昭和19年4月17日 康男から三郎への葉書 かなり乱筆…

 

今回は長男康男から三郎への葉書

母千代子からの言伝で三郎宛の荷物を手配した旨が記されているのだが、達筆な筈の康男にしては結構な乱筆であるところが気に掛かる…

 

昭和19年4月17日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

*********************
御葉書有難う。其後元気にて
精進している由、安心した。兄さんも
元気で頑張っている。そちらもそろそろ
櫻の見頃と思う。広島も満開というところ
だ。故郷は月末位に妍を競う事
だろう。所望の品々、母上より通知があ
ったので、家の方へ送っておいたから、何れ
入手する事と思う。無暗に手に入らぬ故、
心して使用する事。では体に気をつけて
頑張れ。
*********************

5行目の「妍を競う」は、葉書には「女ヘンに研」と書かれているが、どうもこれに該当する漢字が見当たらないので恐らく「妍(うつくしい)」の間違いだと思われる。

内容としては大したことを書いている訳ではく心配する部分などないのだが、どうも「乱筆」が気に掛かる。

この昭和19年4月当時は、南方や大陸各戦線で防戦一方となった戦地への兵站が急務となっており、康男たちの部隊の出兵も間近になったことは間違いないであろうし、当然その状況も部隊内部では周知されていた筈と思われる。

また、上官や先輩将校の戦死の報せなどの噂も耳にしたかも知れず、”何時出兵命令が出されるのか”と云う緊張を強いられる中で日々厳しい訓練があり、体力的にも精神的にもかなり極限に近い状況にあったに違いない。
そんな諸々が「乱筆」となって表れてしまったのではないかと思う。

因みに、この当時康男は広島市千田町という所に下宿していたのだが、近くには京橋川に架かる御幸橋がある。
この「御幸橋」は原爆直後の惨状を撮影した数少ない写真の現場となった場所であり、原爆資料館に展示されたり教科書に掲載されたりしているその写真は知っている方も多いと思う。

被爆直後の御幸橋

康男が広島を離れてから一年後に原爆は投下された。

 

昭和19年4月18日 三中同級生Yさんからの葉書 三郎の受験指南?

 

ここの所、三次中学同級生からの便りが続いているが、五年生への進級組は軍関係学校の受験が近づいているにも拘らず、戦争による労働不足を補うための「学徒勤労奉仕」に動員され勉強が捗らず、皆疲れ焦っている様子である。

今回もそんな同級生Yさんからの葉書。

 

昭和19年4月18日 三中同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
拝復 お便り、御指導有難う。永らく失禮
して居た。悪からず。君も元気とのこと安心した。
俺も元気旺盛にて日夜来るべき決戦に備
えて居る。しかし今頃は作業々々で準備は
なかなかはかどらない。だが気分だけは確かだ!!
将に今年こそ決勝の年だ。
陸豫士受験者は多数ある。五年生に三十と若干
名、四年生も五年と大差なし。有望だろう。
これこそ三中魂の発露だ。(御指導を乞う)
末筆乍ら今日はこれにて失禮する。何卒身体に
十分注意して、君の本分に邁進せられんことを、
巴狭(峡?)の地より祈る。
***********************

冒頭に「御指導有難う」とある。
受験に於いて勉学はもちろん重要であるが、事前準備や心構え或いは受験当日の雰囲気なども疎かにできない要素で少しでも知っておきたい情報であり、三郎は一足先に入学できた者として、これらの情報を同級生達へアドバイスしていたと思われる。

振武台での厳しい授業や訓練で疲れていながらも同級生達との手紙のやり取りを続けていた背景には、単なる友達意識の為だけでなくこう云った重要な情報交換の必要があったからだと思われる。
Yさん含め陸軍予科士官学校を受験する同級生や後輩達に是非合格して欲しいと云う思いが強かったのであろう。

 

昭和19年4月19日 舞鶴海軍機関学校 Nさんからの葉書

 

今回は京都府舞鶴市の海軍機関学校に在学中であったNさんから三郎に届いた葉書。

Nさんが三郎とどういう関係なのか不明なのだが、宛名に「三原三郎 君」としている部分と手紙の内容に故郷三次の状況が記されている事などから、恐らく三次中学の先輩であろうと思われる。
と云うことで今回は宛名面も画像添付するが、やはり軍関係の学校からの郵便物なので「検閲」の印が押されている。

昭和19年4月19日 Nさんからの葉書
昭和19年4月19日 Nさんからの葉書(宛名面)

