昭和19年3月6日 三郎へ 三次中学校長からの手紙

三次中学校(昭和十三年十二月描写)

今回は三郎が在学していた三次中学校の校長先生からの激励の葉書である。
陸軍予科士官学校に入校し既に三次中学への退学届も提出されており、三郎からのお礼の手紙への返信と思われる。

昭和19年3月6日 三次中学校長からの葉書

現代では見慣れない文言があったり、文末の文字がちょっと不明瞭であったりで数ヶ所不明な部分があった。
解読結果は以下の通り。

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拝復 御葉書有難く拝誦仕り
無事御入学聞に御目出度く有り
皇国の存亡振古未だ曽て今日の如く危急
なるはなき大難局に於て名誉ある皇国
軍人としての御修学飽くまで御自重
御奮励願上げ
三中必ず尊き歴史に背かざる向上期し
居り行つる後輩の爲めにも御精励願いて
御身体特に御大切の程祈り益
*******************

あまり聞きなれない文言は
・拝誦:謹んで読むこと。謙譲語?
・振古:大昔のこと
よく解らなかった文言は最後から2行目の”居り行つる”が自信がない。
この校長先生、どうも文末の文字が読み辛く”り、る、て”の判別が難しい。あと最後の”益”は当て字だと思う。サインの色紙ぐらいでしか眼にしないと思うが…。

教え子である生徒に対して”拝誦”とへりくだった言い方をしている。これが当時当たり前のこと(軍人>文民)だったのか、それとも”検閲”等に配慮しての事なのかは解らないが、不自然な感じがする部分である。

また、軍人でないのに”皇国の存亡振古未だ曽て今日の如く危急なるはなき大難局”と戦局が芳しくない表現をしており、一般庶民の間にもかなり危うい状況が広く認知されていた証拠であろう。この2年程前のミッドウェー海戦での敗北から形勢は逆転し、当時は”決戦準備”が検討されている状況であった。

当時、教え子が陸軍予科士官学校に入学することは(表向きは)教師としての栄誉だったのであろうが、”御自重”、”御身体特に御大切の程祈り”等、教え子たちを戦地に送らなければならない教育者の苦悩も感じられる文章である。

昭和19年3月11~15日 三次中学校の同級生から三郎への葉書・手紙 vol.2

 

三次中学校の同級生シリーズ第2弾。

3通とも各自及び学校の現況報告に終始している。
やはりこの時期は進学に関する話題が多く、関心が高い事が覗える。

最初は、Yさんからのもの。

昭和19年3月11日 Yさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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いよう。二ツM生は張切っているらしいな。
元気な言葉を眼の前にして安心致した。
君の、貴様。俺の言もお待ち兼ねのも
のだったぞ。僕は松江をアッサリ振られた。
然しセンチメンタルにはならないぞ。僕の最善を
盡した結果だから。
今度は必ず君に吉報を致すものと誓
う。返事が送(遅?)れて済まなかった。では、
***************************

”二ツM生”の意味が陸豫士生徒の別称なのか三郎のあだ名だったのかハッキリしないが、その後の内容からするとお互いを”貴様・二ツM”と呼び合っていたような感じであり、だとすればあだ名だったかも知れない。二人が仲良しだった証拠であろう。
他の同級生の葉書にもあった様に高校受験者は全滅だったらしく、彼も松江高校がダメだったと書いている。あっけらかんと書いているが内心穏やかではなかっただろう。後に続く試験に合格することを誓いながら短い内容で結んでいる事が悔しさを物語っている。

続いて、Mさんからのもの。

昭和19年3月13日 Mさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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三原君、第一報有難く拝見した。俺も背水の陣
を布いて大いに頑張っている。級友諸君も同様頑
張っている。今年は軍部諸学校の入学試験が早くな
ったのだ。陸士は学科が先にあり、五月二十八日より始まる。
俺は両方受験する。そして必ず入る。軍部諸学校受験
者が実に多数いるぞ。十一学級だけでも十名いる。三年
は実に多い。海兵に五十名は充分いる。それに彼の山崎
暗才が海兵だ。喜べ斯かる状況だ。陸幼に二年の
数田が一名合格した。四年では全員髙校に対して玉
砕した。然し、髙工、師範等は大分合格するだろう。
本月十三日より一週間暗渠排水作業始る。三月より七月
までの四ケ月間軍需工場で連続作業。困ったよ。では又。
***************************

