三郎 振武台日記 vol.12

 

今回は三月八日の日記からなのだが、このメモ帳にある日記はこの日を最後に終わっている。

一応、「三月九日」の記載は最後の部分にあるのだが…。

別のノートに続きを書いたのか、或いは止めてしまったのかは不明である。

昭和19年3月8日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

******************
三月八日 水 晴 大詔奉載日
昨夜は少し寒かった。身体を横にし
ては不可ない事をつくづく覚った。
だが、今朝は起床は第一番であった。
嬉しい。これを続けよう。
午前中 区隊長殿の靴の手入れ、ソノ他
の学科、実際、等あり。又もや
軍隊の小さな事までも系統的
整理的に書物までになっているの
に驚く。十三時より大詔
奉載式あり。中学校の式
とは一寸が異うが米英撃
滅の決意を新たにした。その後区
隊長殿の禮式令の学科有り。そ
の後理髪に行く。理髪の早い
のに驚く。明日の参拝が嬉しい。
明日の晴天を祈る。
******************

”不可ない”は”いけない”だが、多分現代では全く使われていないだろう。

”身体を横にしては不可ない”とは、掛布団と身体との間に隙間が出来て寒いからと云うことであろうか。それにしても結構な寒さではある。

”起床”に順位があったようである。おそらく集合場所への整列の順位なのではないかと思うが。また数千人にもなる生徒全員の中でなのか、学年或いはクラス全員の中でなのか…。詳細は不明であるが、何にしても1番は嬉しいであろう。

7行目の”実際”の意味がちょっと解らなかったのだが、その後に続く”軍隊の小さな事までも系統的整理的に書物までになっているのに驚く”の内容からすると”軍隊の実際の現状”と云った意味の教科なのではないかと思うが…。もし御存知の方がいらっしゃったら御教示乞う。

”大詔奉載式”とは太平洋戦争完遂を目指して開戦直後の昭和17年1月2日に制定された国民運動のこと。開戦日に当たる毎月8日の”大詔奉載日”に行われた集会の様なもので、当時の内閣告諭には”官公衙、学校、会社、工場等において詔書奉読式を行ふこと”とあるので、ほぼ全国で一斉に行われていたようである。
小生も小学校の先生から「昔は朝礼で全校生徒が皇居の方に向って最敬礼をしていた」と云う話を聞いたことがあるが、こんな話をしていたと云うことは”日教組”に染まっていない先生だったんだなと思う。
まぁ、こういった行事が行われていたのだから、”米英憎むべし”の感情が生まれるのは当然の事であったろう。
因みに本日(令和元年五月二十六日)はアメリカのトランプ大統領が国賓として国技館で大相撲を観戦し、取組後の表彰式では”米国大統領杯”の授与を行った。今昔を感じた今日この頃である。

令和元年5月26日トランプ大統領大相撲観戦し米国大統領杯授与

明日9日は三郎たち新入生は東京へ行き、皇居・靖国神社・明治神宮へ参拝し入校報告をすることになる。この様子は今後の三郎から父(芳一)への手紙にてご紹介する。

 

昭和19年3月18日 妹芳子からの葉書 

三郎の振武台日記が続いて少し間が空いてしまったが、今回から手紙・葉書へと戻る。

今回は末の妹の芳子からの葉書。

芳子は小生の母であり、当然性格や考え方など充分知っていると思っていたのだが、こうして子供の頃の葉書を読んでみると気付かなかった面も色々見えてくる。
まぁ、考えてみると実際母と暮らしたのは18歳までで、その後二十数年間は年に数回会う程度で電話でもそんなに頻繁に話すことも無かったわけで、本当はあまり母の事は知らなかったのかも知れない。

昭和19年3月18日 芳子から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

**************************
兄ちゃん、お便りありがとうございました。
三次の気候も大分良くなりました。今日(十七日)から
口頭試問の練習が始まりました。女學校の試験
は三月二十三日から三月二十五日までです。口頭試問は練
習したのでもうなんともなくなりました。
四月も近づいて来てもう桜の花のつぼみもほころび
かけています。あたりの山々も大分緑色にかわり
かけて来ました。士官學校愉快でしょう。遠いか
らちょっと行こうと言う事も出来ません。行く
には警察の許可がいるのでめんどうな事です。
急行も乗られなくなります。私の東京行きも
だめになりました。ではお體を大切にして下さい。
又お便りします。さようなら
**************************