解読結果は以下の通り。

***************************
前略 永い間失礼して誠に相済まない。
豫科士官学校の生活にも大分慣れて来た事であろう。自分
も其後益々元気で頑張っている。訓練等も相當
はげしい事と思うが、如何なる困難にも負けず頑張精神を以
て斃れて後止むの意気で邁進される様祈っている。
日々の生活は即戦場の覚悟で大いに張切ろう。三次も春となっ
て櫻花爛漫としているそうだ。舞鶴も段々気候も良くなり
快晴の日が續くだろう。体に充分注意して元気にやろう。
では最後に君の健康を祈る。
       四月十九日
***************************

舞鶴の海軍機関学校と聞いて少々驚いた。

つい最近インターネットの雑誌無料立ち読みで偶然「特攻の島」と云うマンガを最初の1~2巻だけ読んだのだが、この作品に描かれている人間魚雷「回天」の考案開発者の黒木大佐はこの舞鶴海軍機関学校の出身である。
因みにこの黒木大佐はこの半年ほど後の昭和19年9月7日に「回天」開発中の事故で殉職されている。
恐らく在校中であったNさんもその悲報を聞かれたであろう…

小生もまだ全巻読んでいないので内容についてのコメントはできないが、ご興味のある方は読まれては如何だろうか?

黒木大佐 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9C%A8%E5%8D%9A%E5%8F%B8

特攻の島 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%94%BB%E3%81%AE%E5%B3%B6

葉書の内容自体は「お互い頑張ろう!」と云ったところであるが、当時の戦況を考えるととてもそんな心境ではなかった筈であり
「日々の生活は即戦場の覚悟で大いに張切ろう」
と云う言葉が現実味を帯びている。

現代の我々には想像すら難しい精神状態だったであろう…

 

昭和19年4月20日 母(千代子)から三郎への手紙 75年前の桜の押花入り

 

今回は約二週間ぶりの母(千代子)からの手紙。

中国地方ではどちらかと云えば寒い地域の三次も桜が盛りとなる季節となったことで、千代子の体調も少し良くなった様子が伺えるが、入れ替わる形で次男の敬が体調不良で自宅療養となってしまった。
心労の種は尽きない…

昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙④

今回の手紙は少々乱筆気味で難読文字が幾つかあったので、誤読があるかも知れないことをご容赦願う。
解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。
**************************
三郎殿 其後変りなく元気でやっていますか。
家の方にも皆変りた事はありませんから安心して下さい。
お父様も時々出張されます。芳子も元気で通学
しています。ほとんど仕業らしいですよ。

敬兄さんが先日来より躰の具合が一寸と思う様
にないので帰っています。少し無理をして勤め
たらしいです。三月二十八、九日に一寸と帰りた時は
元気であったが、今少し静養させた方がよろしい
と気分を安心に幾年かかっても元気にして
やらねば可愛想ですからね。別に心配せんでよろしい。

三次の桜も今頃が盛りです。昨日一寸と雨が降り
て、盛も一、二日中でしょう。桜の花も昔からよく
申した言葉で、パット咲いてきれいにちります。
唯れ一人花見らしい姿も見受けませんよ。
どうでも尾関山は桜の木を切って畠にするとか、
国民学校の生徒が今日も今日もと尾関山の下へ
ジャガイモやナンキンをうえつけています。

ニ、三日前に森保君が写真の代金のつりを
持って来てくれられた 手紙の中に写真は入れて
送りてやると申しておられた。お母さんも毎日
ぼつぼつ家の事や兄さんの食物におわれて
居ります。■■様方へ小包を送り出して
おきました。何かよい物があればと思うが
これとてなく、近日心配して送りますから
別に気をかねる事なく、よらしてもらって
遊びなさい。■■様方へはめいわくはかけませんから。

芳子の写真も兄さんが今少し気分がよろしく
なったら、うつして送らせますよ。
此の中の桜の枝は国民学校の桜ですよ。
芳子が取って来て、兄さんに送ってあげるのだ
と、本の中に入れておいた。

