昭和19年4月8日 母千代子から三郎への手紙と芳子の歌好き

 

前日に父芳一が出した手紙に続き、今回は母千代子からの葉書。

一緒に出せば良いのにと思うのだが…
あまり夫婦仲は良くなかったのか?
今更ながら心配してしまう孫の小生である(笑)

昭和19年4月8日 母千代子から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際に大変お世話になっていた。
**************************
日増しに暖くなって三次の桜も色どり、ふくらみを
見せて来ました。其後変りなく元気で毎日
楽しい事と存じます。家の方にも相変らず
暮して居ります。兄様二人共三日四日と帰りました。
お前も外出があった由うれしかったでしょうね。
芳子も目出度く女学校へ入学出来て毎朝
七時には家を出ます。それから去る六日に昇さんは
十部隊へ教育召集で入隊された。家内の者は
まだ和歌山に残りて居ります。一ヶ月後に定りましょう。
康男兄さんの写真を近日父様より送付されます。
■■様方へは又御礼を致しますから心配せぬ様に。
日々元気で楽しく送りなさい。  サヨーナラ  母
**************************

三郎が上京して一ヶ月以上経過し、さすがに千代子も一時期の不安定な状況からは脱したのであろう。手紙の内容も至って普通のものになっている。

前日の父芳一の手紙にもあったが「昇さん」とはどうやら千代子の親戚らしく、三郎の”いとこ”にあたる青年のようであるが、小生も詳しい親戚関係を知らないので多少眉唾である。

芳子(小生の母)の歌好きに関して…
拙ブログ開設のきっかけとなった今回の遺品整理の時点で知ったのであるが、母は女学校で声楽部に所属していたらしい。
そう云えば小生が小学生の頃、店を閉めたあとに姉(小生より3学年上)と一緒に音楽の教科書や副読本(童謡などが収載された歌本)を見ながら2人で合唱していたのを思い出す。
当時は見ていて「恥ずかしい」感じであったが、それだけ歌・音楽が好きだったのであろう。

芳子 女学校音楽連盟

最近、高校3年の愚息がヘッドホンでネット動画を見ながら結構な大声で流行りの歌を唄っているのを聞くにつけ、ご近所様に「恥ずかしい」と思いながらも「隔世遺伝か?」と考えてしまう小生なのである。

 

昭和19年4月20日 母(千代子)から三郎への手紙 75年前の桜の押花入り

 

今回は約二週間ぶりの母(千代子)からの手紙。

中国地方ではどちらかと云えば寒い地域の三次も桜が盛りとなる季節となったことで、千代子の体調も少し良くなった様子が伺えるが、入れ替わる形で次男の敬が体調不良で自宅療養となってしまった。
心労の種は尽きない…

昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙④

今回の手紙は少々乱筆気味で難読文字が幾つかあったので、誤読があるかも知れないことをご容赦願う。
解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。
**************************
三郎殿 其後変りなく元気でやっていますか。
家の方にも皆変りた事はありませんから安心して下さい。
お父様も時々出張されます。芳子も元気で通学
しています。ほとんど仕業らしいですよ。

敬兄さんが先日来より躰の具合が一寸と思う様
にないので帰っています。少し無理をして勤め
たらしいです。三月二十八、九日に一寸と帰りた時は
元気であったが、今少し静養させた方がよろしい
と気分を安心に幾年かかっても元気にして
やらねば可愛想ですからね。別に心配せんでよろしい。

三次の桜も今頃が盛りです。昨日一寸と雨が降り
て、盛も一、二日中でしょう。桜の花も昔からよく
申した言葉で、パット咲いてきれいにちります。
唯れ一人花見らしい姿も見受けませんよ。
どうでも尾関山は桜の木を切って畠にするとか、
国民学校の生徒が今日も今日もと尾関山の下へ
ジャガイモやナンキンをうえつけています。

ニ、三日前に森保君が写真の代金のつりを
持って来てくれられた 手紙の中に写真は入れて
送りてやると申しておられた。お母さんも毎日
ぼつぼつ家の事や兄さんの食物におわれて
居ります。■■様方へ小包を送り出して
おきました。何かよい物があればと思うが
これとてなく、近日心配して送りますから
別に気をかねる事なく、よらしてもらって
遊びなさい。■■様方へはめいわくはかけませんから。

芳子の写真も兄さんが今少し気分がよろしく
なったら、うつして送らせますよ。
此の中の桜の枝は国民学校の桜ですよ。
芳子が取って来て、兄さんに送ってあげるのだ
と、本の中に入れておいた。

