昭和19年4月11日 三次中学同級生 MOさんからの葉書

 

今回は以前にも投稿したことのある三次中学同級生MOさんからの葉書。

以前の投稿の際に「小生と同じくあまり達筆でないのでちょっと安心した」と大変失礼なことを書いてしまったが、今回の葉書では御本人自ら「小生至って字がへたで、困まる御免」と書いておられ、またまた「ちょっと安心した」次第である。

昭和19年4月11日 MOさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓
お手紙有難う。君も今頃は大分慣れて来たように手紙によく表
われているから、さぞかし変った事だろう。小生至って元気でおるから
安心してくれ。さて、この間からの各學校の合格者をすこし言ってみようか?
ぺス君、縣師にはいったよ。ちいとこっけい。あっははは…。
山縣、熊本薬専、三宅、桑田、土屋、縣師。広澤、岡山医専。作田、大邱髙
農らへ…。太郎君、東京無線○○へ。五年、大善、広髙工夜。土井、松江高。
立川、三高農。おう、八木が広髙工、高船の両方へ通ってタカブネに行った。
又、五年生は大竹の海兵団へ五日→九日、二十名。十三日→十六日、三十名。この分
へ小生行くことになった。行ってきたものの話では、ものすごいげなあと
へほうたよ。まあ、このくらいだ。小生至って字がへたで、困まる御免。
これは手の先が筆のようになっておれば非常に上手なそうな話だが君
も知っておるようにだ。へへへ…。  さようなら
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「高船(タカブネ)」が何なのか今一つ解らなかったのでググってみた。
正式には「高等商船学校」のことで「船舶運用等海事分野を専攻とする官立(国立)の実業高等教育機関」とあった。

全国で東京、神戸、清水の3校があり、学費が無償であったこと、募集人員が少なかったこと、卒業後は花形職業に就けることなどから元々難関校であったが、戦時下にあっては、徴兵が猶予され卒業後は予備士官に任官されるなどの制度から、超難関校として知られていたらしい。

しかし、これらの優遇がある反面、入校即日海軍予備生徒として兵籍に入り、有事の際は召集され軍務に服する義務があった。
つまり、当時の状況であれば三郎たちと同じく、軍関連の学校に入ったと云うことである。

ただ修学期間は5年6カ月と長く「高船」は戦後も存続していることから、この時に入学された同級生”八木さん”は在学中に終戦を迎えられた筈であり、一旦は死をも覚悟して決めた進路を覆すような状況の中で、その学生生活は波乱に満ちたものだったのではないかと想像する。

「終戦」という事実は戦争遂行を覚悟して軍関係の学校へ進学した若者達にとって、それまでの血と汗の努力を「無」に帰してしまっただけでなく、その将来設計をも大きく変えてしまうとてつもない衝撃であり、それを克服するための労苦は大変なものであったと思う。

戦争を知らない我々は、当時、終戦によって虚無感や敗北感を味わい挫折や自暴自棄に陥りながらも戦後復興の中心となって頑張って下さった人々に心より感謝しなければならない。

 

昭和19年4月15日 三次中学同級生Kさんからの葉書

 

進学・進級結果発表もひと段落し、
各々の当面の進む道が判明した三中同級生からの便りが続く。

今回は陸軍予科士官学校の試験を目前に控えたKさんからの葉書。

 

昭和19年4月15日 三次中学同級生Kさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 永らく御無沙汰致してすまない。
其後相変らず元気の事と思う。
僕も相変らず作業に元気よくやって居る。
陸士・海兵の入試も近づくし作業はあ
るし、実に忙しく又苦しい。でも、国家の勝
利の爲にと皆全身全霊を打ち込んで
努力している。君も安心して軍務に勉
励してくれ。又今年は四年五年で陸士
志願者が九十数名居る。君の後にどしどし行くぞ。
さよなら
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短いが苦悩と疲労が感じられる文章である。

中学を卒業し上級学校へ進学した同級生に差を付けられ、早く追いつきたい一心で勉強しようにも日々勤労奉仕の肉体労働で疲れ果ててしまう。
しかし、試験の日は否応なしに迫って来る。

