昭和19年2月28日 三男(三郎)陸豫士官学校入学 父(芳一)からの葉書

昭和十九年四月九日 三郎十八歳 陸軍予科士官学校にて

今回は陸軍予科士官学校(振武台)に合格し入校した三男(三郎)に父(芳一)が送った葉書。

長男(康男)の手紙・葉書で大分続き文字に慣れたつもりの小生であったがこの芳一(小生にとってはじいちゃんなのだが)の文字はしんどい。とりあえず”解読結果”は以下の通り。
注)■■様は東京在住の芳一の知己。長男(康男)に続き三郎もお世話になっている。

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多分大丈夫とは思い乍らも不安の裡に二十七日学校
に行き、即日帰郷。或は区隊変更等の事あるを聞き、生徒
隊長殿の御挨拶を承って一先安心した。そして正服姿のお前
を見て嬉しく思った。此上は諸先生殿の御命令を尊奉して
一意勉学に精進し、三中代表者として恥ぢざる将校生徒
たるに専念せよ。それには食事と運動に留意して身体
の健康増進が第一である事を常に念頭に置けよ。お父さんは
二十七日午後九時三十分発急行にて福塩線経由二十八日午後六時に無事
帰宅したから安心せよ。■■様へ礼状を差出して置けよ。
挨拶状は書いて送ってやるから、そちらから発送せよ。詳細は又
手紙で通達する。同僚と仲良くし皆の世話をする事を忘る
なよ。先輩加藤美明君に従えよ。父母はお前の健生を祈る。
では帰郷通達まで。当方は一同無事。母も元気になった。恙し
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難読文字のオンパレード。何なんだこれ?って感じである。受取った側は本当に読めていたのだろうか…。
即日帰郷、生徒隊長殿、聞き、午後九時三十分発急行、福塩線、等々判読できたのが不思議なくらいの象形具合である。加えて文字が小さいのが難易度を増している。最後の”恙し”も暫く解らなかった。
内容は、多分この一週間くらい前に三郎に付添って入校手続きに上京(埼玉であるが…)したはずなのだが、何かの心配事(学校側から何か問題があって区隊変更するかもしれない旨の連絡があった?)があり、三郎には黙って再度学校へ行っている。何が問題だったのかは不明だが、生徒隊長と話をして一安心したと書いている。当時、広島それも結構山奥の三次からの上京は時間も費用も相当かかったと思う。さらに戦況の悪化に伴い列車の便も少なくなっていた様だから余計であっただろう。短期間に二度の上京しかも2度目は”とんぼ返り”と来れば疲れない理由がない。
小生が思うに、芳一の心配もさることながら恐らく母親(千代子)が”行ってきなさい!”と芳一の尻を叩いたのではなかろうかと…。母は強しなのである。

昭和19年3月28日 芳一から三郎への手紙 芳子女学校合格(万歳!)

 

今回は芳一から三郎への手紙から。

四日前に手紙を出したばかりであるが、家族全員が気になっていた末娘の女学校受験の結果発表が前日(三月二十七日)にあり、これを早く知らせるべくの葉書である。

 

昭和19年3月28日 芳一から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

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大分暖かになった。其後元気で勉強しているか。
当方一同無事。芳子も首尾よく女学校入学
考査に合格。四月五日に入校通達が昨二十七日
にあった。(午前十時発表)。是れで先づ一安心だ。
芳子へお祝いを云ってやってくれ。三次の国民学校も
縁切りとなった訳だ。兄さん二人も無事で勤務して
居る。康男兄さんの写真が出来たから一、二日の内に
送ってやる。近頃通信がないが体は元気なのか。忙しく
て書けぬのなら別に書く必要もない。元気で明朗に
勉強せよ。三中の上級校に受けた連中どう云う成績か
まだハッキリせぬが相當に難関らしい。お母さんからも手紙
を出す筈。健康に留意せよ。
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芳子が無事女学校に合格した。
小生の母であり、既にこの世にはいないのだが何かとても嬉しい。
万歳である。

家族全員が気にかけていたイベントも上首尾に終了し、皆一安心である。
「三次の国民学校も縁切りとなった訳だ」という芳一の言葉に実感がこもる。
長男の康男に始まり芳子まで16年続いた国民学校とのご縁が漸く終わったのである。

世間一般のことかも知れないが、末娘であった芳子は三人の兄達に比べ父(芳一)にとても可愛がられていたことは先日の「閑話休題」にも書かせて頂いた。
小生が子供の頃、母(芳子)は
「戦時中の米が無く麦や芋ばかり食べていた時に、兄達がいない時には父が床下から白米を出して自分だけに”白いご飯”を食べさせてくれた」
と言っていた。
そのくらい芳一は芳子を可愛がっていた。

その芳子も漸く女学生になった。
本来であれば「万々歳」の筈であった。

戦争さえなければ…。

芳子 昭和18年1月

 

昭和19年4月3日 三郎から父(芳一)への手紙

 

