昭和19年5月5日 三次中学同級生Mさんからの手紙 親友へ、そして自身へのエール…

 

 

今回はこれまで何度か投稿してきた三次中学の親友Mさんからの手紙。

残すところ二十日余りとなった陸軍予科士官学校も試験に備え猛勉強中のMさんからの、三郎への、そしてMさん自身への檄たる手紙である。

昭和19年5月5日 三次中学の親友Mさんからの手紙①
昭和19年5月5日 三次中学の親友Mさんからの手紙②

解読結果は以下の通り。

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拝啓 三原三郎君。青葉の五月となり心身の
ひきしまるのを感ずる様になった。今日、五月節句
であるけれも、時節柄鯉昇りは見られず、それ
に代って飛行機が「此処にも日本男児あり」と
叫んで居る。貴様相変らず振武台を
馳せていると思う。俺も相変らず元気だ。三中も
今頃は大改革が断行され、皆張切って、日夜大目
的に邁進している。今貴様三中に帰って見たら
恐らく吃驚するだろう。貴様と別れてから
早数ヶ月を経過した。軍隊生活にも馴れた事だ
ろう。近頃貴様はどんな事を學んでいるのか?
貴様必ず他人に負ける事なく、天下第一等の人
となり、三中の名声を天下に鳴らし給え。
俺の目指す大目的も目焦に迫った。余す所二十日
ばかり。必ず入るから安心して呉れ。一日も早
く軍服が着度いよ。貴様の軍服姿が見度い。
写真が出来たら一枚御願いする。
今日、柔道主任の木原先生の後任として、信永
先生を迎えた。照国みたいなデブだ。
尾関山の桜も散った。辺りは実に美しい。山が!!
高谷山も、寺戸山も、比熊山も緑だ。
つい忘れかけていた。――砂田義憲君は九州帝
大付属工高に入学した、がその後任副級長として
熱血男児、佐藤博君が撰ばれた。栗本も元
気で陸士・海兵の試験の爲に頑張っている。森保
も相変らず元気!!
吉か不吉か知らんが、三中の十二教の教室
の前の廊下に燕が巣をかけたよ。
「三原君!!」――ではない「三原!!」「三原!!」と永い間
親しくして来たが、君と別れて淋しいよ。然し
君が陸士を卒業し、俺が陸士か海兵を卒業して
共に立派な軍人になって、共に戦場で語る事を
思えば実に楽しいよ。
六月にもなれば吾々は通年動員として、四月が
六月が知らんが、軍需工場でペンを置いて働く事
となるだろう。然し喜んで働くよ。
気候の変り目、健康に充分注意あれ。
断片的にだらだら書いた。御免。
五月五日       ■■■■
陸士生徒
三原三郎 殿
「俺だ貴様だ」と大物を云ったがゆるしてくれ。
軍人志望の僕だから。
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五月五日(端午の節句)は男子の健康を祈願する日であるが、さすがに戦時下に於いては「鯉昇り」は自粛していた様子である。
それでも「青葉の五月となり心身のひきしまるのを感ずる様になった」と端午の節句に相応しい心境を語っている。
現代の世の中では「ゴールデンウィーク」として休暇を謳歌しながらも、片や「五月病」などと心身や体調の悪化を訴える季節と変わってしまっているが、当時の人々から鼻で笑われそうな有様である。

「鯉昇りに代って飛行機が…」とある。
実際に飛行機が飛んでいたのかも知れないが、広島の山間部の三次上空を当時日本軍機がどれだけ飛んでいたのか疑問であり、ちょっとググってみたところ以下サイトに戦時下の端午の節句のレシピとして「飛行機メンチボール」なるものがあったことを発見した。

https://kazu4000.muragon.com/entry/347.html

ひょっとすると、この「飛行機」をさしていたのかも(?)知れない。

さて、目前に迫った陸軍予科士官学校受験を控え焦りや不安はあるに違いないが、自信がある様子で軍人として三郎と再会することを楽しみだと語っている。

何度も言うが、当時軍人になると云うことは「かなりの確率で命を落とす」選択であった。
現代の我々が「ゴールデンウィーク明けに五月病になれる」のも命を懸けて戦って下さった先人のお蔭であることを肝に銘じたいものである…

余談だが、今回投稿した手紙の封筒は再利用されたもので裏返してみると元々は「南満州鐵道株式會社」の印刷のある社用のもので、Mさんのお父様がお母様宛に出されたものと思われる。
珍しい封筒だったのでご参考までに…

Mさん封筒の裏側に「南満州鐵道株式會社」

昭和19年5月10日 康男から三郎への葉書 龍顔?佳節?寿ぐ?