「受験なんてそんなもの。厳しいものだ。」と仰る向きもあろうが、戦時下の異常な重圧の下でのストレスは相当なものであったと思う。

「陸士は5月、海兵は7月」と以前投稿した何方かの便りに軍関係学校試験の時期が記されていたが、戦争の影響で前年よりも実施時期が前倒しされたこともあり、焦る気持ちも強かった筈である。

「国家の勝利の爲にと皆全身全霊を打ち込んで…」と表向きは強がっている様に見えるが、間違いなく戦場へ向かうことになる将来を自ら望んではいなかったのではないか…

しかし、”大量に消費される士官”を早急に育成しなければならない国家事情のため、募集枠の拡がったこの年の”士官養成学校”への志願者は大幅に増えていたのである…

 

昭和19年4月17日 康男から三郎への葉書 かなり乱筆…

 

今回は長男康男から三郎への葉書

母千代子からの言伝で三郎宛の荷物を手配した旨が記されているのだが、達筆な筈の康男にしては結構な乱筆であるところが気に掛かる…

 

昭和19年4月17日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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御葉書有難う。其後元気にて
精進している由、安心した。兄さんも
元気で頑張っている。そちらもそろそろ
櫻の見頃と思う。広島も満開というところ
だ。故郷は月末位に妍を競う事
だろう。所望の品々、母上より通知があ
ったので、家の方へ送っておいたから、何れ
入手する事と思う。無暗に手に入らぬ故、
心して使用する事。では体に気をつけて
頑張れ。
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5行目の「妍を競う」は、葉書には「女ヘンに研」と書かれているが、どうもこれに該当する漢字が見当たらないので恐らく「妍(うつくしい)」の間違いだと思われる。

内容としては大したことを書いている訳ではく心配する部分などないのだが、どうも「乱筆」が気に掛かる。

この昭和19年4月当時は、南方や大陸各戦線で防戦一方となった戦地への兵站が急務となっており、康男たちの部隊の出兵も間近になったことは間違いないであろうし、当然その状況も部隊内部では周知されていた筈と思われる。

また、上官や先輩将校の戦死の報せなどの噂も耳にしたかも知れず、”何時出兵命令が出されるのか”と云う緊張を強いられる中で日々厳しい訓練があり、体力的にも精神的にもかなり極限に近い状況にあったに違いない。
そんな諸々が「乱筆」となって表れてしまったのではないかと思う。

因みに、この当時康男は広島市千田町という所に下宿していたのだが、近くには京橋川に架かる御幸橋がある。
この「御幸橋」は原爆直後の惨状を撮影した数少ない写真の現場となった場所であり、原爆資料館に展示されたり教科書に掲載されたりしているその写真は知っている方も多いと思う。

被爆直後の御幸橋

康男が広島を離れてから一年後に原爆は投下された。

 

昭和19年4月20日 三原修さん(親戚?)からの葉書

 

今回は三次中学の後輩の三原修さんから三郎への葉書。多分母(千代子)方のいとこにあたる人だと思うが親戚関係に疎い小生の想像なので定かではない。

 

昭和19年4月20日 三原修さんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 櫻花萌え出づる新學期を迎えて僕は
元気一杯勝利の栄冠を期して勉強して居るよ。三郎
さんも元気だと確信して居る。来年度は僕は陸士と海
兵を突破しようと思って勉励して居るよ。僕の新學期
の主任は七教で成島(ヌス)先生だよ。思ったより親切で今
の所気に入って居るよ。三中からは今度五年山本(作木)
外五名の特別幹部候補生が出陣した。今日は剣道
部でチャンバラをしたよ。
父は今度、塩町の雙三中央青年學校々長として行った
よ。今度僕等は通年動員として工場に行き増産に
まい進する事になる話です。こちらは皆元気で異常なし。
                       終り。
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聞きなれない言葉で「特別幹部候補生」があったのでググってみた。
「特別幹部候補生」とは戦争の拡大により更なる補充が必要となった下士官を従来より短い期間で育成補充するために、前年(昭和18年)12月14日に勅令として制定され、翌15日に最初の召募が実施された。
葉書に書かれている
「三中からは今度五年山本(作木)外五名の特別幹部候補生が出陣した」
はその最初の採用者で、各地の実施学校へ入校(出陣)したものと思われる。

