三郎の振武台日記 vol.9

 

 

今回は三月五日の日記から。

入校後初めての日曜日。のんびりできたからだろうか、字が丁寧で読み易い。

 

昭和19年3月5日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

********************
三月五日 日  雪一日中
本日は日曜日だ。何となく嬉しい。起床
後直ちに床をとるのもうれしい。外は
銀世界だ。雪だ。少し驚いた。三次の
事を思い出した。皆とコタツ…等と話した。
日朝点呼後は今日はどんなことをしても
よいとの事。午前、午後とも寝台に入
って休養をとった。来週へのエネルギー
の蓄積だ。ここに一つ将校生徒らしく
ない事を一つ行った。晝食時、飯を餘
計食った(菜が無く飯だけで)お蔭
でお腹が少し変だった。こんなことは
今後絶対やるまい。父も食物と運
動に気を付けるべしと。岡部先生も
云われた。二年生の人は外出された。
俺達も早く外出したいものだ。明日は
入校式だ。それから三月九日の東京行
がまちどおしい。
********************

先日投稿した内容の中に、入校式の様子を写真入りで紹介させて頂いたが、その時点では今回の日記に気付いていなかったので、雪がいつ降ったのかわからなかったのだが、これがたまたま前日に降ったものだと分かった。

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式 前日に積もった雪が残る中で

三郎の生地の三次は広島県の中では結構雪の降る地域であり懐かしく思ったであろう。

先日の日記で”腹がへってしょうがない”旨書いていたが、この日は上級生が外出したりした関係でご飯が余っていたのか、昼食時腹いっぱい食べた様だが結果的には”腹八分”が重要であることを再認識させられたらしい。

食事で思い出した話をひとつ。
小生が小学生の頃は毎年年始参りで、母(芳子)に連れられて三郎伯父さんのお宅へお邪魔していたのだが、お節料理を皆で頂いていた時に三郎伯父さんが
”軍隊(陸軍予科士官学校)じゃぁのう、食事中に突然「右腕負傷!」と号令がかかるんじゃ。そしたら全員左手だけで食べるんじゃ。また暫くしたら「両腕負傷!」と号令がかかって全員が後ろ手を組んで口だけで食べにゃいけんのんで。マサヒロ(小生の名前)もやってみるか?”と云って大笑いをしたことがあった。
戦時中の辛い経験だったと思うのだが、あの時の伯父さんの笑い声はどちらかと云うと懐かしむ気持ちの方が強かったのではないかなぁ…と思い出す。

折角の日曜日ではあるが、新入り生徒達には外出許可は出ず、終日寝床にいた様である。しかしながら、外出してゆく上級生を羨ましく思いながらも疲れた身体を休められることを喜んでいる様でもある。

三郎 振武台日記 vol.10

 

今回は三月六日の日記から。

この日は三郎たち新入生の入校式の日で、日記の内容からも興奮覚めやらぬ様子が覗える。
幕末の尊王攘夷に燃えた志士と同じ”ナショナリズム”と云う感情であったのだろう。
そして、このナショナリズムこそが当時の将校生徒たちに与えられた唯一の感情の発露だったのかも知れない。
※入校式の様子は、5月9日投稿の「昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校(振武台)第六十期生徒入校式の様子」の添付写真をご覧願いたい。

昭和19年3月6日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

******************
三月六日 月
本日は俺にとっては一生涯忘れ得ぬ
歴史的な日だ。即ち軍人に正式になった
日だ。校長閣下代理幹事閣下
の厳かなる命下「谷川尚以下四千七百
二十三名は陸士予の第六期生徒を命ず」
とあり、それから生徒隊入隊式有り。
御真影奉拝アリ。此の日の
感激一生なんで忘られん。この感激
を頭にきざみこんで我が修養の
鞭となさん。あゝ遂に予士の
生徒となったのだ。皇国日本を
背負う青年将校の奨学地たる
予科の生徒となったのだ。此の上
は一意専心やるぞと盟う。
******************

