陸軍予科士官学校 牧野校長閣下

 

 

先日、三郎が陸軍予科士官学校に合格した際の”合格通達書”とその後学校への着校日を通達する”著校ニ關スル件達”を新たに発見したのでご紹介する。

 

”著校ニ關スル件達”と”合格通達書”

昭和18年11月に教育総監部より合格通達書が届き、その後日付は不明だが(多分年明け後か)著校ニ關スル件達が届いている。注目したのは、合格通達書では”昭和19年3月下旬頃に着校せよ”と記してあるのだが、著校ニ關スル件達では”2月24日に着校せよ”と1ヶ月早くなっている。当時、将校不足は相当深刻で少しでも早く将校を輩出せねばならなかった状況の表れであろう。

著校ニ關スル件達に記名のある学校長の牧野四郎と云う方は陸軍中将で、三郎の入校と入れ替わるタイミングで学校長を退任されるのだが、将に前回投稿した三郎の日記の日付”昭和19年3月2日”に牧野校長の離任式があり、その中で「花も実もあり、血も涙もある武人たれ」と訣別の訓辞を残している。
ただ、日記では”校長閣下の閲兵あり”としか書かれておらず、多分未だ入校式の済んでいなかった三郎たち新入生徒は離任式に列席せずその後の閲兵式のみ参列したと思われる。

牧野中将はこの後激戦地のフィリピン・レイテ島の第16師団長に赴任し、ダグラス・マッカーサー率いる連合軍と激戦するも翌昭和20年8月10日師団は壊滅。その際「余が敵弾に倒れたる時は余の肉を喰いその血をすすりて糧となし最後の一兵となるともレイテ島を死守し君恩に報ずべし」と云う「死守の訓辞」を遺して自決すると云う壮絶な最後を遂げられた軍人である。

三郎の日記の冒頭には”今日は非常に風が強い。”とあり、牧野中将の行く先が風雲急を告げる様を予感させる。享年52歳であった。 合掌。

三郎 振武台日記 vol.7

 

三郎の振武台日記 第7弾

 

今回は三月三日の日記である。

 

昭和19年3月3日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

********************
三月三日 金
今日は風無く穏かな一日であった。
昨日の風はどこへやら。午前中は注
記、及び大掃除あり。外は非常
に気持よし。春めいて来た。
誰の(も?)家のことを考え居るらしい。少し
家の事を思い出した。この様な日
に模型飛行機を飛ばしたらと慨嘆。
午後は体操あり。生れて始めて
両木の上を通った。思ったよりやさし
いが、しかし矢張り恐ろしい。
将校生徒たるものはこんなことを言
ってはいけないが、お腹が空いてい
けなくなった。誰も食物の話をし
ていけない。こんなことではどうするか‼
********************

冒頭に起床時の様子が書かれていないので、漸くストレスなく起床以後の動作が可能になったと言う事だろうか。それとも毎日のことなので慣れてしまったからなのか…。

体操に関して”両木”という文言が出ているのだがこれが良く解らない。
まず読みが”りょうぎ”なのか”ふたぎ”なのか。またその設備がどういったものなのか。
多分高い場所で行動をするのであろうことは想像できるのだが。
とりあえず、遺品の中にそれらしきものも含め体操の写真があるのでアップしておく。

陸軍予科士官学校体操訓練風景1
陸軍予科士官学校体操訓練風景2
陸軍予科士官学校体操訓練風景3

1か2のどちらかか、或いはこれらとは異なるものなのか。御存知の方いらっしゃったら御教示乞う。
ただ、全生徒がこんなに素晴らしくこなせたとは思えないので、三郎も相当苦労したのではないか。
特に1の写真など”えっ?”と云うほど殆ど曲芸の域である。こんな体操ができる生徒が何人いただろうか…。
下手をすると打撲・捻挫等は日常茶飯事だったのでは無いかと思う。

はしたないとは思いながらも”腹減った”と嘆いている。
食べ盛り、育ち盛りの若者たちばかりであったが、食料難の時代である。お代わりの制限があったのではないかと思う。その状況は理解していても”腹は減る”のである。何とも辛かったであろう。飽食の時代に育つことが出来た小生世代は感謝せねばならない。

あと”この様な日に模型飛行機を飛ばしたらと慨嘆。”とあるが、当時の模型航空教育に関しては次回の投稿にてご紹介する。

三郎 振武台日記 vol.8

 

三郎の振武台日記 第八弾

 

今回は三月四日の日記から。

 