この方の文字も読み易く問題部分はなかった。

先ず、”軍部諸学校の入学試験が早くなった”とある。前年三郎が受験したのが9月20~22日だったから4ヶ月程早くなっている。それ程兵士(将校)が不足しており補充が急務であった。
また、受験希望者数も例年に比べ増えている様子。これは”お国の爲”と云う気持ちも当然あったと思うが、正直なところ”どうせ徴兵されるなら”の方が強かったと思う。事実昭和19年当時は召集数も増大して”根こそぎ動員”が始まっており、当然のことであろう。

”山崎暗才”が何者かは解からない。内容からすると秀才或いはクラスの人気者だったのかもしれない。

2ヶ月半後に陸豫士の受験をひかえているにも関わらず、毎日暗渠排水や軍需工場の作業に動員され勉強の時間が限られ、大変なプレッシャーであったと思う。

最後は、MOさんからのもの。

昭和19年3月15日 MOさんから三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

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拝復
御手紙有難う。
今日岐阜より帰って見るとあったのでちいと嬉
しかったよ。
此の間、岐阜髙工に受けたが五十人に一人だ。後へほう
たよ。まあ想像してくれ。僕も五年組だ。
今頃は学校も大分よくなった。朝会の時は号令の
練習をしておる。又暗渠拝水に出掛けている者
もあれば武道章の上級を受けるために練習等
をしておる。
次に写真だが、中谷は「本日公休日」荷物は隣へ。
これだからしかたがないなんと言っても萬年公休日だよ。
新ニュースとして君が心配するかもしれないが、新見
と橋本に広島行だ
靴は確かにもらった。安心してくれ。
まあニュースがあったら知らせる。
乱筆御免
                   さようなら
  三月十五日
三原君へ
***************************

MOさんは母(千代子)の手紙の中にも出てくる友人で、近所の幼馴染らしい。
三郎も含め同級生が皆綺麗な字なので字の汚い小生は少々凹んでいたのだが、(大変失礼な言い方だが)この手紙でちょっと安心した。

彼もまた難関受験(50倍はすごい!)に失敗した様で、”僕も5年組だ”と自嘲気味に書いている。

”後へほうたよ”は、多分”(びっくりして)のけぞった”の意味だと思う。小生も広島出身であるが広島市と呉市の間にある海田市と云う瀬戸内海側の町で育ったので、山間の三次とは結構方言が違うので間違っているかも知れない。

軍関係の試験も受けない様で、残りは学校の様子などを書いている。
”武道章”とは武道章検定のことで、前年(昭和18年)に制定された武道を戦争技術化するための政策で”銃剣道、射撃道、剣道、柔道、弓道、相撲”が対象であったらしい。

写真の件は良く解らない。”中谷”が写真好きの友人なのか、或いは写真館なのか不明。

”新見と橋本に広島行きだ”は、多分担任教師の異動を言っているものと思う。

友達同士の会話は必要部分が欠落していて解かりづらいが、靴をあげる程の仲である。親友に間違いないだろう。

昭和19年3月22日 三次中学の先輩 陸軍士官学校Yさんからの葉書

 

今回は三次中学の一学年先輩で既に陸軍士官学校(神奈川の相武台)生徒であったY先輩からの入校を祝福する葉書から。

以前の投稿で陸軍予科士官学校(振武台)が完成した当時の新聞の切抜きをご紹介したが、元々東京の市谷台にあった士官学校が神奈川の相武台に移転。その後市谷台に残っていた予科士官学校が埼玉の振武台に移転しており、三郎の一学年先輩にあたるYさんは陸軍士官学校の生徒であった。

