昭和19年6月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙 呉海軍工廠への動員令…遂に下る

 

今回は三次中学同級生のMさんからの手紙。

このブログにも何度か投稿しているMさんの文書であるが、内容もさることながら丁寧かつ綺麗な文字に感心することしきりである。
小生の同年齢時代の文字など恥ずかしくて…

昭和19年6月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙①
昭和19年6月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙②
昭和19年6月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙③
昭和19年6月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙④

解読結果は以下の通り。

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三原君、直ぐ手紙を出そうと思っていたのだが陸士の受験や、それに
引続いて中学校の中間試験等で一寸忙しくて、つい今日迄延びた。
陸士の学科試験は五月二十八日から三日間あった。君も知っていると思
うが、今年は第一次と第二次の試験があり、第一次合格者を二十八日夕方発
表して、その合格者のみ第二次を受けられるのである。小生は修道中学校
で受験した。柳原、山田とは宿舎は一緒だったが、二人は廣凌中学だ
った。第一次の問題はやや簡単だった。それでも出来のよくない者が
いた。第一次で半数に近い受験者は激励の言葉に送られて退いた。
それから第二次の試験を受けたが、第二次は難問ばかりだった。数学は
六題中三題しか完璧でなかった。実に残念だった。君はどの位、去年
やったのかな。物象とても難問ばかり。試験官小田大尉(タルピン
教官によく似た人)の話では「今年は難問だった様だ。それで一般に出
来が悪い。だから心配する事はない。」とあった。合格者は七月中旬発
表され、八月一日より十二日迄の間の二日間、陸豫士校に召集し
身体検査を受けるのだ。入校は何時になるのか判らない。
小生は今年は駄目ではないかと心配している。第一次試験合格者(思
い出せる者のみ)は、中村、日南、新田、柳原、米沢、船重、伊達、吉川(大キイ分)
山田、岩竹、北条、小生等である。福永、百問、米村、大西、片山、森戸、
下山、等は失敗した。栗本、宮迫、等は志願を取消した。
次に、三中にも時代の大波は打寄せ、
『學徒動員令遂に下る』 いよいよ三中の四五年は呉海軍工
廠に六月十日より来年三月三十一日迄、通年動員に馳せ参ずる
事になった。六月三日にはその壮行式があった。我等は、
「今日よりはかえりみなくて大君のしこの御楯と出で立つわれは」の
精神で喜んで参加する。所ははっきりしないが、
「呉海軍工廠小倉工員寄宿舎」らしい。くわしくは後で知らせる。
しかし、週に六時間の授業があるのだ。又上級學校受験等は喜んで
させて貰える。海兵の試験は七月二十日から一週間ある。
あっー。君には知らせていなかったが、小生は海兵の体験はパス
した。中村、波多野をはじめ全員体験にはパスした。
君の去年の成績その他、注意事項があれば知らせて呉れ。
「河野デカ生徒」に出会う機会があれば試験の事等知らせ
てやって呉れ。
君は猛訓練をやっている事だろう。君の事だ、すべてを首尾よく
やっている事と思う。
君に貰った古文の本、大切にして勉強している。
君の事を思うと感無量だ。
では体を大切にして張切って進んで下さい。私も今度は
必ず軍隊(軍部學校)に入って御奉公しようと思う。

■■ ■■
三原 三郎 殿

歴史問題
一、 楠正成の精神の景仰復活せる主なる史実について説明せよ。
二、 明治三十七、八年戦後について、左に答えよ。
㈠ 原因  ㈡戦勝の理由  ㈢亜細亜民族への影響  ㈣大東亜
戦争との関係

地理
一、 メナム、メコン、イラワヂ川ノ通過せる国名を記せ。
㈠ その地方の気候の特徴  ㈡人文に及ぼせる影響について
答えよ。
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大戦の激化による将校不足を補うために募集人員を拡大した陸軍予科士官学校であるが、予想を上回る応募数だったのか二次選抜制を実施したようである。
簡易スクリーニング的な一次試験でふるい落としを実施したのであろう。

しかしながら戦時下での当時、これ程までに若者達が軍関連学校に応募した理由は何なのか?
戦争が激化し一般庶民が召集令状(いわゆる赤紙)にて徴兵される時代である。どうせ戦争に征くなら下っ端の一兵卒よりは将校として征きたいと考えるのが当然であろう。
単に「お国の爲」だけではなかった筈である。

呉海軍工廠への通年動員の命令が下された旨が書かれており、
「今日よりはかえりみなくて大君のしこの御楯と出で立つわれは」
と云う防人の歌が引用されている。
この歌は戦時中にお国の爲に戦地へ赴く軍人の心構えと気概を示したものとして大いに喧伝されたらしいが、万葉集に於ける防人の歌は家族との別れを悲しんだり故郷に思いを馳せたりしたものが殆どで(ある解釈によると)この歌も同様に「家族や故郷との別れに耐え出兵しよう」と努力している気持ちを現したものらしい。