 

 

久し振りに長男康男の葉書である。

先日三郎が実家に送った手紙の内容と写真が康男の手許に届いた様で、その辺りが話題になっている。

昭和19年5月10日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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そろそろ暑さを覚ゆる時候となった
が、其後元気でやっているか。先日家の方
から写真が届いた。制服がなかなか似合う。
外出して撮った分も早く見たいものだ。
天長節観兵式には参列、龍顔を拝
する光栄に浴したそうだが、兄さんはニュースで
盛儀を偲んだ。兄さんは船上で佳節を寿いだ。
だんだん暑くなる、伝染病に罹らぬ様厳
重に注意する事。事項柄、特に精神の緊張を緩め
ない様に頑張れ。 では又。
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「龍顔」、「佳節」、「寿ぐ」と現代ではあまり使わない様な語彙を使っている。
それほど、天長節観兵式で三郎が大元帥閣下(天皇陛下)を至近距離で拝顔したことは三原家にとって”大事件”であったのであろう。
もちろん康男も羨ましく思ったに違いない。

因みに
・龍顔:天子の顔
・佳節:めでたい日。祝日
・寿ぐ:言葉で祝福する。祝いの言葉を述べて、幸運を祈る。「言祝ぐ」とも

伝染病に注意せよとの忠告がある。
当時の伝染病と云えば「結核」のことである。当時はある意味「国民病」であった。
しかし(小生も詳細は聞いておらず正確ではないが)おそらく千代子も敬も結核だったようで、その辺りの事情も康男は心配していたのであろう…

 

昭和19年5月16日 父芳一から三郎への手紙 「兄さんも光栄に浴したぞ…」

 

今回は父芳一から三郎への手紙である。

葉書とは異なり文字は大きいのでそれなりに読み易いのだが難読文字が幾つかあった。

 

昭和19年5月16日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年5月16日 芳一から三郎への手紙②
昭和19年5月16日 芳一から三郎への手紙③
昭和19年5月16日 芳一から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
  康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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其後元気で勉強に訓練に励しんで居ると思う。
先日写真を送ったが、あまり上出来でないので、他人には
やらない。市中で写ったがよかったら、お前の友人などにも
やってもよい。森保君も来ない。
学友とは書面の交際はしているか。人は一生交際を忘れて
はいけぬ。殊に竹馬の友とか、戦友とかは又格別だ。
■■さんとお父さんとの如き、よい実例だ。まだお父さんには
別にも親友がある。友ほどよいものはない。己に勝る
よき友を撰び求めて諸共に と云う歌の文句の通りだ。
家には、敬さんが四月上旬、身体に異和を感じ、十一日夜突
然熱発。十八日に帰宅して以来三階で療養に努めて
居る。熱も下冷し状態は極めて順調だが、何分、体質が
弱いので、相当な期間静養さすつもりだ。一歩誤れば
死だから、大いに注意して居る。お母さんもお父さんも
一生懸命に養生さすべく努めて居るから別に心配するな。
お母さんもほとんど元の体に回復した。栄養物も可なり手に
入って居る。板木のおばあさんから、卵も切らさぬ様に送って下さる。
お魚も次々と手に入る。兄さんは先づ高級客待遇で
やって居る。
一寸、十四日午後四時頃、康男兄さんも帰宅して、敬に「安臥
読書器」を買って帰ってやった。敬は喜んでそれを使っ
て毎日読書して居る。
■■君の家へ先日ウドンを六束送って置いた。何分近頃
よいものが手に入らんので困る。
お前は、菓子、果物など、外に不自由はないか。
身のマワリ品で入用の品あれば様子せよ。出来るだけ
送ってやる。
近頃、外出したのか。暑くなるから身体に無理をせぬ様
充分注意して、勉強せよ。
銀行の隣りの代々木巡査の御長男も先日、豫科を済ませて本
校に入られたらしい。私の宅へも一寸挨拶に来てくれた。
区隊長は矢張り前田大尉か。河村君達も無事か。区隊長
河村さんなどには一応手紙を出しただけだ。又最近手紙を
出すつもりだ。
康男兄さん、まだ当分宇品に居るらしい。六月末頃四国方面
へ転属になるかも知れんが不明だ。
三次も大分暑くなった。今年は畑のものがよく出来た。お父さん
が熱心にやるので、馬鈴薯も大分大きく伸びた。夏豆も
長く伸びて花ざかりだ。夏休みにはお前にも御馳走するよ。
三中の先生や友達にも時々通信せよ。
此頃、中等学校も国民学校も食料増産に一生懸命で、学
課の方は一ヶ月十日位しかやらないらしい。
近所にも前に変りはない。
身体の調子がよくない時は、早く受診して養生せんと
いけぬ。健康第一だ。
康男兄さんの所へも先日、高松宮、東久邇宮さんが来られて
一週間食事も一緒であったらしい。光栄に浴したとのことだ。
夜分寸暇でもあればハガキを送れよ。
では大事にせよ。■■さんへも時々ハガキを出せよ。
五月十六日 午後五時半 認む
父より
三郎さん
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芳一が社交的な人間であったことは以前このブログでも触れたが、三郎へも「友ほどよいものはない」と説いている。
小生が芳一の”社交性”を実感したのは芳一の葬儀の際(小生が中学卒業直前の昭和50年3月)に、当時外務大臣だった宮沢喜一氏からの弔電が届いた時である。
弔電が読み上げられると式場が「ほうー」とざわめき、小生も驚くと同時にちょっと鼻が高くなった気がしたことを覚えている。
まあ、宮沢氏と直接面識があった訳ではなく偶々氏の選挙区に住んでいたので秘書或いは後援会の方と面識があったからではないかと想像するが、いずれにしても人脈は豊富であった様である。