昭和19年3月22日 Y先輩から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

********************
星、輝く御紋章の下に、金に輝く星を
見事かちえられたること、誠にお目出度く
存じます。期もよし六十期。一大勇猛心
を発揮して武将街道を驀進せられん
ことをスタートの必要なるは何事にも
同じ。今三中十九期の児玉中佐殿が
士校にいられる。じゃがさんと同期。高崎
の演習地にて御会いした。君の云う通り先輩
に負けず頑張ろう。では又。
********************

4行目の驀進の「驀」は葉書の文字と若干異なるが他に適当な字が見当たらなかった。略字か誤字ではないかと思う。他に難読部分は無かった。

児玉中佐と”じゃがさん”も三次中学の先輩の様である。生徒が全国津々浦々から集まっているからこそ、同郷の先輩・後輩の繋がりが強かったのであろう。

この葉書は士官学校から出されたものであり、宛名書面に「検閲済」の印が押されている。だからと云う訳かどうか解らないが、あたりさわりのない無難な内容になっている。
同級生と先輩と云う違いもあるので一概には言えないが、以前投稿した同級生からの手紙にあった進学や故郷の話等は書かれておらず「余計なことは書かない」と云った空気が感じられる。
一説によると当時の検閲に関しては「膨大な量の手紙や葉書を内容まで全て検閲するのは無理があり実際にはそれ程厳しくはチェックされていなかった」という話もあるが、少なくとも軍関係施設では厳しく実施されていたようで、それなりの効果はあったと思われる。

 

昭和19年3月28日 母(千代子)から三郎への手紙

 

前回の父(芳一)からの手紙と同日に書かれた母(千代子)からの手紙である。

三郎が振武台へ行ってから一ヶ月程経過しており、文面からも多少落着いた感じが読み取れる。

 

昭和19年3月28日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年3月28日 千代子から三郎への手紙②

解読結果は以下の通り。

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其後変りなく勉強して居ると思います。
家の方には皆変りありませんよ。先日来より度々便り
を出すが何の返事もないが受取りましたか。
日頃心配して居た芳子の女学校入学受験に運
良く合格いたしました。女子組が二十七名受けて
二十名合格したのよ。深原先生も大手柄だ
中学校はあまりよろしくなかったらしいよ。。
女学校へは全部で四十何名受けたらしいよ。
まあ、子供も一人前の学校へ入学出来る様に
なって父様も私もこれよりうれしい事はありません。
皆よろこんでやってくれよ。芳子も安心したらしい。
幸田君ね。あれが廣島師範へ合格したそうね。
山縣君も熊本薬専へ合格したとの事。
昨日、中学校から成績表が来ました。別に変りた
處はなかったが、工作が秀になって居たよ。
見たかったら送ってあげます。
日曜日に河野君のお父様と逢って話されたそうな。
内の父様がね。三中の者に出逢いますか。
倉野様にもあったですか。
写真にうつりましたか。もし出来たら送りなさい。
都合が悪かったら無理してまではうつらなくって
よろしいよ。四月の五日が女学校の入学式だ。
中学校は四日らしいよ。何でも一年間位は仕業
するらしいよ。今日はこれで筆を止めます。
三次は今日も風がひどく雨やら雪やらわからん
ものが降って寒いです。充分躰に気をつけてね。
上官の命をよく守り、友人の力になる様にせよ。
三郎殿へ
母より
************************

父からの手紙同様、最優先事項は妹(芳子)の女学校合格の話題である。
やはり肩の荷が下りたのであろう、4人の子供全員が国民学校を卒業し一人前になった事を
「父様も私もこれよりうれしい事はありません」
と喜んでいる。

女学校の受験者数の部分で
「女子組が二十七名受けて」と「全部で四十何名受けた」とあり、女子組・男子組以外に何かあったのか?とググってみたところ、
当時、国家の方針としては国民学校三年生からは男女別組が原則であったが、一クラス辺りの生徒数や教室数の関係で地域によっては「男子組」「女子組」の他に「(男女)共組」という共学のクラスがあったらしい。
芳子の通った国民学校もこの「共組」があったようであるが、思春期に掛かる年齢でもあり、特に男子生徒にとっては「不公平感」満載の制度だった様に思える。(笑)