今回は三郎から父(芳一)への手紙。

入校後1カ月が経過し、漸く学校生活に馴染んだ頃であるが、逆に教科や訓練が本格的に忙しくなって便りを書く暇もない状況の様子。
漸く二回目の外出日に芳一の知人宅に伺い、手紙を認めている。

 

昭和19年4月3日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年4月3日 三郎から芳一への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
 康男や三郎が上京した際にいろいろとお世話になっている。

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大変長らくご無沙汰致しましたが皆様お変りない事と思います。
私も其後元気で学科に術科に励んで居りますから御安心下さい。
芳子合格の通知、父上様母上様の両通共確かに受取りました。
少し便りが遠のいたとの事、何やかやと忙しくなり隙が少しなくなりましたか
ら悪しからず。手紙が無い時は元気な時とお思い下さい。
今日は四月三日。神武天皇祭第二回目の外出です。「この手紙も
便箋も封筒も皆■■様に戴き書いて居ます。■■様方で。」
今日は少しお願いがあります。それは成るべく四月三十日迄に■
■様方へ御送付願い度いのですが、出来得れば、それは、文法教
科書、詩集(父上様が持って居られると同じ様なのを私が持って居ましたから)
それに康男兄さんの古い襟布二、三枚。それから、下痢止め腹薬(アイフ
等)、感冒薬等を少々と、便箋、封筒、切手(七銭少々、一銭三十枚)等、それ
から白の手袋(軍手でない、目の小さい)があれば、一つ二つ。康男兄さんのお古
でよろしい。なければ良いです。写真も五月中旬位迄には出来上り、お送り
致します。夏季休暇も今の所、八月中旬にある予定です。
兵科志望もそれまでにあるかもしれませんが、お考え願います。
それから、■■様方へ何か良い様にお願い致します。これも一緒で
良くあります。外出すればかならず立寄らねばなりませんから。
それに度々御馳走に與りますから。
では、今日はこれで筆を置きます。

芳子へ
先づ、お芽出度う。多分大丈夫とは思いながらも発表まで
は落ち着かず、少々は心配していたが、合格したとの事、安心した。
入校日ももうすぐだろうが、入校したら皇国の女学生として、
勉強に、勤労に邁進して行きなさい。
兄さんが夏休みに帰る時には、立ぱな女学生になって居る事だろう。
写真にでも写ったら送れ。
では元気で明朗に通学せよ。
では又
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今回投稿した手紙は表裏両面に書かれており、通常通りにスキャナーで読込むと裏面の文字が透けて非常に読み辛かったため、黒い用紙を被せてスキャンした関係で全体的に暗い感じになってしまった。
文中に書かれているとおり便箋が少なくなったので節約しているのであろう。

「今日は四月三日。神武天皇祭第二回目の外出」とあるが、この日は初代天皇である神武天皇の崩御日にあたり当時は祭日とされていた。
ネットでググてみたところ、『日本書紀』によると崩御日は3月11日であるが、これをグレゴリオ暦に換算して4月3日としているとのこと。
初代天皇の崩御日が ”3月11日”と云うところに因縁を感じるのは小生だけだろうか…

芳子の女学校合格への祝辞も送っている。
他の家族同様に”一安心”と云うことである。

兎にも角にも久し振りの休日外出に羽を伸ばしている三郎であった。
 

昭和19年4月7日 父(芳一)から三郎への手紙

 

前回投稿した三郎からの手紙に父芳一が返信した手紙。

この便箋はA5の両面書用なのだが、以下画像を見て頂くと分かる通り元々A4のものを半分に切っていると思われる。
しかも真ん中に「三原用箋」の印刷もされており、オーダーメイドの様である。
銀行マンであった芳一は結構細かい部分に”こだわり”があったのかも知れない。

昭和19年4月7日 父芳一から三郎への手紙①
昭和19年4月7日 父芳一から三郎への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際には大変お世話になっていた。

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■■君の所から四月三日に出した手紙、今日到着
した。無事で勉学しているそうで父母共安心だ。
芳子も五日に入学式。今日で三日行った。三月中旬
頃から少し腎臓炎の気味で黒潮醫院で薬を貰って
居る。お母さんは大分元気になった。
三月二十一日に■■君の所へ行った由、その通知は四月の四日に着
した。此常郵便物が馬鹿に遅れる。■■さんが三月二十六日に
出してくれた小包は未だに着かぬ。
■■さんの所への事は承知した。何か考えてよい物を送
って置くよ。白手袋、エリカラーは康男兄さん所へ
頼んで送って来たら直ぐ■■さん所まで届けて置く。
其他の品物も一緒に届けてやる。書面小包で発送したら
速達便で通知するよ。
影山順六さんより、餞別二円先日頂いた。餞別を貰った先へボツボツ
ハガキでも出せよ。
長山の昇さん、三十日の教育召集で四月六日に広島の西部十部隊へ入隊した。
康男兄さん二日の晩に帰省。四日朝早く帰隊した。写真一枚送る。
お前の写真が出来たら送ってあげよ。お母さんも早く見たいらしい。
三中の上級校パスの状況を聞いたか。山縣は薬専へ行くらしい。友達へも時々
便りせよ。三次も大分暖かくなった。ボツボツ桜も咲くだろう。雨が多いに困る。
腹がへるだろう。食事は如何か。身体に気をつけて病気せぬ様にせよ。
又手紙をやる。今日は此れでやめる。      父より
三郎様
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「此常郵便物が馬鹿に遅れる」と愚痴をこぼしている。
この手紙が出された当時は未だ本土空襲も始まっておらず、鉄道が壊滅した状況にはなっていなかった筈だが、物資不足や戦時統制の影響で列車の本数が激減した時期でありその影響と思われる。また、郵便物の「検閲」も影響していたかも知れない。

