昭和19年6月6日 三次中学同級生MOさんからの手紙 呉海軍工廠へ 家族・故郷との別れ…

謹賀新年
あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします

いよいよ令和二年が明けた。
年明け最初の投稿は出来れば明るい内容のものにしたかったのだが、そもそも昭和19年当時に明るい話題などある筈もなくやはり少々暗い内容のものになってしまった。

今回の投稿は三次中学同級生のMOさんからの手紙。
昨年末に投稿したMさんからの手紙にもあったように「呉海軍工廠への通年動員」の話題である。

昭和19年6月6日 三次中学同級生Mさんからの手紙

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拝啓 長らく御無沙汰して、まことにすみません。実は何に
からはなしてよいかわからないくらいです。
君もずい分変った事でしょう。僕は相かわらずです。しかし僕も愈々之
から国家の役に立つような者となりました。と言うのは、実は此の間
から四日間、卒業試験もあり、写真もとり、そうして六月二十六日より
来年の三月三十一日まで、呉海軍工廠で働く事になったのです。五月二十
七日に我等學徒に通年動員が下ったのです。僕達も覚悟をし
ているものの、なつかしい故郷をあとに九ヶ月間働きに行く事は感慨無
量のものがあります。しかし、之は国家の爲です。僕達は最後の最
後までやりぬく覚悟であります。一昨日、壮行式もありました。
次に北備の大会は延期になっていましたが、之が爲に無期になったので
す。それから写真の事は、ちょっとわかりかねる所があります。「丸
住の分も一緒に取りに行け」は、君が(主人公のを?)家に送ったのを、丸住にやってくれ
というのですか? 次は呉より。
体に気をつけて頑張って下さい。  左様奈良
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まず?と思ったのが、MOさんは4月に5年生に進学したばかりなのだが、手紙には「卒業試験もあり」とある。
こんな時期に卒業試験??と思ってざっくりとググってみたのだがよく解らなかった。
ただ1944(昭和19)年に4年生になった者(三郎やMOさん達の1学年下)から「修業年限4年制」が前倒しで施行されており、この関係で5年生の卒業試験も前倒しされたのではないかと考えている。
詳しくご存知の方がおられたらご教示乞う。

さて通年動員であるが、まだ17~8歳の少年達である。突然9カ月も家族・故郷を離れて働けと云われれば動揺するのが普通であろう。文面からもその動揺具合が見て取れる。
しかも呉海軍工廠となれば最も空襲の標的になりやすい場所である。本人達だけでなく親御さんやご家族の不安も相当なものだったに違いない。
※因みにこの直後の昭和19年6月16日未明に北九州八幡に日本本土最初の空襲が行われている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A9%BA%E8%A5%B2

「六月二十六日より来年の三月三十一日まで、呉海軍工廠で働く事になったのです」とあるが、
その来年にあたる1945(昭和20)年3月19日に呉は空襲に晒されている…

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%BB%8D%E6%B8%AF%E7%A9%BA%E8%A5%B2

 

続報 紛失?遅配? 加治写真館さんの件新たな物証発見!!

 

昨年11月24日に麻布の加治写真館さんで撮影した写真が三郎の手許に届かない騒動の投稿をし、その後無事に写真を父母に送っている状況から「おそらく遅配だったのでは?」との判断をしていたが、先日未整理の資料をほじくり返していたら、三郎の「届いていない」旨の連絡と入れ違いに写真が届いていたことを示す物証が発見された。

 

昭和19年5月13日加治写真館さんからの領収書
昭和19年5月13日加治写真館さんからの封書

 

発見されたのは加治写真館さんから送付されてきた写真と領収書が同封された郵便物で消印が5月13日となっている。また封筒下部に赤鉛筆で「19.5.24」と記されており三郎の手許に5月24日に届いたものと判明。
昨年11月24日投稿の加治写真館さんからの手紙は5月25日(消印は5月26日)に出された物であり、この手紙が届いた時には既に写真は三郎の手許にあった訳である。

当然この後に加治写真館さんへは無事に届いた旨の連絡を入れて事なきを得たのであろうが、領収書を見ると4月3日に注文(撮影)したものが5月13日に発送されており更に11日を要して届いている状況であり、一ヶ月半も届かなければ心配になるのは仕方無いと思うが、現代と異なり当時は特に卒業・入学等で記念写真の需要が高まるこの時期は写真館も書き入れ時であろうし時間がかかるのが当たり前だったのかもしれない。

領収書を見て気になったのだが、課税額が撮影5割、焼増3割と現代から考えると異常に高い。
写真館で写真撮影することは贅沢とされていたようであるが、それでも「写真」は必要とされていたと云うことであろう。
「写真」と云うメディア自体の必要性・重要性は当時以上に増していると思うが、スマホで簡単に撮れてあっという間に世界中に拡散できてしまう現代に於けるその普及度や利便性には驚くほかないようである。

因みに、撮影料と焼増料の合計が(偶然にも) ¥7.77 となっているが、これは現代の貨幣価値で云うと4千~6千円位だと思われる。
参考サイト:https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html?amount=8&cy1=1944&cy2=2017

しかし、残念ながら今回の封筒にも「三郎の雄姿」の写真は残っていなかった…

 

