昭和19年3月24日 父(芳一)から三郎への手紙

今回は芳一から三郎に宛てた手紙。

入隊後1ヶ月が経過し、その間の家族や親戚の様子、軍刀の事等々色々と伝えている。

葉書だと強烈に読みにくい芳一の字であるが、今回は手紙と云うこともあり字が大きかったので割と読み易かったが、2~3苦労した部分があった。

昭和19年3月24日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年3月24日 芳一から三郎への手紙②
昭和19年3月24日 芳一から三郎への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■、▲▲ は芳一の知己で東京在住の方。三郎の上京でお世話になっている。

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去る三月九日頃に小包でマスク、仁丹、メンソレータム、ガーゼ等を小
包で送ったが入手したか。お母さんも手紙を出した筈だが手に入ったか。
中隊長、区隊長、河村軍曹殿へも三月十日にそれぞれ手紙を出して
置いた。今日丁度一ヶ月になる。二月二十四日に胸躍らして大泉学園駅
より徒歩で行った事を思い、丁度今日だと家でも話している。
二月二十七日はお前の入校決定日であったが、三月二十七日は芳子の
入学決定日だ。昨二十三日、二十四日、明二十五日と三日間、中等学校の
入学考査日で、芳子も朝六時半頃イソイソと出て行く。
百五十人採用に二百五十四名志望者あり。百名餘り除外される。
中学校は二百六十八名とかある由。三芝の正君の親類の太田校長
先生の長男(修二君)が中学校を受けるので二十二日の晩からその
お母さんと二人来て泊って、毎朝六時半から行っている。君田校で
一番だそうだから大丈夫入学するだろう。
芳子は如何なるやらわからん。二十七日が又待たれる事だ。
お母さんの病気も全快して毎朝早くから昔と変らず元気を
出して居るから安心せよ。
三月二十一日の春季皇霊祭には雨降りであったが、お父さんは板木の
玉井の小母さんが病気と云うのでお見舞なり、お墓参りに行った。
池田や玉井や長山を訪れて夕方帰った。玉井のオバさんは三月初
めから病気で休んで居られた。玉井にも昨年以来不運な事だ。
康男兄さんも十八日の晩に帰省してお前にハガキを出した筈。
敬さんも無事で居る。御向さんも二十二日に〇〇へ入隊したそう
な。三次はまだ寒むい。今朝も少し雹が降った。振武台は如何か
日本刀の立派なのを一腰求めてやり度いと思って、■■さんの昵懇
な河田力と云う老人に頼んだ處、日本刀鍛錬会の優秀作品
を陸士から注文されたら一丈夫置つる、との事故、前田区隊長
に御願して一振り手に入れて置きた度いと思って居る。陸海軍関係の
学校からの注文なら一振百四、五十円だそうな。が、一般人が申込めば
五、六百円するそうな。〇〇の方面からでも四百円位かかるそうな。
士官学校から注文した方が一番優利で確実に手に入るそうな。
お前のを一振り早目に求めて置き度いものだ。
陸軍記念日の前日には東京方面見学だったそうな。
もう大分校内の模様も判ったろう。大いに頑張って横山さんの
二代目となれよ。父母もそれのみ祈って居る。
大膳や藤井、三宅、山縣、板木の長山、二人の兄さん達へ時々
ハガキを出せよ。
日用品で入用のものはないか。入用品あらば様子せよ。送ってやる。
■■さん、▲▲さんから便りがあるか。
風を引かぬ様注意。殊に食物に留意して無事で勉強せよ。
お母さんや芳子よりもよろしく申出た。
三月二十四日夜
                           父より
  三郎様
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2枚目7行の「御向さん」は合っているか怪しいが、固有名詞だとちょっと解らない。
その後の「〇〇」も多分連隊か部隊の名称だと思うのだが、こちらも解らない。
もう一つ、同じく最後から2枚目の「〇〇の方面からでも」も解らなかった。