当時、女学校や中学校に進学しても授業はそこそこで勤労奉仕ばかりの毎日であったが、それでも進学できる喜びは格別だったようである。

しかし、いったん戦時中という現実に引き戻された時、軍隊勤務の康男や予科士官学校生徒の三郎の行く末を考えると本当に不安であったろう。
それどころか、軍隊と関係のない他の家族でさえ何時どうなるか判らない程に戦況は悪化していたのである。

因みにこの3日後の3月31日に米機動部隊がパラオ諸島を大空襲している。
徐々に制空権を奪われ、本土空襲へとつながってゆくのである…。

 

昭和19年4月1日 三次中学の同級生Sさんからの手紙

三郎の陸軍予科士官学校入学からひと月ほど経過し、同級生の進学状況も概ね決定した時期となり、彼らからの進路決定に関する情報が何通も届いている。

父(芳一)や母(千代子)からも多少の情報は届いているが、やはり当事者(?)からの情報が一番信頼できるのであろう。

今回のSさんは多少クセのある字ながら、丁寧に書かれているので特に難読部分は無かった。

昭和19年4月1日 Sさんからの手紙①
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙②
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙③
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙④
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙⑤
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙⑥
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙⑦

解読結果は以下の通り。

注)■■■ はSさん。
************************
陽春の四月になったと言うのに(大変)寒く
あります。先づ何時桜が咲くか、一寸と見当
がつかん。
三原君、お便り有難う。実は二十二日から昨日
三十一日迄春休暇で故郷へ帰って居た所だ。
大変返事が長びいて済まん。そのかわり
本日は大変乱筆であるが、一寸と詳細に
こちらの様子を知らせるからかんべんしろ。
ことわって置くが、郷里の後輩が中学校
へ入学したり又、家へも手紙を書いた関係上、
相当疲れて居るから乱雑になるのだ。
許せ。
さて
こちラハ大変寒イ。何時桜かは先に言った通り。
しかし、今日は漸く春気分と言った所か。
ぼつぼつ野山が霞ミかけたと思われる所。
次ニ、俺も(ハッハッハ)五年となった。
第十三学級。主任は賀永先生。総員三十五名か?
第十四学級は岡部先生。人員不明。
第十五学級は田村先生。人員不明。
落は一名もなし。
次に級、副長は、
十三ガ丸住、砂田。十四ガ中村、柳原。十五ガ藤井、波多野。
優等生は中村、丸住、秋山、広沢の各君。
皆勤者等は不明。
今度、新任の先生が来られるが、未だ式はない。
入学式は四月にある。
始業式は今日四月一日にあった。
五年生になって、実際責任があると言う事を
痛感する。今迄に責任(と言う意味)を一番強く
感じたのは、今日が最大であろう。
四年生に僕等の教室をやったと言う事は、大小
掃除をして居た丈に惜しい気がする。
なかなか四年生は威張って居る。
ポケットでもつけて、可哀そうだが、
注意をされる者だろう。
新学期からは六粁以内は徒歩通学。
しもわち駅から八次間は汽車通マカリナラン。
広島方面はアヲガ駅より三中迄は自転車共にダメ。
即チ、三中を中心に六粁の所に来ると
自転車を預けて徒歩通学をするのだ。
それから、近い内に分隊毎に集合、二列縦隊
で通学する事になる。
それから次は、上級学校、入学許可の諸君
について、知れて居る範囲で述べて見る。
先づ小生から。
広島高師は三月一日ダメ。
徳島高工は十七、八日 俄か勉強はダメ。
総体的に見て、三中は不振とでも言うか。
五年よりは四年の方が成績は良好なり。
高校 松江、土居さん(五年) 広島 湧谷さん(浪人)の二名か?
岡山医専 広沢孝一郎君 一人のみ。
広島県より十余名か??
アッパレ アッパレ。
徳島高工 秋本君(土木科)→日本一の称あり
広島高工 八木君(機械科)
山梨高工 山田豊君(科不明)
熊本薬専 山縣正道君
大阪歯科医専 斉木康彦君
日大文科 西田君
紙不足ニツキ裏面に書く。許せ。
県師 桑田、三宅、森原君
但し、三宅君は入学取消し。
五年は
大膳さんが広高工の夜間に入学のみと聞く。
はっきりしないが、他にもまだあるが、四年よりは
少ない。
右の四年の各君はアッパレ アッパレ。
まだ、宇部高工等は発表がない様だ。
そうそう、
来る五日から九日迄、五日間○○(大竹)海兵団
で海洋訓練がある。三中からは
二十名参加する。
勿論、俺も参加する。六十日と聞いて居たので
喜んで居たが、五日間なので大変気をおとして
ガッカリして居る。
五日間うんと海軍魂を養って来る。
後もう二回ある。今度は違った諸君が行くだろう。
甲飛に四年からは湯浅、立石の各君が去る二十九日
出発。三年から中瀬、赤村、益田の三君が出発す。
忙しいから本日はこれで失敬する。
御健康と御奮闘を祈る。
乱筆にて失礼。
では又。さようなら。
三原君               ■■■より