「来年度は僕は陸士と海兵を突破しようと思って勉励して居るよ」とあるので、新三年生であろう。
しかし平時であればいざ知らず、決して楽観視できない(どころかどう考えても悲観的にならざるを得ない)戦時下に於て、まだ14~15歳の「チャンバラ」を楽しむような少年が自ら進んで軍関係の学校を志願すると云う状況はやはり痛々しく感じる。

「お国のために」や「大切な人を護るために」と云う言葉に嘘が無いのは百も承知だが、本来であればもっともっと沢山のやりたいことがあって当たり前のはず…

「戦争さえなければ…」が本人や家族の本音だったのも間違いないだろう…

 

昭和19年4月22日 熊本薬科入学の同級生Yさんからの葉書

 

先日、熊本薬学専門学校への入学が決まった旨の連絡があったYさんからの葉書。

目指した旧制松江高校への夢が叶わず少なからず落胆していたが、その後の三郎からの便りなど友人達から慰められたようで気を持ち直している様子が伺える。

昭和19年4月22日 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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有難う。君があゝ言って呉れ(た)のが一番嬉しい。僕は是が非
でもしっかりとやる積りだから、御安心を願う。本當に僕の事
に気を遣って呉れて。君の課業に支障を来たしたかも知れぬが
此處にお詫をする次第だ。君は仕務に追われているだろう。
然し、僕も多忙で暇を見付けぬ限は、ろくに手紙を書く時もな
い。それ程時勢は逼迫している。講義も今年の中に一年生の
授業は了えて、更に三学期からは二年生の講義を始めるのだ
そうだ。夏休暇も廃止だしね。何も今は平時とは異なっている。否、
皇土の一端が醜敵米英に汚されているのだ。日本の興亡時だ。
僕は君の事を胸に置いて励んでいる。君は必ずとも、頑張って呉れ
なければならない…。こちらは正に初夏の候。花は散り、新緑萌
えだして心機一轉の時。実習々々と日を暮れさす。そちらには
お変りなきや?女恋しき事あらば僕を恋人と思え。奮闘を祈る。
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三郎がどんな言葉をかけたのか不明だが、Yさんとしては有難かったようで甚く感謝されている。
そんなやり取りから、三次中学在学中も仲良しだったと想像できるが、
「女恋しき事あらば僕を恋人と思え」
はちょっと気持ち悪い。(笑)

戦況が悪化の一途を辿るなか、学生達を一刻も早く一人前の戦力とするために講義や実習は全て前倒しされ、夏休みはおろか土日すらまともに休めなかったのではないかと想像するが、皆黙々と頑張っていた…いや、頑張るしかなかったのである。

差出しの住所を見ると「熊本市大江町九品寺」とある。
ネットで確認したところ現在の熊本大学医学部・薬学部のすぐ傍である。

因みに三郎は終戦後、熊本医科大学に入学している。
なぜ熊本だったのか小生が知る由もなかったのだが、この仲良し状況からすると”Yさん”の存在が三郎を熊本に向かわせた大きな理由だったのかも知れない…

 

昭和19年4月30日 三郎から父芳一への手紙 天長節大観兵式での大感激を報告

今回は三郎が父芳一に宛てた手紙の投稿。

昭和19年4月29日天長節に行われた大観兵式に召集された際の大感激を興奮冷めやらぬ様子で父へドヤ顔(?)で報告している。

現代でも天皇陛下を至近距離で”拝顔”できる機会はかなり稀だが、当時の国家体制から考えれば”ドヤ顔”どころか一生の自慢話であり、青年三郎の興奮度は相当なものであったであろう。