四行目の”谷川尚”は代表生徒の名前であろう事は解かるのだが合っているか自信がない。
また、最後の行の”やるぞと”の部分も良く解らなかった。まあ、大勢に影響はないと思うのでこのままスルー。

”此の日の感激一生なんで忘られん”など、意識してかどうか解らないが、文章も漢文チックになっておりかなり幕末の志士風になっている。
因みに、三郎も読んだであろうと思われる、昭和19年2月15日出版の「通俗幕末勤皇史(徳富太郎著 目黒書店刊)」が祖父の遺品の中にあったので、その表紙だけアップする。

通俗幕末勤皇史(徳富太郎著 目黒書店刊)

 

  身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
             留め置かまし 大和魂

吉田松陰の辞世の句は今も昔も若者たちの心をかきむしる…。

 

 

三郎 振武台日記 vol.11

 

 

三郎の振武台日記 第11弾

 

今回は入校式翌日の三月七日の日記から。

昭和19年3月7日 三郎の日記

修正・削除部分が多くて少々読み辛いが、特に難読文字は無かった。

解読結果は以下の通り。

*******************
 三月七日 火  曇
本朝は一般に起床が後レ
タ。起床ラッパが聞えなかった。こんな事
では不可ない。最少し緊張を要する。
午前中 中隊長殿の訓話あり。
修学の心得は大いに有意義であ
ると思う。特に修学の態度は
「将校生徒ナリ」と云う事を忘れな
いことであるということは必も肝心で
ある。
上級生に対する心構え等も
守るべき良い道だと思う。
夜、母より書簡あり。読みて家の
事を考え、不覚にも涙浮かぶ。何
だ女々しい。我は将校生徒なり だ。
*******************

当時の国語授業の影響なのか、時折カタカナ文が顔を出す。
今後投稿する三郎の手紙には漢字とカタカナだけのものもあり、パソコンでの変換に苦労した。

起床ラッパが聞えない程熟睡していたと云う事の様だが、昨日の入校式での興奮と緊張が疲労となって出たのかもしれない。

中隊長の訓話の内容がどんなものだったのかハッキリとは解らないが、「修学の心得」や「上級生に対する心構え」等の言葉から推し量るに以前投稿した内容にあった「軍人勅諭」を元にした訓話であった様な気がする。それらを総括すると「我は将校生徒なり」になるのだろう。

三郎 決意表明書?

夜、部屋に戻ったら母(千代子)からの手紙があったとある。
以前投稿した”昭和19年3月4日 母(千代子)から三郎への手紙”である。
我が子を軍隊に獲られた母親の悲しみと息子に要らぬ心配を掛けまいとする心情が入り混じった手紙であったが、それは三郎にも伝わったようで故郷を思いながら涙している。

現代の様な単なる一人暮らしであっても親にとっては淋しく悲しい気持であるのに、戦時中の軍隊への上京である。母と息子の心情は察してあまりある…。

 

三郎 振武台日記 vol.12

 

今回は三月八日の日記からなのだが、このメモ帳にある日記はこの日を最後に終わっている。

一応、「三月九日」の記載は最後の部分にあるのだが…。

別のノートに続きを書いたのか、或いは止めてしまったのかは不明である。

昭和19年3月8日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

******************
三月八日 水 晴 大詔奉載日
昨夜は少し寒かった。身体を横にし
ては不可ない事をつくづく覚った。
だが、今朝は起床は第一番であった。
嬉しい。これを続けよう。
午前中 区隊長殿の靴の手入れ、ソノ他
の学科、実際、等あり。又もや
軍隊の小さな事までも系統的
整理的に書物までになっているの
に驚く。十三時より大詔
奉載式あり。中学校の式
とは一寸が異うが米英撃
滅の決意を新たにした。その後区
隊長殿の禮式令の学科有り。そ
の後理髪に行く。理髪の早い
のに驚く。明日の参拝が嬉しい。
明日の晴天を祈る。
******************