************************

まず、気付いたのは今回の手紙が便箋と云うよりはメモ用紙と思われるB6サイズの用紙に書かれており、その関係で全部で7ページに亘る”大作”となっている部分で、これも物資不足の顕れであろう。
左下に印刷されている「小奴可運送店」は現在の広島県庄原市東上町小奴可(おぬか)の運送屋さんだと思われるが、Sさんの御実家かもしれない。

三郎も母校三次中学の状況や同級生たちの進学状況は当然気になっていたであろうし、お互いに叱咤激励し合う事は当時の状況からすれば(特に若者たちにとっては)必要不可欠な”モチベーション”であったのかも知れない。

現代の日本と異なり、当時は軍関係の学校に進学することはかなりの確率で「死」を意識せねばならない選択であるにも関わらず、甲飛(海軍飛行予科練習生)として航空隊へ入隊する生徒も少なからずおり、国家の危機を救わんとする若者全体の高揚感が感じられる。
しかしその反面、「ナショナリズムに煽られた若者たちの”蛮勇”なのでは…」と云った危惧感もありちょっと複雑な気持ちになる。

今回のSさんの手紙に於いても「海洋訓練」を心待ちにしている記述があるが、果して本心であろうか…。
本当は勉強や恋愛など、やりたいことは山ほどあった筈にも拘わらず、全体の雰囲気を感じつつ無意識のうちに勇ましい気持になっていたのではないかとも想像する。

ただ、それがよく言う「軍国主義」や「全体主義(ファシズム)」に直接繋がるものではなく、戦後の自虐史観教育で喧伝された「日本人は残虐」とか「日本は侵略国家」等が事実では無いことも拙ブログでお伝えしたい重要な部分なのだが、これらの説明は他の秀逸なブログ等で幾つも為されており、ここではそれらを「できるだけ感じ取って」頂けるよう投稿を続けることに徹したい…。

 

昭和19年4月8日 三次中学同級生のFさんからの葉書

 

今回は三次中学同級生のFさんからの葉書。

Fさんに関しては以前(5/6)の投稿で三郎が陸軍予科士官学校へ入校した直後の葉書を掲載しており、それに続くもの。

今回は「封緘葉書」で4面に亘って書かれており、実質は”手紙”である。
※以下に全体像も添付

昭和19年4月8日 Fさんの葉書①
昭和19年4月8日 Fさんの葉書②
昭和19年4月8日 Fさんの葉書③
昭和19年4月8日 Fさんの葉書④

「封緘葉書」の全体像(2枚)