まだ、12歳の時の葉書であるから当然内容も幼い…のだが、ちょっと幼過ぎないか?と云うのが息子である小生の正直な感想である。

大体にして、ワンセンテンスが短く「~した」とか「~です」のいわゆる「ですます調」は小生が小学生の頃に芳子から揶揄されていた部分で、今でもトラウマになっているのである。
それがどうだ。揶揄していた張本人が「ですます調」ではないか。
まあ、恋人や友人ではなく実兄への手紙であるから、変にかしこまったのかも知れないが…。

女学校の入学試験が目前に迫っている。これは家族全員が気にかけている心配事で、家族それぞれの手紙にも状況の確認や報告が挙がっている。

「士官學校愉快でしょう」は笑える。
三郎の振武台日記でもご紹介したように、大変厳しい訓練で鍛えられている三郎も「愉快でしょう」と云われてはやるせない。多分父(芳一)あたりから「楽しく元気にやって居るよ」位の話をされたのであろう。
また、少し前に父が2度ほど陸軍予科士官学校へ行っているが、どうやら芳子も行きたかったらしい。当時の国内の状況からすれば到底無理な話で「次の機会に…。」とあしらわれたと思われる。

母が生きているときにこの話を知っていれば、振武台に連れて行ってやりたかったなあと思う。

 

昭和19年3月19日 康男(長男)から三郎への手紙

 

 

今回は長男の康男から三郎に宛てた葉書から。

 

最初の部分に父(芳一)が言伝を加えている。

昭和19年3月19日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓 (お父さんが書添える。大膳さんの所にはお礼を
取られぬ。ハガキで礼を云って出せ。
岩井柳作さん所へもハガキ出せ。急ぐ訳でもないが、
近所ハ大体お礼に廻った。)
野山も春めき、陽気を覚える候となったが、
其後御前も元気一杯研鑽に励んでいる
事と思う。家の方も一同無事、夫々の道に
奉公している。兄さんも本日の日曜、久方振りの
全休で帰宅休養を攝っている。御父さんは
日曜廃止で本日も御出勤。芳子も試験間近で
登校した。御前が入校して家もめっきり淋し
くなった様だ。御前の書斎はそのままにしてある。
予科士の生活にももう相当慣れた事と思うが、
何時でも明朗に、元気よくやる事だ。充分体
に気をつけた上でね。 では又。     敬具
***********************

相も変わらず芳一の字は小さくて読み辛い。
確かに小生が小学生だった頃、ちょくちょく我が家に来ては庭の手入れなどやっており、性格的に”マメ”であることは知っていたが、字が小さいのはあまり記憶がなかった。

言伝の内容としては、三郎の陸軍予科士官学校への入校及び上京への餞別を頂いたご近所さんにお礼を届けて廻ったが受取って下さらないお宅があるので、三郎の方からお礼の手紙出す様にとの由。

手紙・葉書が主たる通信手段であったので当然現代の我々よりは文字を書く機会が多く、またその作業には慣れていた筈だが、今小生の手元には当時三郎が書き損じたと思われる葉書が10枚程ある。おそらくもっとあったのではないかと思うが、忙しい日々の中での大変な労力である。つくづく便利な世の中になったものである。手書きの葉書など年賀や暑中見舞いで”お変わりありませんか?”と書く程度で、宛名に至っては何年も書いていない小生である。

さて、本題の康男の葉書である。

この年の3月1日付で船舶司令部の船舶練習部学生となって訓練を受けていた康男が久し振りの完全休養日で帰宅していたらしい。当時広島市に住んでいたが実家の三次は70キロ程しか離れていないので、鉄道で2時間程であったと思う。前日夜に出れば結構ゆっくりできたであろう。

のんびりするには幸いだったかも知れないが、折角の日曜なのに父は出勤、妹は学校、残っている母も床に伏していたのではないかと思うと逆に淋しかったであろう。
だからと云う訳ではないだろうが、三郎への手紙になったのかも知れない。
内容的にも様子を報せ三郎の健康を気遣う”普通”の手紙である。

