昭和19年5月28日 三次中学校長先生からの葉書 難読…(-_-;) 

 

 

今回は約三ヶ月ぶりの三次中学N校長先生からの葉書。

前回に引続き小生にとっては難読なN校長先生の文書である。
短い内容であるが2~3か所悩んだ部分があった。

昭和19年5月28日 三次中学N校長先生からの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝復 御葉書有難く拝誦仕り
愈々御健康賀し益
二十年度陸士志願者指導に
就ては極力方図を講じ居り
一人にても多く合格をと念願致し
居りに御声援難有く 敬具
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まず、「難有く」は「ありがたく」で正しいようで、当時は特に漢文の素養のある方がこの様な書き方をされていたらしい。
因みに
「相不変」→ 相変らず
「不悪」 → 悪しからず
なども同類のようである。

4行目の「方図」は正しいか否か自信がないが、他に適当な語彙を思いつかなかった。

最後の二文字もよく判らないが、「拝復」の結辞なので「敬具」としておいた。

前回の投稿の際にも感じた事だが、陸軍予科士官学校へ「一人でも多く合格者をと念願致し」とあるが、教え子達の将来を想う者として本当はとても辛かったのではないかと思う。

「一人でも多く生き延びてと念願致し」が本音だったであろう…

 

昭和19年5月30日 お待ち兼ねの寫眞が出来ました… 三郎から父芳一への手紙

 

前々回の投稿で麻布の写真館で撮影した三郎の写真が届いていない状況の投稿をしたが、今回はその写真が無事届き父芳一へ発送した際の手紙の投稿である。

実際には”紛失”であったのか”誤配送”であったのか定かではないが、加治写真館さんからの手紙が5月25日のものであり今回の手紙が5月30日と数日しか経過していない事から”誤配或いは遅配”であったと思われる。

昭和19年5月30日 三郎から芳一への手紙

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お待ち兼ねの写真が出来ましたからお送
り致します。
其後元気でお勤めの事と思います。
私も其後元気で暮して居ます。
敬兄さんは其後お変りありませんか。大分
食欲も進まれる様になられたとの事、安心
致しました。
畠の野菜は生長しましたか。銀行の裏の豆
は大きくなりましたか。
芳子に宜しく伝えて下さい。体をこわさぬ様作業
する様に。           では又
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同封されていた東京麻布の写真館で撮影されたその写真は小生の手許には残っておらず三郎の雄姿をご紹介できないのは大変残念である。

だからと云うと大変失礼であるが、康男、三郎の友人と思われる方々の雄姿が何枚かあったのでそちらを投稿させて頂く。

雄姿①
雄姿②
雄姿③
雄姿④
雄姿⑤
雄姿⑥

因みに今日12月8日は開戦の日である。
様々な考え方や見解はあるとは思うが、国家滅亡の危機に瀕して勇敢に戦って下さった先人に心より感謝したい…

 

昭和19年5月30日 父芳一から三郎への手紙 コストパフォーマンス?貧乏性?ケチ?…

 

今回の投稿は芳一から三郎への葉書。

相不変(「相も変わらず」当時の様に記してみた…)特に葉書の場合は極小文字で解読し辛い我が祖父の文字であり読む側にとっては結構な苦痛なのだが、今回も時候、家族の近況、ご近所の状況等々四方山話満載の一葉となっている。
まぁ、コストパフォーマンスが高いと云えば聞こえは良いが…(笑)

 

