今回は三次中学同級生のMOさんからの手紙。
MOさんは三郎の幼馴染で、前回投稿のYさん同様仲の良い友人である。
解読結果は以下の通り。
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拝啓
梅花去り櫻花咲き乱れている今日、貴様
は猛勉強をしている事だろう。僕等も此の間
の十二日より十六日までの五日間、大竹海兵團でき
たえられたよ。その様子は早く言えばむちゃくち
ゃだよ。日に体操六回。これには小生も困ったよ。
又カッターは山中(ヤマチウ・サンチウ)どうもにがてだ。無理もないよ。
次に學校の事はそう変って居ないよ。昨日便所の
掃除をしたら、校長先生が非常にほめたよ。之
は五年生が大竹で習って来て自らやろうという事に
なったので、五年の鼻は非常に高いよ。又、北部大会が
五月九日頃ある事になっているが、今度は僕も
俵と二千米に出ようと思っているが、勝負は時
の運だし又、日も無し。課外が火水木金土とあり
日曜も學校だし非常にのびるよ。
まあこのくらいだ。
それから写真が出来たよ。まちどおしかったろうが
こらえてくれ。
さようなら
之を後にやぶれよ。
はづかしいから。
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まずは「大竹海兵団」をググってみた。
海兵団は、海軍兵として志願・徴兵された新兵・海軍特修兵たるべき下士官などが数か月間にわたり基礎教育・訓練を受けるため、鎮守府、警備府に設置されていた機関で、大東亜戦争開始以降人員受け入れ拡充のため各機関で分団等が増設された。
大竹海兵団も昭和15年に呉鎮守府の呉海兵団大竹分団として設置され翌16年に大竹海兵団として独立した。
今回のMOさんたちの場合は5日間の体験入団の様なものだったと思われるが、
「その様子は早く言えばむちゃくちゃだよ」
とある通り、現実的には陸海軍関係学校が進学先として大きな比率を占めていた当時、指導する側も体験する側もお互い真剣そのものだったであろう。
因みにこの大竹海兵団は終戦後海外からの引揚船の入港地となり、氷川丸はじめ多くの引揚船から40万人以上の在外の軍人や民間人が祖国日本への帰還を果たしたとのこと。
MOさんはスポーツマンだったようで、近く行われる予定の競技大会で二千メートル走に出場したい旨書かれているが、そういえば以前に投稿したMOさんの手紙の中に三郎から靴を貰った件が記されていたが、ひょっとすると陸上競技用の靴だったのかも知れない。
「又カッターは山中(ヤマチウ・サンチウ)どうもにがてだ」の”山中”の意味が不明である。三次中学の先生の名前だろうか…
先日の千代子の手紙にあった通り、MOさんの写真を同封したようだが残念ながらその写真は残っていない。
現代ではメディアの発達により写真に対する”有難み”が薄れてきているが、当時の様子を見ていると写真(特にポートレート)と云う媒体が、人々の心にいかに多くの安らぎや喜びをもたらしていたのかがよく判る…