このひと月ほど前の昭和19年二月に所属していた船舶司令部での集合写真があるのでアップしておく。因みに裏書には

広島市宇品町
 暁第二九四〇部隊村中部隊髙井隊
  将校見習士官少尉候補者
 第二次要員編成記念
    於 学庭
  昭和十九年二月吉日

とある。

19年2月暁二九四〇部隊 前列一番左が康男

昭和19年3月22日 三次中学の先輩 陸軍士官学校Yさんからの葉書

 

今回は三次中学の一学年先輩で既に陸軍士官学校(神奈川の相武台)生徒であったY先輩からの入校を祝福する葉書から。

以前の投稿で陸軍予科士官学校(振武台)が完成した当時の新聞の切抜きをご紹介したが、元々東京の市谷台にあった士官学校が神奈川の相武台に移転。その後市谷台に残っていた予科士官学校が埼玉の振武台に移転しており、三郎の一学年先輩にあたるYさんは陸軍士官学校の生徒であった。

昭和19年3月22日 Y先輩から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

********************
星、輝く御紋章の下に、金に輝く星を
見事かちえられたること、誠にお目出度く
存じます。期もよし六十期。一大勇猛心
を発揮して武将街道を驀進せられん
ことをスタートの必要なるは何事にも
同じ。今三中十九期の児玉中佐殿が
士校にいられる。じゃがさんと同期。高崎
の演習地にて御会いした。君の云う通り先輩
に負けず頑張ろう。では又。
********************

4行目の驀進の「驀」は葉書の文字と若干異なるが他に適当な字が見当たらなかった。略字か誤字ではないかと思う。他に難読部分は無かった。

児玉中佐と”じゃがさん”も三次中学の先輩の様である。生徒が全国津々浦々から集まっているからこそ、同郷の先輩・後輩の繋がりが強かったのであろう。

この葉書は士官学校から出されたものであり、宛名書面に「検閲済」の印が押されている。だからと云う訳かどうか解らないが、あたりさわりのない無難な内容になっている。
同級生と先輩と云う違いもあるので一概には言えないが、以前投稿した同級生からの手紙にあった進学や故郷の話等は書かれておらず「余計なことは書かない」と云った空気が感じられる。
一説によると当時の検閲に関しては「膨大な量の手紙や葉書を内容まで全て検閲するのは無理があり実際にはそれ程厳しくはチェックされていなかった」という話もあるが、少なくとも軍関係施設では厳しく実施されていたようで、それなりの効果はあったと思われる。

 

閑話休題 祖父 三原芳一

小生が小学生の頃、祖父芳一は毎週の様に我が家へやって来た。

一人娘の芳子が可哀想だったのだと思う。

小生が4歳の昭和38年、父が他界した。
母の芳子は再婚の話を断り、まだ幼かった姉と小生を一人で育てることを選んだ。
当時、女性一人で二人の子供を育てるのは並大抵の事ではなかったはずなのに…。

国鉄に勤めていた父の同僚の協力もあり、高度成長期が始まり工場や団地が密集し始めた広島市の郊外に「国鉄バス切符売り場」を開業した。

最初は三畳間位の掘っ建て小屋が仕事場だった。
朝のラッシュ前に出勤し、夕方のラッシュが終ったら帰宅と云う形であった。
まだ保育園へ通っていなかった小生も”お伴”していた。母一人での切符売りである。

数ヶ月後、交差点の斜向かいに国鉄から借りた土地に我が家が建った。
費用は芳一が出したらしい。
詳細を聞いたわけではないが、小学生の頃芳一の後妻(小生にとっては「おばあちゃん」であった)が我が家に来ていた時に、冗談半分で「ウチはおんぼろじゃけんのぉ~」と母に言ったところ、横で聞いていた彼女が「おじいさん(芳一)が建てて下さった家をそんな風に言う子は出て行きなさい!」とこっぴどく叱られたことがある。