”不可ない”は”いけない”だが、多分現代では全く使われていないだろう。

”身体を横にしては不可ない”とは、掛布団と身体との間に隙間が出来て寒いからと云うことであろうか。それにしても結構な寒さではある。

”起床”に順位があったようである。おそらく集合場所への整列の順位なのではないかと思うが。また数千人にもなる生徒全員の中でなのか、学年或いはクラス全員の中でなのか…。詳細は不明であるが、何にしても1番は嬉しいであろう。

7行目の”実際”の意味がちょっと解らなかったのだが、その後に続く”軍隊の小さな事までも系統的整理的に書物までになっているのに驚く”の内容からすると”軍隊の実際の現状”と云った意味の教科なのではないかと思うが…。もし御存知の方がいらっしゃったら御教示乞う。

”大詔奉載式”とは太平洋戦争完遂を目指して開戦直後の昭和17年1月2日に制定された国民運動のこと。開戦日に当たる毎月8日の”大詔奉載日”に行われた集会の様なもので、当時の内閣告諭には”官公衙、学校、会社、工場等において詔書奉読式を行ふこと”とあるので、ほぼ全国で一斉に行われていたようである。
小生も小学校の先生から「昔は朝礼で全校生徒が皇居の方に向って最敬礼をしていた」と云う話を聞いたことがあるが、こんな話をしていたと云うことは”日教組”に染まっていない先生だったんだなと思う。
まぁ、こういった行事が行われていたのだから、”米英憎むべし”の感情が生まれるのは当然の事であったろう。
因みに本日(令和元年五月二十六日)はアメリカのトランプ大統領が国賓として国技館で大相撲を観戦し、取組後の表彰式では”米国大統領杯”の授与を行った。今昔を感じた今日この頃である。

令和元年5月26日トランプ大統領大相撲観戦し米国大統領杯授与

明日9日は三郎たち新入生は東京へ行き、皇居・靖国神社・明治神宮へ参拝し入校報告をすることになる。この様子は今後の三郎から父(芳一)への手紙にてご紹介する。

 

昭和19年3月18日 妹芳子からの葉書 

三郎の振武台日記が続いて少し間が空いてしまったが、今回から手紙・葉書へと戻る。

今回は末の妹の芳子からの葉書。

芳子は小生の母であり、当然性格や考え方など充分知っていると思っていたのだが、こうして子供の頃の葉書を読んでみると気付かなかった面も色々見えてくる。
まぁ、考えてみると実際母と暮らしたのは18歳までで、その後二十数年間は年に数回会う程度で電話でもそんなに頻繁に話すことも無かったわけで、本当はあまり母の事は知らなかったのかも知れない。

昭和19年3月18日 芳子から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

**************************
兄ちゃん、お便りありがとうございました。
三次の気候も大分良くなりました。今日(十七日)から
口頭試問の練習が始まりました。女學校の試験
は三月二十三日から三月二十五日までです。口頭試問は練
習したのでもうなんともなくなりました。
四月も近づいて来てもう桜の花のつぼみもほころび
かけています。あたりの山々も大分緑色にかわり
かけて来ました。士官學校愉快でしょう。遠いか
らちょっと行こうと言う事も出来ません。行く
には警察の許可がいるのでめんどうな事です。
急行も乗られなくなります。私の東京行きも
だめになりました。ではお體を大切にして下さい。
又お便りします。さようなら
**************************

まだ、12歳の時の葉書であるから当然内容も幼い…のだが、ちょっと幼過ぎないか?と云うのが息子である小生の正直な感想である。

大体にして、ワンセンテンスが短く「~した」とか「~です」のいわゆる「ですます調」は小生が小学生の頃に芳子から揶揄されていた部分で、今でもトラウマになっているのである。
それがどうだ。揶揄していた張本人が「ですます調」ではないか。
まあ、恋人や友人ではなく実兄への手紙であるから、変にかしこまったのかも知れないが…。