因みに今回の手紙は「速達」で出され、4/7消印で、三郎が受取ったのが4/11となっている。
また、今回の手紙には「検閲」の印はなく検閲された形跡は見られない。

ご近所さんの徴兵状況や三郎の同級生の進学状況なども記されているが、改めて思うのが当時の人々のコミュニケーション力と情報収集力である。
戦時中は「隣組」の影響もあり、社会生活を営む上ではそれなりのコミュニケーション力とそれに伴う情報収集力が必要であったと思う。

小生が子供の頃、夏休みに三次に遊びに行ったときには、芳一(祖父)がよく散歩に連れて行ってくれたのだが、すれ違う人たちの大半が知合いで
「えー天気でがんすのぉー」
「旦那さんはどうしよってん?」
などと、あちこちで会話をしていたことを思い出す。

 

閑話休題 8月6日 原爆の日

今日は令和になって最初の8月6日
「原爆の日」である。

 

昭和20年8月6日

芳子(小生の母)は当時三次高等女学校の生徒で、午前八時十五分は勤労奉仕をしていた。
あの日の様子を話してくれたことがある。

朝草むしりしよったらね、広島の方が”ピカッ!”と光ったんよ。
「今、広島の方が光らんかった?」
ゆうて皆で話しよったら、そのうち
「広島がおおごとになっとるそうな」
云う噂が流れてきてね、
「どうなったんかね」
言うて心配しとったら
夜になって怪我人が汽車やらトラックやらでいっぱい運ばれてきたんよ。
そりゃ大変じゃったんじゃけぇ。

その後どうなったのかは話してくれなかったのだが、
今回ブログに投稿する関係で当時の状況をググったところ、
以下の記事を見付けた。

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=48894

まさに芳子の同級生たちの記事であり、恐らく彼女も救護にあたった筈である。
「修羅場」だったのであろう…
小生に話さなかったのは、思い出したくない記憶だったのだと思う。

芳一(小生の祖父)は被爆者手帳を持っていた。
直接被爆した訳ではないが、当時広島市にいた次男の敬の安否を確認するために、翌日か翌々日に広島市に入っており、入市被爆者となった。

当時の広島での状況については芳一からも芳子からも聞いておらず、また手紙や書類も残っていない(未だ紐解いていない手紙類もあるが昭和20年3月頃を最後に残っていない様子である)ので想像するしかないのだが、敬は爆心地からは4Km程離れた祇園町と云う所に住んでおり、爆発による直接の被害は受けていなかったと思われる。
しかし、この大惨事は元来病弱であった敬のその後の健康状態に少なからぬ影響を与えたであろう。

三男の三郎は当時、陸軍士官学校(神奈川相武台)在学中で被災していないが、戦後昭和30年頃から爆心地にほど近い相生橋の袂にある「和田ビル」というアパートに住んでいた。

和田ビル

現在の様子は画像の通り古びたアパートであるが、当時は広島の中心地のハイカラなビルで、かなり立派な感じであった。

子供の頃、正月の年始の挨拶に行ったときには、ベランダから間近に見える原爆ドームや真下を走る路面電車を飽きもせず眺めたものである。

 

昭和19年5月16日 父芳一から三郎への手紙 「兄さんも光栄に浴したぞ…」

 

今回は父芳一から三郎への手紙である。

葉書とは異なり文字は大きいのでそれなりに読み易いのだが難読文字が幾つかあった。

 