療養中の敬の様子、回復(?)した母の事、食料・物資の調達が難しくなってきた中でもなんとか栄養のあるものは調達できている事などが書かれている。
但し、三郎に余計な心配をさせまいとしているだけかも知れず本当に調達できていたかは疑問であるが…

先日の三郎からの手紙にあった「天長節大観兵式での拝顔の光栄」に対し、長男康男も「高松宮、東久邇宮さんが来られて一週間食事も一緒」だったと報告がされているのが微笑ましい。

「夏豆」とは枝豆のことだと思う。
芳一は小生が子供の頃も我が家の裏庭で枝豆を作っていた。
たわわになった枝豆を引っこ抜いて鞘の部分を手でしごいて落とす。
今にして想えば、採れたての枝豆を湯がいて食べるのは最高の御馳走だった…

 

昭和19年5月16日 母千代子から三郎への葉書 同日に父母別々に便り???…

 

今回の母千代子の葉書は前回投稿した父芳一の手紙と同じ5月16日に認めらている。
同じ日に投函するのなら同封した方が料金も安上がりだし、受取る三郎にしても楽だと思うのだが…

何か理由があったのだろうか…

昭和19年5月16日 千代子から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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五月晴れの好季となりました。其後
三郎さんは変りなく元気で勉強して居る事
と思って居ります。家の方にも変りありません。
父様も芳子も元気で居ります。敬さんも日々
元気に向って居ります。十三日には芳子は光子
さんと板木へ行きました。十四日には兄様一寸と
帰り、十五日朝一番で帰隊。十八日頃から丸亀の
方へ一寸と行くらしい。母さんも元気で毎日をや
って居りますから安心して。■■様へ小包を昨日やっ
と出しました。目方が多くなって思うほど送られん。
暑くなりますから充分気をつけて勉強なさいよ。
************************

内容的にトピックはなく、芳一の手紙に詳しく書かれているものばかりである。

「十三日には芳子は光子さんと板木へ行きました」とある。
板木は(多分)芳一の実家があった町で三次から10km程離れた場所である。
ググってみたところ、「十三日」は土曜日であり女学校から帰宅した後に光子さん(友人と思われる)と一緒に祖父母の所へ行った様である。

さて、冒頭にも記した様に「なぜ父母別々に便りを出したのか?」が孫としてチョット気になったので考察してみた。

夫婦仲が悪かったのだろうか?
特別仲が良かった訳でもないだろうが、悪かったような状況は当時の手紙等からは感じられないし、小生も芳一や三郎、芳子からそうした話は聞いた記憶はない。

消印を確認したところ、千代子の葉書は「5月16日」であるのに対し、芳一の手紙は「5月17日」と翌日である。
多分、帰宅後に千代子から葉書を出した旨を聞いた芳一がもう少し詳しい内容を三郎に伝えてやろうと手紙を書いたのではないかと想像するのだが…

しかし、療養中の敬の事や戦地への出征が間近な康男の事などで家庭内がギクシャクしていたとしても無理はないので、その辺りの影響も排除できないとも思う。

まぁ考えてみれば、当時心配事も無く円満に暮らせていた家族など日本には存在しなかったのかも知れないし…

 

昭和19年5月30日 お待ち兼ねの寫眞が出来ました… 三郎から父芳一への手紙

 