昭和39年初夏頃か…国鉄バス駅舎兼住居の我が家横にて 噴水式のジュース自販機が懐かしい

小さな家であったが家族三人には十分な広さであった。
国鉄バスの切符だけでなく、パン、菓子、ジュース、アイス、新聞なども売る様になった。

芳一は週末になるとやってきて、お店の手伝いや庭に作った小さな畑の手入れなどに精を出していた。

母にとっては有難かったと思うが、姉と小生にとっては困ることがあった。

芳一は夜7時からのNHKニュースを必ず見るのである。つまり7時20分にならないとチャンネル権は得られないのだ。しかも土日。
何度か芳子に「改善」をお願いしたがだめだった。
深刻な状況であった。

昭和50年頃芳一と常子(後妻さん)

 

昭和19年3月22・28日 三次中学同級生から三郎への葉書

今回は少し間が空いて届いた同級生からの葉書2通を紹介する。

前年の内に陸軍予科士官学校への入学が決まっていた三郎は特別で、通常はこの時期が入学進学で大変な時期であり、なかなか返事が書けなかったのであろう。

まずは、Kさんの葉書から。

昭和19年3月22日 同級生Kさんから三郎への葉書

特に難読部分は無かった。
解読結果は以下の通り。

********************
拝啓 君も入校後元気の事と思う。
僕も近頃一心不乱だ。陸士の五月、海
兵の七月、と受験の期も近づくし、とても
忙しいよ。どうか君の手紙の返事を長らく
出さなかった事もゆるしてくれ。
今年の四年の高校パス生はないらしい。
而し、軍隊方面の受験者ハ精鋭ばかりだよ。
君達の後をつくぞ。どうか我々四年生
に期待して君達も大いに努力して呉れ。
********************

続いてTさんの葉書から。

昭和19年3月28日 同級生Tさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

********************
三原君、無事御入隊を御祝
福申上げます。益々無事
精励の事と存じます。皇国の
ためしっかりやって下さい。
こちら益々無事勤労にも
挺身しています。
四年生も一同五年となり、専門学校
へも少々ね。斉木等の数名が合格し
ました。明日は湯浅、立石両君が
甲飛に出発します。
貴君らに続いて振武台へも是非
お送りしたく努力します。
御大事に
********************

最初のKさんは、この後も軍関連学校への受験があり相当忙しい様子である。
以前投稿した別の同級生の情報では陸・海とも5月下旬以降の学科試験とあったが、ここのは(4月)5日、7日とあり、多分身体検査なのではないかと思う。

Tさんのは絵はがきで、片面の下半分に小さな字で書かれており、クセ字であることも手伝って非常に読み辛かったが、他の同級生の情報など確認しながら何とか読み切れた。

「甲飛」とは「海軍飛行予科練習生」いわゆる「予科練」の生徒種別で、中学4年程度の学力のある者が受験したものを云う。因みに、高等小学校卒業程度の学力のある者のなかから特に優秀と認められた者を選抜したものは乙種,下士官のなかから選抜したものを丙種と云い、甲・乙・丙の三種あった。

同級生の2名が予科練へ出発とあるが、この頃から予科練では航空機搭乗員を大量に育成するのだが、終戦近くには「特攻隊員」の養成も行っている。
三郎の同級生が終戦まで生き延びられたか否かは不明である。

 

昭和19年3月24日 父(芳一)から三郎への手紙

今回は芳一から三郎に宛てた手紙。

入隊後1ヶ月が経過し、その間の家族や親戚の様子、軍刀の事等々色々と伝えている。

葉書だと強烈に読みにくい芳一の字であるが、今回は手紙と云うこともあり字が大きかったので割と読み易かったが、2~3苦労した部分があった。

 

昭和19年3月24日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年3月24日 芳一から三郎への手紙②
昭和19年3月24日 芳一から三郎への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■、▲▲ は芳一の知己で東京在住の方。三郎の上京でお世話になっている。