昭和19年4月30日 三郎から父芳一への手紙

解読結果は以下の通り。

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本丗日外出シテ確カニ小包受取リマシタ。開クノモモドカシク
嬉シクテ故郷ノ香ガ致シマス。色々ト心配ヲオ掛ケ致シテ済ミマセン。
昨廿九日天長節ニハ大観兵式ニ陪観シ実ニ二十米モ離レナイ
所ニ大元帥陛下ヲ仰ギ、恐懼感激所措ク知ラズト云フ所デス。
神々シキ御姿ヲ生マレテ始メテ仰イダノデスカラ當然デス。
陛下ノ御後ニ、三笠宮、高松宮殿下ヲモ拝顔致シマシタ。
東條サンモ勿論、私ノ中隊ノ次ノ中隊ニ東條サンノ息子サンガ
二年生ニ居ラレマス。非常ニ良ク似テ居ラレマス。眼鏡モツルガ上
ノ方ニツイタ円形デナイノヲカケテオラレマス。背丈ハ小サイ方デス。
毎日見マス。ソレカラ、私ノ學校内デ寫シタ寫真ガ出来マシタ
カラ、オ送リ致シマス。コレハ夏休暇ノ時ノ服装デス。余リ寫真
屋ガ上手デハアリマセン。東京都内ニ外出シテ寫シタノガ五月上旬
ニ出来上ル予定デスカラ、コノ寫眞ヲ分配スルノハ考ヘテ行ッテ下サイ。
東京ノ写真屋デ撮ッタノハ半身デ、ヤハリ十枚アリマスカラ。コノ寫
眞ヲ森保ガ二枚位貰ヒニ来ルカモシレマセンカラ、来タラ渡シテ
下サイ。
兄サンノ躰ノ具合ハ如何デスカ。芳子ハ元気デスカ。
オ母サンモ無理ヲセラレヌ様オ願ヒ致シマス
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既にお気付きのこととは思うが、今回の手紙は「漢字とカタカナ」で書かれている。
戦後世代の人間にとって”カタカナ”は外来語を表すイメージが強いが、戦前教育では”ひらがな”より先に”カタカナ”を教えており、公文書なども同様に「カタカナ混じり文」であったことなどから当時の人々は”ひらがな”よりも”カタカナ”の方に馴染みがあった。
ただ普段は「ひらがな混じり文」であったのに何故この手紙を「カタカナ混じり文」で書いたのかは不明である。
飽くまで想像であるが、大元帥(天皇)陛下はじめ皇室の方々の様子を記す関係で公式文書並みに格式のあるものにしたかったのかも知れない。

大元帥陛下、三笠宮、高松宮殿下に続き、東條首相のことに触れているが、皇室の方々に比べ「東條サン」と呼んでいるところが興味深い。
三郎が、当時陸軍大臣、参謀総長も兼務していた東條首相を小ばかにしているとは考えづらく、どう云った状況なのか考えてみた。
小生は子供の頃母(芳子)が「東條さんはいいおひと~♫」と唄っていたのを記憶しており、当時そんな流行り歌があったのであれば「東條サン」と云う呼称も尊称に近いものだったのかも知れない。はたまたそのご子息が陸軍予科士官学校の一学年上の中隊にいることで親近感があったのかもしれないが…

この時の天長節大観兵式の様子がYouTubeにあったのでURLを添付しておく。
この画像のどこかに三郎が写っているかも知れない…
https://www.youtube.com/watch?v=bAuGgqsepzk&list=PLfCTKikq6ntkik5vS02YTA_T30i5E7yJ3&index=9&t=12s

ある程度年配の方々には釈迦に説法となってしまうが、一部ご存知ない方のために説明させて頂く。
「天長節」とは、明治元年から昭和23年までは天皇の誕生日で当時は4月29日であった。終戦後昭和24年から「天皇誕生日」に変更され、昭和天皇崩御直後に「天皇誕生日」ではなくなったがゴールデンウィーク期間の休日であったことなどから「みどりの日」として祝日のまま存続。平成19年に「昭和の日」と名称変更され現在に至る。
ただ、小生などの昭和に生まれ育った世代には「4月29日=天皇誕生日」が染みついてしまっている…

写真を同封していた様だが、確実ではないが以前投稿した下の写真ではないかと思う。

昭和十九年四月九日 三郎十八歳 陸軍予科士官学校にて

 

昭和19年5月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙 親友へ、そして自身へのエール…

 

 