前々回の投稿で麻布の写真館で撮影した三郎の写真が届いていない状況の投稿をしたが、今回はその写真が無事届き父芳一へ発送した際の手紙の投稿である。

実際には”紛失”であったのか”誤配送”であったのか定かではないが、加治写真館さんからの手紙が5月25日のものであり今回の手紙が5月30日と数日しか経過していない事から”誤配或いは遅配”であったと思われる。

昭和19年5月30日 三郎から芳一への手紙

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お待ち兼ねの写真が出来ましたからお送
り致します。
其後元気でお勤めの事と思います。
私も其後元気で暮して居ます。
敬兄さんは其後お変りありませんか。大分
食欲も進まれる様になられたとの事、安心
致しました。
畠の野菜は生長しましたか。銀行の裏の豆
は大きくなりましたか。
芳子に宜しく伝えて下さい。体をこわさぬ様作業
する様に。           では又
**********************

同封されていた東京麻布の写真館で撮影されたその写真は小生の手許には残っておらず三郎の雄姿をご紹介できないのは大変残念である。

だからと云うと大変失礼であるが、康男、三郎の友人と思われる方々の雄姿が何枚かあったのでそちらを投稿させて頂く。

雄姿①
雄姿②
雄姿③
雄姿④
雄姿⑤
雄姿⑥

因みに今日12月8日は開戦の日である。
様々な考え方や見解はあるとは思うが、国家滅亡の危機に瀕して勇敢に戦って下さった先人に心より感謝したい…

 

昭和19年5月30日 父芳一から三郎への手紙 コストパフォーマンス?貧乏性?ケチ?…

 

今回の投稿は芳一から三郎への葉書。

相不変(「相も変わらず」当時の様に記してみた…)特に葉書の場合は極小文字で解読し辛い我が祖父の文字であり読む側にとっては結構な苦痛なのだが、今回も時候、家族の近況、ご近所の状況等々四方山話満載の一葉となっている。
まぁ、コストパフォーマンスが高いと云えば聞こえは良いが…(笑)

 

昭和19年5月30日 芳一から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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三次も時下大分夏らしくなり、日中は相當暑くな
った。振武台にも同様夏が訪れた事と思う。もう夏衣裳だ
ろう。暑くなると訓練も相當なものだろう。血気にはやって
躰を損わぬ様充分注意せよ。人間の躰力にも大体程度
があるから、無理をすると敬兄さんの二の舞を演ずる事に
なる。兄さんも大分無理して居たので体が負けた訳だ。
それでも一ヶ月余りの静養で余程よくなって、大分肥った様に
思う。勿論熱もないし食べるのもよく食べる。康男兄さんから買って
貰った安臥読書器で毎日読書して居る。芳子も元気で通学
してる。お母さんも元気になった。近所にも変りない。久留島さんが
尾道に転宅され、後へ十日市青年学校長に就任した正君の親類の
太田章校長が転宅して来て賑やかになり、よいものをチョイチョイ
戴くよ。康男が二十八日に帰って二十九朝一番で又行った。六月一杯
は動かぬらしい。藤川は六月中に休職で帰るとかお父さんが
云って居た。■■さんから手紙で礼状が来た。二十一日に待たれたらしい。では
元気でやれ。十日市の小川新聞店のオジサン死んだよ。
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芳一はケチだったのか?
いや、ケチではなくモノを粗末にしない人だった。

チリ紙や爪楊枝は一度使ったくらいでは捨てずポケットに仕舞って何度か使っていた。
夏にスイカを食べた後は残った皮の部分を漬物にすると言って芳子(芳一の娘で小生の母)を面倒くさがらせていた。
食パンにカビが生えていても「その部分だけ取って焼いて食べれば大丈夫!」と芳子の制止を振り切ってムシャムシャ食べていた。
小生に「お茶碗にコメ一粒も残すな!」と躾けてくれたのも芳一だった。

とまあモノが溢れている現代の感覚からすれば「ケチ臭い」かも知れないが、生活必需品ですら貴重であった戦中~戦後を経験した芳一や同世代の人々にとっては当たり前の「勿体ない」であった。

そもそも日本人の感覚に於て「勿体ない」とは「物に対する畏敬の念や感謝」であり「損得勘定」よりも優先されるべきコンセプトの筈であるが、現代社会は利益を貪るあまり「勿体ない」を蔑ろにしているのが実態であろう。

「衣食足りて礼節を知る」と云うことわざがあるが、見た目の綺麗さや(過剰な?)清潔さを求めるあまり多くのモノが「粗末」にされている現在の状況を目の当たりにするにつけ「衣食足り過ぎて礼節を忘れる」と云うことわざも有りだなと感じる小生である…