*****************************
去る三月九日頃に小包でマスク、仁丹、メンソレータム、ガーゼ等を小
包で送ったが入手したか。お母さんも手紙を出した筈だが手に入ったか。
中隊長、区隊長、河村軍曹殿へも三月十日にそれぞれ手紙を出して
置いた。今日丁度一ヶ月になる。二月二十四日に胸躍らして大泉学園駅
より徒歩で行った事を思い、丁度今日だと家でも話している。
二月二十七日はお前の入校決定日であったが、三月二十七日は芳子の
入学決定日だ。昨二十三日、二十四日、明二十五日と三日間、中等学校の
入学考査日で、芳子も朝六時半頃イソイソと出て行く。
百五十人採用に二百五十四名志望者あり。百名餘り除外される。
中学校は二百六十八名とかある由。三芝の正君の親類の太田校長
先生の長男(修二君)が中学校を受けるので二十二日の晩からその
お母さんと二人来て泊って、毎朝六時半から行っている。君田校で
一番だそうだから大丈夫入学するだろう。
芳子は如何なるやらわからん。二十七日が又待たれる事だ。
お母さんの病気も全快して毎朝早くから昔と変らず元気を
出して居るから安心せよ。
三月二十一日の春季皇霊祭には雨降りであったが、お父さんは板木の
玉井の小母さんが病気と云うのでお見舞なり、お墓参りに行った。
池田や玉井や長山を訪れて夕方帰った。玉井のオバさんは三月初
めから病気で休んで居られた。玉井にも昨年以来不運な事だ。
康男兄さんも十八日の晩に帰省してお前にハガキを出した筈。
敬さんも無事で居る。御向さんも二十二日に〇〇へ入隊したそう
な。三次はまだ寒むい。今朝も少し雹が降った。振武台は如何か
日本刀の立派なのを一腰求めてやり度いと思って、■■さんの昵懇
な河田力と云う老人に頼んだ處、日本刀鍛錬会の優秀作品
を陸士から注文されたら一丈夫置つる、との事故、前田区隊長
に御願して一振り手に入れて置きた度いと思って居る。陸海軍関係の
学校からの注文なら一振百四、五十円だそうな。が、一般人が申込めば
五、六百円するそうな。〇〇の方面からでも四百円位かかるそうな。
士官学校から注文した方が一番優利で確実に手に入るそうな。
お前のを一振り早目に求めて置き度いものだ。
陸軍記念日の前日には東京方面見学だったそうな。
もう大分校内の模様も判ったろう。大いに頑張って横山さんの
二代目となれよ。父母もそれのみ祈って居る。
大膳や藤井、三宅、山縣、板木の長山、二人の兄さん達へ時々
ハガキを出せよ。
日用品で入用のものはないか。入用品あらば様子せよ。送ってやる。
■■さん、▲▲さんから便りがあるか。
風を引かぬ様注意。殊に食物に留意して無事で勉強せよ。
お母さんや芳子よりもよろしく申出た。
三月二十四日夜
                           父より
  三郎様
*****************************

2枚目7行の「御向さん」は合っているか怪しいが、固有名詞だとちょっと解らない。
その後の「〇〇」も多分連隊か部隊の名称だと思うのだが、こちらも解らない。
もう一つ、同じく最後から2枚目の「〇〇の方面からでも」も解らなかった。

小包で生活雑貨を送っているが、現代の様に近くにコンビニがあるわけでもなく、家庭常備薬程度のものは生徒自身で調達しなければならなかったようである。家族や親戚の現況を報告しているが、やはり気がかりなのは妹(芳子:小生の母)の女学校入学試験のことである。
この手紙を認めている日の前後3日間が試験日で、父母共に気が気でない様子である。
芳一も「芳子は如何なるやらわからん」と書いている通り、芳子はどちらかと云うと「おっとり系」であったので心配したに違いない。

母(千代子)は「全快した」と書いてあるが、以前ご紹介した通り、本人の手紙ではまだまだ全快とは言い難い状況であった。

無事とはいえ、長男(康男)も訓練が終れば何時戦地へ送られるや分からぬ状況であり、次男(敬)も体調に不安がある。日本全体が暗雲立ち込めるなか、不安に満ちた日常であったに違いない。

追伸)
日本刀の購入のことも書いているが、芳一は骨董や刀剣に興味があった様で、戦後は趣味程度に蒐集していたようであるので、次回以降のどこかで刀剣に関してご紹介しようと思う。

 