時々は板木の御老人へお便りを出してくれ。
又様子してあげます。
此の上とも充分躰に気をつけて病気に
ならぬ様注意しなさいよ。
兄さんよりもよろしく。

三郎様
母より
**************************

次男の敬が体調を崩して自宅療養をしているようである。

敬は元々虚弱体質で、恐らくその影響で徴兵検査に合格できなかったらしい。
「…らしい」と書いたのは、敬のこの件に関しては母からも祖父からも詳細は一切聞いたことがなく、「あまり体が丈夫ではなかった」としか聞かされなかったからである。
恐らく内臓疾患か結核(発症前)だったのではないか?と想像するが定かではない。
千代子は軍人になった康男と三郎の行く末を大いに案じていたが、それにも増して「軍人になる事さえも叶わない」敬を不憫に思っていたようである。
因みにこの年の旧盆に三郎が帰省した際に撮った敬と三郎の写真があるので貼っておく。
(※敬はやはり生気がない様子。三郎の写真は露出に失敗したのか、かなり不鮮明)

昭和19年8月19日 敬自宅にて①
昭和19年8月19日 敬自宅にて②
昭和19年8月19日 三郎自宅にて①
昭和19年8月19日 三郎自宅にて②

桜の花にも触れている。
三次の名所である尾関山は桜の名所でもあるのだが
「唯れ一人花見らしい姿も見受けませんよ」
と千代子も言っている通り、当時は花見に興じるような情勢でないことは皆判っていたのである。

「あの時の桜」を芳子が押花にして三郎に送っていた。
手紙の最後に添えてある「ひとひら」がそれである。

色褪せてはいるが辛うじて「さくら色」だ。
75年前に愛でられることなく散っていった桜
今から愛でてやるか…

昭和19年 桜の押花

 

昭和19年5月4日 母千代子から三郎への手紙 軍隊に征く我が子も病弱な我が子も 母の愛は海よりも深し…

 

今回は母千代子から三郎への手紙。

軍人となった長男、陸軍予科士官学校で軍人を目指す三男を心配しながらも、病気療養にて軍隊にも征けない次男のことを「可哀想だ」と我が身の病気も忘れ看病している。
将に「母は強し」である。

昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙④
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙⑤
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙⑥
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙⑦
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙8

千代子の手紙は字が大きく(亭主の芳一とは対照的)読み易いが、今回は8ページに亘る”大作”である。幾つか誤字と思われる部分もあった。

解読結果は以下の通り。
注)■■は父芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

**********************
三十日出しの写真受取りました。
なつかしく家中で見ました。
相変りなく元気で何よりだ。
家に居た時、兄様の服など
かりて、早く学校へ行き度い
と云れて着て見た時と同じだ。
矢張り年は争えぬ。まだまだ
大きくならねばいけませんね。
家にも別に変りありません。
敬兄さんも安静に三階で
休んで居ます。三十日に父様
は祇園へ行って大兄様と二人で
下宿へ行って、あらかじめ荷物を
しまって、自動車の便があったので
送りました。(新見様の荷物が広島
へ行ったので、其の帰りに積ませて
かえりました。)まあ、当分休まねば
いけまい。別に心配もないが、一寸と
無理をしたらしい。静養の必要が
いりますのよ。夏休みには見られます。
電蓄もかっています。病気する
子供は、なお可愛想だ。これも運命
とあきらめねば仕方がない。
せめて軍隊に出てからならとも
思うが、世の中は一升にあまる事
はないと昔から云うが、ほんとだよ。
大兄さんも六月中は広島にまだ
居られるらしい。二十六日から四日間、大阪
の方へ実習に行ったらしい。大阪では
大もてであったとか。汽車のせいげん
で、なかなか帰って来ませんのよ。
お前の写真も兄さんへ送ってあげろ。
芳子も元気で休みなく通学して
います。三次の桜も散りて
今はツツヂの盛りですよ。
内のカヂカも去年と同じく
元気です。三階で兄さんと寝て
います。夜三階で居れば尾関山
の下の川で、カヂカが鳴ているよ。
兄様が病気せねば、家で三人の出世
を祈って他の心配はないけれどね。
敬が帰ってからは、私の病気は
どこへ行ったやら。とても元気になった。
メタボリンの注射もやめて、敬にして
います。三階の上り下りも一日一回
でも、足がだるくていけなかったのに。
一日には何度するか知れんが、夜分は
すっかりつかれてねますれど、又朝
は早くから眼がさめて、父様と
二人で看病しています。私等が
ついているから病人の方は心配せんでよし。
夏休みに帰るのを待って居るよ。
先日、隊付きで居られた代々木様が
帰られて宅へ来て下さった。
もし、豫科へ行ったら面会して
やると申された。よい軍人さんだ。
よく聞いてみると、あの人はお母さん
が、ちがっているのだそうだ。
前の母さんは死れたのだとか。人の
話だ。一日も元気で生人する
まで生きて居たいものだ。
■■様方へ何か送りたいと心配
して、田舎からウドンを心(手?)配した
から近日送ります。
■■の奥様からも手紙を今日
頂いた。お前は気嫌(気兼?)はせんでよろしい
から、外出の時はよりなさい。お礼は
きっとしますからね。
今度の外出は中旬の休みですか。
兄さんの方へ滋養を取るのに心配す
るので、お前へにも何か送ってやり度い
が、前の様に入手出来んので、気に
かからん事はないが、送る事が出来
ん。小包の都合も悪いし許して
くれよ。毎日気にはかかるのだがね。
お前は家の事は心配する事はいらぬ。
敬兄さんの病気の事も知らせん方が
よろしいとは思ったが、何れは知れる
と思って、つい書いて。心配させたね。
■■へ送った小包の中に食べる
物が入れてなかったから、何だか
淋しく思ったであろうが、都合が
悪いからね。入用の物があった
ら知らせなさい。出来たら送ります。
忙しくなかったら、板木へも時々は
便りをしてあげよ。お祖母様も年
だから、元気そうでも、まあ先は
短いからね。父様も来る
六、七、八日と福山で主事会議
があるので出席される。父様も
なかなか忙しい。母さんが畑の手入れも
ようせんので、みなやられる。日曜日も
度々はないし、私も今年だけ
用心すれば又、何でも出来るからね。
大掃除があるが、今から気にしている。
まあ、其の時はどうにかなりましょう。
今夜は雨が降っている。オコタは
いらぬ様になったよ。
旧官内の藤井へ便りをしたか。
出逢うたびにお前の話をされるからね。
又、父様からも便りがあろう。芳子も
送るよ。元気でやってくれよ。
病気では駄目だからね。
今夜はこれでおやすみするよ。
明日も元気でやってくれ。よくねむれよ。
五月四日 夜九時半
三郎どのへ              母より
**********************

