三郎 振武台日記 vol.4

振武台日記 第四弾。

今回は2月29日の日記。

ここまでの数日の日記を見ると、寒い時期であることも手伝ってか”朝起きる時”の様子が度々記されている。

今も昔も”朝は辛し”なのか…。

 

昭和19年2月29日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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二月廿九日 火
夜寒くて餘り良く眠れず
顔が重くはれた様にて朝
食うまくなし。午前中
区隊長殿の勤務について
の学科。その前に
武道の租(素?)養検査。試合があ
り、少しあわててた様だったが
勝つにはかった。
午後体操の租(素?)養検査。体力の
少なきをつくづく知る。大いに力を
つけるべきなり。夜は自習
時間。非常に眠たい。晝の
疲れがでたのかも知れない。
*****************

2月29日 ん?
ここでこの昭和19年がうるう年だったことに気づいた。
そう、オリンピックイヤーである。

残念ながらこの年のオリンピック(開催地ロンドン)は大戦の影響で中止となっているのだが、遡ること4年前の昭和15年は元々東京オリンピックの開催が決まっていた。しかしこれも日中戦争等を理由に中止となっている。つまり厳密に云えば来年(令和2年)は東京で3回目のオリンピックが開催される年なのである。(まあ、昭和15年に開催されていれば昭和39年は他の都市になっていたと思うが…。)
更にもう少しググってみたところ、昭和15年前後には夏季に加え冬季オリンピックそして万国博覧会も日本での開催が一度は決まっていた。結果的には全て中止ないしは延期となってしまったが…。
当時欧米諸国でしか開催されていなかった大きな国際大会が日本で3つまとめて開催されようとしていたのである。これは驚くべきことで、日本国内の盛り上がりは想像以上のものであったろう。当時小学生だった三郎もそんな話題で大喜びしたことに違いない。
しかし、この東洋の島国の勢いを西欧諸国が大きな脅威と感じていたことは疑いの余地がなく、そしてこの”脅威”が太平洋戦争勃発の大きなファクターであったこともまた疑う余地がないのである。

さて日記に戻る。

自身も”非常に眠たい。晝の疲れがでたのかも知れない。”と書いている通り、相当つかれているのであろう。文字がかなり読み辛い。幸い日記は2週間分位あり内容的に同じ様な記述も多く大抵は推測で読むことができたが、単独で書かれたらギブアップ級のものも結構あった。

2月末の振武台の夜は寒さが厳しく寝不足が祟って”朝食うまくなし”とある。
戦時下の物資の乏しい状況下であるから、当然(?)生徒たちの部屋には暖房などなかったであろう。しかも写真で見る限りでは振武台の校舎は当時の小学校と同じ様な建屋のようであり、断熱(防寒)に優れていたとは到底思えないから相当な寒さであったと思う。
実際の所、この振武台は日中戦争の拡大や対米関係の悪化に伴い生徒数が増加したため元々の市ヶ谷台での対応が難しくなり、700日の突貫工事で完成させたと云ういわくつき(?)である。昨今の”〇〇パレス”と比べては失礼かもしれないが必要最低限の設備であったのではないかと思う。

加えて(一般国民よりは優遇されていたであろうが)食料事情も悪く、栄養状態も万全でない中の激しい訓練である。生徒たちにとって体調の維持管理は本当に大変であったろうと思う。

三郎 振武台日記 vol.5

三郎の振武台日記の第五弾。

入校後5日が経過し振武台での生活にも少しづつ慣れてきた様子。

今回は日記に加え、先日遺品整理をしていたところ陸軍予科士官学校が振武台に移転になった際の朝日新聞の切り抜きが出てきたのでそちらも投稿する。

まずは3月1日の日記から。

昭和19年3月1日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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  三月一日 水
朝起床後大分動作が敏しょうに
なった様な気がする。だが仲々
急がしい。午前中は教
練の租(素?)養試験あり。天
気晴朗にして非常に気持良
し。だが昨日の体操がこたえて
体の節々がいたい。午後は二千
米マラソン。記録十七分三十一秒
も少しで上級の所惜しい事
をした。そのお蔭で体が又い
たくなった。が我ハ将校生徒なり
だ。中隊長殿の個人指導あり。力一杯決心を
述べた。火災呼集あり。
     (訓示)進んで常堀下に入ること
********************