昭和19年5月16日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年5月16日 芳一から三郎への手紙②
昭和19年5月16日 芳一から三郎への手紙③
昭和19年5月16日 芳一から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
  康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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其後元気で勉強に訓練に励しんで居ると思う。
先日写真を送ったが、あまり上出来でないので、他人には
やらない。市中で写ったがよかったら、お前の友人などにも
やってもよい。森保君も来ない。
学友とは書面の交際はしているか。人は一生交際を忘れて
はいけぬ。殊に竹馬の友とか、戦友とかは又格別だ。
■■さんとお父さんとの如き、よい実例だ。まだお父さんには
別にも親友がある。友ほどよいものはない。己に勝る
よき友を撰び求めて諸共に と云う歌の文句の通りだ。
家には、敬さんが四月上旬、身体に異和を感じ、十一日夜突
然熱発。十八日に帰宅して以来三階で療養に努めて
居る。熱も下冷し状態は極めて順調だが、何分、体質が
弱いので、相当な期間静養さすつもりだ。一歩誤れば
死だから、大いに注意して居る。お母さんもお父さんも
一生懸命に養生さすべく努めて居るから別に心配するな。
お母さんもほとんど元の体に回復した。栄養物も可なり手に
入って居る。板木のおばあさんから、卵も切らさぬ様に送って下さる。
お魚も次々と手に入る。兄さんは先づ高級客待遇で
やって居る。
一寸、十四日午後四時頃、康男兄さんも帰宅して、敬に「安臥
読書器」を買って帰ってやった。敬は喜んでそれを使っ
て毎日読書して居る。
■■君の家へ先日ウドンを六束送って置いた。何分近頃
よいものが手に入らんので困る。
お前は、菓子、果物など、外に不自由はないか。
身のマワリ品で入用の品あれば様子せよ。出来るだけ
送ってやる。
近頃、外出したのか。暑くなるから身体に無理をせぬ様
充分注意して、勉強せよ。
銀行の隣りの代々木巡査の御長男も先日、豫科を済ませて本
校に入られたらしい。私の宅へも一寸挨拶に来てくれた。
区隊長は矢張り前田大尉か。河村君達も無事か。区隊長
河村さんなどには一応手紙を出しただけだ。又最近手紙を
出すつもりだ。
康男兄さん、まだ当分宇品に居るらしい。六月末頃四国方面
へ転属になるかも知れんが不明だ。
三次も大分暑くなった。今年は畑のものがよく出来た。お父さん
が熱心にやるので、馬鈴薯も大分大きく伸びた。夏豆も
長く伸びて花ざかりだ。夏休みにはお前にも御馳走するよ。
三中の先生や友達にも時々通信せよ。
此頃、中等学校も国民学校も食料増産に一生懸命で、学
課の方は一ヶ月十日位しかやらないらしい。
近所にも前に変りはない。
身体の調子がよくない時は、早く受診して養生せんと
いけぬ。健康第一だ。
康男兄さんの所へも先日、高松宮、東久邇宮さんが来られて
一週間食事も一緒であったらしい。光栄に浴したとのことだ。
夜分寸暇でもあればハガキを送れよ。
では大事にせよ。■■さんへも時々ハガキを出せよ。
五月十六日 午後五時半 認む
父より
三郎さん
************************

芳一が社交的な人間であったことは以前このブログでも触れたが、三郎へも「友ほどよいものはない」と説いている。
小生が芳一の”社交性”を実感したのは芳一の葬儀の際(小生が中学卒業直前の昭和50年3月)に、当時外務大臣だった宮沢喜一氏からの弔電が届いた時である。
弔電が読み上げられると式場が「ほうー」とざわめき、小生も驚くと同時にちょっと鼻が高くなった気がしたことを覚えている。
まあ、宮沢氏と直接面識があった訳ではなく偶々氏の選挙区に住んでいたので秘書或いは後援会の方と面識があったからではないかと想像するが、いずれにしても人脈は豊富であった様である。

療養中の敬の様子、回復(?)した母の事、食料・物資の調達が難しくなってきた中でもなんとか栄養のあるものは調達できている事などが書かれている。
但し、三郎に余計な心配をさせまいとしているだけかも知れず本当に調達できていたかは疑問であるが…

先日の三郎からの手紙にあった「天長節大観兵式での拝顔の光栄」に対し、長男康男も「高松宮、東久邇宮さんが来られて一週間食事も一緒」だったと報告がされているのが微笑ましい。

「夏豆」とは枝豆のことだと思う。
芳一は小生が子供の頃も我が家の裏庭で枝豆を作っていた。
たわわになった枝豆を引っこ抜いて鞘の部分を手でしごいて落とす。
今にして想えば、採れたての枝豆を湯がいて食べるのは最高の御馳走だった…

 

昭和19年5月30日 父芳一から三郎への手紙 コストパフォーマンス?貧乏性?ケチ?…

 

今回の投稿は芳一から三郎への葉書。

相不変(「相も変わらず」当時の様に記してみた…)特に葉書の場合は極小文字で解読し辛い我が祖父の文字であり読む側にとっては結構な苦痛なのだが、今回も時候、家族の近況、ご近所の状況等々四方山話満載の一葉となっている。
まぁ、コストパフォーマンスが高いと云えば聞こえは良いが…(笑)

 