親にとってどの子が可愛くてどの子は可愛くないなどない。
況や、我が腹を痛めた母親からすれば尚更どの子も可愛いに決まっている。
しかしながら、病に倒れ身近で療養する敬は母から見て最も「可哀想」な存在であったのであろう。

千代子は軍人となり戦争に征く事が必然となった康男や三郎のことはもちろん心配であるが、国を挙げて戦っているさ中に自分自身が思うに任せない「やるせなさ」を敬本人以上に感じていたのかも知れない。
もっとはっきりと言えば、例え病弱であっても戦争に征かなくて済むのなら母親にとってそれはそれで良い事であったと思うが、当時の状況では世間の目を気にしないで生きて行く事は難しかったのではないかと思う。
このまま肩身の狭い人生を送る敬を不憫に思ったのも無理はない。

「世の中は一升にあまる事はない」の意味がよく解らなかったのでググってみた。
多分「一升徳利に二升は入らぬ」と云う故事のことではないかと思う。
「能力以上の事を望んでも無理」と云った意味らしいが、健康な息子は出征し病弱な息子は肩身が狭い人生を強いられる戦時下では「これも運命とあきらめねば仕方がない」のが多くの母親たちの慟哭であった…

「敬が帰ってからは、私の病気はどこへ行ったやら。とても元気になった」とあるが、その後の状況からすると元気になったのではなく、不憫な息子を護る爲に母性が理性を凌駕してしまったのであろう。

母の愛は海よりも深し…である。

 

昭和19年5月16日 母千代子から三郎への葉書 同日に父母別々に便り???…

 

今回の母千代子の葉書は前回投稿した父芳一の手紙と同じ5月16日に認めらている。
同じ日に投函するのなら同封した方が料金も安上がりだし、受取る三郎にしても楽だと思うのだが…

何か理由があったのだろうか…

昭和19年5月16日 千代子から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

************************
五月晴れの好季となりました。其後
三郎さんは変りなく元気で勉強して居る事
と思って居ります。家の方にも変りありません。
父様も芳子も元気で居ります。敬さんも日々
元気に向って居ります。十三日には芳子は光子
さんと板木へ行きました。十四日には兄様一寸と
帰り、十五日朝一番で帰隊。十八日頃から丸亀の
方へ一寸と行くらしい。母さんも元気で毎日をや
って居りますから安心して。■■様へ小包を昨日やっ
と出しました。目方が多くなって思うほど送られん。
暑くなりますから充分気をつけて勉強なさいよ。
************************

内容的にトピックはなく、芳一の手紙に詳しく書かれているものばかりである。

「十三日には芳子は光子さんと板木へ行きました」とある。
板木は(多分)芳一の実家があった町で三次から10km程離れた場所である。
ググってみたところ、「十三日」は土曜日であり女学校から帰宅した後に光子さん(友人と思われる)と一緒に祖父母の所へ行った様である。

さて、冒頭にも記した様に「なぜ父母別々に便りを出したのか?」が孫としてチョット気になったので考察してみた。

夫婦仲が悪かったのだろうか?
特別仲が良かった訳でもないだろうが、悪かったような状況は当時の手紙等からは感じられないし、小生も芳一や三郎、芳子からそうした話は聞いた記憶はない。

消印を確認したところ、千代子の葉書は「5月16日」であるのに対し、芳一の手紙は「5月17日」と翌日である。
多分、帰宅後に千代子から葉書を出した旨を聞いた芳一がもう少し詳しい内容を三郎に伝えてやろうと手紙を書いたのではないかと想像するのだが…