概ね読めたのだが、最後の”進んで常堀下に入ること”の”常”が正しいかどうか分からない。”火災発生時に濠(堀)に入れ”の意味だと思うのだが…。

起床後の行動にも漸く慣れてきた様子。
激しい訓練も”昨日の体操がこたえて体の節々がいたい。”などと云いながらも”我ハ将校生徒なりだ”と自身を鼓舞しながら頑張っている。
因みに体操であるが、小生が高校生の頃にやっていた体操と大差ないものと思いきや、前回の投稿の最後に紹介したNHKアーカイブスの動画で見る限りそんな生易しい体操ではなく、かなり難度の高い運動をやっていることが分かった。あれは節々が痛くなるであろう。

2キロマラソンのタイムが17分31秒とあるが、普通にトラックを走るだけなら8~9分程度だと思うのだが…。この記録が本当なら恐らく行軍用の重装備をしたうえでか、或いは障害物のあるマラソンだったのではないだろうか。

続いて、昭和16年11月2日の朝日新聞の切り抜き。

昭和一六年十一月二日 陸軍予科士官学校 振武台へ移転時の新聞切抜

かなり読み辛いので多少長文ではあるが内容を以下に転記する。

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陸軍豫科士官学校
 朝霞町[埼玉]に移転完了
   きょうから校務を開始

明治七年創設以来ここに六十有八年陸軍の鳳雛搖監の学舎として尚武の歴史と伝統を誇った陸軍予科士官学校は今回いよいよ思出深い市谷台を去って埼玉県北足立郡朝霞町に移転することになった、
今回同校移転の理由はさる昭和十二年当時の陸軍士官学校本科、豫科がそれぞれ独立して陸軍士官学校と同豫科士官学校の両校に分れ陸軍士官学校が神奈川県座間に移転した、現在の同校が既に市街地の真中に位置し近代戦闘方式を演練するには付近には適当な演習場がなく不自由を続けていたうえ将来皇軍の中核となる将校生徒らの精神教育の訓育上から見て市街地は芳しくないという二つの理由からしてすでに陸軍士官学校が相武台に移転した当時から東京近郊に皇軍将星の搖監舎に相応しい移転先を物色していたが候補地として朝霞ゴルフ場に白羽の矢が立ち今春以来建設を急ぎこのほどほぼ完成を見たので十月中旬から引越しを始め昨一日で引越しを終り、本二日からいよいよ木の香もかんばしい新校舎で校務を開始する運びとなった
朝霞ケ原の新校舎は朝霞ゴルフ場跡で西方には朝な夕な富嶽の靈峰を仰ぎつつ指呼の間に秩父の連峰を望み…土地の起伏、松樹林の点在…昔ながらの武蔵野の名残をとどめ風光明媚の好適地であり、演習上からも訓育上からも真に皇軍を背負う将校生徒の“鍛錬道場”に相応しい浄地である、校舎の敷地は四十万坪で付属練兵場は八十万坪、合して廣袤百二十万坪にわたっている、陸軍将校にとって極めて印象深い
陸の精鋭搖監の地『市谷台』の歴史を繙けば市谷台は旧尾張候の下屋敷跡であって明治七年十月二十七日『陸軍士官学校條例』が制定せられ従来あった兵学寮を改め陸軍士官学校として市谷に校舎を新築した、それがそもそもの『市谷台時代』のはじまりである
明治十一年六月十日新校舎が完成開校の式典をあげた(開港記念日)同年七月三日には畏くも明治天皇の初の親臨を仰いで第一期士官生徒の卒業證書授与式が挙行された、明治二十九年『陸軍幼年学校條例』が発布せられて従来の陸軍幼年学校を陸軍中央幼年学校と改称、大正九年八月十日時代の進運に伴い陸軍士官学校令を改定せられて本科、豫科の二科を置きこれまでの中央幼年学校は陸軍士官学校豫科となった、昭和十二年十月二日陸軍士官学校本科が独立『陸軍士官学校』として神奈川県座間に移転したので市谷台に新たに『陸軍豫科士官学校』が創設せられ現在におよんでいる
なお陸軍豫科士官学校跡の市谷台には陸軍省 参謀本部などが近く移る予定である
***********************

まず興味深かったのは、句点“。”が記事中に一つもなく、読点“、”或いは“無表記”となっていることである。句読点の使用は明治以降に始まったものらしいが、上記記事や投稿している手紙・葉書を見る限りその使用ルールはあまり明確になっていなかったようである。一見大きな影響は無い様にも思うが、細かい部分では文意の相違等が出てくるのも事実である。