昭和19年5月30日 芳一から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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三次も時下大分夏らしくなり、日中は相當暑くな
った。振武台にも同様夏が訪れた事と思う。もう夏衣裳だ
ろう。暑くなると訓練も相當なものだろう。血気にはやって
躰を損わぬ様充分注意せよ。人間の躰力にも大体程度
があるから、無理をすると敬兄さんの二の舞を演ずる事に
なる。兄さんも大分無理して居たので体が負けた訳だ。
それでも一ヶ月余りの静養で余程よくなって、大分肥った様に
思う。勿論熱もないし食べるのもよく食べる。康男兄さんから買って
貰った安臥読書器で毎日読書して居る。芳子も元気で通学
してる。お母さんも元気になった。近所にも変りない。久留島さんが
尾道に転宅され、後へ十日市青年学校長に就任した正君の親類の
太田章校長が転宅して来て賑やかになり、よいものをチョイチョイ
戴くよ。康男が二十八日に帰って二十九朝一番で又行った。六月一杯
は動かぬらしい。藤川は六月中に休職で帰るとかお父さんが
云って居た。■■さんから手紙で礼状が来た。二十一日に待たれたらしい。では
元気でやれ。十日市の小川新聞店のオジサン死んだよ。
************************

芳一はケチだったのか?
いや、ケチではなくモノを粗末にしない人だった。

チリ紙や爪楊枝は一度使ったくらいでは捨てずポケットに仕舞って何度か使っていた。
夏にスイカを食べた後は残った皮の部分を漬物にすると言って芳子(芳一の娘で小生の母)を面倒くさがらせていた。
食パンにカビが生えていても「その部分だけ取って焼いて食べれば大丈夫!」と芳子の制止を振り切ってムシャムシャ食べていた。
小生に「お茶碗にコメ一粒も残すな!」と躾けてくれたのも芳一だった。

とまあモノが溢れている現代の感覚からすれば「ケチ臭い」かも知れないが、生活必需品ですら貴重であった戦中~戦後を経験した芳一や同世代の人々にとっては当たり前の「勿体ない」であった。

そもそも日本人の感覚に於て「勿体ない」とは「物に対する畏敬の念や感謝」であり「損得勘定」よりも優先されるべきコンセプトの筈であるが、現代社会は利益を貪るあまり「勿体ない」を蔑ろにしているのが実態であろう。

「衣食足りて礼節を知る」と云うことわざがあるが、見た目の綺麗さや(過剰な?)清潔さを求めるあまり多くのモノが「粗末」にされている現在の状況を目の当たりにするにつけ「衣食足り過ぎて礼節を忘れる」と云うことわざも有りだなと感じる小生である…

 

昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙 四方山話、難読文字満載…(;´д`)

 