女学校の入学試験が目前に迫っている。これは家族全員が気にかけている心配事で、家族それぞれの手紙にも状況の確認や報告が挙がっている。

「士官學校愉快でしょう」は笑える。
三郎の振武台日記でもご紹介したように、大変厳しい訓練で鍛えられている三郎も「愉快でしょう」と云われてはやるせない。多分父(芳一)あたりから「楽しく元気にやって居るよ」位の話をされたのであろう。
また、少し前に父が2度ほど陸軍予科士官学校へ行っているが、どうやら芳子も行きたかったらしい。当時の国内の状況からすれば到底無理な話で「次の機会に…。」とあしらわれたと思われる。

母が生きているときにこの話を知っていれば、振武台に連れて行ってやりたかったなあと思う。

 

昭和19年3月19日 康男(長男)から三郎への手紙

 

 

今回は長男の康男から三郎に宛てた葉書から。

 

最初の部分に父(芳一)が言伝を加えている。

昭和19年3月19日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓 (お父さんが書添える。大膳さんの所にはお礼を
取られぬ。ハガキで礼を云って出せ。
岩井柳作さん所へもハガキ出せ。急ぐ訳でもないが、
近所ハ大体お礼に廻った。)
野山も春めき、陽気を覚える候となったが、
其後御前も元気一杯研鑽に励んでいる
事と思う。家の方も一同無事、夫々の道に
奉公している。兄さんも本日の日曜、久方振りの
全休で帰宅休養を攝っている。御父さんは
日曜廃止で本日も御出勤。芳子も試験間近で
登校した。御前が入校して家もめっきり淋し
くなった様だ。御前の書斎はそのままにしてある。
予科士の生活にももう相当慣れた事と思うが、
何時でも明朗に、元気よくやる事だ。充分体
に気をつけた上でね。 では又。     敬具
***********************

相も変わらず芳一の字は小さくて読み辛い。
確かに小生が小学生だった頃、ちょくちょく我が家に来ては庭の手入れなどやっており、性格的に”マメ”であることは知っていたが、字が小さいのはあまり記憶がなかった。

言伝の内容としては、三郎の陸軍予科士官学校への入校及び上京への餞別を頂いたご近所さんにお礼を届けて廻ったが受取って下さらないお宅があるので、三郎の方からお礼の手紙出す様にとの由。

手紙・葉書が主たる通信手段であったので当然現代の我々よりは文字を書く機会が多く、またその作業には慣れていた筈だが、今小生の手元には当時三郎が書き損じたと思われる葉書が10枚程ある。おそらくもっとあったのではないかと思うが、忙しい日々の中での大変な労力である。つくづく便利な世の中になったものである。手書きの葉書など年賀や暑中見舞いで”お変わりありませんか?”と書く程度で、宛名に至っては何年も書いていない小生である。

さて、本題の康男の葉書である。

この年の3月1日付で船舶司令部の船舶練習部学生となって訓練を受けていた康男が久し振りの完全休養日で帰宅していたらしい。当時広島市に住んでいたが実家の三次は70キロ程しか離れていないので、鉄道で2時間程であったと思う。前日夜に出れば結構ゆっくりできたであろう。

のんびりするには幸いだったかも知れないが、折角の日曜なのに父は出勤、妹は学校、残っている母も床に伏していたのではないかと思うと逆に淋しかったであろう。
だからと云う訳ではないだろうが、三郎への手紙になったのかも知れない。
内容的にも様子を報せ三郎の健康を気遣う”普通”の手紙である。

このひと月ほど前の昭和19年二月に所属していた船舶司令部での集合写真があるのでアップしておく。因みに裏書には

広島市宇品町
 暁第二九四〇部隊村中部隊髙井隊
  将校見習士官少尉候補者
 第二次要員編成記念
    於 学庭
  昭和十九年二月吉日

とある。

19年2月暁二九四〇部隊 前列一番左が康男

昭和19年3月28日 芳一から三郎への手紙 芳子女学校合格(万歳!)