今回はこれまで何度か投稿してきた三次中学の親友Mさんからの手紙。

残すところ二十日余りとなった陸軍予科士官学校も試験に備え猛勉強中のMさんからの、三郎への、そしてMさん自身への檄たる手紙である。

昭和19年5月5日 三次中学の親友Mさんからの手紙①
昭和19年5月5日 三次中学の親友Mさんからの手紙②

解読結果は以下の通り。

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拝啓 三原三郎君。青葉の五月となり心身の
ひきしまるのを感ずる様になった。今日、五月節句
であるけれも、時節柄鯉昇りは見られず、それ
に代って飛行機が「此処にも日本男児あり」と
叫んで居る。貴様相変らず振武台を
馳せていると思う。俺も相変らず元気だ。三中も
今頃は大改革が断行され、皆張切って、日夜大目
的に邁進している。今貴様三中に帰って見たら
恐らく吃驚するだろう。貴様と別れてから
早数ヶ月を経過した。軍隊生活にも馴れた事だ
ろう。近頃貴様はどんな事を學んでいるのか?
貴様必ず他人に負ける事なく、天下第一等の人
となり、三中の名声を天下に鳴らし給え。
俺の目指す大目的も目焦に迫った。余す所二十日
ばかり。必ず入るから安心して呉れ。一日も早
く軍服が着度いよ。貴様の軍服姿が見度い。
写真が出来たら一枚御願いする。
今日、柔道主任の木原先生の後任として、信永
先生を迎えた。照国みたいなデブだ。
尾関山の桜も散った。辺りは実に美しい。山が!!
高谷山も、寺戸山も、比熊山も緑だ。
つい忘れかけていた。――砂田義憲君は九州帝
大付属工高に入学した、がその後任副級長として
熱血男児、佐藤博君が撰ばれた。栗本も元
気で陸士・海兵の試験の爲に頑張っている。森保
も相変らず元気!!
吉か不吉か知らんが、三中の十二教の教室
の前の廊下に燕が巣をかけたよ。
「三原君!!」――ではない「三原!!」「三原!!」と永い間
親しくして来たが、君と別れて淋しいよ。然し
君が陸士を卒業し、俺が陸士か海兵を卒業して
共に立派な軍人になって、共に戦場で語る事を
思えば実に楽しいよ。
六月にもなれば吾々は通年動員として、四月が
六月が知らんが、軍需工場でペンを置いて働く事
となるだろう。然し喜んで働くよ。
気候の変り目、健康に充分注意あれ。
断片的にだらだら書いた。御免。
五月五日       ■■■■
陸士生徒
三原三郎 殿
「俺だ貴様だ」と大物を云ったがゆるしてくれ。
軍人志望の僕だから。
***********************

五月五日(端午の節句)は男子の健康を祈願する日であるが、さすがに戦時下に於いては「鯉昇り」は自粛していた様子である。
それでも「青葉の五月となり心身のひきしまるのを感ずる様になった」と端午の節句に相応しい心境を語っている。
現代の世の中では「ゴールデンウィーク」として休暇を謳歌しながらも、片や「五月病」などと心身や体調の悪化を訴える季節と変わってしまっているが、当時の人々から鼻で笑われそうな有様である。

「鯉昇りに代って飛行機が…」とある。
実際に飛行機が飛んでいたのかも知れないが、広島の山間部の三次上空を当時日本軍機がどれだけ飛んでいたのか疑問であり、ちょっとググってみたところ以下サイトに戦時下の端午の節句のレシピとして「飛行機メンチボール」なるものがあったことを発見した。

https://kazu4000.muragon.com/entry/347.html

ひょっとすると、この「飛行機」をさしていたのかも(?)知れない。

さて、目前に迫った陸軍予科士官学校受験を控え焦りや不安はあるに違いないが、自信がある様子で軍人として三郎と再会することを楽しみだと語っている。

何度も言うが、当時軍人になると云うことは「かなりの確率で命を落とす」選択であった。
現代の我々が「ゴールデンウィーク明けに五月病になれる」のも命を懸けて戦って下さった先人のお蔭であることを肝に銘じたいものである…