昭和19年3月4日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

********************
三月四日 土
本日五時四十分起床。直ちに舎前点呼位置で
軍人に賜りたる勅諭の奉読
式あり。軍人たる者の一日も忽
にすべからざるをつくづくと
覚える。その後續いて実務
の整頓の検査。中隊長殿
午後検査に来られる。
手にヒビが切れて
非常にイタシ。これも洗濯
するから手の油気が無くなる
所為だろう。銃の溝中の
検査あり。「傷ナシ」との事。
大いに今後注意すべきなり。
********************

今回の日記は急いで書いたのか殴り書きの感がある。つまり読み辛かった。

まず”軍人に賜りたる勅諭の奉読式あり”とある。いわゆる”軍人勅諭”の音読であるが、そもそも”軍人勅諭”の内容をちゃんと読んだことが無かったので今回精読してみた。
小生の感想としては、確かに”国家の爲に命を惜しむな”と云う多少”命”を軽んじていると感じられる部分もあり全てを肯定できるものでは無いが、国家を思う気持ちや人間関係の考え方などは現代社会においてもう一度見直すべき部分も含まれていると思う。
以下に参考サイトのURLを載せておくので、内容の是非はともかくまずは一度読んで頂くことをお勧めする。
原文はかなり難解だが最後の方に現代文訳があるので、そちらを読んで頂ければ良いと思う。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E9%99%B8%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA%E3%81%AB%E8%B3%9C%E3%81%AF%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%82%8B%E5%8B%85%E8%AB%AD

6~7行目の”実務の整頓”が何だか解らない。”実務”ではないのかも知れないが、適当な文言が思い浮かばなかった。

”手にヒビが切れて非常にイタシ。”とある。当たり前の事であるが洗濯は自前で洗濯機など無い時代であり、寒い時期の冷水での手洗いであればさぞ手荒れも酷かったであろう。
当時も軟膏等の塗薬はあったと思うが、使っていたのかどうかは分からない。

”銃の溝中”も”溝”の字がちょっと怪しいが多分”ライフリング”とよばれる銃身内のらせん状の溝のことだと思うのだが…。違うかもしれない…。

三郎の振武台日記 vol.9

 

 

今回は三月五日の日記から。

入校後初めての日曜日。のんびりできたからだろうか、字が丁寧で読み易い。

 

昭和19年3月5日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

********************
三月五日 日  雪一日中
本日は日曜日だ。何となく嬉しい。起床
後直ちに床をとるのもうれしい。外は
銀世界だ。雪だ。少し驚いた。三次の
事を思い出した。皆とコタツ…等と話した。
日朝点呼後は今日はどんなことをしても
よいとの事。午前、午後とも寝台に入
って休養をとった。来週へのエネルギー
の蓄積だ。ここに一つ将校生徒らしく
ない事を一つ行った。晝食時、飯を餘
計食った(菜が無く飯だけで)お蔭
でお腹が少し変だった。こんなことは
今後絶対やるまい。父も食物と運
動に気を付けるべしと。岡部先生も
云われた。二年生の人は外出された。
俺達も早く外出したいものだ。明日は
入校式だ。それから三月九日の東京行
がまちどおしい。
********************

先日投稿した内容の中に、入校式の様子を写真入りで紹介させて頂いたが、その時点では今回の日記に気付いていなかったので、雪がいつ降ったのかわからなかったのだが、これがたまたま前日に降ったものだと分かった。

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式 前日に積もった雪が残る中で

三郎の生地の三次は広島県の中では結構雪の降る地域であり懐かしく思ったであろう。

先日の日記で”腹がへってしょうがない”旨書いていたが、この日は上級生が外出したりした関係でご飯が余っていたのか、昼食時腹いっぱい食べた様だが結果的には”腹八分”が重要であることを再認識させられたらしい。

食事で思い出した話をひとつ。
小生が小学生の頃は毎年年始参りで、母(芳子)に連れられて三郎伯父さんのお宅へお邪魔していたのだが、お節料理を皆で頂いていた時に三郎伯父さんが
”軍隊(陸軍予科士官学校)じゃぁのう、食事中に突然「右腕負傷!」と号令がかかるんじゃ。そしたら全員左手だけで食べるんじゃ。また暫くしたら「両腕負傷!」と号令がかかって全員が後ろ手を組んで口だけで食べにゃいけんのんで。マサヒロ(小生の名前)もやってみるか?”と云って大笑いをしたことがあった。
戦時中の辛い経験だったと思うのだが、あの時の伯父さんの笑い声はどちらかと云うと懐かしむ気持ちの方が強かったのではないかなぁ…と思い出す。