 

今回は芳一から三郎への手紙から。

四日前に手紙を出したばかりであるが、家族全員が気になっていた末娘の女学校受験の結果発表が前日(三月二十七日)にあり、これを早く知らせるべくの葉書である。

 

昭和19年3月28日 芳一から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

**************************
大分暖かになった。其後元気で勉強しているか。
当方一同無事。芳子も首尾よく女学校入学
考査に合格。四月五日に入校通達が昨二十七日
にあった。(午前十時発表)。是れで先づ一安心だ。
芳子へお祝いを云ってやってくれ。三次の国民学校も
縁切りとなった訳だ。兄さん二人も無事で勤務して
居る。康男兄さんの写真が出来たから一、二日の内に
送ってやる。近頃通信がないが体は元気なのか。忙しく
て書けぬのなら別に書く必要もない。元気で明朗に
勉強せよ。三中の上級校に受けた連中どう云う成績か
まだハッキリせぬが相當に難関らしい。お母さんからも手紙
を出す筈。健康に留意せよ。
**************************

芳子が無事女学校に合格した。
小生の母であり、既にこの世にはいないのだが何かとても嬉しい。
万歳である。

家族全員が気にかけていたイベントも上首尾に終了し、皆一安心である。
「三次の国民学校も縁切りとなった訳だ」という芳一の言葉に実感がこもる。
長男の康男に始まり芳子まで16年続いた国民学校とのご縁が漸く終わったのである。

世間一般のことかも知れないが、末娘であった芳子は三人の兄達に比べ父(芳一)にとても可愛がられていたことは先日の「閑話休題」にも書かせて頂いた。
小生が子供の頃、母(芳子)は
「戦時中の米が無く麦や芋ばかり食べていた時に、兄達がいない時には父が床下から白米を出して自分だけに”白いご飯”を食べさせてくれた」
と言っていた。
そのくらい芳一は芳子を可愛がっていた。

その芳子も漸く女学生になった。
本来であれば「万々歳」の筈であった。

戦争さえなければ…。

芳子 昭和18年1月

 

昭和19年4月1日 敬から三郎への葉書

 

前回投稿した長男(康男)の手紙で”最後”と書いたが、次男(敬)も出していた。

以前の様な弟に対する厳しい内容ではなく、むしろ優しい感じの内容である。
気候が良くなり気分が良い旨も書いてあり、体調が良いのであろう。

 

昭和19年4月1日 敬から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

**************************
拝復 元気で勉励して居る由安心した。自分も元気で生産
増強に邁進している。此方も気候が良くなりも窓を一パイ
明けて仕事をしている。気も身も心ものびのびと
活発な運動の出来る時だ。御互いにしっかりやろう。
空襲必須の時局に鑑み御前の処も万全を期して
あると思う。俺の所も準備を万している。
俺も今日昇給した。有難い事と思っている。兄さんも
元気で軍務に精励されている。芳子も無事
女学校に合格。五日に入校の予定だ。
どうぞ上司、同輩に可愛がられる様、言い付を
良く守って、校則の中に生きる生活をせよ。   では又
**************************

前回の康男の葉書の投稿の中で「敬の徴兵検査が間もなくある」様な内容を書いたが、どうやら間違いで、実際は康男の徴兵検査であった様である。
この時康男は”船舶練習部学生”であり、新たに配属を決めるための徴兵検査だったらしい。

敬は、手紙にもある通りこの日(4月1日)昇給しており、仕事に対するモチベーションも一層上ったようである。

空襲について触れているが、実際に本土への空襲が始まったのは2カ月程後の6月16日で北九州が標的となった。
つまりこの時点では本土への空襲は無かったのであるが、太平洋各地での敗退により制空権を失ったことで、空襲が時間の問題であることは周知の事実となっていたのであろう。
広島などの軍都も当然標的となったが、三郎のいた振武台(陸軍予科士官学校)も空襲に備える必要があったはずである。

