時系列順という形で前回までは長男(康男)の手紙・葉書の投稿となっていたが、昭和18年3月23日の葉書を最後に昭和19年2月28日の父(芳一)から三男(三郎)への葉書まで約1年間分の通信物が小生の手元には残っていない。実際にはあったものと思うが所在不明である。
と云う事で上述の芳一から三郎の手紙の投稿となるのだが、この手紙の内容は芳一が陸軍予科士官学校に合格し埼玉県北足立郡朝霞町(当時)にあった振武台校の生徒となった三郎に宛てたものである。そこに至るまでに”志願~受験前身体検査~受検~合格発表~入校”に関する諸々の書類が遺っており、今後の投稿内容にも拘わってくるので数回に亘ってそれらの投稿をしたいと思う。
1.昭和十九年度 陸軍予科士官学校・幼年学校 生徒志願者心得
まずは、受験要綱にあたる”昭和十九年度 陸軍予科士官学校・幼年学校 生徒志願者心得”である。
結構大きなサイズでA2サイズに近い”420mm×545mm”で、昭和18年2月に教育総監部より発行されている。全体画像を冒頭にアップしてあるが以下にもう少し見やすく4分割のもの表示するのでご覧頂きたい。(大きな書類の爲、PC等ピンチアウト操作の出来ない場合はかなり見辛いと思うがご勘弁願う。)
内容は
①.採用要領(志願資格、出願期限、採用検査内容詳細、検査場一覧)
②.出願より受験迄(願書記載の注意、願書差出上の注意、願書差出後の注意、受験心得)
③.陸軍部内より陸軍予科士官学校生徒を志願する者に関する特例
④.注意
⑤.身体検査に就て志願者の参考
⑥.其の他
となっている。
学科試験は”国語・作文・数学・歴史及地理・理科、物象”であり、さすがに英語はない。
注意する部分に赤線を引きミスの無い様注意している様子が覗える。
その当時(旧制)中学3年(或いは4年になったばかりか?)であった三郎が受験志願を決意した大きな理由には、戦局の重大化による長男(康男)の徴兵があったものと思われる。加えてこの三男は上の二人の兄達に比べて体格も良く頑強だったこともあったかもしれない。いずれにせよ”どうせ軍隊に行かざるを得ないのなら…。”と云う思いがあったのは間違いない。
余談であるが、小生広島の出身で”⑥.其の他”に広島陸軍幼年学校の所在地が広島市基町とあるのをみて、その場所が2年後の昭和20年8月6日の原爆投下によって壊滅した場所であることを思い浮かべた。このとき三郎と同じように意気軒高に幼年学校を受験し合格した若者達が皆その惨劇に巻込まれてしまったのかと思うと言葉が無い…。
2.陸軍予科士官学校生徒 志願者身体検査出頭通知書
学科試験の前実施される身体検査への出頭通知書。
この身体検査に合格して初めて学科試験が受験できる。ただ、学科試験に合格し予科士官学校に入学する際にも再度身体検査がありその時点で合格取消しとなる場合もあったようである。因みに”広島偕行社”とは大日本帝国陸軍の元将校・士官候補生・将校生徒・軍属高等官の親睦組織であったとのこと。詳細はインターネット等でご確認願う。
3.昭和十九年度 陸軍予科士官学校生徒志願者学科試験日割表及受験者心得
こちらは昭和18年7月に教育総監部が発行したもので、志願者に対して学科試験の詳細要領を説明したもの。
・学科試験の日程・時間割
・学科試験の集合時間、服装、携行品、解答方法、試験場での態度等の注意
・学科試験終了後に必要な提出書類、合格時の通知方法及びそれに対する返信方法
・合格時の現在学中校への退校手続に関する注意
・教育総監部、陸軍予科士官学校(朝霞振武台)の連絡先
が記載されている。
これらの手続きを経て、昭和18年9月20日~22日の三日間の学科試験に臨んだのである。