今回は以前(2020/1/19)に投稿した三郎から母千代子への手紙に対する父芳一からの返信。

三郎が家を離れて約4ヶ月が過ぎ、逢えないもどかしさを詰め込んだような「四方山話」と前回の手紙での三郎からの要望事項への回答が満載された内容となっている。

昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙②
昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙③
昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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昭和十九年六月二十日
先日の母への手紙慥かに到着。其後無事勉強して居るそうで
父母共安心。何と云っても健康第一なり。自己の衛生に留意して病気せぬ
事何より大切なり。健康なれば勉強も出来る。「健全なる精神は健全
なる体に宿る」 どうか体を大切にせよ。敬兄さんの様になっては一大挫
折する。 康男は矢張り宇品に居る。広島市千田町二丁目 栃木
吾一様方 として通信せよ。然しもう長くは居ないかも知れん。
六月一杯位で四国地に転ずるらしいがはっきりしない。
年内は内地に居るかも知れんと云うので、嫁さんを貰ってやり度
いと思って三原一之先生に心配して貰って居る。上下町へお父さん
と三原先生と十八日に見に行ったが好ましくないので断るつもり。
甲山町によいのがあるので今調査中だがそれも調べて見
なければわからん。まあ縁があれば話するかも知れんがまだどうな
るやらわからん。その内に出て行ったらお仕舞いだから。
敬さんも二ヶ月の闘病生活で餘程肥えて体にも肉がついた。
朝夕メタボリンの注射をお父さんがしてやって居る。卵も毎日
三個以上、牛乳二合、魷や魚も多少づつ手に入れて食べさせ
て居る。何としても一年位では全快させ度いと努力して居る。
気分もよいし食慾も進むし、まあ気長に療養すれば大丈夫
よくなると思う。
康男も元気で船舶の勉強をして居るらしい。階級は学生だそ
うな。海軍機関学校を出た者と同様に取扱われる様になるの
かも知れんよ。
お母さんも病気全快。朝早くからバタバタと働いている。敬の
裏に続く
世話から芳子の世話、それに康男も時々帰って来るし、お母
さんも多忙だよ。それでも元気になったので喜んで居る。
沖の上隣りの久留島さんが六月尾道へ引越したので其後へ君
田の校長だった太田章さんが十日市の青年学校長になったので
転宅して来た。太田先生は親類になるので力強くなった。
沖にも弟子は官用に出し此常は仕事も休みだ。三宅にも
変りない。福原の静雄君、モーターで大辺詐欺を働らいて居るらし
いので一ヶ月位前から警察に拘留されている。どうでも刑務所
行きらしい。悪るい事をすれば必ずわかるものだ。気の毒でも
仕方がない。章君が先般一寸休暇で帰って泣いたそうな。
人間は悪るい事をするのが一番の不忠不孝だ。
二上にも寿治(カズハル)さんが三月やらに病死し近頃は商売も少なく
寂しい事だ。森保君や佐々木・大膳などにも別に変
りはない。国民学校には庭や家の前の道路辺りにカボチャを
植えられ随分大きくなって居る。校長先生 今朝も縄を引張
りつつ、千個位はならすつもりだ。そして先生と生徒と一人一個
位は食べたいと思って居ると話して居られた。
中学校にも此常殆んど毎日作業で麦刈り・田植の手伝に
行って居られる。十六日(空襲のあった朝)東城に出張すべく汽車
で行っていたら、福原先生やら眼鏡をかけた若い先生と老人
の先生と三人生徒と共に乗り込み塩町駅の次まで話して行った。
お前の写真(市中で写した物)をお目に掛けたら大辺喜んで居られ
た。時々は通信せよ。
芳子も作業に行っている。麦刈り・田植の手伝だ。お前の植えた
夏豆はもう殆ど実った。夏休みには煎って食べさせて
やるとお母さんが云って居るよ。一斗位あると思う。ジャガイモ
もよく出来た。もう少し食べた。来月初めに掘り取るよ。
キウリ・ナスなど植えている。よく出来るよ。
尾関山の広場も大潟海岸のシバ原は全部畑になって居る。
食料増産でみんな大量だ。
今月初め位、服部隊長殿より謄写刷りの長い通信をいただ
いた。それは家庭と学校との連絡とか、本人への激励とか
夏休みのある事(状勢の悪化せぬ限りとある)、学校では
何一つ不自由のない事など、コマゴマと書いてあった。
そして成績の悪るい者、即ち注意を要する事項は別紙で
指導してあるとあったが、お前の事は何も別紙が入って
居ないのみか、前田連隊長がその手紙の終りの方へ
「本人純真でよく勉強して居る。将来相当伸びると思うが
大いに激励してやってくれと」あった。そして手紙の礼も云って
あった。で早速、服部隊長へも前田大尉へも手紙を出して
置いた。その手紙に私物は送らんでもよい。書籍なども学校
にあるし、食べ物は勿論文具類なども送る必要はない様
に書いてあったが、雑記帳、西洋紙、朱肉、糊、手帳、スタンプ
インキ台など送ってもよいのか。もし禁じられて居るのに送っ
てお前の成績に関係する様な事があってはならぬ。前田
連隊長に伺って見て許されたら送った方がよくはないか。
秘くして使用する事は気もトガめるし、校規をミダす
事になるから、よく考えてもう一度様子せよ。書籍は送
ってやる。
裏に続く
板木の長山・池田・玉井にも皆元気で増産に励んで居られた。
此間一寸行った。目下田植最中と思う。
四月初めに福山に行き鞆へも一泊した。お前も休みには行って見よ。
昔が偲ばれるよ。
■■さんの所へ良く行くか。先日ウドンを六把送って置いた。
魷でも送ろうと思って居る。
行ったら、お父さん・お母さんから宜敷云って来ましたと申し伝えて
くれ。軍刀一振お前のものを■■さんの知り合いの河田と
云う人に頼んである。それは日本刀鍛錬会作品の新品で
軍隊に納める品だそうな。陸士出は優先的に買えるそうなのだが
仲々早く手に入らんとの事で頼んである。尤も前田大尉
殿から心配して貰えば案外便利かも知れんが。河内老人の
娘聟の山田英と云う刀剣研師が遊衹館の刀の手入れも
し、又日本刀鍛錬会に関係しているので伝手で一本心配して
やるとの事。但し値段は軍隊に納めると二百円位だが、四百円位
は出さなければ早く手に入らんとの事だ。どちらかと云えば将
校に頼んで軍隊の方から買った方が便利だが、家にあるのは
刀身はよいが少し短いのでお前には不足と思うので、二尺一寸
位の無庇のものを一振手に入れて置き度いと思って居る。
まあ焦る訳でもないが。
忙しくても時々通信せよ。ハガキでよい。先生や知人、朋友へも通信
を怠るなよ。そして真面目に上官の命をよく遵奉して
勉強せよ。お国の役に立つ人間となれよ。
では今日はこれで筆止め。無事を祈る。
六月二十日午後六時十分書き終る。
銀行にて
父より
三郎どのへ
************************

何度も云っているが、芳一の文字は非常に読み辛い。
ただ今回は葉書でなく手紙だったので文字が大きかった事がせめてもの救いであった。

慥かに(たしかに)、魷(イカ)などの現代では殆ど見なくなった漢字だけでなく
文字自体が読めず前後の脈絡などから想像して解読した部分が多数あったので多少正確性に欠けている事をご了承頂きたい。