空襲に関して、小生が子供の頃に母(芳子)から聞いたのは
「空襲警報が鳴ったら電灯を消して外に出て空を見るんよ。そしたらね、たーかい所を豆粒みたいなB-29がいっぱい飛んどるんよ。”あー、ありゃー呉にいったねぇー” 言うてね。三次なんか空襲されん思うとったけぇねぇ。あんまりこわーは無かったね。」
と云った話で、実際に爆撃された経験はなかったようである。

その後、映画やテレビなどで空襲の場面を幾度となく見ることがあったが、その度に母の云った「B-29の編隊」が轟音と共に夜空の彼方を飛んで行く光景を想像しては不気味な恐怖を感じたものである。

 

昭和19年4月1日 三次中学の同級生Sさんからの手紙

三郎の陸軍予科士官学校入学からひと月ほど経過し、同級生の進学状況も概ね決定した時期となり、彼らからの進路決定に関する情報が何通も届いている。

父(芳一)や母(千代子)からも多少の情報は届いているが、やはり当事者(?)からの情報が一番信頼できるのであろう。

今回のSさんは多少クセのある字ながら、丁寧に書かれているので特に難読部分は無かった。

昭和19年4月1日 Sさんからの手紙①
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙②
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙③
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙④
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙⑤
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙⑥
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙⑦

解読結果は以下の通り。

注)■■■ はSさん。
************************
陽春の四月になったと言うのに(大変)寒く
あります。先づ何時桜が咲くか、一寸と見当
がつかん。
三原君、お便り有難う。実は二十二日から昨日
三十一日迄春休暇で故郷へ帰って居た所だ。
大変返事が長びいて済まん。そのかわり
本日は大変乱筆であるが、一寸と詳細に
こちらの様子を知らせるからかんべんしろ。
ことわって置くが、郷里の後輩が中学校
へ入学したり又、家へも手紙を書いた関係上、
相当疲れて居るから乱雑になるのだ。
許せ。
さて
こちラハ大変寒イ。何時桜かは先に言った通り。
しかし、今日は漸く春気分と言った所か。
ぼつぼつ野山が霞ミかけたと思われる所。
次ニ、俺も(ハッハッハ)五年となった。
第十三学級。主任は賀永先生。総員三十五名か?
第十四学級は岡部先生。人員不明。
第十五学級は田村先生。人員不明。
落は一名もなし。
次に級、副長は、
十三ガ丸住、砂田。十四ガ中村、柳原。十五ガ藤井、波多野。
優等生は中村、丸住、秋山、広沢の各君。
皆勤者等は不明。
今度、新任の先生が来られるが、未だ式はない。
入学式は四月にある。
始業式は今日四月一日にあった。
五年生になって、実際責任があると言う事を
痛感する。今迄に責任(と言う意味)を一番強く
感じたのは、今日が最大であろう。
四年生に僕等の教室をやったと言う事は、大小
掃除をして居た丈に惜しい気がする。
なかなか四年生は威張って居る。
ポケットでもつけて、可哀そうだが、
注意をされる者だろう。
新学期からは六粁以内は徒歩通学。
しもわち駅から八次間は汽車通マカリナラン。
広島方面はアヲガ駅より三中迄は自転車共にダメ。
即チ、三中を中心に六粁の所に来ると
自転車を預けて徒歩通学をするのだ。
それから、近い内に分隊毎に集合、二列縦隊
で通学する事になる。
それから次は、上級学校、入学許可の諸君
について、知れて居る範囲で述べて見る。
先づ小生から。
広島高師は三月一日ダメ。
徳島高工は十七、八日 俄か勉強はダメ。
総体的に見て、三中は不振とでも言うか。
五年よりは四年の方が成績は良好なり。
高校 松江、土居さん(五年) 広島 湧谷さん(浪人)の二名か?
岡山医専 広沢孝一郎君 一人のみ。
広島県より十余名か??
アッパレ アッパレ。
徳島高工 秋本君(土木科)→日本一の称あり
広島高工 八木君(機械科)
山梨高工 山田豊君(科不明)
熊本薬専 山縣正道君
大阪歯科医専 斉木康彦君
日大文科 西田君
紙不足ニツキ裏面に書く。許せ。
県師 桑田、三宅、森原君
但し、三宅君は入学取消し。
五年は
大膳さんが広高工の夜間に入学のみと聞く。
はっきりしないが、他にもまだあるが、四年よりは
少ない。
右の四年の各君はアッパレ アッパレ。
まだ、宇部高工等は発表がない様だ。
そうそう、
来る五日から九日迄、五日間○○(大竹)海兵団
で海洋訓練がある。三中からは
二十名参加する。
勿論、俺も参加する。六十日と聞いて居たので
喜んで居たが、五日間なので大変気をおとして
ガッカリして居る。
五日間うんと海軍魂を養って来る。
後もう二回ある。今度は違った諸君が行くだろう。
甲飛に四年からは湯浅、立石の各君が去る二十九日
出発。三年から中瀬、赤村、益田の三君が出発す。
忙しいから本日はこれで失敬する。
御健康と御奮闘を祈る。
乱筆にて失礼。
では又。さようなら。
三原君               ■■■より