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙 まだ6月なのに待ち遠しい夏休み、故郷、家族…

今回は先日投稿した母千代子からの手紙への三郎からの返信。

入校から3ヶ月。
振武台(陸軍予科士官学校)にも初夏が訪れ、厳しい訓練にも漸く慣れたのか或いは家族を心配させまいとやせ我慢しているのか不明であるが、文面からは「元気」な様子が溢れている。
学校からも夏休みの予定等が知らされたようで2ヶ月も先の事なのに既に待ち遠しい様子である。

 

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙①
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙②
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙③

解読結果は以下の通り。

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拝復 御手紙有難う御座居ました。
其後皆様変り無しとの事、安心致しました。
お蔭で私も病気の「ビ」の字も着かずに張
切って邁進して居りますから御安心願います。
敬兄さんも更生の一途をたどられ、私が見違
える程になられるとの事、大いに喜び居ります。
芳子も元気で作業しているとの事、嬉
しく思いますが、余り過度に渡り身体をこわ
さざる様御注意御願申し上げます。
此の振武臺の地にも新緑の夏がやって
来て流汗淋漓と云う所です。
最早、水際訓練所(プール)に於て水泳も
始り、衣服も防暑衣袴という小開襟の服
を着用して居ります。私も入校以来、体重
約三瓩ばかり増加し大いに意を強くして居
ます。聞く所によると八月上旬に遊泳
演習で海岸に行き、それが終るや直ちに
夏季休暇と思います。多分八月中旬とな
る見込です。その位の心構えで居て下さい。
次は少しお願いが有るのですが、それは、
雑記する雑記帳が少し入用なのですが、
これは私が中学校時代の物が残って居る
筈ですが、芳子には済まんのですが、御送付
願います。又、ついでに西洋紙、印鑑用の印
肉、事務用糊、手帳、スタンプを押す時に
用いる「スタンプ」(インクを滲ましたるもの)をお
願い致します。「ノート」、西洋紙は少し多く、とい
っても程度の問題ですが、良い様にお願い致します。
では成る可く早
くお願いします。夏季休暇に成りますから。
一寸お訊ね致しますが中隊から何か通信が
行った筈ですが、どんな事ですか。
では本日はこれで筆を措きます。
お父さんに無理をなさらぬ様、末筆で
失禮ですがお傳え願います。

母上様            三郎拝
               三原 三郎
康男兄さんは矢張り廣島
に居られますか。状況お知らせ下さい。
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6月も中旬となれば初夏よりは梅雨であろう。将に「流汗淋漓」と汗がしたたり落ちる訓練はさぞかし厳しいものであったと思う。
しかしその厳しさにもある程度順応した事や家族に余計な心配をさせまいとする気持ちからなのか、手紙の内容はとても明るい感じである。

「八月上旬に遊泳演習で海岸に行き、それが終るや直ちに夏季休暇」と早くも帰郷が待ちきれない様子である。
つい最近三次中学の同級生たちから、呉海軍工廠への通年動員の命令が下った事を聞かされたばかりでもあり、余計に家族や故郷への思いが増していたのかもしれない。

学校からの状況報告(通信簿のようなもの?)は本人には知らせず保護者に直接届けられたようで、その内容が気になっている様子である。

以前にもあったが、今回の手紙は毛筆書きである。
ペンと毛筆とをどの様な基準で使い分けていたのかよく解らないが、習字が大の苦手であった小生からすれば羨ましい位達筆である。
封筒の方も是非ご覧頂きたい。

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙(封筒表)
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙(封筒裏)

ん? 廣嶋県?

あの世の三郎おじさんへ
 嶋✖ → 島〇
 じゃないですか?
       愚甥より

 

昭和19年6月14日 三次中学同級生Yさんからの葉書 熊本薬専での勉学の楽しいことよ…

 

今回は熊本薬専に進学された三次中学同級生Yさんからの葉書。

戦況が悪化し同世代の多くが軍関係の学校を目指して進学する中、自信の進みたい道を選択したことで一時期は後ろめたさの様な感情に苛まれていたYさんであったが…

昭和19年6月14日 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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御返事有難う。大変遅れて済まぬ。郷里から
の報に依れば、大部分の者が一次試験にパスしたそ
うだ。それから、四、五年生の者全部通年動員で
自 六月廿五日 至来年三月三十一日間、呉工廠に行くとの事だ。
お国の爲ならば何ともし難いが、海兵受験者腐って
いると。學校が近頃大変面白くてたまらない。
殊に数学(微分・積分)、ドイツ語、有機、無機等
もうなんでもバリバリだ。
僕らにはまだ勉強をして呉れとの事か。動員は未
ない。が、秀刊(?)には一週間(十八日)より行く。試験も伸びだ。
では何呉れと、身体に気を付けてやって呉れ。
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最後から二行目の「秀刊(?)」がよく解らない。多分間違っていると思うが適当な語彙が見つからなかった。

前回(2019.11.10)投稿したYさんの葉書では、陸軍予科士官学校に入学した三郎に対し「俺も陸士に憧れていた」と一緒にお国のために戦いたかった気持ちを吐露し、ある種の後ろめたさを感じていた様子であった。
しかし今回の葉書ではそれらの気持ちが吹っ切れた様子で「學校が近頃大変面白くてたまらない」と勉強できる喜びを記している。

三次中学在校中の同級生や下級生たちが呉海軍工廠へ通年動員されたことからも自身へもいつ動員命令が下るか判らない状況であるも、「やっぱり勉強は楽しい!!」と学生生活を謳歌している。

本来学生の本分は勉強である。
三郎も羨ましく思ったに違いないであろう…