難読と云うよりは小生の知らない文字・熟語が沢山出てきたので、恥を覚悟で以下に記す。
・鳳雛搖監(ほうすうようらん):鳳凰の雛がゆりかごいる様子のことで、将来有望な少年が大切に育てられる学舎を指す。
・靈峰(れいほう):意味は知っているがこの漢字(靈)は初めてみた。
・指呼の間(しこのかん):指差して呼べば聞こえるくらいの距離のこと。
・廣袤(こうぼう):幅と長さのこと。横縦。

建設に関しては”今春以来建設を急ぎ”とあり一年足らずで完成したような記事になっているが、ググった限りでは”700日で完成させなければならなかった”とあり日数的に大きな開きがある。”こんな短期間で完成させた”と軍部の威信を張りたかったのであろうか。

余談であるが、小生は40年ほど神奈川に住んでおり相鉄線の相武台駅も何度か利用したことがあるが、こんなに由緒ある地名だとは知らなかった。今度行ったらつぶさに散策してみたいと思う。

三郎 振武台日記 vol.6

 

 

 

三郎の振武台日記 第6弾。

今回は三月二日の日記から。

昭和19年3月2日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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三月二日 木
今日は非常に風が強い。寝台
の中で起床前窓ガラスがガタガタ
となっていたので乾布摩擦が気
にかかった。午前中は中隊長殿の
訓話。殊に皇室の御殊遇に対する
感激を永續させよと云われた。
其後葉書を五通ばかり書く。
午後校長閣下の閲兵あり。
非常に風強く砂塵モウモウ。
顔なんか真黒となる。外出服
装して嬉しかった。
それから入浴。氏名の注
記等あり。
*****************

一つだけ聞きなれない言葉で”御殊遇”だが、天皇・皇族に対する特別に良い待遇の事らしい。詳細は分からないが皇室典範等に則った作法や儀礼の事ではないかと思う。

寒風吹きすさぶ様子が窓ガラスの音から伝わり”乾布摩擦いやだなぁ~”と云う気持ちで目が醒めたようである。
今後の投稿にも記載するが、この日は校長であった牧野中将の退任式があったようなのだが、日記の内容から推測するに新入生は式に列席していない様子であり、その間に中隊長の訓示やら自由時間(葉書かき)があったと思われる。

午後の校長閣下の閲兵式には参列したようで、その際に外出用の制(軍)服を着ることができて嬉しかったと云う事であろう。

最後の氏名の”注記”がちょっと解らなかった。”衣服や持ち物に氏名を記入すること”だと思うのだが、現代では”記入”の筈で”注記”だと”注意書き”の意なのだが…。当時はこう云う言い方があったのか、或いは別の漢字なのか、御存知の方いらっしゃったら御教示乞う。

陸軍予科士官学校 牧野校長閣下

 

 

先日、三郎が陸軍予科士官学校に合格した際の”合格通達書”とその後学校への着校日を通達する”著校ニ關スル件達”を新たに発見したのでご紹介する。

 

”著校ニ關スル件達”と”合格通達書”

昭和18年11月に教育総監部より合格通達書が届き、その後日付は不明だが(多分年明け後か)著校ニ關スル件達が届いている。注目したのは、合格通達書では”昭和19年3月下旬頃に着校せよ”と記してあるのだが、著校ニ關スル件達では”2月24日に着校せよ”と1ヶ月早くなっている。当時、将校不足は相当深刻で少しでも早く将校を輩出せねばならなかった状況の表れであろう。

著校ニ關スル件達に記名のある学校長の牧野四郎と云う方は陸軍中将で、三郎の入校と入れ替わるタイミングで学校長を退任されるのだが、将に前回投稿した三郎の日記の日付”昭和19年3月2日”に牧野校長の離任式があり、その中で「花も実もあり、血も涙もある武人たれ」と訣別の訓辞を残している。
ただ、日記では”校長閣下の閲兵あり”としか書かれておらず、多分未だ入校式の済んでいなかった三郎たち新入生徒は離任式に列席せずその後の閲兵式のみ参列したと思われる。

牧野中将はこの後激戦地のフィリピン・レイテ島の第16師団長に赴任し、ダグラス・マッカーサー率いる連合軍と激戦するも翌昭和20年8月10日師団は壊滅。その際「余が敵弾に倒れたる時は余の肉を喰いその血をすすりて糧となし最後の一兵となるともレイテ島を死守し君恩に報ずべし」と云う「死守の訓辞」を遺して自決すると云う壮絶な最後を遂げられた軍人である。

