昭和19年4月19日 舞鶴海軍機関学校 Nさんからの葉書

 

今回は京都府舞鶴市の海軍機関学校に在学中であったNさんから三郎に届いた葉書。

Nさんが三郎とどういう関係なのか不明なのだが、宛名に「三原三郎 君」としている部分と手紙の内容に故郷三次の状況が記されている事などから、恐らく三次中学の先輩であろうと思われる。
と云うことで今回は宛名面も画像添付するが、やはり軍関係の学校からの郵便物なので「検閲」の印が押されている。

昭和19年4月19日 Nさんからの葉書
昭和19年4月19日 Nさんからの葉書(宛名面)

解読結果は以下の通り。

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前略 永い間失礼して誠に相済まない。
豫科士官学校の生活にも大分慣れて来た事であろう。自分
も其後益々元気で頑張っている。訓練等も相當
はげしい事と思うが、如何なる困難にも負けず頑張精神を以
て斃れて後止むの意気で邁進される様祈っている。
日々の生活は即戦場の覚悟で大いに張切ろう。三次も春となっ
て櫻花爛漫としているそうだ。舞鶴も段々気候も良くなり
快晴の日が續くだろう。体に充分注意して元気にやろう。
では最後に君の健康を祈る。
       四月十九日
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舞鶴の海軍機関学校と聞いて少々驚いた。

つい最近インターネットの雑誌無料立ち読みで偶然「特攻の島」と云うマンガを最初の1~2巻だけ読んだのだが、この作品に描かれている人間魚雷「回天」の考案開発者の黒木大佐はこの舞鶴海軍機関学校の出身である。
因みにこの黒木大佐はこの半年ほど後の昭和19年9月7日に「回天」開発中の事故で殉職されている。
恐らく在校中であったNさんもその悲報を聞かれたであろう…

小生もまだ全巻読んでいないので内容についてのコメントはできないが、ご興味のある方は読まれては如何だろうか?

黒木大佐 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9C%A8%E5%8D%9A%E5%8F%B8

特攻の島 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%94%BB%E3%81%AE%E5%B3%B6

葉書の内容自体は「お互い頑張ろう!」と云ったところであるが、当時の戦況を考えるととてもそんな心境ではなかった筈であり
「日々の生活は即戦場の覚悟で大いに張切ろう」
と云う言葉が現実味を帯びている。

現代の我々には想像すら難しい精神状態だったであろう…

 

昭和19年4月20日 三原修さん(親戚?)からの葉書

 

今回は三次中学の後輩の三原修さんから三郎への葉書。多分母(千代子)方のいとこにあたる人だと思うが親戚関係に疎い小生の想像なので定かではない。

 

昭和19年4月20日 三原修さんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 櫻花萌え出づる新學期を迎えて僕は
元気一杯勝利の栄冠を期して勉強して居るよ。三郎
さんも元気だと確信して居る。来年度は僕は陸士と海
兵を突破しようと思って勉励して居るよ。僕の新學期
の主任は七教で成島(ヌス)先生だよ。思ったより親切で今
の所気に入って居るよ。三中からは今度五年山本(作木)
外五名の特別幹部候補生が出陣した。今日は剣道
部でチャンバラをしたよ。
父は今度、塩町の雙三中央青年學校々長として行った
よ。今度僕等は通年動員として工場に行き増産に
まい進する事になる話です。こちらは皆元気で異常なし。
                       終り。
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聞きなれない言葉で「特別幹部候補生」があったのでググってみた。
「特別幹部候補生」とは戦争の拡大により更なる補充が必要となった下士官を従来より短い期間で育成補充するために、前年(昭和18年)12月14日に勅令として制定され、翌15日に最初の召募が実施された。
葉書に書かれている
「三中からは今度五年山本(作木)外五名の特別幹部候補生が出陣した」
はその最初の採用者で、各地の実施学校へ入校(出陣)したものと思われる。

「来年度は僕は陸士と海兵を突破しようと思って勉励して居るよ」とあるので、新三年生であろう。
しかし平時であればいざ知らず、決して楽観視できない(どころかどう考えても悲観的にならざるを得ない)戦時下に於て、まだ14~15歳の「チャンバラ」を楽しむような少年が自ら進んで軍関係の学校を志願すると云う状況はやはり痛々しく感じる。