まずは家族の近況の報告に始まり、ご近所の状況を世間話的にたっぷりと記している。
モーターの詐欺で刑務所に行ったご近所さんの話は小生も初めて知った。

「康男も元気で船舶の勉強をして居るらしい。階級は学生だそうな。海軍機関学校を出た者と同様に取扱われる様になるのかも知れんよ。」の件があるが、当時康男は「陸軍船舶司令部船舶練習部学生」であったらしい。
陸軍の”船舶司令部”とは何か変な感じであるが当時南洋方面等での激戦地域への兵站輸送を任務とし、その任務遂行に必要とされる将校の教育も行われておりその学生であった。
以前投稿した集合写真が当時のものである。

19年2月暁二九四〇部隊 前列一番左が康男

「陸軍機動輸送」の詳細については以下サイトをご覧頂きたい。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu39.htm

 

以前このブログで「夏豆」の事を「枝豆」と書いてしまったが、どうやら「そら豆」が正解だったらしい。
まあ、小生にしてみればどちらも大好物なのでどうでも良いが…

三郎の通信簿が陸軍予科士官学校から届いたようで、その内容が上々であったことで芳一の喜んでいる様がわかる。
ただ、私物の送付に関する件は多少「親バカ」じみていて恥ずかしい気もするが…

日本刀の話の部分も多少「親バカ」なのかも知れないが、当時軍刀は大日本帝国陸海軍の制服の一部であったものの階級に合った刀を自前調達する必要があったため、出来るだけ良い刀を手に入れようとあちこちの伝手を頼っていた様である。
因みに当時の軍刀は基本的に「日本刀」であったが、現代で云う美術・骨董的価値のある「日本刀」の他に軍に納めるために工業的に作刀された「工業刀」があった。
手紙の中に出てくる「日本刀鍛錬会」も「靖国刀」と呼ばれる日本刀を靖国神社の境内で作刀していたとのこと。
詳しくは以下参照下さりたい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%88%80

「銀行にて」???
私用の手紙を職場で書いちゃダメですよ~
おじいちゃんへ
愚孫より

 

昭和19年8月3日 父芳一から三郎への手紙 三郎帰省まであと一週間…「皆一緒に話せる」

 

今回は七月三十日に三郎が母千代子に出した手紙(2020年5月9日投稿)への返信。

何度も言うが芳一(小生の祖父)の文字は本当に難解である。
今回の投稿にも何ヶ所か怪しい部分があるがご容赦頂きたい。

 

昭和19年8月3日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年8月3日 芳一から三郎への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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(今朝手紙が着いたとお母さんが電話で悦んで聞かせた)
其後元氣で勉学してるそうで両親共安心した。随分暑さも
厳しいので相當汗を出してる事と思う。家にも敬の病気も大体
順調にて相當肥満して来たが当分は働けないと思う。暑さで三階
住居は少し困って居る。然し都会地に比べたら問題ではない。
食事も先づ戦時食としては上々の方で栄養物も少し手に入れて居る。
康男も七月一日に四国の三島と云う所へ転居したが十六日やらに又廣島付近
の坂駅近くの部隊へ派遣となり当分居るらしい。一旦千田町の栃木
と云う居宅を引払ったが又舞い戻って居る。然し今度は太田少
尉と二人同居だそうな。船舶将校となったので何時何處へ行くやら
わからんが輸送や〇〇上陸ではないらしいので後方勤務の方らしい。
十三日の日曜日には或いは帰省できるかも知れん。三十一日に帰ったので
多分六日は休みなし。十三日が全休となろうとの事。その時は久々で
皆一緒に話せる。二週間の休暇がいただけたらことに結構だ。
海兵連中先般二週間で来て居た。白服に短剣でブラブラ
して居たよ。 今年の陸豫士学科試験合格者は二人だとか
丸住と中村とか、十二三日頃に陸豫士で体格検査を受ける由今日
新聞に出て居た。昨年は相当合格者を出したが本年は僅少ら
しい。遊泳は上級とか しっかりやれ。陸軍でも海の子だから泳ぎ
は上手に限る。然し無理せぬ事肝要なり。■■さんには度々
世話になる事だ。礼状を出して置く。
お前の休暇中にお父さんも三四日休暇を貰うつもりだ。
福山や広島へも行って見よう。
あと一週間計りで故郷の土が踏める。十一日の到着時刻は
福山から電話して置け。糸崎からでもよい。
敬も芳子も楽しみに待って居る。但し何も土産物はいらな
いから心配するなよ。
  三日午後四時          父より
   三郎へ
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夏季休暇の帰省まであと一週間程。父母兄妹…家族全員が三郎の帰郷を心待ちにしている。
但し現代の様な平時に於ける夏休みの帰省とは心待ちの度合いが違う。
土日返上で”月月火水木金金~♪”だった芳一も「三四日休暇を貰うつもりだ」と気合が入っている。
軍人である康男や三郎は何時戦場へ行ってしまうか判らないし、残る家族にしても「空襲」に遭う可能性がない訳ではない。
実際に長男の康男は出征が間近に迫って来た様子であり、この時の三郎の帰郷は一家にとっては「一期一会」或いは「今生の別れ」の様相を呈していたに違いない。