三郎の日記の冒頭には”今日は非常に風が強い。”とあり、牧野中将の行く先が風雲急を告げる様を予感させる。享年52歳であった。 合掌。

三郎 振武台日記 vol.7

 

三郎の振武台日記 第7弾

 

今回は三月三日の日記である。

 

昭和19年3月3日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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三月三日 金
今日は風無く穏かな一日であった。
昨日の風はどこへやら。午前中は注
記、及び大掃除あり。外は非常
に気持よし。春めいて来た。
誰の(も?)家のことを考え居るらしい。少し
家の事を思い出した。この様な日
に模型飛行機を飛ばしたらと慨嘆。
午後は体操あり。生れて始めて
両木の上を通った。思ったよりやさし
いが、しかし矢張り恐ろしい。
将校生徒たるものはこんなことを言
ってはいけないが、お腹が空いてい
けなくなった。誰も食物の話をし
ていけない。こんなことではどうするか‼
********************

冒頭に起床時の様子が書かれていないので、漸くストレスなく起床以後の動作が可能になったと言う事だろうか。それとも毎日のことなので慣れてしまったからなのか…。

体操に関して”両木”という文言が出ているのだがこれが良く解らない。
まず読みが”りょうぎ”なのか”ふたぎ”なのか。またその設備がどういったものなのか。
多分高い場所で行動をするのであろうことは想像できるのだが。
とりあえず、遺品の中にそれらしきものも含め体操の写真があるのでアップしておく。

陸軍予科士官学校体操訓練風景1
陸軍予科士官学校体操訓練風景2
陸軍予科士官学校体操訓練風景3

1か2のどちらかか、或いはこれらとは異なるものなのか。御存知の方いらっしゃったら御教示乞う。
ただ、全生徒がこんなに素晴らしくこなせたとは思えないので、三郎も相当苦労したのではないか。
特に1の写真など”えっ?”と云うほど殆ど曲芸の域である。こんな体操ができる生徒が何人いただろうか…。
下手をすると打撲・捻挫等は日常茶飯事だったのでは無いかと思う。

はしたないとは思いながらも”腹減った”と嘆いている。
食べ盛り、育ち盛りの若者たちばかりであったが、食料難の時代である。お代わりの制限があったのではないかと思う。その状況は理解していても”腹は減る”のである。何とも辛かったであろう。飽食の時代に育つことが出来た小生世代は感謝せねばならない。

あと”この様な日に模型飛行機を飛ばしたらと慨嘆。”とあるが、当時の模型航空教育に関しては次回の投稿にてご紹介する。

飛行機少年 三郎 ~模型航空教育~

前回の三月三日の日記の中にあった模型飛行機に関する記述について。

小生も知らなかったのだが、当時小学校~旧制中学校では”模型航空教育”という教科があり、模型飛行機制作やグライダーでの滑空訓練等の教育が行われていた。勿論、航空機(戦闘機)の自国開発製造を行う上での国策であった。
特に昭和16~19年頃までは空前の模型飛行機ブームでこの間に1000万人の児童・生徒がこの教育を受けたらしい。
したがって当時の青少年は非常に航空機への関心が高く、それに関する知識も豊富であった。
三郎も御多分に漏れず飛行機が好きだったようで、以前の投稿にも上げたように落書きで戦闘機(ゼロ戦?)を書いたりしている。(冒頭に再掲載)
また、中学三年の時には模型飛行機の滞空時間を競う大会で三等に入賞して表彰されている。(賞状添付)

模型飛行機競翔大会賞状

蛇足だが、第三学年、三原三郎、三等、第三回、十一月三日、三次中学校と”三”が7個もある賞状も珍しいのでは…。

今後の投稿の中にも出てくるが、約一年間の教育期間を終えると航空兵科と地上兵科とに分かれて進学するのだが、やはり航空兵科が人気であった様子である。但し、学力以外にも高い身体能力が必要とされたため、地上兵科に比べ難易度は高かったらしい。

「たまにはこんな天気のいい日に模型飛行機翔ばしたいなぁ~」無邪気な少年の一面が顔をのぞかせている。

三郎 振武台日記 vol.8

 

三郎の振武台日記 第八弾

 

今回は三月四日の日記から。

 