Mさんがどの様にこの歌を解釈されていたかは不明だが、相当な「家族や故郷との別れに耐え」る努力が必要であったことは想像に難くない…

最後の4ページには歴史・地理(おそらく陸軍予科士官学校)の問題が書かれている。
意図は不明であるが三郎が「教えて欲しい」とお願いしていたのかも知れない。

ところで「タルピン教官」って誰?…

 

昭和19年6月6日 三次中学同級生MOさんからの手紙 呉海軍工廠へ 家族・故郷との別れ…

謹賀新年
あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします

いよいよ令和二年が明けた。
年明け最初の投稿は出来れば明るい内容のものにしたかったのだが、そもそも昭和19年当時に明るい話題などある筈もなくやはり少々暗い内容のものになってしまった。

今回の投稿は三次中学同級生のMOさんからの手紙。
昨年末に投稿したMさんからの手紙にもあったように「呉海軍工廠への通年動員」の話題である。

昭和19年6月6日 三次中学同級生Mさんからの手紙

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拝啓 長らく御無沙汰して、まことにすみません。実は何に
からはなしてよいかわからないくらいです。
君もずい分変った事でしょう。僕は相かわらずです。しかし僕も愈々之
から国家の役に立つような者となりました。と言うのは、実は此の間
から四日間、卒業試験もあり、写真もとり、そうして六月二十六日より
来年の三月三十一日まで、呉海軍工廠で働く事になったのです。五月二十
七日に我等學徒に通年動員が下ったのです。僕達も覚悟をし
ているものの、なつかしい故郷をあとに九ヶ月間働きに行く事は感慨無
量のものがあります。しかし、之は国家の爲です。僕達は最後の最
後までやりぬく覚悟であります。一昨日、壮行式もありました。
次に北備の大会は延期になっていましたが、之が爲に無期になったので
す。それから写真の事は、ちょっとわかりかねる所があります。「丸
住の分も一緒に取りに行け」は、君が(主人公のを?)家に送ったのを、丸住にやってくれ
というのですか? 次は呉より。
体に気をつけて頑張って下さい。  左様奈良
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まず?と思ったのが、MOさんは4月に5年生に進学したばかりなのだが、手紙には「卒業試験もあり」とある。
こんな時期に卒業試験??と思ってざっくりとググってみたのだがよく解らなかった。
ただ1944(昭和19)年に4年生になった者(三郎やMOさん達の1学年下)から「修業年限4年制」が前倒しで施行されており、この関係で5年生の卒業試験も前倒しされたのではないかと考えている。
詳しくご存知の方がおられたらご教示乞う。

さて通年動員であるが、まだ17~8歳の少年達である。突然9カ月も家族・故郷を離れて働けと云われれば動揺するのが普通であろう。文面からもその動揺具合が見て取れる。
しかも呉海軍工廠となれば最も空襲の標的になりやすい場所である。本人達だけでなく親御さんやご家族の不安も相当なものだったに違いない。
※因みにこの直後の昭和19年6月16日未明に北九州八幡に日本本土最初の空襲が行われている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A9%BA%E8%A5%B2

「六月二十六日より来年の三月三十一日まで、呉海軍工廠で働く事になったのです」とあるが、
その来年にあたる1945(昭和20)年3月19日に呉は空襲に晒されている…

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%BB%8D%E6%B8%AF%E7%A9%BA%E8%A5%B2

 

続報 紛失?遅配? 加治写真館さんの件新たな物証発見!!

 

昨年11月24日に麻布の加治写真館さんで撮影した写真が三郎の手許に届かない騒動の投稿をし、その後無事に写真を父母に送っている状況から「おそらく遅配だったのでは?」との判断をしていたが、先日未整理の資料をほじくり返していたら、三郎の「届いていない」旨の連絡と入れ違いに写真が届いていたことを示す物証が発見された。

 

昭和19年5月13日加治写真館さんからの領収書
昭和19年5月13日加治写真館さんからの封書

 

発見されたのは加治写真館さんから送付されてきた写真と領収書が同封された郵便物で消印が5月13日となっている。また封筒下部に赤鉛筆で「19.5.24」と記されており三郎の手許に5月24日に届いたものと判明。
昨年11月24日投稿の加治写真館さんからの手紙は5月25日(消印は5月26日)に出された物であり、この手紙が届いた時には既に写真は三郎の手許にあった訳である。