小包で生活雑貨を送っているが、現代の様に近くにコンビニがあるわけでもなく、家庭常備薬程度のものは生徒自身で調達しなければならなかったようである。家族や親戚の現況を報告しているが、やはり気がかりなのは妹(芳子:小生の母)の女学校入学試験のことである。
この手紙を認めている日の前後3日間が試験日で、父母共に気が気でない様子である。
芳一も「芳子は如何なるやらわからん」と書いている通り、芳子はどちらかと云うと「おっとり系」であったので心配したに違いない。

母(千代子)は「全快した」と書いてあるが、以前ご紹介した通り、本人の手紙ではまだまだ全快とは言い難い状況であった。

無事とはいえ、長男(敬)も訓練が終れば何時戦地へ送られるや分からぬ状況であり、次男(敬)も体調に不安がある。日本全体が暗雲立ち込めるなか、不安に満ちた日常であったに違いない。

追伸)
日本刀の購入のことも書いているが、芳一は骨董や刀剣に興味があった様で、戦後は趣味程度に蒐集していたようであるので、次回以降のどこかで刀剣に関してご紹介しようと思う。

 

昭和19年3月30日 康男から三郎への葉書

 

父、母と続いて最後は長男(康男)からの手紙である。

先日の両親に宛てた手紙では、将来にかかわる重大な「お願い」を述べていたが、弟への葉書には勿論そんな気配すら見せてはいない。

 

昭和19年3月30日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 早や春風が武蔵野を渡って
いると思うが、其後どうだ?
二十一日には初めて引っ越をしたそうだね。
嬉しかったろう。写真を撮ったか、早く御前
の制服姿を見たいものだ。もう一か月を
過ぎるから、もう相当板についていると思う
が。芳子も無事女学校に入ったから安心
すべし。どうやら御父上も一安心というところ
だね。俺も相変わらず元気で御奉公している。
敬も増産戦士の一員として頑張っている。近々徴兵
検査だ。とにかく頑張ってくれ。      早々
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本ブログの最初に投稿した葉書の内容にもある様に、康男は13歳の時に親元を離れて広島商業学校での寄宿舎生活を始めており、17歳で初めて親元を離れた三郎を多少冷やかしつつも、その新鮮さを懐かしんでいる様子である。

現代の様にネットやケータイの無い時代であるから(それは小生の若い頃も同じであったが…)やはり写真の需要は大きい。
父も母も兄弟皆「写真は撮ったか?」の大合唱である。
以前の投稿にアップした三郎の制服姿の写真は4月9日に撮影したものなので、この時点では撮れていなかった。
訓練は忙しいが家族の要望にも応えなければならず三郎も大変であったと思う。

芳子の女学校合格の報せの後に、次男(敬)の徴兵検査の事が書かれている。
小生は、敬が軍隊に入ったと云う話は聞いたことが無く、またそれらしき書類なども残っていない様なので恐らく入隊しなかったのだと思う。
但し、今後の手紙にその辺りの事情が出てくるかもしれない。

現代の様に便利な時代ではなかったが、その分家族間の愛情の密度が濃かったように思えるのは小生の気のせいだろうか…。

 

昭和19年4月1日 敬から三郎への葉書

 

前回投稿した長男(康男)の手紙で”最後”と書いたが、次男(敬)も出していた。

以前の様な弟に対する厳しい内容ではなく、むしろ優しい感じの内容である。
気候が良くなり気分が良い旨も書いてあり、体調が良いのであろう。

 

昭和19年4月1日 敬から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

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拝復 元気で勉励して居る由安心した。自分も元気で生産
増強に邁進している。此方も気候が良くなりも窓を一パイ
明けて仕事をしている。気も身も心ものびのびと
活発な運動の出来る時だ。御互いにしっかりやろう。
空襲必須の時局に鑑み御前の処も万全を期して
あると思う。俺の所も準備を万している。
俺も今日昇給した。有難い事と思っている。兄さんも
元気で軍務に精励されている。芳子も無事
女学校に合格。五日に入校の予定だ。
どうぞ上司、同輩に可愛がられる様、言い付を
良く守って、校則の中に生きる生活をせよ。   では又
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前回の康男の葉書の投稿の中で「敬の徴兵検査が間もなくある」様な内容を書いたが、どうやら間違いで、実際は康男の徴兵検査であった様である。
この時康男は”船舶練習部学生”であり、新たに配属を決めるための徴兵検査だったらしい。