昭和19年3月4日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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三月四日 土
本日五時四十分起床。直ちに舎前点呼位置で
軍人に賜りたる勅諭の奉読
式あり。軍人たる者の一日も忽
にすべからざるをつくづくと
覚える。その後續いて実務
の整頓の検査。中隊長殿
午後検査に来られる。
手にヒビが切れて
非常にイタシ。これも洗濯
するから手の油気が無くなる
所為だろう。銃の溝中の
検査あり。「傷ナシ」との事。
大いに今後注意すべきなり。
********************

今回の日記は急いで書いたのか殴り書きの感がある。つまり読み辛かった。

まず”軍人に賜りたる勅諭の奉読式あり”とある。いわゆる”軍人勅諭”の音読であるが、そもそも”軍人勅諭”の内容をちゃんと読んだことが無かったので今回精読してみた。
小生の感想としては、確かに”国家の爲に命を惜しむな”と云う多少”命”を軽んじていると感じられる部分もあり全てを肯定できるものでは無いが、国家を思う気持ちや人間関係の考え方などは現代社会においてもう一度見直すべき部分も含まれていると思う。
以下に参考サイトのURLを載せておくので、内容の是非はともかくまずは一度読んで頂くことをお勧めする。
原文はかなり難解だが最後の方に現代文訳があるので、そちらを読んで頂ければ良いと思う。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E9%99%B8%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA%E3%81%AB%E8%B3%9C%E3%81%AF%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%82%8B%E5%8B%85%E8%AB%AD

6~7行目の”実務の整頓”が何だか解らない。”実務”ではないのかも知れないが、適当な文言が思い浮かばなかった。

”手にヒビが切れて非常にイタシ。”とある。当たり前の事であるが洗濯は自前で洗濯機など無い時代であり、寒い時期の冷水での手洗いであればさぞ手荒れも酷かったであろう。
当時も軟膏等の塗薬はあったと思うが、使っていたのかどうかは分からない。

”銃の溝中”も”溝”の字がちょっと怪しいが多分”ライフリング”とよばれる銃身内のらせん状の溝のことだと思うのだが…。違うかもしれない…。

三郎の振武台日記 vol.9

 

 

今回は三月五日の日記から。

入校後初めての日曜日。のんびりできたからだろうか、字が丁寧で読み易い。

 

昭和19年3月5日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

********************
三月五日 日  雪一日中
本日は日曜日だ。何となく嬉しい。起床
後直ちに床をとるのもうれしい。外は
銀世界だ。雪だ。少し驚いた。三次の
事を思い出した。皆とコタツ…等と話した。
日朝点呼後は今日はどんなことをしても
よいとの事。午前、午後とも寝台に入
って休養をとった。来週へのエネルギー
の蓄積だ。ここに一つ将校生徒らしく
ない事を一つ行った。晝食時、飯を餘
計食った(菜が無く飯だけで)お蔭
でお腹が少し変だった。こんなことは
今後絶対やるまい。父も食物と運
動に気を付けるべしと。岡部先生も
云われた。二年生の人は外出された。
俺達も早く外出したいものだ。明日は
入校式だ。それから三月九日の東京行
がまちどおしい。
********************

先日投稿した内容の中に、入校式の様子を写真入りで紹介させて頂いたが、その時点では今回の日記に気付いていなかったので、雪がいつ降ったのかわからなかったのだが、これがたまたま前日に降ったものだと分かった。

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式 前日に積もった雪が残る中で

三郎の生地の三次は広島県の中では結構雪の降る地域であり懐かしく思ったであろう。

先日の日記で”腹がへってしょうがない”旨書いていたが、この日は上級生が外出したりした関係でご飯が余っていたのか、昼食時腹いっぱい食べた様だが結果的には”腹八分”が重要であることを再認識させられたらしい。

食事で思い出した話をひとつ。
小生が小学生の頃は毎年年始参りで、母(芳子)に連れられて三郎伯父さんのお宅へお邪魔していたのだが、お節料理を皆で頂いていた時に三郎伯父さんが
”軍隊(陸軍予科士官学校)じゃぁのう、食事中に突然「右腕負傷!」と号令がかかるんじゃ。そしたら全員左手だけで食べるんじゃ。また暫くしたら「両腕負傷!」と号令がかかって全員が後ろ手を組んで口だけで食べにゃいけんのんで。マサヒロ(小生の名前)もやってみるか?”と云って大笑いをしたことがあった。
戦時中の辛い経験だったと思うのだが、あの時の伯父さんの笑い声はどちらかと云うと懐かしむ気持ちの方が強かったのではないかなぁ…と思い出す。