************************

まず、気付いたのは今回の手紙が便箋と云うよりはメモ用紙と思われるB6サイズの用紙に書かれており、その関係で全部で7ページに亘る”大作”となっている部分で、これも物資不足の顕れであろう。
左下に印刷されている「小奴可運送店」は現在の広島県庄原市東上町小奴可(おぬか)の運送屋さんだと思われるが、Sさんの御実家かもしれない。

三郎も母校三次中学の状況や同級生たちの進学状況は当然気になっていたであろうし、お互いに叱咤激励し合う事は当時の状況からすれば(特に若者たちにとっては)必要不可欠な”モチベーション”であったのかも知れない。

現代の日本と異なり、当時は軍関係の学校に進学することはかなりの確率で「死」を意識せねばならない選択であるにも関わらず、甲飛(海軍飛行予科練習生)として航空隊へ入隊する生徒も少なからずおり、国家の危機を救わんとする若者全体の高揚感が感じられる。
しかしその反面、「ナショナリズムに煽られた若者たちの”蛮勇”なのでは…」と云った危惧感もありちょっと複雑な気持ちになる。

今回のSさんの手紙に於いても「海洋訓練」を心待ちにしている記述があるが、果して本心であろうか…。
本当は勉強や恋愛など、やりたいことは山ほどあった筈にも拘わらず、全体の雰囲気を感じつつ無意識のうちに勇ましい気持になっていたのではないかとも想像する。

ただ、それがよく言う「軍国主義」や「全体主義(ファシズム)」に直接繋がるものではなく、戦後の自虐史観教育で喧伝された「日本人は残虐」とか「日本は侵略国家」等が事実では無いことも拙ブログでお伝えしたい重要な部分なのだが、これらの説明は他の秀逸なブログ等で幾つも為されており、ここではそれらを「できるだけ感じ取って」頂けるよう投稿を続けることに徹したい…。

 

昭和19年4月8日 三次中学同級生のFさんからの葉書

 

今回は三次中学同級生のFさんからの葉書。

Fさんに関しては以前(5/6)の投稿で三郎が陸軍予科士官学校へ入校した直後の葉書を掲載しており、それに続くもの。

今回は「封緘葉書」で4面に亘って書かれており、実質は”手紙”である。
※以下に全体像も添付

昭和19年4月8日 Fさんの葉書①
昭和19年4月8日 Fさんの葉書②
昭和19年4月8日 Fさんの葉書③
昭和19年4月8日 Fさんの葉書④

「封緘葉書」の全体像(2枚)