当然この後に加治写真館さんへは無事に届いた旨の連絡を入れて事なきを得たのであろうが、領収書を見ると4月3日に注文(撮影)したものが5月13日に発送されており更に11日を要して届いている状況であり、一ヶ月半も届かなければ心配になるのは仕方無いと思うが、現代と異なり当時は特に卒業・入学等で記念写真の需要が高まるこの時期は写真館も書き入れ時であろうし時間がかかるのが当たり前だったのかもしれない。

領収書を見て気になったのだが、課税額が撮影5割、焼増3割と現代から考えると異常に高い。
写真館で写真撮影することは贅沢とされていたようであるが、それでも「写真」は必要とされていたと云うことであろう。
「写真」と云うメディア自体の必要性・重要性は当時以上に増していると思うが、スマホで簡単に撮れてあっという間に世界中に拡散できてしまう現代に於けるその普及度や利便性には驚くほかないようである。

因みに、撮影料と焼増料の合計が(偶然にも) ¥7.77 となっているが、これは現代の貨幣価値で云うと4千~6千円位だと思われる。
参考サイト:https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html?amount=8&cy1=1944&cy2=2017

しかし、残念ながら今回の封筒にも「三郎の雄姿」の写真は残っていなかった…

 

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙 まだ6月なのに待ち遠しい夏休み、故郷、家族…

今回は先日投稿した母千代子からの手紙への三郎からの返信。

入校から3ヶ月。
振武台(陸軍予科士官学校)にも初夏が訪れ、厳しい訓練にも漸く慣れたのか或いは家族を心配させまいとやせ我慢しているのか不明であるが、文面からは「元気」な様子が溢れている。
学校からも夏休みの予定等が知らされたようで2ヶ月も先の事なのに既に待ち遠しい様子である。

 

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙①
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙②
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙③

解読結果は以下の通り。

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拝復 御手紙有難う御座居ました。
其後皆様変り無しとの事、安心致しました。
お蔭で私も病気の「ビ」の字も着かずに張
切って邁進して居りますから御安心願います。
敬兄さんも更生の一途をたどられ、私が見違
える程になられるとの事、大いに喜び居ります。
芳子も元気で作業しているとの事、嬉
しく思いますが、余り過度に渡り身体をこわ
さざる様御注意御願申し上げます。
此の振武臺の地にも新緑の夏がやって
来て流汗淋漓と云う所です。
最早、水際訓練所(プール)に於て水泳も
始り、衣服も防暑衣袴という小開襟の服
を着用して居ります。私も入校以来、体重
約三瓩ばかり増加し大いに意を強くして居
ます。聞く所によると八月上旬に遊泳
演習で海岸に行き、それが終るや直ちに
夏季休暇と思います。多分八月中旬とな
る見込です。その位の心構えで居て下さい。
次は少しお願いが有るのですが、それは、
雑記する雑記帳が少し入用なのですが、
これは私が中学校時代の物が残って居る
筈ですが、芳子には済まんのですが、御送付
願います。又、ついでに西洋紙、印鑑用の印
肉、事務用糊、手帳、スタンプを押す時に
用いる「スタンプ」(インクを滲ましたるもの)をお
願い致します。「ノート」、西洋紙は少し多く、とい
っても程度の問題ですが、良い様にお願い致します。
では成る可く早
くお願いします。夏季休暇に成りますから。
一寸お訊ね致しますが中隊から何か通信が
行った筈ですが、どんな事ですか。
では本日はこれで筆を措きます。
お父さんに無理をなさらぬ様、末筆で
失禮ですがお傳え願います。

母上様            三郎拝
               三原 三郎
康男兄さんは矢張り廣島
に居られますか。状況お知らせ下さい。
************************

6月も中旬となれば初夏よりは梅雨であろう。将に「流汗淋漓」と汗がしたたり落ちる訓練はさぞかし厳しいものであったと思う。
しかしその厳しさにもある程度順応した事や家族に余計な心配をさせまいとする気持ちからなのか、手紙の内容はとても明るい感じである。

「八月上旬に遊泳演習で海岸に行き、それが終るや直ちに夏季休暇」と早くも帰郷が待ちきれない様子である。
つい最近三次中学の同級生たちから、呉海軍工廠への通年動員の命令が下った事を聞かされたばかりでもあり、余計に家族や故郷への思いが増していたのかもしれない。

学校からの状況報告(通信簿のようなもの?)は本人には知らせず保護者に直接届けられたようで、その内容が気になっている様子である。

以前にもあったが、今回の手紙は毛筆書きである。
ペンと毛筆とをどの様な基準で使い分けていたのかよく解らないが、習字が大の苦手であった小生からすれば羨ましい位達筆である。
封筒の方も是非ご覧頂きたい。

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙(封筒表)
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙(封筒裏)

ん? 廣嶋県?