「お国のために」や「大切な人を護るために」と云う言葉に嘘が無いのは百も承知だが、本来であればもっともっと沢山のやりたいことがあって当たり前のはず…

「戦争さえなければ…」が本人や家族の本音だったのも間違いないだろう…

 

昭和19年4月22日 熊本薬科入学の同級生Yさんからの葉書

 

先日、熊本薬学専門学校への入学が決まった旨の連絡があったYさんからの葉書。

目指した旧制松江高校への夢が叶わず少なからず落胆していたが、その後の三郎からの便りなど友人達から慰められたようで気を持ち直している様子が伺える。

昭和19年4月22日 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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有難う。君があゝ言って呉れ(た)のが一番嬉しい。僕は是が非
でもしっかりとやる積りだから、御安心を願う。本當に僕の事
に気を遣って呉れて。君の課業に支障を来たしたかも知れぬが
此處にお詫をする次第だ。君は仕務に追われているだろう。
然し、僕も多忙で暇を見付けぬ限は、ろくに手紙を書く時もな
い。それ程時勢は逼迫している。講義も今年の中に一年生の
授業は了えて、更に三学期からは二年生の講義を始めるのだ
そうだ。夏休暇も廃止だしね。何も今は平時とは異なっている。否、
皇土の一端が醜敵米英に汚されているのだ。日本の興亡時だ。
僕は君の事を胸に置いて励んでいる。君は必ずとも、頑張って呉れ
なければならない…。こちらは正に初夏の候。花は散り、新緑萌
えだして心機一轉の時。実習々々と日を暮れさす。そちらには
お変りなきや?女恋しき事あらば僕を恋人と思え。奮闘を祈る。
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三郎がどんな言葉をかけたのか不明だが、Yさんとしては有難かったようで甚く感謝されている。
そんなやり取りから、三次中学在学中も仲良しだったと想像できるが、
「女恋しき事あらば僕を恋人と思え」
はちょっと気持ち悪い。(笑)

戦況が悪化の一途を辿るなか、学生達を一刻も早く一人前の戦力とするために講義や実習は全て前倒しされ、夏休みはおろか土日すらまともに休めなかったのではないかと想像するが、皆黙々と頑張っていた…いや、頑張るしかなかったのである。

差出しの住所を見ると「熊本市大江町九品寺」とある。
ネットで確認したところ現在の熊本大学医学部・薬学部のすぐ傍である。

因みに三郎は終戦後、熊本医科大学に入学している。
なぜ熊本だったのか小生が知る由もなかったのだが、この仲良し状況からすると”Yさん”の存在が三郎を熊本に向かわせた大きな理由だったのかも知れない…

 

昭和19年4月25日 三次中学同級生Sさんからの葉書 三次も春闌(たけなわ)…

 

本日も三次中学同級生からの葉書である。

さすがに内容的に似たような(決して便りを出された方々を揶揄している訳ではない)投稿が続くと閲覧して下さる方々もつまらないのでは…と考えてしまうのだが、内容は似ていてもあの時代の真っただ中で一生懸命生きていた人々の声や気持ちを少しでも多くの人々に知って頂くためのブログであることを再認識して続行させて頂く。

昭和19年4月25日 三次中学同級生 Sさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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春も漸く闌となりました。【一昨日国語の時間に予習不足で
岡部先生に相当余が
しぼられた。(ヲハリ)】
相変らず元気で練成に励んで居る事と思う。
こちらは皆元気だ。
校庭の桜も正に満開。次にニュース。
上川先生が因島へかえられた。又、木原先生が広島へ
轉勤なさった。沢井先生が(軍曹)教練の先生
として来られた。今頃は軍事教練として手旗・
モールス信号を習っている。
陸軍関係、今年は約百名、海軍関係約五十名
八木君が広工と高等商船と二つパス。広工へ行ったらしい。
御健康を祈る。乱筆にて失礼。
では又。
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「闌(たけなわ)」など当時の若者は難しい漢字を遣っていたんだなぁ…と感心しながら、ちょっとググってみた。

「宴も闌となりましたが…」などと結婚披露宴や忘年会などでよく耳にする言葉であるが、「闌」とは「最高潮」を指すものと思っていたが、正しくは「盛りを少し過ぎた頃合い」を指すらしい。
確かに一番盛り上がっているときに水を差すのは無粋であろう。