昭和19年3月27日 長男(康男)から父(芳一)への重大なお願い

ここの所、三男(三郎)がメインの投稿が続いていたが、今回は久し振りに長男(康男)から父(芳一)への手紙。

前年(昭和18年)暮れに船舶司令部付船舶練習部学生として広島市に居た康男であるが、訓練に励みながらも日々重くのしかかってくる戦争の重圧と戦っていたことが読み取れる手紙である。

昭和19年3月27日 康男から芳一への手紙①
昭和19年3月27日 康男から芳一への手紙②
昭和19年3月27日 康男から芳一への手紙③
昭和19年3月27日 康男から芳一への手紙④
昭和19年3月27日 康男から芳一への手紙⑤

解読結果は以下の通り。

**************************
拝啓 其後皆様御変わりありませんか。
芳子の試験発表は本二十七日と承知していますが、如何なる
結果でしたか。多分大丈夫だろうとは思っていますが、
未だ何も通知を受取っていないので、いささか心配している
次第です。何分の御報告を御願い致します。
三郎からは其後、何んとも言って参りませんが、あれも
多忙を極めている事と存じます。小官は相変らず
任務に邁進、毎日学科に実習に修練に励んでいます
から、何卒御休神下さい。五月一杯は当地にいる筈ですが、
それ以後の事については未定。多分四国へは行く様に
なると思っています。下宿も非常に居心地によろしい
家で、早や三ヶ月御厄介になった譯です。
五年生になる女の子、一枝ちゃんは「全優」の好成績で
御褒美?に東京の方へ行っています。一人ですよ。
但し、友達の御母さん達と一緒ではありますがね。芳子なんかに
比べて数段しっかりしている様に思えます。然し、早熟という
こともあまり感心した事ではありませんから、良否は判断
の限りではありませんね。夏ノ軍服、上下を少し絞っていただ
ければと思っていますが、どんなものでしょうか。うしろの方はよろしい
様ですが、前の方がちょっと思わしく無い様でしたからね。
御父さんの方で猿又が入用なら金巾とメリヤスのを各一衣
買ってありますから。サイズは100です。
さて、次は小生一身上の問題、結婚についてですが、
御父上、御母上のご意見を伺いたく存じます。
未だ早すぎるか、或は、地位が不安定だとか、
小生としましては、貰ってもいいと思っています。 というのは、
第一 招集解除が何時、之を望めるか、果して、完全なる解除
がありて地方に帰る事が出来るか、
第二 現在の地位が安定していやすい様に考えていられるが、果して
之以上に安定する時が来るか、どうか。軍籍、特に現在の如き
任務にある以上、移動は常の事です。こんなことを嫌って
来るのを嫌う娘なんて、勿論いない筈ですが。
第三 之はあまり感心した事ではありませんが、小官に若しもの
事がありたる場合、勿論覚悟はされていると思いますが、小官
にも覚悟は常の事ですが、斯様な場合、三原家の長男
として後継者をも残せず、御両親の御面倒を見るべき
「娘」もいない事は、子として、長男として、忍び難い事
である事。
第四 部隊の方としても、奨励している事。猶現在、五月迄が
一番手続は容易なる事は先般部隊長殿より話しが
ありましたから、蛇足乍ら付け加えて置きます。
まあ、ザッと以上の様な理由で、どうせ貰うべきものは
早々貰って置いた方が都合がよかろうと思っている次第
です。但しまだ決定的に御両親に要求する程度では
ありません。経済的なる問題も考慮に入れなければなりません
し、其他の対人関係も勿論考慮外にある事は許され
ません。 で、御両親の御意向をはっきりとお伺いし度いと
存じている次第です。貰うとすれば、此時節、相当慾が
張れるのではないか(之はちょっと思い過ごしですかね。)とも思っ
ていますが、之は一生の重大問題で軽々に扱う事は
出来ませんがね。対象として求むべき相手の条件は一度
申上げた事もありますが、
一、 肉体の健全にして容姿は上の部
二、 明朗にして頭脳は明晰なる事
三、 家庭に関しては御両親に御委せします
四、 時に空閨を守り、三原家に在りて円満に生活を営み得る事
五、 年齢の差は 四―六 程度
大体以上の如き条件を満足さすべき人物です。
とにかく、二四才:の貧乏少尉では早すぎるか、もう二、三年
待ってみる方がよろしいかどうか、人間としての完成
とか、経験とか、いう点よりみて、早すぎるか、
或は、貰い度ければ、貰うのもよかろう、とか、何とか、
明確なる御返答御願い申上ます。重ねて申しますが、
小官としては、「是非」というのではありませんが、左様
御承知の上、御考慮を願います。又小生の方として
現在心当たりは更にありませんから、其点御心配無き
様老婆心迄に申上げます。 小官も子供ではありません
ので、結婚という事に就いても、二十四年間の極めて
浅き学識と経験からではありますが、相当考慮は致して
いる心算りです。先は御願迄。          早々
御両親様                   康男拝