昭和19年4月8日 Fさんの封緘葉書全体①
昭和19年4月8日 Fさんの封緘葉書全体②

解読結果は以下の通り。

**************************
お葉書有難とう。元気の良い書振りに安心
した。私もその后元気だ。安心して呉れ。然しその
元気も普通並みではない。と云うのが此の上もない
憧憬の的であった高校突破の野望が一瞬に
して水泡と化したのである。あゝ実に我が胸には
敗残の憂い濃く、頬を伝うるものは唯涙のみだ。
而れども、今では我が実力の足らざるを深く思い、奮
起を促している様な始末だ。して来るべき高校
受験に備える心算だ。私の頭は舊(旧)世と変わらない
と思うかも知れないが、(私の心には今日の国家を背負うて
立つべき覚悟は充分持っている。)私は再び高校
突破の野望を抱いている。之も一旦定めたる前途を
変更すべきは私としてとるべき道ではないと思ったからだ。
扨て、貴方の要求通り合格者の報告をするならば、
広沢孝一郎(岡大医学部専門部)、八木(広髙工・機械
科)、桑田(広縣師)、土屋(広縣師)、川崎(宇部工・工業
化学科)、上川(宇工・機械科)、森原(平壌師)、宗川(朝師)、
広畠(通信???)、山縣(熊本薬専)、秋本(徳島高工)、山田
(山梨高工)
という風に誠に近代にない好成績を治めている。これは下
級生に対し威厳を示す上に於ても大きな影響を及ぼ
すであろう。高校を突破の栄冠を得たものは旧五年
の土井一名のみにして、実に面目ない次第だ。けれども
来年こそは貴方の面に笑をたたえるべく、母校から高校突破の功
を数名に倣いて奏する決心だ。貴方は陸士の大分
状況を知って、緊張の中に愉快な一日を過ごしていること
であろと思う。何卒将校生徒としての本分を充分全
うされんことを祈る。本年も陸士・海兵の志願者は百人
にも及んでいるのではないかと思う。意を強うして後輩の
入校を待たれよ。次に私は此の度、親戚の事情に依って
親戚に移住することとなったのだ。少々気が落ちつかず困って
いたが、慣れればそうもない。
長々と下らぬことを述べたが、先づは一報迄だ。至極
身体に留意し本分に邁進されたし。
                   さようなら

            この手紙は読み次第
            焼いて呉れ。
                 では又。
**************************

この葉書を読んでいて何となくFさんが”謝っている”様な印象を受けたので、それが何なのかを考えてみた。

Fさんは前回の葉書で
「小生高校突破の野望を抱きしも、之前途を暗澹たらしむる一つにして今後直ちに国家の要望する所に向って再起勉励する」
と書いていたが、残念なことに(旧制)高校への合格は成らなかった。

前回の葉書の内容の通りであれば、「今後直ちに」陸軍予科士官学校か海軍兵学校の受験に向けて「国家の要望する所に向って再起勉励する」筈なのであるが、来年の(旧制)高校受験を目指して中学5年生に残ることを選んだようである。
おそらくFさんはこの状況を、三郎始め同級生たちに
「貴様はこの国家の非常事態に於いてお国のために軍関係の学校を受験しないのか?」
と思われるのではないかと感じ、それを「後ろめたい」と思う気持ちが文章に滲んだのではないかと想像する。

現代であれば何の問題もない事であるが、戦時色一色に染まった当時(特に血気盛んな若者達)の状況からすれば仕方のない心情であったのかも知れない。
我々戦後世代は、このような雰囲気がどれだけの国民を戦地に向かわせることに繋がったのか、をしっかり感じ反省すべきであると思う。

そんな気持ちだったからこそ文末で
「この手紙は読み次第 焼いて呉れ」
と書いているFさんだと思うが、この葉書を公表した小生を許してくれるだろうか…

 

昭和19年4月10日 三次中学同級生 Yさんからの葉書

 

前回に続き三次中学の同級生からの葉書であるが、今回は薬学専門学校に合格し進学も決定したYさんからのもの。

志望校に受からなかった無念さと、新たな進路への前向きな気持ちとが入り混じった内容となっている。

昭和19年4月10日 Yさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

**************************
三原君、何時も乍ら僕の心配をして貰って実に済ま
ぬ。僕は昨日熊本薬学専門学校の入校式を済ませ
ましたから前のお便りの返事を兼ねて御報告します。
僕は君が通ってから後は本当に青くなる程無茶勉強を
したものです。だから松高は自信満々たる物があったんだ。
然るに天命は遂に僕をして薬専に入らしめたのだ。今は一刻も
早く学校に入り勉強した方がお国の爲になると思って遂
に入校した訳だ。然し入校の上は君に負けぬ様頑張
るぞ!!君は陸の勇者に、小生は化学報国だ。君がそれ
を使用する時が来る日が待ち遠しい。又、医大に行って
君が勇戦奮闘した体を僕が診てやるのかも分からない。然れ
ども、目的は奉公滅私只一つ!!    では又。
**************************