昭和19年5月30日 芳一から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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三次も時下大分夏らしくなり、日中は相當暑くな
った。振武台にも同様夏が訪れた事と思う。もう夏衣裳だ
ろう。暑くなると訓練も相當なものだろう。血気にはやって
躰を損わぬ様充分注意せよ。人間の躰力にも大体程度
があるから、無理をすると敬兄さんの二の舞を演ずる事に
なる。兄さんも大分無理して居たので体が負けた訳だ。
それでも一ヶ月余りの静養で余程よくなって、大分肥った様に
思う。勿論熱もないし食べるのもよく食べる。康男兄さんから買って
貰った安臥読書器で毎日読書して居る。芳子も元気で通学
してる。お母さんも元気になった。近所にも変りない。久留島さんが
尾道に転宅され、後へ十日市青年学校長に就任した正君の親類の
太田章校長が転宅して来て賑やかになり、よいものをチョイチョイ
戴くよ。康男が二十八日に帰って二十九朝一番で又行った。六月一杯
は動かぬらしい。藤川は六月中に休職で帰るとかお父さんが
云って居た。■■さんから手紙で礼状が来た。二十一日に待たれたらしい。では
元気でやれ。十日市の小川新聞店のオジサン死んだよ。
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芳一はケチだったのか?
いや、ケチではなくモノを粗末にしない人だった。

チリ紙や爪楊枝は一度使ったくらいでは捨てずポケットに仕舞って何度か使っていた。
夏にスイカを食べた後は残った皮の部分を漬物にすると言って芳子(芳一の娘で小生の母)を面倒くさがらせていた。
食パンにカビが生えていても「その部分だけ取って焼いて食べれば大丈夫!」と芳子の制止を振り切ってムシャムシャ食べていた。
小生に「お茶碗にコメ一粒も残すな!」と躾けてくれたのも芳一だった。

とまあモノが溢れている現代の感覚からすれば「ケチ臭い」かも知れないが、生活必需品ですら貴重であった戦中~戦後を経験した芳一や同世代の人々にとっては当たり前の「勿体ない」であった。

そもそも日本人の感覚に於て「勿体ない」とは「物に対する畏敬の念や感謝」であり「損得勘定」よりも優先されるべきコンセプトの筈であるが、現代社会は利益を貪るあまり「勿体ない」を蔑ろにしているのが実態であろう。

「衣食足りて礼節を知る」と云うことわざがあるが、見た目の綺麗さや(過剰な?)清潔さを求めるあまり多くのモノが「粗末」にされている現在の状況を目の当たりにするにつけ「衣食足り過ぎて礼節を忘れる」と云うことわざも有りだなと感じる小生である…

 

昭和19年6月4日 母千代子からの手紙 父に負けじと四方山話満載…

 

今回は母千代子から三郎への手紙。

前々回投稿した三郎の写真が届いた事への返信であるが、話したいことは山ほどある様で便箋5枚に亘る”大作”となっている。

 

昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙④
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙⑤

解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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昨日は写真を送って呉れましてうれしく
阿りました。元気でやっています由何よりです。
家の方には別に変りありません。兄様も日々快方
に向って居ります。毎日三階で電蓄をかけ
て楽しんで居ります。考えてみれば兄様は
早くから会社に出して、あまり元気でない躰を
無理したらしい。一ヶ年位は静養せねばいけ
ないでしょう。帰宅してよりは見(ち)がえる様に躰に
肉がついて気分もよろしい。何分玉子も充分
食べられるし、私が病気した時の様にはなく
いろいろの魚も沢山あるやら食べられる病人
なのでよろしい。芳子は又田植などに出る
らしい。四年生は呉へ、来年三月まで。
近日行くらしい。三中も出るらしい。恒内の
看護婦さんの子も三月まで出るとか。
陸士の学科試験が五月にあった。だいぶん行った
そうな。あまり沢山は最後まではのこらなん
だとか。くわしくはよく知りません。柳原君は
よかったらしい。まあ、それにしてみれば、お前
は幸福だったね。
今頃三次の銀行で、西部次長会議があっ
て十人ばかり集まられた。福山の阿部様
がお出になってのお話に、あの芳子と同じ
位の正さんは戸手実業に入学されたそうだ。
矢張り躰が思う様にないらしいが、
どうせ勉強も充分出来んから躰を作る
ために農業方面に入れて兄と農業
させた方がよろしいと申されている。
石黒さんもあまりよろしくないらしい。
病気してはほんとにつまらないよ。
板木の御祖母上様が次々と心配の多い事
ですよ。三原校長が塩町にある中央青年
学校長になられた、十日市、三次、河内、酒河
四ヶ町村立組合青年学校長に太田章
さんが校長で、今、久留島様のあとへ来た。
母さんも力(強?)よくなった。康男兄さんに嫁さん
を心配して居る。夏休みには兄さんも広
島へ居られればよろしいが、どうなる事やら。
三ヶ月召集で明五日に三次から十六人も
出られる。銀行の裏の豆はよく出来たよ。
早や二、三度食べました。お初はお前にも
上げましたよ。近頃外出しましたか。
東京も物が不自由な(の)でしょう。■■へ送りて
上げ度いが、どんな物がよろしいやらね。
どうか病気にかからん様に心がけなさいよ。
今日は久しぶりに三次は雨が降りました。
入梅になれば又、雨だ雨だというのでしょう。
持ち物に気をつけてカビを出さんようにね。
では元気でやってくれよ。
又様子します。          母より