この様な問題で御両親の頭を悩ますのは早すぎると思召めさば、全然何も
御考慮下さらなくても結構です。又、適当なる機会が到来するまで待ちますから。
**************************

難読部分は2枚目7行の最後の文字が読めなかった。
猿股の数え方は通常「枚」なのだが、字面から「衣」とした。

さて、内容の方は
妹(芳子)の女学校受験結果のことや三郎のこと、自身の近況等を一通り書いた後に、手紙の大半を結婚についての「願い」に割いている。

二十四(満年齢であればこの時点では二十二)歳の青年である。現代であれば結婚を焦る年齢ではない。
当時の結婚観が現代と異なっていたことを差し引いても、”どうしても”と云う年齢ではなかったであろう。

部隊の教官から結婚に関し何らかの”薦め”があった様ではあるが、直ぐに結婚したい女性がいた訳でもない様子である。

焦る理由は唯一つ。
「戦争」である。
練習生としての訓練期間は決まっており、その時が来れば戦地へ向かわねばならない。

我が国があれだけ大規模な戦争を行っている状況下である。
三郎の様に志願して軍関連の学校に進んだ者は多少心構えが違ったかもしれないが、戦地に赴くことが決まった人々の多くは
「いつまで生きられるのだろう」
と云う恐怖と戦う毎日だったであろうと思う。

小生含め戦争を経験していない世代にとっては”徴兵される・戦地に征く”と云う状況は、漠然と「恐ろしい状況」としか理解できない。
戦地での恐怖が想像を絶するものに違いないことは理解しても、そこに至るまでの「ガンで余命宣告された」ような期間のことを想像することはなかなか難しいのではないかと思う。

将にその「余命宣告」の期間の真っただ中にあった康男からの「結婚についてのお願い」である。
これを読んだ時の両親(芳一・千代子)の気持ちを想像すると涙が止まらなくなってしまう小生である。

戦争が終わった後に、「こんな事書いてましたねぇ。ハハハ。」と笑って話せる日が来ることを願っていたはずなのに…。

康男 昭和19年頃 撮影日不明

昭和19年3月28日 芳一から三郎への手紙 芳子女学校合格(万歳!)

 

今回は芳一から三郎への手紙から。

四日前に手紙を出したばかりであるが、家族全員が気になっていた末娘の女学校受験の結果発表が前日(三月二十七日)にあり、これを早く知らせるべくの葉書である。

 

昭和19年3月28日 芳一から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

**************************
大分暖かになった。其後元気で勉強しているか。
当方一同無事。芳子も首尾よく女学校入学
考査に合格。四月五日に入校通達が昨二十七日
にあった。(午前十時発表)。是れで先づ一安心だ。
芳子へお祝いを云ってやってくれ。三次の国民学校も
縁切りとなった訳だ。兄さん二人も無事で勤務して
居る。康男兄さんの写真が出来たから一、二日の内に
送ってやる。近頃通信がないが体は元気なのか。忙しく
て書けぬのなら別に書く必要もない。元気で明朗に
勉強せよ。三中の上級校に受けた連中どう云う成績か
まだハッキリせぬが相當に難関らしい。お母さんからも手紙
を出す筈。健康に留意せよ。
**************************