しかし、療養中の敬の事や戦地への出征が間近な康男の事などで家庭内がギクシャクしていたとしても無理はないので、その辺りの影響も排除できないとも思う。

まぁ考えてみれば、当時心配事も無く円満に暮らせていた家族など日本には存在しなかったのかも知れないし…

 

昭和19年6月4日 母千代子からの手紙 父に負けじと四方山話満載…

 

今回は母千代子から三郎への手紙。

前々回投稿した三郎の写真が届いた事への返信であるが、話したいことは山ほどある様で便箋5枚に亘る”大作”となっている。

 

昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙④
昭和19年6月4日 千代子から三郎への手紙⑤

解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

************************
昨日は写真を送って呉れましてうれしく
阿りました。元気でやっています由何よりです。
家の方には別に変りありません。兄様も日々快方
に向って居ります。毎日三階で電蓄をかけ
て楽しんで居ります。考えてみれば兄様は
早くから会社に出して、あまり元気でない躰を
無理したらしい。一ヶ年位は静養せねばいけ
ないでしょう。帰宅してよりは見(ち)がえる様に躰に
肉がついて気分もよろしい。何分玉子も充分
食べられるし、私が病気した時の様にはなく
いろいろの魚も沢山あるやら食べられる病人
なのでよろしい。芳子は又田植などに出る
らしい。四年生は呉へ、来年三月まで。
近日行くらしい。三中も出るらしい。恒内の
看護婦さんの子も三月まで出るとか。
陸士の学科試験が五月にあった。だいぶん行った
そうな。あまり沢山は最後まではのこらなん
だとか。くわしくはよく知りません。柳原君は
よかったらしい。まあ、それにしてみれば、お前
は幸福だったね。
今頃三次の銀行で、西部次長会議があっ
て十人ばかり集まられた。福山の阿部様
がお出になってのお話に、あの芳子と同じ
位の正さんは戸手実業に入学されたそうだ。
矢張り躰が思う様にないらしいが、
どうせ勉強も充分出来んから躰を作る
ために農業方面に入れて兄と農業
させた方がよろしいと申されている。
石黒さんもあまりよろしくないらしい。
病気してはほんとにつまらないよ。
板木の御祖母上様が次々と心配の多い事
ですよ。三原校長が塩町にある中央青年
学校長になられた、十日市、三次、河内、酒河
四ヶ町村立組合青年学校長に太田章
さんが校長で、今、久留島様のあとへ来た。
母さんも力(強?)よくなった。康男兄さんに嫁さん
を心配して居る。夏休みには兄さんも広
島へ居られればよろしいが、どうなる事やら。
三ヶ月召集で明五日に三次から十六人も
出られる。銀行の裏の豆はよく出来たよ。
早や二、三度食べました。お初はお前にも
上げましたよ。近頃外出しましたか。
東京も物が不自由な(の)でしょう。■■へ送りて
上げ度いが、どんな物がよろしいやらね。
どうか病気にかからん様に心がけなさいよ。
今日は久しぶりに三次は雨が降りました。
入梅になれば又、雨だ雨だというのでしょう。
持ち物に気をつけてカビを出さんようにね。
では元気でやってくれよ。
又様子します。          母より

※修さんに一枚写真をやりましたよ。
************************

父芳一は一葉の葉書に小さな文字で内容を詰め込んだが、母千代子は紙面を沢山使って内容を多くしている。

多分育った環境なのだと思うが、若い頃から苦労して婿養子になった芳一に比べ、千代子は結構裕福な家庭に育ったらしくあまり貧乏臭い感じがない。

芳子(小生の母)も小生4歳の時に亭主(無論小生の父である)を亡くしてからは貧乏生活の連続であったが、こちらも貧乏臭い感じを嫌っていた感がある。

小生が小学生の頃、自転車やおもちゃなど友達の間で流行ったものは当然欲しくなり母(芳子)にねだったものだが、全部では無いにしてもほとんどの場合は手に入れていた記憶がある。
子供が欲しがるものを無暗に与えることは決して褒められた行為ではないが、自分がそうであったように自分の子供達にも極力貧乏臭い思いをさせたくなかったのだと思う。

これまで芳子が貧乏臭さを嫌っていたのは父芳一に末娘として可愛がられていたためあまり苦労しなかった事が原因だと思っていたが、このブログを開始して以降「案外母千代子の生活スタイルが影響しているのかも…」と思い始めている。

かと言って、貧乏臭い部分が無かったのか?…と云うとそうでもない。
デパートの包装紙や紙袋は山の様に貯め込んでいたし、母(芳子)が亡くなった後に姉と実家の遺品整理をした際に我々兄弟の幼少時代の衣類が沢山出てきた時には
「捨てられんかったんかね~」
と泣き笑ったものである。

芳一の血もしっかりと受け継いでいたようではある…

昭和12年4月6日 芳子幼稚園入園記念 母千代子と

 