これまで何人か三次中学同級生の手紙・葉書を投稿したが、実際に上級学校への合格・進学が決まった方からのものは初めてだと思う。

熊本薬学専門学校と云えば現在の熊本大学薬学部の前身であり十分に難関であると思うが、目指した松高(旧制松江高校と思われる)は残念ながら突破ならず、悔しさが滲んでいる。

小生などの戦後世代には解らないが、当時の旧制高校とはそれほどまでに憧れの存在であったらしい。

余談であるが、小生が中学~高校生の頃通っていた私塾の先生は、旧制一高~東大という超エリートコースを通った人であったが、常々
「東大なんて大した大学じゃないが、一高は秀才の集まりだった」
と口癖の様に仰っていて、しょっちゅう[嗚呼玉杯(一高寮歌)]をカセットテープで聞かされたものである(笑)。
因みにその先生は公職追放で職を追われ、地元で世捨て人となって私塾を経営されていた。
本来、小生の様な勉強嫌いが入れるようなレベルの塾ではなかったのであるが、小生の出来の悪さを看過できなくなった母(芳子)が祖父(芳一)の伝手を頼って見付けてきた塾であった。
レベルが高すぎてついて行けなくなり高校2年の時にドロップアウトしてしまったが、今ではいい思い出である。

 

昭和19年4月11日 三次中学同級生 MOさんからの葉書

 

今回は以前にも投稿したことのある三次中学同級生MOさんからの葉書。

以前の投稿の際に「小生と同じくあまり達筆でないのでちょっと安心した」と大変失礼なことを書いてしまったが、今回の葉書では御本人自ら「小生至って字がへたで、困まる御免」と書いておられ、またまた「ちょっと安心した」次第である。

昭和19年4月11日 MOさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***************************
拝啓
お手紙有難う。君も今頃は大分慣れて来たように手紙によく表
われているから、さぞかし変った事だろう。小生至って元気でおるから
安心してくれ。さて、この間からの各學校の合格者をすこし言ってみようか?
ぺス君、縣師にはいったよ。ちいとこっけい。あっははは…。
山縣、熊本薬専、三宅、桑田、土屋、縣師。広澤、岡山医専。作田、大邱髙
農らへ…。太郎君、東京無線○○へ。五年、大善、広髙工夜。土井、松江高。
立川、三高農。おう、八木が広髙工、高船の両方へ通ってタカブネに行った。
又、五年生は大竹の海兵団へ五日→九日、二十名。十三日→十六日、三十名。この分
へ小生行くことになった。行ってきたものの話では、ものすごいげなあと
へほうたよ。まあ、このくらいだ。小生至って字がへたで、困まる御免。
これは手の先が筆のようになっておれば非常に上手なそうな話だが君
も知っておるようにだ。へへへ…。  さようなら
***************************

「高船(タカブネ)」が何なのか今一つ解らなかったのでググってみた。
正式には「高等商船学校」のことで「船舶運用等海事分野を専攻とする官立(国立)の実業高等教育機関」とあった。

全国で東京、神戸、清水の3校があり、学費が無償であったこと、募集人員が少なかったこと、卒業後は花形職業に就けることなどから元々難関校であったが、戦時下にあっては、徴兵が猶予され卒業後は予備士官に任官されるなどの制度から、超難関校として知られていたらしい。

しかし、これらの優遇がある反面、入校即日海軍予備生徒として兵籍に入り、有事の際は召集され軍務に服する義務があった。
つまり、当時の状況であれば三郎たちと同じく、軍関連の学校に入ったと云うことである。

ただ修学期間は5年6カ月と長く「高船」は戦後も存続していることから、この時に入学された同級生”八木さん”は在学中に終戦を迎えられた筈であり、一旦は死をも覚悟して決めた進路を覆すような状況の中で、その学生生活は波乱に満ちたものだったのではないかと想像する。

