の日だが、初めての外出が許可されたことを甚く喜んでいる。三郎だけでなく”皆”が喜んでいたようであるから強がってはいても学校生活は厳しかったのであろう。

後半は同郷や近県の出身者の話になっている。やはり故郷は恋しいのであろう。郷愁…。これは今も昔も変わらない。

昭和44か45年の正月(小生が小学4か5年生の頃)だったと思うが、広島市にあった三郎の自宅で三郎一家と小生一家に父芳一も集まって新年会を開いていた際、芳一が”これは三郎が小学校の時に書いたんじゃぞ。上手じゃろう。”と自慢げに半紙に書かれた書を皆に見せたのだが、三郎はちょっと恥ずかしかったのか芳一からそれを奪い取り”余計な事せんでもええ。”と怒ってチリジリに破いてしまった。こんな事もあったせいで小生にとっては”軍隊経験のある怖い伯父さん”なのであった。今回の毛筆書きで思い出した話である。

最後の辺りで三郎が言っている入校式の写真については次回の投稿にてご紹介させて頂く。

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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