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙 まだ6月なのに待ち遠しい夏休み、故郷、家族…

今回は先日投稿した母千代子からの手紙への三郎からの返信。

入校から3ヶ月。
振武台(陸軍予科士官学校)にも初夏が訪れ、厳しい訓練にも漸く慣れたのか或いは家族を心配させまいとやせ我慢しているのか不明であるが、文面からは「元気」な様子が溢れている。
学校からも夏休みの予定等が知らされたようで2ヶ月も先の事なのに既に待ち遠しい様子である。

 

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙①
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙②
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙③

解読結果は以下の通り。

************************
拝復 御手紙有難う御座居ました。
其後皆様変り無しとの事、安心致しました。
お蔭で私も病気の「ビ」の字も着かずに張
切って邁進して居りますから御安心願います。
敬兄さんも更生の一途をたどられ、私が見違
える程になられるとの事、大いに喜び居ります。
芳子も元気で作業しているとの事、嬉
しく思いますが、余り過度に渡り身体をこわ
さざる様御注意御願申し上げます。
此の振武臺の地にも新緑の夏がやって
来て流汗淋漓と云う所です。
最早、水際訓練所(プール)に於て水泳も
始り、衣服も防暑衣袴という小開襟の服
を着用して居ります。私も入校以来、体重
約三瓩ばかり増加し大いに意を強くして居
ます。聞く所によると八月上旬に遊泳
演習で海岸に行き、それが終るや直ちに
夏季休暇と思います。多分八月中旬とな
る見込です。その位の心構えで居て下さい。
次は少しお願いが有るのですが、それは、
雑記する雑記帳が少し入用なのですが、
これは私が中学校時代の物が残って居る
筈ですが、芳子には済まんのですが、御送付
願います。又、ついでに西洋紙、印鑑用の印
肉、事務用糊、手帳、スタンプを押す時に
用いる「スタンプ」(インクを滲ましたるもの)をお
願い致します。「ノート」、西洋紙は少し多く、とい
っても程度の問題ですが、良い様にお願い致します。
では成る可く早
くお願いします。夏季休暇に成りますから。
一寸お訊ね致しますが中隊から何か通信が
行った筈ですが、どんな事ですか。
では本日はこれで筆を措きます。
お父さんに無理をなさらぬ様、末筆で
失禮ですがお傳え願います。

母上様            三郎拝
               三原 三郎
康男兄さんは矢張り廣島
に居られますか。状況お知らせ下さい。
************************

6月も中旬となれば初夏よりは梅雨であろう。将に「流汗淋漓」と汗がしたたり落ちる訓練はさぞかし厳しいものであったと思う。
しかしその厳しさにもある程度順応した事や家族に余計な心配をさせまいとする気持ちからなのか、手紙の内容はとても明るい感じである。

「八月上旬に遊泳演習で海岸に行き、それが終るや直ちに夏季休暇」と早くも帰郷が待ちきれない様子である。
つい最近三次中学の同級生たちから、呉海軍工廠への通年動員の命令が下った事を聞かされたばかりでもあり、余計に家族や故郷への思いが増していたのかもしれない。

学校からの状況報告(通信簿のようなもの?)は本人には知らせず保護者に直接届けられたようで、その内容が気になっている様子である。

以前にもあったが、今回の手紙は毛筆書きである。
ペンと毛筆とをどの様な基準で使い分けていたのかよく解らないが、習字が大の苦手であった小生からすれば羨ましい位達筆である。
封筒の方も是非ご覧頂きたい。

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙(封筒表)
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙(封筒裏)

ん? 廣嶋県?

あの世の三郎おじさんへ
 嶋✖ → 島〇
 じゃないですか?
       愚甥より

 

昭和19年6月28日 母千代子から三郎への手紙 心配事、言伝、愚痴等々…取り止めもつかぬ事を永〃と

 

今回は母千代子から三郎へ宛てた手紙。

前回千代子が三郎に宛てたのは6月4日でひと月経っていないのだが「永らく御無沙汰して居ります」と書き出している。
当たり前であったとはいえ携帯やメールは存在せず電話さえ使えない環境での手紙のやり取りである。我が子想う母親にとっては将に「一日千秋」の想いであったであろう…

昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙④

昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙⑥

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。
************************
永らく御無沙汰して居ります。其後も相変
りなく元氣で勉強しています事と思います。
先日はお便り有難くその返事は父様
が何とか様子された事と思いますが
家の方には別に(変り?)ありません。兄様も二十五日の
日曜日に一寸帰省と電話していましたが
矢張り都合で帰る事が出来ませんで
した。七月になったら三島へ転隊すると
か。広島も今しばらくお別れだと申して
居ります。夏休みまで広島に居れば
よろしいが二三ヶ月が半年も居られたので
此の上充分は申されませんよ。
敬兄さんは快方に向って一寸他人が
見たところでは病人とは見えませんよ。
まだまだ養生をさせるつもりです。
芳子も二週間も続けて田植にでました。
少しつかれが出たらしいですが別に
休む事もなくやって居ります。
父様も元氣です。二十五日から二十八日まで
高田郡方面へ久しぶりに出張された。
三次の中所の方は雨が降らぬので水
がなくて田植になりませんのよ。
それから甲種予科練習生が伍長に
なって三次から出た子供が休みをもらって
久しぶりに二十四日に帰って二十八日には三次
を立って帰隊。七月中旬に卒業式
があって七月末にはそれぞれ外地に向う
とかお別れの気持ちの休みかとも思うが
藤川君も私の方へ来てくれた。お前の
後に送った写真を一枚渡したよ。
此度はお前とは何時逢えますやらと
申して居たよ。三年生から出た米やの
前岡君の父様も親子久しぶり
に逢ってよろこぶ間もなく父様に召集が
来て七月一日入隊とか親子ともども目出
度い事だ。
母様も六月で婦人会の班長の任期
満了致し(成可現班長の留任を)との
ことだが二年も續けてつとめさせていただ
いたのだから家庭の都合もあるし退せて
いただく事にした。母さんも兄様が病気
だし家の事が多忙で充分勤められん
から兄様にお嫁さんでもとりたら又
世話させてもらいます。
兄様のお嫁さんを次々進めてもらいます。
今一つ話しが進みつつあります。
中学校四年五年は二十六日に来年
三月まで呉へ行きましたよ。
夏休みに帰っても同級生には逢えん
かも知れませんよ。今日■■様よりハガキが
来ました。三郎君もあれ以来外出がない
らしい。よってくれないと申してよこされた。
二十八日には父様も出張先から帰られるから
御返事されると思います。
父様が苦心して作られたがジャガイモが多
くとれましたよ。種イモをもらったから一〆に対し
て三貫匁の供出にして私の方には一〆匁
もらったから三貫匁出してあと七貫匁
位は残ります。供出をほしまれる家も
あるけれど出して又お米へつけてもらうのだ
からね。気持ち良く出さねばいけませんよ。
沖の方には矢張り出さない方らしい。多く
作りながら。今夜はこれでよします。
取り止めもつかぬ事を永〃書きましたね。
暑くなるから充分気をつけて此の上ともに
勉強してくれよ。上官の命を良く守り
友達とは仲よくしてね。三郎さんはよくよく
心得えて居ますからね。たのみますよ。
************************

「取り止めもつかぬ事」が「永〃」と綴られている。

長男の康男は近く広島から愛媛の三島へ転隊するらしい。
これが戦地への出兵を意味するかもしれないことを千代子は知っていたのだろうか…
次男の敬は快方に向かっているとは言うものの未だ病床にあり「まだまだ養生をさせる」必要がある。
長女の芳子は女学校に入学したばかりなのに「二週間も続けて田植にで」て疲れている様子である。
父芳一は「元気です」

自分自身(母千代子)含め家族全員皆「大変」である。
いや、当時は日本国中が同じような状況であった。

「甲種予科練習生が伍長になって」一時帰郷したとある。
当時軍隊に於いても最精鋭で若者の憧れであった「飛行機乗り」である。
外地へ向かう前の一時帰郷だったらしく単なる帰省ではなく「今生の別れ」となる可能性も高かったであろう。
千代子からすれば康男や三郎ともそう遠くない将来に同様の再会がある筈であり心穏やかならぬものがあったのではないか…

三郎の同級生や下級生であった三次中学の五・四年生は通年動員で呉海軍工廠の軍需工場へ動員されていった。

「小中高の春休みまで休校」や「外出自粛」等で今般大騒ぎの「コロナ新型伝染病」も大変な事態であるが、(軽重を比べる訳ではないが)こと「国民に強いた大変さ」と云う意味においては当時と比べるまでもないであろう。

国家の存亡を賭けた大変な時代であった。

 

昭和19年7月29、30日 もうすぐ故郷へ… 三郎から父母へ帰省の連絡 

 

今回は二週間後に迫った帰省について三郎が父母に宛てた便り2通。

29日(土曜日)に父母宛にざっくりとした手紙を出し、翌30日(日曜日)に母千代子宛に詳細を記した手紙を出している。

まずは7月29日の葉書から

昭和19年7月29日 三郎から父母への葉書

解読結果は以下の通り。
***********************
前略
期末試験も二十六日に終了し遊泳演
習等ノ準備をして居ます。
お見通りするのも近附いて来ました
ので張切ってゐます
ではお知らせ迄
休暇にはよろしくお願い致します
三十日には外出します
***********************