折角の日曜日ではあるが、新入り生徒達には外出許可は出ず、終日寝床にいた様である。しかしながら、外出してゆく上級生を羨ましく思いながらも疲れた身体を休められることを喜んでいる様でもある。

三郎 振武台日記 vol.10

 

今回は三月六日の日記から。

この日は三郎たち新入生の入校式の日で、日記の内容からも興奮覚めやらぬ様子が覗える。
幕末の尊王攘夷に燃えた志士と同じ”ナショナリズム”と云う感情であったのだろう。
そして、このナショナリズムこそが当時の将校生徒たちに与えられた唯一の感情の発露だったのかも知れない。
※入校式の様子は、5月9日投稿の「昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校(振武台)第六十期生徒入校式の様子」の添付写真をご覧願いたい。

昭和19年3月6日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

******************
三月六日 月
本日は俺にとっては一生涯忘れ得ぬ
歴史的な日だ。即ち軍人に正式になった
日だ。校長閣下代理幹事閣下
の厳かなる命下「谷川尚以下四千七百
二十三名は陸士予の第六期生徒を命ず」
とあり、それから生徒隊入隊式有り。
御真影奉拝アリ。此の日の
感激一生なんで忘られん。この感激
を頭にきざみこんで我が修養の
鞭となさん。あゝ遂に予士の
生徒となったのだ。皇国日本を
背負う青年将校の奨学地たる
予科の生徒となったのだ。此の上
は一意専心やるぞと盟う。
******************

四行目の”谷川尚”は代表生徒の名前であろう事は解かるのだが合っているか自信がない。
また、最後の行の”やるぞと”の部分も良く解らなかった。まあ、大勢に影響はないと思うのでこのままスルー。

”此の日の感激一生なんで忘られん”など、意識してかどうか解らないが、文章も漢文チックになっておりかなり幕末の志士風になっている。
因みに、三郎も読んだであろうと思われる、昭和19年2月15日出版の「通俗幕末勤皇史(徳富太郎著 目黒書店刊)」が祖父の遺品の中にあったので、その表紙だけアップする。

通俗幕末勤皇史(徳富太郎著 目黒書店刊)

 

  身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
             留め置かまし 大和魂

吉田松陰の辞世の句は今も昔も若者たちの心をかきむしる…。

 

 

三郎 振武台日記 vol.11

 

 

三郎の振武台日記 第11弾

 

今回は入校式翌日の三月七日の日記から。

昭和19年3月7日 三郎の日記

修正・削除部分が多くて少々読み辛いが、特に難読文字は無かった。

解読結果は以下の通り。

*******************
 三月七日 火  曇
本朝は一般に起床が後レ
タ。起床ラッパが聞えなかった。こんな事
では不可ない。最少し緊張を要する。
午前中 中隊長殿の訓話あり。
修学の心得は大いに有意義であ
ると思う。特に修学の態度は
「将校生徒ナリ」と云う事を忘れな
いことであるということは必も肝心で
ある。
上級生に対する心構え等も
守るべき良い道だと思う。
夜、母より書簡あり。読みて家の
事を考え、不覚にも涙浮かぶ。何
だ女々しい。我は将校生徒なり だ。
*******************

当時の国語授業の影響なのか、時折カタカナ文が顔を出す。
今後投稿する三郎の手紙には漢字とカタカナだけのものもあり、パソコンでの変換に苦労した。

起床ラッパが聞えない程熟睡していたと云う事の様だが、昨日の入校式での興奮と緊張が疲労となって出たのかもしれない。

中隊長の訓話の内容がどんなものだったのかハッキリとは解らないが、「修学の心得」や「上級生に対する心構え」等の言葉から推し量るに以前投稿した内容にあった「軍人勅諭」を元にした訓話であった様な気がする。それらを総括すると「我は将校生徒なり」になるのだろう。

三郎 決意表明書?