さて、故郷三次も春闌となり母校の桜も満開との報せ。
先日の母千代子の手紙にあった様に、さすがに戦時下の非常事態に於て花見に興じる人はいないが、それぞれの心の中には例年の様に桜を愛でる気持ちが残っており、三郎もそのあでやかさを思い出したであろう…。

高等商船と広島高工に合格した同級生の八木さんの動向に関しては、以前投稿したMOさんの情報では「高等商船に行く」となっていたが、今回は「広島高工」となっている。
どちらかの情報が間違っていたのか、進学先を変更されたのかは不明であるが、当時「高等商船」は海軍に直結した学校となっており親・親戚などからの反対等あり考え直したのでは…と小生は感じている。

国家全体が戦時色に染まった時代である。全ての国民にとって厳しい状況ではあったが、自分の進みたい道が学問や研究であった若者たちにとっては特に厳しく辛い時代であったと思う。

 

昭和19年5月2日 三次中学・陸軍予科士官学校先輩Yさんからの葉書 差出地は千葉県四街道 陸軍野戦砲兵学校に…

 

今回は当ブログでも何度か投稿した三次中学・陸軍予科士官学校の先輩のYさんからの手紙。

前回(7/14)に投稿した昭和19年4月8日付の手紙の差出地は神奈川県の相武台(陸軍士官学校)であったが、今回の手紙は千葉県四街道の「陸軍野戦砲兵学校」となっていた。

昭和19年5月2日 Y先輩からの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 観兵式陪観せられしや。此度は
我等が参加しなかったから貴様等には
淋しかったろう。外出しているか。大いに
鋭気を養うべく、しゃばの空気にまけんで
しっかり外出し給え。小生、此の度満州へ
行くことになった。本校では、昨日記念祭
あり。面白いものを見たよ。六月頃会おう。
元気で勉強し給え。他の面々は何処。
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差出し元住所は「陸軍野戦砲兵学校 教導聯隊 第八中隊 見習士官 〇〇〇〇」となってる。
早速、「陸軍野戦砲兵学校」をググってみたところ、以下サイトにて詳しく説明されていたのでご覧頂きたい。

https://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/e/003e75e131f09cba13340cdc966f9597

こちらのサイトの説明によると、「160名ほどの募集に対して、1943年には47倍もの受験者があったという」とあり、相当の難関であったことが伺える。
父芳一が三郎に「Y先輩に負けるな」と言うほど優秀な人物であったが、この難関校に入学していることでその事実が明確になった。

しかしながら同サイトには、この1944年に多分Yさんの1学年上級生と思われる同年に繰上げ卒業となった方々の殆どが戦死した状況も記されてる。(実際にこの卒業生の方々が門司港を出港されたのがこの葉書より前か後かは不明であるが、元々の教育年限が2年であったことを考えると恐らくこの後と思われる。)
いかに秀才でシッカリしていたとはいえ、十代の青年であったYさんにとっての衝撃は計り知れないものであったのではなかろうか…

小生のような平和ボケの戦後世代は、つくづく「途方もない時代」であったことを実感させられてしまう事実である…

 

昭和19年5月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙 親友へ、そして自身へのエール…

 

 