敬は、手紙にもある通りこの日(4月1日)昇給しており、仕事に対するモチベーションも一層上ったようである。

空襲について触れているが、実際に本土への空襲が始まったのは2カ月程後の6月16日で北九州が標的となった。
つまりこの時点では本土への空襲は無かったのであるが、太平洋各地での敗退により制空権を失ったことで、空襲が時間の問題であることは周知の事実となっていたのであろう。
広島などの軍都も当然標的となったが、三郎のいた振武台(陸軍予科士官学校)も空襲に備える必要があったはずである。

空襲に関して、小生が子供の頃に母(芳子)から聞いたのは
「空襲警報が鳴ったら電灯を消して外に出て空を見るんよ。そしたらね、たーかい所を豆粒みたいなB-29がいっぱい飛んどるんよ。”あー、ありゃー呉にいったねぇー” 言うてね。三次なんか空襲されん思うとったけぇねぇ。あんまりこわーは無かったね。」
と云った話で、実際に爆撃された経験はなかったようである。

その後、映画やテレビなどで空襲の場面を幾度となく見ることがあったが、その度に母の云った「B-29の編隊」が轟音と共に夜空の彼方を飛んで行く光景を想像しては不気味な恐怖を感じたものである。

 

昭和19年4月3日 三次中学の先輩・陸軍士官学校生徒のYさんからの手紙

 

同級生達から三郎への便りが連日届く中、中学・陸軍予科士官学校の先輩であるYさんからも葉書が届いている。

同郷の後輩に対する激励の様な内容であるが、「将校生徒」とはいえ軍に身を置く立場としての内容となっている。

 

昭和19年4月3日 先輩Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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振武台遥かより春が訪れて、元気一杯練武学修
中の御事と存じます。小生益々元気にて勉強中。
四月下旬御面接の機を得ることが出来ると思う。
元気で真面目に御奮斗を祈る。入校以来ひしひし
感じているだろう皇恩の如何に我等将校生徒
に厚きかを。深き御めぐみに応え奉るべく、この超
重大時局に将校生徒の発足をした君達の
自奮自励を祈る。佐々木、中西が帰ったら
全部で話そう。それまで元気で。 失礼
四月三日
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Yさんは三次中学の先輩でありかつ、陸軍予科士官学校(この時点では既に神奈川県の陸軍士官学校生徒)の先輩でもある方で、父(芳一)からも「Yさんに負けない様頑張れ!」と目標にされるほどの優等生であったらしい。
手紙の文面を見ただけでも軍人としての矜持とも云うべきしっかりとした教育訓練を受けている事が想像できる。

ただ、書面から感じられるような生真面目な秀才タイプの人物だったのであろうか?
上述したようにYさんは当時、神奈川県の陸軍士官学校(相武台)の生徒であり、今回の葉書は「相武台から振武台」への軍関係機関間での郵便物であり、かなり厳しい検閲がされていたものと思われ、あらぬ疑いを懸けられないようにある程度「良い子」を装っていたのではないかと思う。
これら軍関係機関間の郵便物には、家族や友人からのものにはない【検閲済】の印が押されており、送る側も受取る側もそれなりの神経を遣っていた筈である。

「四月下旬に佐々木、中西(このニ方も三郎の先輩?)も含めて話をしよう」とあるが、そこではひょうきんな先輩になったりしたのかもしれない…

 

昭和19年4月3日 三郎から父(芳一)への手紙

 

今回は三郎から父(芳一)への手紙。

入校後1カ月が経過し、漸く学校生活に馴染んだ頃であるが、逆に教科や訓練が本格的に忙しくなって便りを書く暇もない状況の様子。
漸く二回目の外出日に芳一の知人宅に伺い、手紙を認めている。

 

昭和19年4月3日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年4月3日 三郎から芳一への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
 康男や三郎が上京した際にいろいろとお世話になっている。