余談だが、今回投稿した手紙の封筒は再利用されたもので裏返してみると元々は「南満州鐵道株式會社」の印刷のある社用のもので、Mさんのお父様がお母様宛に出されたものと思われる。
珍しい封筒だったのでご参考までに…

Mさん封筒の裏側に「南満州鐵道株式會社」

昭和19年5月21日 妹芳子からの手紙 「大東亜戦争の決戦下で…」

 

都合4回目の妹芳子の便りである。

これまで通り大した内容ではないのだが、「大東亜戦争の決戦下で」と云うフレーズには少々驚いた。
凡そ12歳の女の子が遣うような言葉でななく、小生の記憶の中の「母芳子」のイメージではなかったから…

昭和19年5月21日 芳子からの手紙①
昭和19年5月21日 芳子からの手紙②

解読結果は以下の通り。

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兄様、長い間御無沙汰致しました。
ますますご健康でお務めの事と思
います。私も毎日元気よく
通學しております。
三次もだんだん夏らしくなり
四方の山の色緑濃く、太田川の
水も美しくなりました。
大東亜戦争の決戦下で尾関
山の下のぼたん畠も黒田製
材所の所の新道路も増産
の爲、皆畠となって
やさいが靑々とで
来ております。
それから久留島さん
が尾道の方へ転居
されて、その後へ君田の太
田校長先生が十日市の青年學
校長としてこられて家がないの
でお父さんが心配して上げてこら
れる事になりました。
尾関山のかいこんに女學校からも
国民學校からも出動して畠としました。
中學生も出動しています。
敬兄さんも元気です。熱も上がらず、顔色
も良く御飯も大分たべられますし、だ
んだん快方へ向かわれておられます。
これも皆お母さんお父さんのおかげで
す。いつも兄さんと歌を一しょに
歌った事を思い出し、今頃は一人でさび
しくうたっています。お母さんも時々
一しょに歌われます。それから、私が
毎晩兄ちゃんのきらいであった床をし
くので、お母さんが猫よりはまし
だと言って笑われます。お父さんも
お母さんも元気ですから安心し
てお務めにはげんで下さい。
家の事は心配なく。
さようなら
三郎兄様  夏休みを待つ   ヨシコ
*********************

母芳子は小生が知っている限り、どちらかと云えば大人しい性格で過激な発言などとは無縁であった。
加えて当ブログ開始以降「多分に天然」であったことも判明しつつあり、小生の性格も母親からの遺伝だったことが明確になって来た昨今である。

今回投稿の手紙にしても「何か読みづらいなぁ?」と思ったら、ご丁寧に便箋にあしらわれている花模様を避けて書いている。
この「気が利きすぎて間が抜けている」的な思考回路もしっかり引継いでしまったらしい…

そんな芳子が「大東亜戦争の決戦下」などと云う”過激な”言葉を遣っていたのには少々驚いた。
おそらく当時は新聞やラジオなどで頻繁に喧伝されていたフレーズであり、特に過激ではなく「普通の」言葉だったのであろうと思うが…

その「大東亜戦争」と云う呼称だが、小生以降の世代にはあまり馴染みのないものであり専ら「太平洋戦争」と云う呼称の方が主流であったと思う。

「大東亜戦争」とは、開戦直後の昭和16年12月12日の閣議に於て決定された呼称である。
なぜ戦後「太平洋戦争」と云う呼称が主流になったのかに関しては様々な理由や考え方があると思うが、「大東亜戦争」と云う呼称はアジアの安定を謳った「大東亜共栄圏構想」を想起させ「日本がアジア諸国の独立運動の原動力となった」と云う事実が明確になってしまうため、これを隠蔽すべく連合国側が敢て「太平洋戦争」と云う呼称を主流にさせたのではないかと小生は考えている。

芳子の歌好きは以前の投稿でも書いたが、三郎も一緒に歌っていたのは初耳である。
小生にとっては「かなり怖い伯父さん」だったのだが…

「夏休みを待つ ヨシコ」とある。
8月生まれの芳子にとって誕生日もあり兄も帰省してくる夏休みはとても待ち遠しかったのであろう。

追伸
あの世の母上へ
×建康 → 〇健康
です。
愚息より