続いて7月30日の母千代子宛の手紙

昭和19年7月30日 三郎から千代子への手紙①
昭和19年7月30日 三郎から千代子への手紙②
昭和19年7月30日 三郎から千代子への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。
***********************
前略 お手紙拝見致しました。休暇
も近づき喜んで居ます。康男兄さんも
又廣島に帰られた相で対面出来ると
思いこれ又喜んでゐます。今日(三十日)
は雨天ですが外出して■■様の所にお
邪魔してこの手紙も書いて居ます。
明三十一日は遊泳演習ノ準備。一日より
沼津海岸に行きます。私は皆が下
手なのかしれませんが最上級の班に入れら
れました。沼津には一日より八日迄居て
八日に帰校。九日一日学校に居て十日の
十二時二十四分発の特別仕立の列車
で帰郷する事になってゐます。予定では福
山には停車せず糸崎に翌十一日の午前
九時頃に着く予定です。ですから家につ
くのは福塩線で十二時頃と思いますが
今年は非常に対して背嚢等を持ち帰
ることになりましたから出来得れば駅まで
誰か来て頂けば幸甚ですが。
休暇は大体二週間の予定です。
では敬兄さん、芳子によろしくお傳
え願います。
***********************

29日の葉書は単に帰省の予定を伝えたものであるが、30日の手紙は26日に届いた母からの手紙(2020年4月19日投稿)への返信となっており、いつもお世話になっている父の友人宅へお邪魔してゆっくりと手紙を認めている。

戦況悪化に伴い鉄道の運行本数もかなり削減されている中で「特別仕立の列車」が出されるほど優遇されていたことには少々驚いたが、将校不足にあえぐ軍部の彼らに対する期待の大きさを示すものであったかも知れない。

さて、陸軍予科士官学校での遊泳演習をググっていたところ「昭和19年10月制作」の「将校生徒の手記 陸軍予科士官学校」と云う動画を見つけたのでリンクしておく。
多分にプロパガンダ的な動画ではあるが将に三郎在校当時の学校の様子であり興味深いものがあるので是非ご覧頂きたい。
https://www.youtube.com/watch?v=LBZTZts4Zvk

 

昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙 母へは本音で甘えられる?…

さて、今回の投稿に入る前に、前々回の投稿まで3回程続けていた「素養検査二関スル筆記」シリーズに関してであるが以下の理由に因りダラダラと投稿する必要も無いと考え中断したのでご了承頂きたい。
・内容的に多少単調になりすぎてしまった感がある
・原典と思われる「歩兵操典」なるものが以下サイトにある事を発見

歩兵操典
http://www.warbirds.jp/sudo/infantry/souten_index.htm

 

…で、今回の投稿は昭和19年年末に三郎が母に宛てた手紙である。
父芳一へ宛てる時とは異なり本音を出しながら少々甘えている様子が伺える。
「我は将校生徒なり!」とは云ってもまだまだ17歳の青年である。

昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙①
昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙②
昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙③
昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
取急ぎて手紙を書きます。これは請願休暇(一週間一月五日夕食時限迄)で岡山縣の久世町に帰省
するものに(兼先一郎君)頼んで出して頂きますから學校の方へは内緒です。
正月には二日間(一日と三日、三十一日と二日と云う具合に)外出があり、又
一月の五日か八日に外出が一度ある予定です。正月には■■様方へ
行くのですが、もち米・小豆等が無い様です。この間の外出にはなけなしの砂糖で
ぜんざいをして下さって非常に嬉しくありました。この分では正月にも餅
はあまり食べられませんと思います。ほし柿等も絶対という程ありません。
かち栗等も良いです。この間等は九州の方のものですが餅を四角に切って
本の様なかたちにして學校へ送ってもらって外出の際持って出た
ものもあります。書籍・文房具等としてです。案外、學校等へ送ら
れるのは途中も安全ではないのでしょうか。
近頃は非常に家の事を思い出して居ます。こんな事では不可ないと思うので
すが皆外泊したりするとつい思います。思う様に行かぬ事もあったりすると。
學校では腹がすいた等は云えませんからね。甘い物もあまり(ほとんど)なく、つまらないと
思う事があります。外出すれば■■様で大分頂けますから唯一の楽です。
(菓子類は全然ありません。東京は)
腹巻(なるべく毛)が欲しいのですが。寒い時には良いですから。今頃は夜寒くて
毎晩かならず便所に一回起きるのですが、猛烈、嫌です。又便所が
非常に近くなって困ります。まるで老人の様です。
時計の「ケース」が欲しいのですが、防水だけではやはり直グ「ガラス」が割れて
もう二度こわしました。が■■様の隣の時計屋でなおして頂きました。
家に多分有ったと思いましたが[ケースのイラスト画]の様な格好のケースです。私の時計
の大きさを書きますと