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大変長らくご無沙汰致しましたが皆様お変りない事と思います。
私も其後元気で学科に術科に励んで居りますから御安心下さい。
芳子合格の通知、父上様母上様の両通共確かに受取りました。
少し便りが遠のいたとの事、何やかやと忙しくなり隙が少しなくなりましたか
ら悪しからず。手紙が無い時は元気な時とお思い下さい。
今日は四月三日。神武天皇祭第二回目の外出です。「この手紙も
便箋も封筒も皆■■様に戴き書いて居ます。■■様方で。」
今日は少しお願いがあります。それは成るべく四月三十日迄に■
■様方へ御送付願い度いのですが、出来得れば、それは、文法教
科書、詩集(父上様が持って居られると同じ様なのを私が持って居ましたから)
それに康男兄さんの古い襟布二、三枚。それから、下痢止め腹薬(アイフ
等)、感冒薬等を少々と、便箋、封筒、切手(七銭少々、一銭三十枚)等、それ
から白の手袋(軍手でない、目の小さい)があれば、一つ二つ。康男兄さんのお古
でよろしい。なければ良いです。写真も五月中旬位迄には出来上り、お送り
致します。夏季休暇も今の所、八月中旬にある予定です。
兵科志望もそれまでにあるかもしれませんが、お考え願います。
それから、■■様方へ何か良い様にお願い致します。これも一緒で
良くあります。外出すればかならず立寄らねばなりませんから。
それに度々御馳走に與りますから。
では、今日はこれで筆を置きます。

芳子へ
先づ、お芽出度う。多分大丈夫とは思いながらも発表まで
は落ち着かず、少々は心配していたが、合格したとの事、安心した。
入校日ももうすぐだろうが、入校したら皇国の女学生として、
勉強に、勤労に邁進して行きなさい。
兄さんが夏休みに帰る時には、立ぱな女学生になって居る事だろう。
写真にでも写ったら送れ。
では元気で明朗に通学せよ。
では又
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今回投稿した手紙は表裏両面に書かれており、通常通りにスキャナーで読込むと裏面の文字が透けて非常に読み辛かったため、黒い用紙を被せてスキャンした関係で全体的に暗い感じになってしまった。
文中に書かれているとおり便箋が少なくなったので節約しているのであろう。

「今日は四月三日。神武天皇祭第二回目の外出」とあるが、この日は初代天皇である神武天皇の崩御日にあたり当時は祭日とされていた。
ネットでググてみたところ、『日本書紀』によると崩御日は3月11日であるが、これをグレゴリオ暦に換算して4月3日としているとのこと。
初代天皇の崩御日が ”3月11日”と云うところに因縁を感じるのは小生だけだろうか…

芳子の女学校合格への祝辞も送っている。
他の家族同様に”一安心”と云うことである。

兎にも角にも久し振りの休日外出に羽を伸ばしている三郎であった。
 

昭和19年4月18日 三中同級生Yさんからの葉書 三郎の受験指南?

 

ここの所、三次中学同級生からの便りが続いているが、五年生への進級組は軍関係学校の受験が近づいているにも拘らず、戦争による労働不足を補うための「学徒勤労奉仕」に動員され勉強が捗らず、皆疲れ焦っている様子である。

今回もそんな同級生Yさんからの葉書。

 

昭和19年4月18日 三中同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝復 お便り、御指導有難う。永らく失禮
して居た。悪からず。君も元気とのこと安心した。
俺も元気旺盛にて日夜来るべき決戦に備
えて居る。しかし今頃は作業々々で準備は
なかなかはかどらない。だが気分だけは確かだ!!
将に今年こそ決勝の年だ。
陸豫士受験者は多数ある。五年生に三十と若干
名、四年生も五年と大差なし。有望だろう。
これこそ三中魂の発露だ。(御指導を乞う)
末筆乍ら今日はこれにて失禮する。何卒身体に
十分注意して、君の本分に邁進せられんことを、
巴狭(峡?)の地より祈る。
***********************

冒頭に「御指導有難う」とある。
受験に於いて勉学はもちろん重要であるが、事前準備や心構え或いは受験当日の雰囲気なども疎かにできない要素で少しでも知っておきたい情報であり、三郎は一足先に入学できた者として、これらの情報を同級生達へアドバイスしていたと思われる。