折角の日曜日ではあるが、新入り生徒達には外出許可は出ず、終日寝床にいた様である。しかしながら、外出してゆく上級生を羨ましく思いながらも疲れた身体を休められることを喜んでいる様でもある。

三郎 振武台日記 vol.10

 

今回は三月六日の日記から。

この日は三郎たち新入生の入校式の日で、日記の内容からも興奮覚めやらぬ様子が覗える。
幕末の尊王攘夷に燃えた志士と同じ”ナショナリズム”と云う感情であったのだろう。
そして、このナショナリズムこそが当時の将校生徒たちに与えられた唯一の感情の発露だったのかも知れない。
※入校式の様子は、5月9日投稿の「昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校(振武台)第六十期生徒入校式の様子」の添付写真をご覧願いたい。

昭和19年3月6日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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三月六日 月
本日は俺にとっては一生涯忘れ得ぬ
歴史的な日だ。即ち軍人に正式になった
日だ。校長閣下代理幹事閣下
の厳かなる命下「谷川尚以下四千七百
二十三名は陸士予の第六期生徒を命ず」
とあり、それから生徒隊入隊式有り。
御真影奉拝アリ。此の日の
感激一生なんで忘られん。この感激
を頭にきざみこんで我が修養の
鞭となさん。あゝ遂に予士の
生徒となったのだ。皇国日本を
背負う青年将校の奨学地たる
予科の生徒となったのだ。此の上
は一意専心やるぞと盟う。
******************

四行目の”谷川尚”は代表生徒の名前であろう事は解かるのだが合っているか自信がない。
また、最後の行の”やるぞと”の部分も良く解らなかった。まあ、大勢に影響はないと思うのでこのままスルー。

”此の日の感激一生なんで忘られん”など、意識してかどうか解らないが、文章も漢文チックになっておりかなり幕末の志士風になっている。
因みに、三郎も読んだであろうと思われる、昭和19年2月15日出版の「通俗幕末勤皇史(徳富太郎著 目黒書店刊)」が祖父の遺品の中にあったので、その表紙だけアップする。

通俗幕末勤皇史(徳富太郎著 目黒書店刊)

 

  身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
             留め置かまし 大和魂

吉田松陰の辞世の句は今も昔も若者たちの心をかきむしる…。

 

 

三郎 振武台日記 vol.11

 

 

三郎の振武台日記 第11弾

 

今回は入校式翌日の三月七日の日記から。

昭和19年3月7日 三郎の日記

修正・削除部分が多くて少々読み辛いが、特に難読文字は無かった。

解読結果は以下の通り。

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 三月七日 火  曇
本朝は一般に起床が後レ
タ。起床ラッパが聞えなかった。こんな事
では不可ない。最少し緊張を要する。
午前中 中隊長殿の訓話あり。
修学の心得は大いに有意義であ
ると思う。特に修学の態度は
「将校生徒ナリ」と云う事を忘れな
いことであるということは必も肝心で
ある。
上級生に対する心構え等も
守るべき良い道だと思う。
夜、母より書簡あり。読みて家の
事を考え、不覚にも涙浮かぶ。何
だ女々しい。我は将校生徒なり だ。
*******************

当時の国語授業の影響なのか、時折カタカナ文が顔を出す。
今後投稿する三郎の手紙には漢字とカタカナだけのものもあり、パソコンでの変換に苦労した。

起床ラッパが聞えない程熟睡していたと云う事の様だが、昨日の入校式での興奮と緊張が疲労となって出たのかもしれない。

中隊長の訓話の内容がどんなものだったのかハッキリとは解らないが、「修学の心得」や「上級生に対する心構え」等の言葉から推し量るに以前投稿した内容にあった「軍人勅諭」を元にした訓話であった様な気がする。それらを総括すると「我は将校生徒なり」になるのだろう。

三郎 決意表明書?

夜、部屋に戻ったら母(千代子)からの手紙があったとある。
以前投稿した”昭和19年3月4日 母(千代子)から三郎への手紙”である。
我が子を軍隊に獲られた母親の悲しみと息子に要らぬ心配を掛けまいとする心情が入り混じった手紙であったが、それは三郎にも伝わったようで故郷を思いながら涙している。

現代の様な単なる一人暮らしであっても親にとっては淋しく悲しい気持であるのに、戦時中の軍隊への上京である。母と息子の心情は察してあまりある…。