あの世の三郎おじさんへ
 嶋✖ → 島〇
 じゃないですか?
       愚甥より

 

昭和19年6月14日 三次中学同級生Yさんからの葉書 熊本薬専での勉学の楽しいことよ…

 

今回は熊本薬専に進学された三次中学同級生Yさんからの葉書。

戦況が悪化し同世代の多くが軍関係の学校を目指して進学する中、自信の進みたい道を選択したことで一時期は後ろめたさの様な感情に苛まれていたYさんであったが…

昭和19年6月14日 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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御返事有難う。大変遅れて済まぬ。郷里から
の報に依れば、大部分の者が一次試験にパスしたそ
うだ。それから、四、五年生の者全部通年動員で
自 六月廿五日 至来年三月三十一日間、呉工廠に行くとの事だ。
お国の爲ならば何ともし難いが、海兵受験者腐って
いると。學校が近頃大変面白くてたまらない。
殊に数学(微分・積分)、ドイツ語、有機、無機等
もうなんでもバリバリだ。
僕らにはまだ勉強をして呉れとの事か。動員は未
ない。が、秀刊(?)には一週間(十八日)より行く。試験も伸びだ。
では何呉れと、身体に気を付けてやって呉れ。
************************

最後から二行目の「秀刊(?)」がよく解らない。多分間違っていると思うが適当な語彙が見つからなかった。

前回(2019.11.10)投稿したYさんの葉書では、陸軍予科士官学校に入学した三郎に対し「俺も陸士に憧れていた」と一緒にお国のために戦いたかった気持ちを吐露し、ある種の後ろめたさを感じていた様子であった。
しかし今回の葉書ではそれらの気持ちが吹っ切れた様子で「學校が近頃大変面白くてたまらない」と勉強できる喜びを記している。

三次中学在校中の同級生や下級生たちが呉海軍工廠へ通年動員されたことからも自身へもいつ動員命令が下るか判らない状況であるも、「やっぱり勉強は楽しい!!」と学生生活を謳歌している。

本来学生の本分は勉強である。
三郎も羨ましく思ったに違いないであろう…

 

昭和19年6月18日 三次中学同級生Fさんからの葉書 ”通年動員”と云う重圧… 

 

今回は三次中学同級生のFさんからの葉書。

これまでFさんの葉書は当ブログに2回(2019/5/6、7/23)投稿しているが、我が国を思う気持ちが強く、かつとても生真面目な方だと云う印象が強い。

熱望する(旧制)高校への入学を目指し努力している最中の「通年動員命令」はFさんに苛烈な重圧となって圧し掛かって来たようである…

昭和19年6月18日 三次中学同級生Fさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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既に初夏の候と相成りました。貴方其の後如何が
御過日かとお伺い申し上げます。小生相変らず、現
在迄、日を送って参りました。明日知れぬ国家を
思う一念に燃え滾れる我身も、今日まで楽しい
日々を過ごせし事、実に在り難き極みです。待ちに
待ちし動員も(御存じでしょうが)目前。廿六日に迫逼し、我身を
我が精根を何処迄も発揮すべき時と思うの
外はありません。大いに頑張り貫きます。して
万一我が希望を達成し得れば幸いと覚悟致し
て居ります。先づはお伺い旁々述意まで。
************************

以前の投稿の内容からは「一刻も早く国家の役に立つべく」と思いながらも(旧制)高校への想いを断ち切れず、「卑怯者」の誹りを覚悟して(実際には誰もそんな事は思っていないのだが…)自身の目指す進学へ邁進していたFさんであったが、その矢先の「通年動員命令」である。

「明日知れぬ国家を思う一念に燃え滾れる我身も、今日まで楽しい日々を過ごせし事、実に在り難き極み」や「万一我が希望を達成し得れば幸いと覚悟致し」の部分はまるで戦地に赴く兵士の「遺書」の様な記述であり、ある種の落胆が読み取れる。

国家の非常事態と理解し納得しようと苦しんだのであろう。
無念さは計り知れない…

 

昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙 四方山話、難読文字満載…(;´д`)

 