「終戦」という事実は戦争遂行を覚悟して軍関係の学校へ進学した若者達にとって、それまでの血と汗の努力を「無」に帰してしまっただけでなく、その将来設計をも大きく変えてしまうとてつもない衝撃であり、それを克服するための労苦は大変なものであったと思う。

戦争を知らない我々は、当時、終戦によって虚無感や敗北感を味わい挫折や自暴自棄に陥りながらも戦後復興の中心となって頑張って下さった人々に心より感謝しなければならない。

 

昭和19年4月15日 三次中学同級生Kさんからの葉書

 

進学・進級結果発表もひと段落し、
各々の当面の進む道が判明した三中同級生からの便りが続く。

今回は陸軍予科士官学校の試験を目前に控えたKさんからの葉書。

 

昭和19年4月15日 三次中学同級生Kさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 永らく御無沙汰致してすまない。
其後相変らず元気の事と思う。
僕も相変らず作業に元気よくやって居る。
陸士・海兵の入試も近づくし作業はあ
るし、実に忙しく又苦しい。でも、国家の勝
利の爲にと皆全身全霊を打ち込んで
努力している。君も安心して軍務に勉
励してくれ。又今年は四年五年で陸士
志願者が九十数名居る。君の後にどしどし行くぞ。
さよなら
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短いが苦悩と疲労が感じられる文章である。

中学を卒業し上級学校へ進学した同級生に差を付けられ、早く追いつきたい一心で勉強しようにも日々勤労奉仕の肉体労働で疲れ果ててしまう。
しかし、試験の日は否応なしに迫って来る。

「受験なんてそんなもの。厳しいものだ。」と仰る向きもあろうが、戦時下の異常な重圧の下でのストレスは相当なものであったと思う。

「陸士は5月、海兵は7月」と以前投稿した何方かの便りに軍関係学校試験の時期が記されていたが、戦争の影響で前年よりも実施時期が前倒しされたこともあり、焦る気持ちも強かった筈である。

「国家の勝利の爲にと皆全身全霊を打ち込んで…」と表向きは強がっている様に見えるが、間違いなく戦場へ向かうことになる将来を自ら望んではいなかったのではないか…

しかし、”大量に消費される士官”を早急に育成しなければならない国家事情のため、募集枠の拡がったこの年の”士官養成学校”への志願者は大幅に増えていたのである…

 

昭和19年4月18日 三中同級生Yさんからの葉書 三郎の受験指南?

 

ここの所、三次中学同級生からの便りが続いているが、五年生への進級組は軍関係学校の受験が近づいているにも拘らず、戦争による労働不足を補うための「学徒勤労奉仕」に動員され勉強が捗らず、皆疲れ焦っている様子である。

今回もそんな同級生Yさんからの葉書。

 

昭和19年4月18日 三中同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝復 お便り、御指導有難う。永らく失禮
して居た。悪からず。君も元気とのこと安心した。
俺も元気旺盛にて日夜来るべき決戦に備
えて居る。しかし今頃は作業々々で準備は
なかなかはかどらない。だが気分だけは確かだ!!
将に今年こそ決勝の年だ。
陸豫士受験者は多数ある。五年生に三十と若干
名、四年生も五年と大差なし。有望だろう。
これこそ三中魂の発露だ。(御指導を乞う)
末筆乍ら今日はこれにて失禮する。何卒身体に
十分注意して、君の本分に邁進せられんことを、
巴狭(峡?)の地より祈る。
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冒頭に「御指導有難う」とある。
受験に於いて勉学はもちろん重要であるが、事前準備や心構え或いは受験当日の雰囲気なども疎かにできない要素で少しでも知っておきたい情報であり、三郎は一足先に入学できた者として、これらの情報を同級生達へアドバイスしていたと思われる。

振武台での厳しい授業や訓練で疲れていながらも同級生達との手紙のやり取りを続けていた背景には、単なる友達意識の為だけでなくこう云った重要な情報交換の必要があったからだと思われる。
Yさん含め陸軍予科士官学校を受験する同級生や後輩達に是非合格して欲しいと云う思いが強かったのであろう。