昭和19年4月8日 Fさんの封緘葉書全体①
昭和19年4月8日 Fさんの封緘葉書全体②

解読結果は以下の通り。

**************************
お葉書有難とう。元気の良い書振りに安心
した。私もその后元気だ。安心して呉れ。然しその
元気も普通並みではない。と云うのが此の上もない
憧憬の的であった高校突破の野望が一瞬に
して水泡と化したのである。あゝ実に我が胸には
敗残の憂い濃く、頬を伝うるものは唯涙のみだ。
而れども、今では我が実力の足らざるを深く思い、奮
起を促している様な始末だ。して来るべき高校
受験に備える心算だ。私の頭は舊(旧)世と変わらない
と思うかも知れないが、(私の心には今日の国家を背負うて
立つべき覚悟は充分持っている。)私は再び高校
突破の野望を抱いている。之も一旦定めたる前途を
変更すべきは私としてとるべき道ではないと思ったからだ。
扨て、貴方の要求通り合格者の報告をするならば、
広沢孝一郎(岡大医学部専門部)、八木(広髙工・機械
科)、桑田(広縣師)、土屋(広縣師)、川崎(宇部工・工業
化学科)、上川(宇工・機械科)、森原(平壌師)、宗川(朝師)、
広畠(通信???)、山縣(熊本薬専)、秋本(徳島高工)、山田
(山梨高工)
という風に誠に近代にない好成績を治めている。これは下
級生に対し威厳を示す上に於ても大きな影響を及ぼ
すであろう。高校を突破の栄冠を得たものは旧五年
の土井一名のみにして、実に面目ない次第だ。けれども
来年こそは貴方の面に笑をたたえるべく、母校から高校突破の功
を数名に倣いて奏する決心だ。貴方は陸士の大分
状況を知って、緊張の中に愉快な一日を過ごしていること
であろと思う。何卒将校生徒としての本分を充分全
うされんことを祈る。本年も陸士・海兵の志願者は百人
にも及んでいるのではないかと思う。意を強うして後輩の
入校を待たれよ。次に私は此の度、親戚の事情に依って
親戚に移住することとなったのだ。少々気が落ちつかず困って
いたが、慣れればそうもない。
長々と下らぬことを述べたが、先づは一報迄だ。至極
身体に留意し本分に邁進されたし。
                   さようなら

            この手紙は読み次第
            焼いて呉れ。
                 では又。
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この葉書を読んでいて何となくFさんが”謝っている”様な印象を受けたので、それが何なのかを考えてみた。

Fさんは前回の葉書で
「小生高校突破の野望を抱きしも、之前途を暗澹たらしむる一つにして今後直ちに国家の要望する所に向って再起勉励する」
と書いていたが、残念なことに(旧制)高校への合格は成らなかった。

前回の葉書の内容の通りであれば、「今後直ちに」陸軍予科士官学校か海軍兵学校の受験に向けて「国家の要望する所に向って再起勉励する」筈なのであるが、来年の(旧制)高校受験を目指して中学5年生に残ることを選んだようである。
おそらくFさんはこの状況を、三郎始め同級生たちに
「貴様はこの国家の非常事態に於いてお国のために軍関係の学校を受験しないのか?」
と思われるのではないかと感じ、それを「後ろめたい」と思う気持ちが文章に滲んだのではないかと想像する。

現代であれば何の問題もない事であるが、戦時色一色に染まった当時(特に血気盛んな若者達)の状況からすれば仕方のない心情であったのかも知れない。
我々戦後世代は、このような雰囲気がどれだけの国民を戦地に向かわせることに繋がったのか、をしっかり感じ反省すべきであると思う。

そんな気持ちだったからこそ文末で
「この手紙は読み次第 焼いて呉れ」
と書いているFさんだと思うが、この葉書を公表した小生を許してくれるだろうか…