今回は以前(2020/1/19)に投稿した三郎から母千代子への手紙に対する父芳一からの返信。

三郎が家を離れて約4ヶ月が過ぎ、逢えないもどかしさを詰め込んだような「四方山話」と前回の手紙での三郎からの要望事項への回答が満載された内容となっている。

昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙②
昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙③
昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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昭和十九年六月二十日
先日の母への手紙慥かに到着。其後無事勉強して居るそうで
父母共安心。何と云っても健康第一なり。自己の衛生に留意して病気せぬ
事何より大切なり。健康なれば勉強も出来る。「健全なる精神は健全
なる体に宿る」 どうか体を大切にせよ。敬兄さんの様になっては一大挫
折する。 康男は矢張り宇品に居る。広島市千田町二丁目 栃木
吾一様方 として通信せよ。然しもう長くは居ないかも知れん。
六月一杯位で四国地に転ずるらしいがはっきりしない。
年内は内地に居るかも知れんと云うので、嫁さんを貰ってやり度
いと思って三原一之先生に心配して貰って居る。上下町へお父さん
と三原先生と十八日に見に行ったが好ましくないので断るつもり。
甲山町によいのがあるので今調査中だがそれも調べて見
なければわからん。まあ縁があれば話するかも知れんがまだどうな
るやらわからん。その内に出て行ったらお仕舞いだから。
敬さんも二ヶ月の闘病生活で餘程肥えて体にも肉がついた。
朝夕メタボリンの注射をお父さんがしてやって居る。卵も毎日
三個以上、牛乳二合、魷や魚も多少づつ手に入れて食べさせ
て居る。何としても一年位では全快させ度いと努力して居る。
気分もよいし食慾も進むし、まあ気長に療養すれば大丈夫
よくなると思う。
康男も元気で船舶の勉強をして居るらしい。階級は学生だそ
うな。海軍機関学校を出た者と同様に取扱われる様になるの
かも知れんよ。
お母さんも病気全快。朝早くからバタバタと働いている。敬の
裏に続く
世話から芳子の世話、それに康男も時々帰って来るし、お母
さんも多忙だよ。それでも元気になったので喜んで居る。
沖の上隣りの久留島さんが六月尾道へ引越したので其後へ君
田の校長だった太田章さんが十日市の青年学校長になったので
転宅して来た。太田先生は親類になるので力強くなった。
沖にも弟子は官用に出し此常は仕事も休みだ。三宅にも
変りない。福原の静雄君、モーターで大辺詐欺を働らいて居るらし
いので一ヶ月位前から警察に拘留されている。どうでも刑務所
行きらしい。悪るい事をすれば必ずわかるものだ。気の毒でも
仕方がない。章君が先般一寸休暇で帰って泣いたそうな。
人間は悪るい事をするのが一番の不忠不孝だ。
二上にも寿治(カズハル)さんが三月やらに病死し近頃は商売も少なく
寂しい事だ。森保君や佐々木・大膳などにも別に変
りはない。国民学校には庭や家の前の道路辺りにカボチャを
植えられ随分大きくなって居る。校長先生 今朝も縄を引張
りつつ、千個位はならすつもりだ。そして先生と生徒と一人一個
位は食べたいと思って居ると話して居られた。
中学校にも此常殆んど毎日作業で麦刈り・田植の手伝に
行って居られる。十六日(空襲のあった朝)東城に出張すべく汽車
で行っていたら、福原先生やら眼鏡をかけた若い先生と老人
の先生と三人生徒と共に乗り込み塩町駅の次まで話して行った。
お前の写真(市中で写した物)をお目に掛けたら大辺喜んで居られ
た。時々は通信せよ。
芳子も作業に行っている。麦刈り・田植の手伝だ。お前の植えた
夏豆はもう殆ど実った。夏休みには煎って食べさせて
やるとお母さんが云って居るよ。一斗位あると思う。ジャガイモ
もよく出来た。もう少し食べた。来月初めに掘り取るよ。
キウリ・ナスなど植えている。よく出来るよ。
尾関山の広場も大潟海岸のシバ原は全部畑になって居る。
食料増産でみんな大量だ。
今月初め位、服部隊長殿より謄写刷りの長い通信をいただ
いた。それは家庭と学校との連絡とか、本人への激励とか
夏休みのある事(状勢の悪化せぬ限りとある)、学校では
何一つ不自由のない事など、コマゴマと書いてあった。
そして成績の悪るい者、即ち注意を要する事項は別紙で
指導してあるとあったが、お前の事は何も別紙が入って
居ないのみか、前田連隊長がその手紙の終りの方へ
「本人純真でよく勉強して居る。将来相当伸びると思うが
大いに激励してやってくれと」あった。そして手紙の礼も云って
あった。で早速、服部隊長へも前田大尉へも手紙を出して
置いた。その手紙に私物は送らんでもよい。書籍なども学校
にあるし、食べ物は勿論文具類なども送る必要はない様
に書いてあったが、雑記帳、西洋紙、朱肉、糊、手帳、スタンプ
インキ台など送ってもよいのか。もし禁じられて居るのに送っ
てお前の成績に関係する様な事があってはならぬ。前田
連隊長に伺って見て許されたら送った方がよくはないか。
秘くして使用する事は気もトガめるし、校規をミダす
事になるから、よく考えてもう一度様子せよ。書籍は送
ってやる。
裏に続く
板木の長山・池田・玉井にも皆元気で増産に励んで居られた。
此間一寸行った。目下田植最中と思う。
四月初めに福山に行き鞆へも一泊した。お前も休みには行って見よ。
昔が偲ばれるよ。
■■さんの所へ良く行くか。先日ウドンを六把送って置いた。
魷でも送ろうと思って居る。
行ったら、お父さん・お母さんから宜敷云って来ましたと申し伝えて
くれ。軍刀一振お前のものを■■さんの知り合いの河田と
云う人に頼んである。それは日本刀鍛錬会作品の新品で
軍隊に納める品だそうな。陸士出は優先的に買えるそうなのだが
仲々早く手に入らんとの事で頼んである。尤も前田大尉
殿から心配して貰えば案外便利かも知れんが。河内老人の
娘聟の山田英と云う刀剣研師が遊衹館の刀の手入れも
し、又日本刀鍛錬会に関係しているので伝手で一本心配して
やるとの事。但し値段は軍隊に納めると二百円位だが、四百円位
は出さなければ早く手に入らんとの事だ。どちらかと云えば将
校に頼んで軍隊の方から買った方が便利だが、家にあるのは
刀身はよいが少し短いのでお前には不足と思うので、二尺一寸
位の無庇のものを一振手に入れて置き度いと思って居る。
まあ焦る訳でもないが。
忙しくても時々通信せよ。ハガキでよい。先生や知人、朋友へも通信
を怠るなよ。そして真面目に上官の命をよく遵奉して
勉強せよ。お国の役に立つ人間となれよ。
では今日はこれで筆止め。無事を祈る。
六月二十日午後六時十分書き終る。
銀行にて
父より
三郎どのへ
************************