夜、部屋に戻ったら母(千代子)からの手紙があったとある。
以前投稿した”昭和19年3月4日 母(千代子)から三郎への手紙”である。
我が子を軍隊に獲られた母親の悲しみと息子に要らぬ心配を掛けまいとする心情が入り混じった手紙であったが、それは三郎にも伝わったようで故郷を思いながら涙している。

現代の様な単なる一人暮らしであっても親にとっては淋しく悲しい気持であるのに、戦時中の軍隊への上京である。母と息子の心情は察してあまりある…。

 

三郎 振武台日記 vol.12

 

今回は三月八日の日記からなのだが、このメモ帳にある日記はこの日を最後に終わっている。

一応、「三月九日」の記載は最後の部分にあるのだが…。

別のノートに続きを書いたのか、或いは止めてしまったのかは不明である。

昭和19年3月8日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

******************
三月八日 水 晴 大詔奉載日
昨夜は少し寒かった。身体を横にし
ては不可ない事をつくづく覚った。
だが、今朝は起床は第一番であった。
嬉しい。これを続けよう。
午前中 区隊長殿の靴の手入れ、ソノ他
の学科、実際、等あり。又もや
軍隊の小さな事までも系統的
整理的に書物までになっているの
に驚く。十三時より大詔
奉載式あり。中学校の式
とは一寸が異うが米英撃
滅の決意を新たにした。その後区
隊長殿の禮式令の学科有り。そ
の後理髪に行く。理髪の早い
のに驚く。明日の参拝が嬉しい。
明日の晴天を祈る。
******************

”不可ない”は”いけない”だが、多分現代では全く使われていないだろう。

”身体を横にしては不可ない”とは、掛布団と身体との間に隙間が出来て寒いからと云うことであろうか。それにしても結構な寒さではある。

”起床”に順位があったようである。おそらく集合場所への整列の順位なのではないかと思うが。また数千人にもなる生徒全員の中でなのか、学年或いはクラス全員の中でなのか…。詳細は不明であるが、何にしても1番は嬉しいであろう。

7行目の”実際”の意味がちょっと解らなかったのだが、その後に続く”軍隊の小さな事までも系統的整理的に書物までになっているのに驚く”の内容からすると”軍隊の実際の現状”と云った意味の教科なのではないかと思うが…。もし御存知の方がいらっしゃったら御教示乞う。

”大詔奉載式”とは太平洋戦争完遂を目指して開戦直後の昭和17年1月2日に制定された国民運動のこと。開戦日に当たる毎月8日の”大詔奉載日”に行われた集会の様なもので、当時の内閣告諭には”官公衙、学校、会社、工場等において詔書奉読式を行ふこと”とあるので、ほぼ全国で一斉に行われていたようである。
小生も小学校の先生から「昔は朝礼で全校生徒が皇居の方に向って最敬礼をしていた」と云う話を聞いたことがあるが、こんな話をしていたと云うことは”日教組”に染まっていない先生だったんだなと思う。
まぁ、こういった行事が行われていたのだから、”米英憎むべし”の感情が生まれるのは当然の事であったろう。
因みに本日(令和元年五月二十六日)はアメリカのトランプ大統領が国賓として国技館で大相撲を観戦し、取組後の表彰式では”米国大統領杯”の授与を行った。今昔を感じた今日この頃である。

令和元年5月26日トランプ大統領大相撲観戦し米国大統領杯授与

明日9日は三郎たち新入生は東京へ行き、皇居・靖国神社・明治神宮へ参拝し入校報告をすることになる。この様子は今後の三郎から父(芳一)への手紙にてご紹介する。

 

昭和19年3月19日 康男(長男)から三郎への手紙

 

 

今回は長男の康男から三郎に宛てた葉書から。

 

最初の部分に父(芳一)が言伝を加えている。

昭和19年3月19日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓 (お父さんが書添える。大膳さんの所にはお礼を
取られぬ。ハガキで礼を云って出せ。
岩井柳作さん所へもハガキ出せ。急ぐ訳でもないが、
近所ハ大体お礼に廻った。)
野山も春めき、陽気を覚える候となったが、
其後御前も元気一杯研鑽に励んでいる
事と思う。家の方も一同無事、夫々の道に
奉公している。兄さんも本日の日曜、久方振りの
全休で帰宅休養を攝っている。御父さんは
日曜廃止で本日も御出勤。芳子も試験間近で
登校した。御前が入校して家もめっきり淋し
くなった様だ。御前の書斎はそのままにしてある。
予科士の生活にももう相当慣れた事と思うが、
何時でも明朗に、元気よくやる事だ。充分体
に気をつけた上でね。 では又。     敬具
***********************

相も変わらず芳一の字は小さくて読み辛い。
確かに小生が小学生だった頃、ちょくちょく我が家に来ては庭の手入れなどやっており、性格的に”マメ”であることは知っていたが、字が小さいのはあまり記憶がなかった。