芳子が無事女学校に合格した。
小生の母であり、既にこの世にはいないのだが何かとても嬉しい。
万歳である。

家族全員が気にかけていたイベントも上首尾に終了し、皆一安心である。
「三次の国民学校も縁切りとなった訳だ」という芳一の言葉に実感がこもる。
長男の康男に始まり芳子まで16年続いた国民学校とのご縁が漸く終わったのである。

世間一般のことかも知れないが、末娘であった芳子は三人の兄達に比べ父(芳一)にとても可愛がられていたことは先日の「閑話休題」にも書かせて頂いた。
小生が子供の頃、母(芳子)は
「戦時中の米が無く麦や芋ばかり食べていた時に、兄達がいない時には父が床下から白米を出して自分だけに”白いご飯”を食べさせてくれた」
と言っていた。
そのくらい芳一は芳子を可愛がっていた。

その芳子も漸く女学生になった。
本来であれば「万々歳」の筈であった。

戦争さえなければ…。

芳子 昭和18年1月

 

昭和19年3月28日 母(千代子)から三郎への手紙

 

前回の父(芳一)からの手紙と同日に書かれた母(千代子)からの手紙である。

三郎が振武台へ行ってから一ヶ月程経過しており、文面からも多少落着いた感じが読み取れる。

 

昭和19年3月28日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年3月28日 千代子から三郎への手紙②

解読結果は以下の通り。

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其後変りなく勉強して居ると思います。
家の方には皆変りありませんよ。先日来より度々便り
を出すが何の返事もないが受取りましたか。
日頃心配して居た芳子の女学校入学受験に運
良く合格いたしました。女子組が二十七名受けて
二十名合格したのよ。深原先生も大手柄だ
中学校はあまりよろしくなかったらしいよ。。
女学校へは全部で四十何名受けたらしいよ。
まあ、子供も一人前の学校へ入学出来る様に
なって父様も私もこれよりうれしい事はありません。
皆よろこんでやってくれよ。芳子も安心したらしい。
幸田君ね。あれが廣島師範へ合格したそうね。
山縣君も熊本薬専へ合格したとの事。
昨日、中学校から成績表が来ました。別に変りた
處はなかったが、工作が秀になって居たよ。
見たかったら送ってあげます。
日曜日に河野君のお父様と逢って話されたそうな。
内の父様がね。三中の者に出逢いますか。
倉野様にもあったですか。
写真にうつりましたか。もし出来たら送りなさい。
都合が悪かったら無理してまではうつらなくって
よろしいよ。四月の五日が女学校の入学式だ。
中学校は四日らしいよ。何でも一年間位は仕業
するらしいよ。今日はこれで筆を止めます。
三次は今日も風がひどく雨やら雪やらわからん
ものが降って寒いです。充分躰に気をつけてね。
上官の命をよく守り、友人の力になる様にせよ。
三郎殿へ
母より
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父からの手紙同様、最優先事項は妹(芳子)の女学校合格の話題である。
やはり肩の荷が下りたのであろう、4人の子供全員が国民学校を卒業し一人前になった事を
「父様も私もこれよりうれしい事はありません」
と喜んでいる。

女学校の受験者数の部分で
「女子組が二十七名受けて」と「全部で四十何名受けた」とあり、女子組・男子組以外に何かあったのか?とググってみたところ、
当時、国家の方針としては国民学校三年生からは男女別組が原則であったが、一クラス辺りの生徒数や教室数の関係で地域によっては「男子組」「女子組」の他に「(男女)共組」という共学のクラスがあったらしい。
芳子の通った国民学校もこの「共組」があったようであるが、思春期に掛かる年齢でもあり、特に男子生徒にとっては「不公平感」満載の制度だった様に思える。(笑)

当時、女学校や中学校に進学しても授業はそこそこで勤労奉仕ばかりの毎日であったが、それでも進学できる喜びは格別だったようである。

しかし、いったん戦時中という現実に引き戻された時、軍隊勤務の康男や予科士官学校生徒の三郎の行く末を考えると本当に不安であったろう。
それどころか、軍隊と関係のない他の家族でさえ何時どうなるか判らない程に戦況は悪化していたのである。

因みにこの3日後の3月31日に米機動部隊がパラオ諸島を大空襲している。
徐々に制空権を奪われ、本土空襲へとつながってゆくのである…。