何度も云っているが、芳一の文字は非常に読み辛い。
ただ今回は葉書でなく手紙だったので文字が大きかった事がせめてもの救いであった。

慥かに(たしかに)、魷(イカ)などの現代では殆ど見なくなった漢字だけでなく
文字自体が読めず前後の脈絡などから想像して解読した部分が多数あったので多少正確性に欠けている事をご了承頂きたい。

まずは家族の近況の報告に始まり、ご近所の状況を世間話的にたっぷりと記している。
モーターの詐欺で刑務所に行ったご近所さんの話は小生も初めて知った。

「康男も元気で船舶の勉強をして居るらしい。階級は学生だそうな。海軍機関学校を出た者と同様に取扱われる様になるのかも知れんよ。」の件があるが、当時康男は「陸軍船舶司令部船舶練習部学生」であったらしい。
陸軍の”船舶司令部”とは何か変な感じであるが当時南洋方面等での激戦地域への兵站輸送を任務とし、その任務遂行に必要とされる将校の教育も行われておりその学生であった。
以前投稿した集合写真が当時のものである。

19年2月暁二九四〇部隊 前列一番左が康男

「陸軍機動輸送」の詳細については以下サイトをご覧頂きたい。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu39.htm

 

以前このブログで「夏豆」の事を「枝豆」と書いてしまったが、どうやら「そら豆」が正解だったらしい。
まあ、小生にしてみればどちらも大好物なのでどうでも良いが…

三郎の通信簿が陸軍予科士官学校から届いたようで、その内容が上々であったことで芳一の喜んでいる様がわかる。
ただ、私物の送付に関する件は多少「親バカ」じみていて恥ずかしい気もするが…

日本刀の話の部分も多少「親バカ」なのかも知れないが、当時軍刀は大日本帝国陸海軍の制服の一部であったものの階級に合った刀を自前調達する必要があったため、出来るだけ良い刀を手に入れようとあちこちの伝手を頼っていた様である。
因みに当時の軍刀は基本的に「日本刀」であったが、現代で云う美術・骨董的価値のある「日本刀」の他に軍に納めるために工業的に作刀された「工業刀」があった。
手紙の中に出てくる「日本刀鍛錬会」も「靖国刀」と呼ばれる日本刀を靖国神社の境内で作刀していたとのこと。
詳しくは以下参照下さりたい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%88%80

「銀行にて」???
私用の手紙を職場で書いちゃダメですよ~
おじいちゃんへ
愚孫より

 

昭和19年6月20日 海軍機関学校Nさんからの葉書 「ニューギニヤ」…

 