[時計の実際のサイズ画]この位です。少し大きいですから無いかもしれませんが
懐中時計用でも良いです。

航空兵になると一月と三月頃に二度に卒業する予定です。
地上は七月か八月ですが。まだ兵科は発表になりませんが
七割位は行く様です。航空に行けば多分
休暇があると思いますが。私は船舶兵(地上)となって宇品に行き
たいのです。船舶兵の教育は宇品であります。倉野さんは
船舶で宇品に行って居られる筈ですが、一度宇品から手紙が来ました。
念の為、三月迄の外出予定日を書きますと
1月は五日、八日のどちらか一日(年始は外いて)二月十一日、三月は十一日です。
近頃敵機がひんぱんと帝都に来ますが、學校には爆弾は一つも落ち
ませんから安心して下さい。余り狙って居ない様です。
区隊長殿が変られてからはあまりおもしろくない様です。前田区隊長殿
は実は航空士官学校に行かれたのです。いつも前田区隊長殿の事を
思い出して居ます。実に良い区隊長殿でした。
康男兄さんからは其後通信ありませんか。康男兄さんの寫眞をいつも眺めて
居ます。芳子の女学生姿の寫眞等も欲しいです。
お正月には家内一同で寫って下さい。私も正月には寫したいと思ってゐます。
敬兄さんの徴兵はどんなですか。あまり無理は考えものですから。
では急いで乱筆お許し下さい。
十二月二十八日  夜

表書は■■様方としておきます。速達で出します。
それからこの間学校で皆行社の「さる又」、お父さんのはかれる様なやわらかい
茶色なメリヤスのものを買ったのですがどうしましょうか。送りましょうか、
もって居ましょうか。■■様に差上げましょうか。質は良いと思います。
軍足のやぶれたぼろぼろがあれば送って下さい。学校では新しいのと換えて
呉れますから。
風邪薬、腹薬、キヅ薬等少々お送り下さい。

(ここからは恐らく千代子がメモしたと思われる)
シモ焼薬 腹薬 キヅ薬 トケイノケース
干柿 菓子 餅 カチ栗
***********************

三郎は正月の休みには何時もお世話になっている芳一の知己宅へ伺う予定なのだが、世の中(特に東京)の食料不足は深刻で御馳走はおろか甘い物一つ食べられなさそうな状況に母親に縋らざるを得なかった様である。

勿論学校には知られたくない内容(女々しい?卑しい?)が含まれていると思っており、更には(どさくさ紛れなのか)前区隊長を懐かしみつつ暗に現区隊長を批判する様な事も書いた上で
「これは請願休暇(一週間一月五日夕食時限迄)で岡山縣の久世町に帰省するものに(兼先一郎君)頼んで出して頂きますから學校の方へは内緒です。」
とある。(笑)
実際に封筒の消印は”19.12.31”と兼先さんが岡山へ帰省したと思われる日付になっており、翌元旦に千代子の元へ届いている。

食料の他にも腹巻や本来は学校に常備されているべき薬類も送って欲しいと書いている。
陸軍予科士官学校に於てさえこの様な状況であったのだから一般市民レベルでの物資不足は相当深刻だった事が想像できる。

「康男兄さんからは其後通信ありませんか。康男兄さんの寫眞をいつも眺めて居ます。」
11月9日にフィリピン島へ出征した長男康男の消息が一ヶ月以上途絶えているのである…

 

昭和20年1月30日 三郎から母千代子への葉書 届いた小包は「お母さんの香が致しました…」

 

今回は待ちに待った小包がやっと届いた嬉しさを込めて三郎が母千代子へ宛てた葉書。

「これはお母さんの香が致しました」
本当に待遠しかったのであろう。
嬉しさが溢れている。

 

昭和20年1月30日 三郎から千代子への手紙①
昭和20年1月30日 三郎から千代子への手紙②

解読結果は以下の通り。

***********************
御葉書並に封緘ハガキ正に受取りました 家には皆変り
ないとの事安心致しました 私も至極元氣と云いたい所です
が少々風邪ギミです が大した事はありません 兵科が定
りそれにつれて當然編成換があり私達は第七区隊
となりました 区隊長殿は増澤一平大尉殿ですから
その様御承知下さい 小包は仲々到かず小包がついたら
一緒に手紙を出そうと思っていてこんなに御無沙汰致し

※赤字は区隊長のコメント
三郎君 元気ニテ修養セラレ居リ益 御安心ヒ下度候 増

ました譯です 遂に本丗日到着致しました ほんとに有難うございました これは
お母さんの香が致しました
別段忙くのではないのですがついでの時 チリ紙 白モメン(カタン)
糸 筆(小筆ニ属スルモノ休暇ノ際ノ如キ)をお送り下さい
しもやけはなおりましたがなお注イしてゐます では又
***********************

実家から送られてきた小包を開いた瞬間「我が家の香」が鼻腔を刺激し言い様の無い懐かしさを感じる事を小生も経験した事はあるが、「お母さんの香が致しました」とは本当に待ち焦がれ嬉しくそして懐かしかったのであろう。

チリ紙、糸、筆等の日常品を仕送りして貰わねばならない程物資不足が深刻であった当時、母親の愛情が詰まった小包ほど有難く嬉しいモノは無かったかも知れない…

因みに「白モメン(カタン)糸」とは「綿のミシン糸」のことで「カタン」とは「コットン」からきた言葉らしい。

「小筆」も所望しているが、確かに今回投稿の葉書は少々文字が読み辛く筆先が揃っていない様に思われる。
まぁ、それでも小生の文字よりは全然上手であるが…