言伝の内容としては、三郎の陸軍予科士官学校への入校及び上京への餞別を頂いたご近所さんにお礼を届けて廻ったが受取って下さらないお宅があるので、三郎の方からお礼の手紙出す様にとの由。

手紙・葉書が主たる通信手段であったので当然現代の我々よりは文字を書く機会が多く、またその作業には慣れていた筈だが、今小生の手元には当時三郎が書き損じたと思われる葉書が10枚程ある。おそらくもっとあったのではないかと思うが、忙しい日々の中での大変な労力である。つくづく便利な世の中になったものである。手書きの葉書など年賀や暑中見舞いで”お変わりありませんか?”と書く程度で、宛名に至っては何年も書いていない小生である。

さて、本題の康男の葉書である。

この年の3月1日付で船舶司令部の船舶練習部学生となって訓練を受けていた康男が久し振りの完全休養日で帰宅していたらしい。当時広島市に住んでいたが実家の三次は70キロ程しか離れていないので、鉄道で2時間程であったと思う。前日夜に出れば結構ゆっくりできたであろう。

のんびりするには幸いだったかも知れないが、折角の日曜なのに父は出勤、妹は学校、残っている母も床に伏していたのではないかと思うと逆に淋しかったであろう。
だからと云う訳ではないだろうが、三郎への手紙になったのかも知れない。
内容的にも様子を報せ三郎の健康を気遣う”普通”の手紙である。

このひと月ほど前の昭和19年二月に所属していた船舶司令部での集合写真があるのでアップしておく。因みに裏書には

広島市宇品町
 暁第二九四〇部隊村中部隊髙井隊
  将校見習士官少尉候補者
 第二次要員編成記念
    於 学庭
  昭和十九年二月吉日

とある。

19年2月暁二九四〇部隊 前列一番左が康男

昭和19年3月22日 三次中学の先輩 陸軍士官学校Yさんからの葉書

 

今回は三次中学の一学年先輩で既に陸軍士官学校(神奈川の相武台)生徒であったY先輩からの入校を祝福する葉書から。

以前の投稿で陸軍予科士官学校(振武台)が完成した当時の新聞の切抜きをご紹介したが、元々東京の市谷台にあった士官学校が神奈川の相武台に移転。その後市谷台に残っていた予科士官学校が埼玉の振武台に移転しており、三郎の一学年先輩にあたるYさんは陸軍士官学校の生徒であった。

昭和19年3月22日 Y先輩から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

********************
星、輝く御紋章の下に、金に輝く星を
見事かちえられたること、誠にお目出度く
存じます。期もよし六十期。一大勇猛心
を発揮して武将街道を驀進せられん
ことをスタートの必要なるは何事にも
同じ。今三中十九期の児玉中佐殿が
士校にいられる。じゃがさんと同期。高崎
の演習地にて御会いした。君の云う通り先輩
に負けず頑張ろう。では又。
********************

4行目の驀進の「驀」は葉書の文字と若干異なるが他に適当な字が見当たらなかった。略字か誤字ではないかと思う。他に難読部分は無かった。

児玉中佐と”じゃがさん”も三次中学の先輩の様である。生徒が全国津々浦々から集まっているからこそ、同郷の先輩・後輩の繋がりが強かったのであろう。

この葉書は士官学校から出されたものであり、宛名書面に「検閲済」の印が押されている。だからと云う訳かどうか解らないが、あたりさわりのない無難な内容になっている。
同級生と先輩と云う違いもあるので一概には言えないが、以前投稿した同級生からの手紙にあった進学や故郷の話等は書かれておらず「余計なことは書かない」と云った空気が感じられる。
一説によると当時の検閲に関しては「膨大な量の手紙や葉書を内容まで全て検閲するのは無理があり実際にはそれ程厳しくはチェックされていなかった」という話もあるが、少なくとも軍関係施設では厳しく実施されていたようで、それなりの効果はあったと思われる。

 

昭和19年3月24日 父(芳一)から三郎への手紙

今回は芳一から三郎に宛てた手紙。

入隊後1ヶ月が経過し、その間の家族や親戚の様子、軍刀の事等々色々と伝えている。

葉書だと強烈に読みにくい芳一の字であるが、今回は手紙と云うこともあり字が大きかったので割と読み易かったが、2~3苦労した部分があった。

 

昭和19年3月24日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年3月24日 芳一から三郎への手紙②
昭和19年3月24日 芳一から三郎への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■、▲▲ は芳一の知己で東京在住の方。三郎の上京でお世話になっている。