今回は三次中学の(おそらく)先輩で舞鶴市の海軍機関学校生徒のNさんからの葉書。

梅雨時となり舞鶴も朝霞もそして三次も蒸し暑さが増してきた時候であるが、それでも「ニューギニヤ」よりは遥かにましだとある。

昭和19年6月20日 海軍機関学校生徒Nさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓
永い間失礼して誠に済まぬ。其後貴様も元気一杯
豫科士官学校生活を送っている事と思う。小生も
其後無事で学術訓練に励んでいる。敵米英は既
に吾内南洋に反攻して来ている。ぼやぼやしては居れ
ぬ。三中の四年五年も工廠等の作業で大変らしい。
之から暑さも益々加わるだろうが、「ニューギニヤ」の暑さより
遥かに涼しいだろう。然し、健康には充分注意して
学術に訓練に邁進し、逞しき将校としての素養を
練磨しよう。 では今日は之にて失礼する。
三原三郎 君
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「敵米英は既に吾内南洋に反攻して来ている」とあり「ニューギニヤ」が例えに挙がっているが、実際には一年半以上前の昭和17年11月に連合軍がニューギニア島に上陸し、その後日本軍は苦戦~撤退の繰り返しを強いられている。
大東亜戦争に於ける「ニューギニア戦線」とは、連合軍に制空・制海権を握られ補給路を断たれた日本軍が「敵」との戦闘だけでなく「飢餓」と「病魔」でも多くの犠牲者をだした戦いである。

http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/newginia/newginia.htm

南洋北洋各戦地での物資・食料の不足は逼迫していたが、制空・制海権を奪われた中での兵站補給は至難を極めた。

あまり知られていないが(前回の投稿でも取り上げた)康男が所属していた「陸軍船舶司令部暁第二九四〇部隊」とはこれらの補給を目的に輸送船団を指揮運用する部隊であり、当時「最も損害率の高い部隊」の一つであったらしい。

既に日本軍の圧倒的不利な状況にあった当時でも正しい戦況を知らされることは無かったのであろう。海軍機関学校生徒の認識がこの状況であった。
「まだまだ挽回可能!」と軍関係の学校・機関へ進んでいった康男や三郎の様な若者達が大勢いたであろう事を考えると国民に対する情報隠蔽や虚偽情報流布がどれ程大きな政治犯罪であるかを痛感せざるを得ない…

 

昭和19年6月26日 康男から三郎への葉書 「戦局正に重大」 康男の出陣近し…か?

 

今回は長男康男から三郎への葉書。

以前の手紙の内容などからも三郎が康男の動向を気にしていた様子が伺えていたが、ついに動きがあるようである。

 

昭和19年6月26日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 暦では入梅后幾日、文字通りの
空梅雨で毎日暑さが続く。御前達の訓練も
愈々本格的になって、毎日相当疲れる事と思う。
其後体の調子は如何。何といっても躰が第一、
気候に負けるな。今こそ一番緊張すべき時だ。
休暇でも頂ければ早く御前の立派な姿が見たいものだ。
兄さんもどうやら今月限りで広島に別れを告げる。
来月早々愛媛県宇摩郡三島町暁二九四〇部隊矢野
部隊の方に宿先変更の予定。移ったら早速
様子する。戦局正に重大、自重百変せよ。   敬具
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陸軍予科士官学校入校後数ヶ月の三郎が正確な戦況を知らされていたか甚だ疑問であるが、陸軍船舶司令部船舶練習部学生であった康男はかなり詳しく戦況を知らされていたのではないかと思われる。

康男の所属していた陸軍船舶司令部とは陸軍に於ける船舶での輸送や上陸を専門とした部隊であったが、戦局の悪化(と言うよりも「敗色濃厚」と言った方が正確か…)したこの当時には水上特別攻撃艇(通称:マルレ)に乗って爆雷とともに敵艦に突撃すると云う特攻部隊も存在しており、作戦遂行にあたっては戦局に関してもある程度正確な情報が知らされていたと思われる。
詳しくは以下サイトをご参考願いたい。
http://www.cf.city.hiroshima.jp/rinkai/heiwa/heiwa009/four%20sets%20of%20bitter%20fighting%20attacks%20boat.html

その康男が近く愛媛県宇摩郡三島町へ異動するとある。
削除線で消されてはいるが「(船舶司令部)暁二九四〇部隊矢野部隊」のある場所であり、おそらく戦地へ向けての出発が近いと云うことであろう。

戦時下に於て軍隊に入り出兵命令が出るまでの間は「ガンで余命宣告された」ような気持ちなのではないか…と以前の投稿でも書いたが、葉書の中の
「早く御前の立派な姿が見たいものだ」
「今月限りで広島に別れを告げる」
と云った言葉に、いよいよその「余命の最後」が近づいて来た事への覚悟が見て取れるようである…

 

昭和19年6月28日 母千代子から三郎への手紙 心配事、言伝、愚痴等々…取り止めもつかぬ事を永〃と

 

今回は母千代子から三郎へ宛てた手紙。

前回千代子が三郎に宛てたのは6月4日でひと月経っていないのだが「永らく御無沙汰して居ります」と書き出している。
当たり前であったとはいえ携帯やメールは存在せず電話さえ使えない環境での手紙のやり取りである。我が子想う母親にとっては将に「一日千秋」の想いであったであろう…

昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙④

昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙⑥

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。
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永らく御無沙汰して居ります。其後も相変
りなく元氣で勉強しています事と思います。
先日はお便り有難くその返事は父様
が何とか様子された事と思いますが
家の方には別に(変り?)ありません。兄様も二十五日の
日曜日に一寸帰省と電話していましたが
矢張り都合で帰る事が出来ませんで
した。七月になったら三島へ転隊すると
か。広島も今しばらくお別れだと申して
居ります。夏休みまで広島に居れば
よろしいが二三ヶ月が半年も居られたので
此の上充分は申されませんよ。
敬兄さんは快方に向って一寸他人が
見たところでは病人とは見えませんよ。
まだまだ養生をさせるつもりです。
芳子も二週間も続けて田植にでました。
少しつかれが出たらしいですが別に
休む事もなくやって居ります。
父様も元氣です。二十五日から二十八日まで
高田郡方面へ久しぶりに出張された。
三次の中所の方は雨が降らぬので水
がなくて田植になりませんのよ。
それから甲種予科練習生が伍長に
なって三次から出た子供が休みをもらって
久しぶりに二十四日に帰って二十八日には三次
を立って帰隊。七月中旬に卒業式
があって七月末にはそれぞれ外地に向う
とかお別れの気持ちの休みかとも思うが
藤川君も私の方へ来てくれた。お前の
後に送った写真を一枚渡したよ。
此度はお前とは何時逢えますやらと
申して居たよ。三年生から出た米やの
前岡君の父様も親子久しぶり
に逢ってよろこぶ間もなく父様に召集が
来て七月一日入隊とか親子ともども目出
度い事だ。
母様も六月で婦人会の班長の任期
満了致し(成可現班長の留任を)との
ことだが二年も續けてつとめさせていただ
いたのだから家庭の都合もあるし退せて
いただく事にした。母さんも兄様が病気
だし家の事が多忙で充分勤められん
から兄様にお嫁さんでもとりたら又
世話させてもらいます。
兄様のお嫁さんを次々進めてもらいます。
今一つ話しが進みつつあります。
中学校四年五年は二十六日に来年
三月まで呉へ行きましたよ。
夏休みに帰っても同級生には逢えん
かも知れませんよ。今日■■様よりハガキが
来ました。三郎君もあれ以来外出がない
らしい。よってくれないと申してよこされた。
二十八日には父様も出張先から帰られるから
御返事されると思います。
父様が苦心して作られたがジャガイモが多
くとれましたよ。種イモをもらったから一〆に対し
て三貫匁の供出にして私の方には一〆匁
もらったから三貫匁出してあと七貫匁
位は残ります。供出をほしまれる家も
あるけれど出して又お米へつけてもらうのだ
からね。気持ち良く出さねばいけませんよ。
沖の方には矢張り出さない方らしい。多く
作りながら。今夜はこれでよします。
取り止めもつかぬ事を永〃書きましたね。
暑くなるから充分気をつけて此の上ともに
勉強してくれよ。上官の命を良く守り
友達とは仲よくしてね。三郎さんはよくよく
心得えて居ますからね。たのみますよ。
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「取り止めもつかぬ事」が「永〃」と綴られている。

長男の康男は近く広島から愛媛の三島へ転隊するらしい。
これが戦地への出兵を意味するかもしれないことを千代子は知っていたのだろうか…
次男の敬は快方に向かっているとは言うものの未だ病床にあり「まだまだ養生をさせる」必要がある。
長女の芳子は女学校に入学したばかりなのに「二週間も続けて田植にで」て疲れている様子である。
父芳一は「元気です」

自分自身(母千代子)含め家族全員皆「大変」である。
いや、当時は日本国中が同じような状況であった。

「甲種予科練習生が伍長になって」一時帰郷したとある。
当時軍隊に於いても最精鋭で若者の憧れであった「飛行機乗り」である。
外地へ向かう前の一時帰郷だったらしく単なる帰省ではなく「今生の別れ」となる可能性も高かったであろう。
千代子からすれば康男や三郎ともそう遠くない将来に同様の再会がある筈であり心穏やかならぬものがあったのではないか…

三郎の同級生や下級生であった三次中学の五・四年生は通年動員で呉海軍工廠の軍需工場へ動員されていった。

「小中高の春休みまで休校」や「外出自粛」等で今般大騒ぎの「コロナ新型伝染病」も大変な事態であるが、(軽重を比べる訳ではないが)こと「国民に強いた大変さ」と云う意味においては当時と比べるまでもないであろう。

国家の存亡を賭けた大変な時代であった。