今回はこれまで何度か投稿してきた三次中学の親友Mさんからの手紙。

残すところ二十日余りとなった陸軍予科士官学校も試験に備え猛勉強中のMさんからの、三郎への、そしてMさん自身への檄たる手紙である。

昭和19年5月5日 三次中学の親友Mさんからの手紙①
昭和19年5月5日 三次中学の親友Mさんからの手紙②

解読結果は以下の通り。

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拝啓 三原三郎君。青葉の五月となり心身の
ひきしまるのを感ずる様になった。今日、五月節句
であるけれも、時節柄鯉昇りは見られず、それ
に代って飛行機が「此処にも日本男児あり」と
叫んで居る。貴様相変らず振武台を
馳せていると思う。俺も相変らず元気だ。三中も
今頃は大改革が断行され、皆張切って、日夜大目
的に邁進している。今貴様三中に帰って見たら
恐らく吃驚するだろう。貴様と別れてから
早数ヶ月を経過した。軍隊生活にも馴れた事だ
ろう。近頃貴様はどんな事を學んでいるのか?
貴様必ず他人に負ける事なく、天下第一等の人
となり、三中の名声を天下に鳴らし給え。
俺の目指す大目的も目焦に迫った。余す所二十日
ばかり。必ず入るから安心して呉れ。一日も早
く軍服が着度いよ。貴様の軍服姿が見度い。
写真が出来たら一枚御願いする。
今日、柔道主任の木原先生の後任として、信永
先生を迎えた。照国みたいなデブだ。
尾関山の桜も散った。辺りは実に美しい。山が!!
高谷山も、寺戸山も、比熊山も緑だ。
つい忘れかけていた。――砂田義憲君は九州帝
大付属工高に入学した、がその後任副級長として
熱血男児、佐藤博君が撰ばれた。栗本も元
気で陸士・海兵の試験の爲に頑張っている。森保
も相変らず元気!!
吉か不吉か知らんが、三中の十二教の教室
の前の廊下に燕が巣をかけたよ。
「三原君!!」――ではない「三原!!」「三原!!」と永い間
親しくして来たが、君と別れて淋しいよ。然し
君が陸士を卒業し、俺が陸士か海兵を卒業して
共に立派な軍人になって、共に戦場で語る事を
思えば実に楽しいよ。
六月にもなれば吾々は通年動員として、四月が
六月が知らんが、軍需工場でペンを置いて働く事
となるだろう。然し喜んで働くよ。
気候の変り目、健康に充分注意あれ。
断片的にだらだら書いた。御免。
五月五日       ■■■■
陸士生徒
三原三郎 殿
「俺だ貴様だ」と大物を云ったがゆるしてくれ。
軍人志望の僕だから。
***********************

五月五日(端午の節句)は男子の健康を祈願する日であるが、さすがに戦時下に於いては「鯉昇り」は自粛していた様子である。
それでも「青葉の五月となり心身のひきしまるのを感ずる様になった」と端午の節句に相応しい心境を語っている。
現代の世の中では「ゴールデンウィーク」として休暇を謳歌しながらも、片や「五月病」などと心身や体調の悪化を訴える季節と変わってしまっているが、当時の人々から鼻で笑われそうな有様である。

「鯉昇りに代って飛行機が…」とある。
実際に飛行機が飛んでいたのかも知れないが、広島の山間部の三次上空を当時日本軍機がどれだけ飛んでいたのか疑問であり、ちょっとググってみたところ以下サイトに戦時下の端午の節句のレシピとして「飛行機メンチボール」なるものがあったことを発見した。

https://kazu4000.muragon.com/entry/347.html

ひょっとすると、この「飛行機」をさしていたのかも(?)知れない。

さて、目前に迫った陸軍予科士官学校受験を控え焦りや不安はあるに違いないが、自信がある様子で軍人として三郎と再会することを楽しみだと語っている。

何度も言うが、当時軍人になると云うことは「かなりの確率で命を落とす」選択であった。
現代の我々が「ゴールデンウィーク明けに五月病になれる」のも命を懸けて戦って下さった先人のお蔭であることを肝に銘じたいものである…

余談だが、今回投稿した手紙の封筒は再利用されたもので裏返してみると元々は「南満州鐵道株式會社」の印刷のある社用のもので、Mさんのお父様がお母様宛に出されたものと思われる。
珍しい封筒だったのでご参考までに…

Mさん封筒の裏側に「南満州鐵道株式會社」

昭和19年5月28日 三次中学校長先生からの葉書 難読…(-_-;) 

 

 

今回は約三ヶ月ぶりの三次中学N校長先生からの葉書。

前回に引続き小生にとっては難読なN校長先生の文書である。
短い内容であるが2~3か所悩んだ部分があった。

昭和19年5月28日 三次中学N校長先生からの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝復 御葉書有難く拝誦仕り
愈々御健康賀し益
二十年度陸士志願者指導に
就ては極力方図を講じ居り
一人にても多く合格をと念願致し
居りに御声援難有く 敬具
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まず、「難有く」は「ありがたく」で正しいようで、当時は特に漢文の素養のある方がこの様な書き方をされていたらしい。
因みに
「相不変」→ 相変らず
「不悪」 → 悪しからず
なども同類のようである。

4行目の「方図」は正しいか否か自信がないが、他に適当な語彙を思いつかなかった。

最後の二文字もよく判らないが、「拝復」の結辞なので「敬具」としておいた。

前回の投稿の際にも感じた事だが、陸軍予科士官学校へ「一人でも多く合格者をと念願致し」とあるが、教え子達の将来を想う者として本当はとても辛かったのではないかと思う。

「一人でも多く生き延びてと念願致し」が本音だったであろう…