*****************************
去る三月九日頃に小包でマスク、仁丹、メンソレータム、ガーゼ等を小
包で送ったが入手したか。お母さんも手紙を出した筈だが手に入ったか。
中隊長、区隊長、河村軍曹殿へも三月十日にそれぞれ手紙を出して
置いた。今日丁度一ヶ月になる。二月二十四日に胸躍らして大泉学園駅
より徒歩で行った事を思い、丁度今日だと家でも話している。
二月二十七日はお前の入校決定日であったが、三月二十七日は芳子の
入学決定日だ。昨二十三日、二十四日、明二十五日と三日間、中等学校の
入学考査日で、芳子も朝六時半頃イソイソと出て行く。
百五十人採用に二百五十四名志望者あり。百名餘り除外される。
中学校は二百六十八名とかある由。三芝の正君の親類の太田校長
先生の長男(修二君)が中学校を受けるので二十二日の晩からその
お母さんと二人来て泊って、毎朝六時半から行っている。君田校で
一番だそうだから大丈夫入学するだろう。
芳子は如何なるやらわからん。二十七日が又待たれる事だ。
お母さんの病気も全快して毎朝早くから昔と変らず元気を
出して居るから安心せよ。
三月二十一日の春季皇霊祭には雨降りであったが、お父さんは板木の
玉井の小母さんが病気と云うのでお見舞なり、お墓参りに行った。
池田や玉井や長山を訪れて夕方帰った。玉井のオバさんは三月初
めから病気で休んで居られた。玉井にも昨年以来不運な事だ。
康男兄さんも十八日の晩に帰省してお前にハガキを出した筈。
敬さんも無事で居る。御向さんも二十二日に〇〇へ入隊したそう
な。三次はまだ寒むい。今朝も少し雹が降った。振武台は如何か
日本刀の立派なのを一腰求めてやり度いと思って、■■さんの昵懇
な河田力と云う老人に頼んだ處、日本刀鍛錬会の優秀作品
を陸士から注文されたら一丈夫置つる、との事故、前田区隊長
に御願して一振り手に入れて置きた度いと思って居る。陸海軍関係の
学校からの注文なら一振百四、五十円だそうな。が、一般人が申込めば
五、六百円するそうな。〇〇の方面からでも四百円位かかるそうな。
士官学校から注文した方が一番優利で確実に手に入るそうな。
お前のを一振り早目に求めて置き度いものだ。
陸軍記念日の前日には東京方面見学だったそうな。
もう大分校内の模様も判ったろう。大いに頑張って横山さんの
二代目となれよ。父母もそれのみ祈って居る。
大膳や藤井、三宅、山縣、板木の長山、二人の兄さん達へ時々
ハガキを出せよ。
日用品で入用のものはないか。入用品あらば様子せよ。送ってやる。
■■さん、▲▲さんから便りがあるか。
風を引かぬ様注意。殊に食物に留意して無事で勉強せよ。
お母さんや芳子よりもよろしく申出た。
三月二十四日夜
                           父より
  三郎様
*****************************

2枚目7行の「御向さん」は合っているか怪しいが、固有名詞だとちょっと解らない。
その後の「〇〇」も多分連隊か部隊の名称だと思うのだが、こちらも解らない。
もう一つ、同じく最後から2枚目の「〇〇の方面からでも」も解らなかった。

小包で生活雑貨を送っているが、現代の様に近くにコンビニがあるわけでもなく、家庭常備薬程度のものは生徒自身で調達しなければならなかったようである。家族や親戚の現況を報告しているが、やはり気がかりなのは妹(芳子:小生の母)の女学校入学試験のことである。
この手紙を認めている日の前後3日間が試験日で、父母共に気が気でない様子である。
芳一も「芳子は如何なるやらわからん」と書いている通り、芳子はどちらかと云うと「おっとり系」であったので心配したに違いない。

母(千代子)は「全快した」と書いてあるが、以前ご紹介した通り、本人の手紙ではまだまだ全快とは言い難い状況であった。

無事とはいえ、長男(康男)も訓練が終れば何時戦地へ送られるや分からぬ状況であり、次男(敬)も体調に不安がある。日本全体が暗雲立ち込めるなか、不安に満ちた日常であったに違いない。

追伸)
日本刀の購入のことも書いているが、芳一は骨董や刀剣に興味があった様で、戦後は趣味程度に蒐集していたようであるので、次回以降のどこかで刀剣に関してご紹介しようと思う。