その康男は「廣島付近の坂駅近くの部隊へ派遣」とあるので坂付近の陸軍部隊についてググってみた。
当時、陸軍船舶司令部は「㋹部隊」という水上特攻艇部隊を創設しその一部が坂駅近くの鯛尾という場所にあった様で康男はそこに配属されたと思われる。
鯛尾は金輪島を挟んで船舶司令部本部のあった宇品の対岸に位置しており「㋹部隊」の訓練等に於ける至便かつ重要な場所であったと思われる。

宇品・坂鯛尾地図

「㋹部隊」に関しては以下サイトもご覧頂きたい。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=21704

このなかで「船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)」の一期生(15~20歳)は1944年4月に入隊したとあるが、康男は彼らの上官として赴任したのかも知れない。

積もる話までもう少しの辛抱である…

 

昭和19年10月11日 三郎から父芳一への手紙 畏まった候文の巻き手紙…理由は?

 

今回は三郎が芳一に宛てた手紙であるが、畏まった候文で認められた毛筆の巻き手紙である。

また、前回投稿の手紙から一ヶ月以上経過しているが、内容からするとその間に芳一或いは千代子からの通信はあった様子なのだが小生の手元には存在していない。

 

昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙②
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙③
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙④

解読結果は以下の通り。

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御尊書難有く拝誦仕り候
其の後御壮健に御暮しとの事大いに安心仕り候
又種々御懇篤なる御教訓我が肝に
銘じて夢中にても忘却仕り申さず候
扨て當方は二年生の卒業を寸前
にひかえ又私達の浅間山麓に於ける
野営演習も近付き稍多忙の感有之
教授部学科等もさきて環境整理
を実施し居り候 氣候も去る四日間
連続の大雨により一転致しめっきり秋の
深きを思わせる如く相成り申し候
来る十五日外出致す予定に候へども
母上様の御丹精の物未到着の事
と思い候も野営終了後廿九日に
再び外出致す所存に候へば其時
にても良く候
本日頃康男兄様の所属決定致
すとの事 色々と期待仕り候
板木の伯父様の一週(周)忌有りたとの事 私は
遥かこの振武の地にて禮拝致し置き候内
悪しからず御承被下度候
三井田村先生よりの御報せにては合格者
は数名有れど海兵と両校突破致したもの
殆どにて本校に来ると思はるゝは一名のみ
にて稍落膽仕り候 尚柳原君は
海兵も駄目らしく候
三次の祭も近付きた事に候 去年の秋
はと思い候もこの予科の如き幸福なる
所は他になきものと今更乍ら考え候
区隊長殿へも手紙を出されるも可く候
河村曹長殿は全快され候も今は私の
区隊付にては無之候ど御通信せられるも
悪しからず候
末筆乍ら母上様 敬兄様 芳子殿
によろしく御鶴声の程御願申し上候
時節柄御身御大切の程御祈り
申し上候
頓首
三郎
父上様
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内容の前に2~3難しい語彙があったのでググってみた。

・稍 :「やや」と読むらしい。
・鶴声:鶴が鳴くとその迫力で一瞬であたりが静まり返る事に因み権威ある人の言葉に例えた。
・頓首:頭を地面にすりつけるようにお辞儀すること。ぬかずくこと。中国の礼式に因む。

扨て、何故畏まった候文なのか?
はっきりした理由が判らないので想像してみた。

「種々御懇篤なる御教訓我が肝に銘じて夢中にても忘却仕り申さず候」とある。
おそらく父芳一からの手紙に「種々御懇篤なる御教訓」が書かれていたのであろう。
その有難い教えを戴いたことに対して感謝と敬意を示すための「畏まった候文」しかも「毛筆書きの巻き手紙」であったと思われる。

更には「本日頃康男兄様の所属決定致すとの事」ともあり、尊敬する兄康男の戦地へ出兵が決定する事への「祝意」と「武運長久祈念」を示したものでもあったかもしれない。

芳一が三郎に対して教訓を与えたのは、多分に康男の戦地出兵が決定する事が影響していたであろう。
いや、むしろ康男への教訓をそのまま三郎へも教えたのかも知れない。

小生など戦争を体験した事のない世代は「戦地へ赴く」を言う事実を軽く考えてしまいがちであるが、実際には本人は言うまでもなく家族・恋人・友人等の身近な人々にとっては「二度と逢えないかも知れない」という恐怖に押しつぶされんばかりの心境であった筈である。
芳一だけでなく「戦地へ赴く」身近な人を持った人々は「何とか生きて還って来て欲しい…」と教訓や祈りを必死で送ったのである。