※修さんに一枚写真をやりましたよ。
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父芳一は一葉の葉書に小さな文字で内容を詰め込んだが、母千代子は紙面を沢山使って内容を多くしている。

多分育った環境なのだと思うが、若い頃から苦労して婿養子になった芳一に比べ、千代子は結構裕福な家庭に育ったらしくあまり貧乏臭い感じがない。

芳子(小生の母)も小生4歳の時に亭主(無論小生の父である)を亡くしてからは貧乏生活の連続であったが、こちらも貧乏臭い感じを嫌っていた感がある。

小生が小学生の頃、自転車やおもちゃなど友達の間で流行ったものは当然欲しくなり母(芳子)にねだったものだが、全部では無いにしてもほとんどの場合は手に入れていた記憶がある。
子供が欲しがるものを無暗に与えることは決して褒められた行為ではないが、自分がそうであったように自分の子供達にも極力貧乏臭い思いをさせたくなかったのだと思う。

これまで芳子が貧乏臭さを嫌っていたのは父芳一に末娘として可愛がられていたためあまり苦労しなかった事が原因だと思っていたが、このブログを開始して以降「案外母千代子の生活スタイルが影響しているのかも…」と思い始めている。

かと言って、貧乏臭い部分が無かったのか?…と云うとそうでもない。
デパートの包装紙や紙袋は山の様に貯め込んでいたし、母(芳子)が亡くなった後に姉と実家の遺品整理をした際に我々兄弟の幼少時代の衣類が沢山出てきた時には
「捨てられんかったんかね~」
と泣き笑ったものである。

芳一の血もしっかりと受け継いでいたようではある…

昭和12年4月6日 芳子幼稚園入園記念 母千代子と

 

昭和19年6月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙 呉海軍工廠への動員令…遂に下る

 

今回は三次中学同級生のMさんからの手紙。

このブログにも何度か投稿しているMさんの文書であるが、内容もさることながら丁寧かつ綺麗な文字に感心することしきりである。
小生の同年齢時代の文字など恥ずかしくて…

昭和19年6月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙①
昭和19年6月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙②
昭和19年6月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙③
昭和19年6月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙④