振武台での厳しい授業や訓練で疲れていながらも同級生達との手紙のやり取りを続けていた背景には、単なる友達意識の為だけでなくこう云った重要な情報交換の必要があったからだと思われる。
Yさん含め陸軍予科士官学校を受験する同級生や後輩達に是非合格して欲しいと云う思いが強かったのであろう。

 

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙 まだ6月なのに待ち遠しい夏休み、故郷、家族…

今回は先日投稿した母千代子からの手紙への三郎からの返信。

入校から3ヶ月。
振武台(陸軍予科士官学校)にも初夏が訪れ、厳しい訓練にも漸く慣れたのか或いは家族を心配させまいとやせ我慢しているのか不明であるが、文面からは「元気」な様子が溢れている。
学校からも夏休みの予定等が知らされたようで2ヶ月も先の事なのに既に待ち遠しい様子である。

 

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙①
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙②
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙③

解読結果は以下の通り。

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拝復 御手紙有難う御座居ました。
其後皆様変り無しとの事、安心致しました。
お蔭で私も病気の「ビ」の字も着かずに張
切って邁進して居りますから御安心願います。
敬兄さんも更生の一途をたどられ、私が見違
える程になられるとの事、大いに喜び居ります。
芳子も元気で作業しているとの事、嬉
しく思いますが、余り過度に渡り身体をこわ
さざる様御注意御願申し上げます。
此の振武臺の地にも新緑の夏がやって
来て流汗淋漓と云う所です。
最早、水際訓練所(プール)に於て水泳も
始り、衣服も防暑衣袴という小開襟の服
を着用して居ります。私も入校以来、体重
約三瓩ばかり増加し大いに意を強くして居
ます。聞く所によると八月上旬に遊泳
演習で海岸に行き、それが終るや直ちに
夏季休暇と思います。多分八月中旬とな
る見込です。その位の心構えで居て下さい。
次は少しお願いが有るのですが、それは、
雑記する雑記帳が少し入用なのですが、
これは私が中学校時代の物が残って居る
筈ですが、芳子には済まんのですが、御送付
願います。又、ついでに西洋紙、印鑑用の印
肉、事務用糊、手帳、スタンプを押す時に
用いる「スタンプ」(インクを滲ましたるもの)をお
願い致します。「ノート」、西洋紙は少し多く、とい
っても程度の問題ですが、良い様にお願い致します。
では成る可く早
くお願いします。夏季休暇に成りますから。
一寸お訊ね致しますが中隊から何か通信が
行った筈ですが、どんな事ですか。
では本日はこれで筆を措きます。
お父さんに無理をなさらぬ様、末筆で
失禮ですがお傳え願います。

母上様            三郎拝
               三原 三郎
康男兄さんは矢張り廣島
に居られますか。状況お知らせ下さい。
************************

6月も中旬となれば初夏よりは梅雨であろう。将に「流汗淋漓」と汗がしたたり落ちる訓練はさぞかし厳しいものであったと思う。
しかしその厳しさにもある程度順応した事や家族に余計な心配をさせまいとする気持ちからなのか、手紙の内容はとても明るい感じである。

「八月上旬に遊泳演習で海岸に行き、それが終るや直ちに夏季休暇」と早くも帰郷が待ちきれない様子である。
つい最近三次中学の同級生たちから、呉海軍工廠への通年動員の命令が下った事を聞かされたばかりでもあり、余計に家族や故郷への思いが増していたのかもしれない。

学校からの状況報告(通信簿のようなもの?)は本人には知らせず保護者に直接届けられたようで、その内容が気になっている様子である。

以前にもあったが、今回の手紙は毛筆書きである。
ペンと毛筆とをどの様な基準で使い分けていたのかよく解らないが、習字が大の苦手であった小生からすれば羨ましい位達筆である。
封筒の方も是非ご覧頂きたい。

昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙(封筒表)
昭和19年6月12日 三郎から母千代子への手紙(封筒裏)

ん? 廣嶋県?

あの世の三郎おじさんへ
 嶋✖ → 島〇
 じゃないですか?
       愚甥より