解読結果は以下の通り。

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三原君、直ぐ手紙を出そうと思っていたのだが陸士の受験や、それに
引続いて中学校の中間試験等で一寸忙しくて、つい今日迄延びた。
陸士の学科試験は五月二十八日から三日間あった。君も知っていると思
うが、今年は第一次と第二次の試験があり、第一次合格者を二十八日夕方発
表して、その合格者のみ第二次を受けられるのである。小生は修道中学校
で受験した。柳原、山田とは宿舎は一緒だったが、二人は廣凌中学だ
った。第一次の問題はやや簡単だった。それでも出来のよくない者が
いた。第一次で半数に近い受験者は激励の言葉に送られて退いた。
それから第二次の試験を受けたが、第二次は難問ばかりだった。数学は
六題中三題しか完璧でなかった。実に残念だった。君はどの位、去年
やったのかな。物象とても難問ばかり。試験官小田大尉(タルピン
教官によく似た人)の話では「今年は難問だった様だ。それで一般に出
来が悪い。だから心配する事はない。」とあった。合格者は七月中旬発
表され、八月一日より十二日迄の間の二日間、陸豫士校に召集し
身体検査を受けるのだ。入校は何時になるのか判らない。
小生は今年は駄目ではないかと心配している。第一次試験合格者(思
い出せる者のみ)は、中村、日南、新田、柳原、米沢、船重、伊達、吉川(大キイ分)
山田、岩竹、北条、小生等である。福永、百問、米村、大西、片山、森戸、
下山、等は失敗した。栗本、宮迫、等は志願を取消した。
次に、三中にも時代の大波は打寄せ、
『學徒動員令遂に下る』 いよいよ三中の四五年は呉海軍工
廠に六月十日より来年三月三十一日迄、通年動員に馳せ参ずる
事になった。六月三日にはその壮行式があった。我等は、
「今日よりはかえりみなくて大君のしこの御楯と出で立つわれは」の
精神で喜んで参加する。所ははっきりしないが、
「呉海軍工廠小倉工員寄宿舎」らしい。くわしくは後で知らせる。
しかし、週に六時間の授業があるのだ。又上級學校受験等は喜んで
させて貰える。海兵の試験は七月二十日から一週間ある。
あっー。君には知らせていなかったが、小生は海兵の体験はパス
した。中村、波多野をはじめ全員体験にはパスした。
君の去年の成績その他、注意事項があれば知らせて呉れ。
「河野デカ生徒」に出会う機会があれば試験の事等知らせ
てやって呉れ。
君は猛訓練をやっている事だろう。君の事だ、すべてを首尾よく
やっている事と思う。
君に貰った古文の本、大切にして勉強している。
君の事を思うと感無量だ。
では体を大切にして張切って進んで下さい。私も今度は
必ず軍隊(軍部學校)に入って御奉公しようと思う。

■■ ■■
三原 三郎 殿

歴史問題
一、 楠正成の精神の景仰復活せる主なる史実について説明せよ。
二、 明治三十七、八年戦後について、左に答えよ。
㈠ 原因  ㈡戦勝の理由  ㈢亜細亜民族への影響  ㈣大東亜
戦争との関係

地理
一、 メナム、メコン、イラワヂ川ノ通過せる国名を記せ。
㈠ その地方の気候の特徴  ㈡人文に及ぼせる影響について
答えよ。
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大戦の激化による将校不足を補うために募集人員を拡大した陸軍予科士官学校であるが、予想を上回る応募数だったのか二次選抜制を実施したようである。
簡易スクリーニング的な一次試験でふるい落としを実施したのであろう。

しかしながら戦時下での当時、これ程までに若者達が軍関連学校に応募した理由は何なのか?
戦争が激化し一般庶民が召集令状(いわゆる赤紙)にて徴兵される時代である。どうせ戦争に征くなら下っ端の一兵卒よりは将校として征きたいと考えるのが当然であろう。
単に「お国の爲」だけではなかった筈である。

呉海軍工廠への通年動員の命令が下された旨が書かれており、
「今日よりはかえりみなくて大君のしこの御楯と出で立つわれは」
と云う防人の歌が引用されている。
この歌は戦時中にお国の爲に戦地へ赴く軍人の心構えと気概を示したものとして大いに喧伝されたらしいが、万葉集に於ける防人の歌は家族との別れを悲しんだり故郷に思いを馳せたりしたものが殆どで(ある解釈によると)この歌も同様に「家族や故郷との別れに耐え出兵しよう」と努力している気持ちを現したものらしい。

Mさんがどの様にこの歌を解釈されていたかは不明だが、相当な「家族や故郷との別れに耐え」る努力が必要であったことは想像に難くない…

最後の4ページには歴史・地理(おそらく陸軍予科士官学校)の問題が書かれている。
意図は不明であるが三郎が「教えて欲しい」とお願いしていたのかも知れない。

ところで「タルピン教官」って誰?…