時々は板木の御老人へお便りを出してくれ。
又様子してあげます。
此の上とも充分躰に気をつけて病気に
ならぬ様注意しなさいよ。
兄さんよりもよろしく。

三郎様
母より
**************************

次男の敬が体調を崩して自宅療養をしているようである。

敬は元々虚弱体質で、恐らくその影響で徴兵検査に合格できなかったらしい。
「…らしい」と書いたのは、敬のこの件に関しては母からも祖父からも詳細は一切聞いたことがなく、「あまり体が丈夫ではなかった」としか聞かされなかったからである。
恐らく内臓疾患か結核(発症前)だったのではないか?と想像するが定かではない。
千代子は軍人になった康男と三郎の行く末を大いに案じていたが、それにも増して「軍人になる事さえも叶わない」敬を不憫に思っていたようである。
因みにこの年の旧盆に三郎が帰省した際に撮った敬と三郎の写真があるので貼っておく。
(※敬はやはり生気がない様子。三郎の写真は露出に失敗したのか、かなり不鮮明)

昭和19年8月19日 敬自宅にて①
昭和19年8月19日 敬自宅にて②
昭和19年8月19日 三郎自宅にて①
昭和19年8月19日 三郎自宅にて②

桜の花にも触れている。
三次の名所である尾関山は桜の名所でもあるのだが
「唯れ一人花見らしい姿も見受けませんよ」
と千代子も言っている通り、当時は花見に興じるような情勢でないことは皆判っていたのである。

「あの時の桜」を芳子が押花にして三郎に送っていた。
手紙の最後に添えてある「ひとひら」がそれである。

色褪せてはいるが辛うじて「さくら色」だ。
75年前に愛でられることなく散っていった桜
今から愛でてやるか…

昭和19年 桜の押花

 

昭和19年4月22日 熊本薬科入学の同級生Yさんからの葉書

 

先日、熊本薬学専門学校への入学が決まった旨の連絡があったYさんからの葉書。

目指した旧制松江高校への夢が叶わず少なからず落胆していたが、その後の三郎からの便りなど友人達から慰められたようで気を持ち直している様子が伺える。

昭和19年4月22日 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

**************************
有難う。君があゝ言って呉れ(た)のが一番嬉しい。僕は是が非
でもしっかりとやる積りだから、御安心を願う。本當に僕の事
に気を遣って呉れて。君の課業に支障を来たしたかも知れぬが
此處にお詫をする次第だ。君は仕務に追われているだろう。
然し、僕も多忙で暇を見付けぬ限は、ろくに手紙を書く時もな
い。それ程時勢は逼迫している。講義も今年の中に一年生の
授業は了えて、更に三学期からは二年生の講義を始めるのだ
そうだ。夏休暇も廃止だしね。何も今は平時とは異なっている。否、
皇土の一端が醜敵米英に汚されているのだ。日本の興亡時だ。
僕は君の事を胸に置いて励んでいる。君は必ずとも、頑張って呉れ
なければならない…。こちらは正に初夏の候。花は散り、新緑萌
えだして心機一轉の時。実習々々と日を暮れさす。そちらには
お変りなきや?女恋しき事あらば僕を恋人と思え。奮闘を祈る。
**************************

三郎がどんな言葉をかけたのか不明だが、Yさんとしては有難かったようで甚く感謝されている。
そんなやり取りから、三次中学在学中も仲良しだったと想像できるが、
「女恋しき事あらば僕を恋人と思え」
はちょっと気持ち悪い。(笑)

戦況が悪化の一途を辿るなか、学生達を一刻も早く一人前の戦力とするために講義や実習は全て前倒しされ、夏休みはおろか土日すらまともに休めなかったのではないかと想像するが、皆黙々と頑張っていた…いや、頑張るしかなかったのである。

差出しの住所を見ると「熊本市大江町九品寺」とある。
ネットで確認したところ現在の熊本大学医学部・薬学部のすぐ傍である。

因みに三郎は終戦後、熊本医科大学に入学している。
なぜ熊本だったのか小生が知る由もなかったのだが、この仲良し状況からすると”Yさん”の存在が三郎を熊本に向かわせた大きな理由だったのかも知れない…

 

昭和19年4月23日 妹芳子から三郎への葉書  ありがたう と さやうなら

 

今回は妹の芳子からの手紙。

内容的にはなーんの変哲もない葉書である。
歴史的な意味合いなど一切なく単なる依怙贔屓だと言われても仕方ないのである。
なぜなら小生の母だから…

昭和19年4月23日 芳子からの葉書

解読結果は以下の通り。

********************
兄さん、お手紙ありがとうございました。
學校までの距離が約二粁位ありますが
毎日元気で登校してもあまり体はつか
れません。三次も晴天の日には夏のような
太陽がかんかんと照りつけてとてもあつい
です。近頃はたびたび作業に出動するこ
とがあります。冬で色が白くなっていた
のが、大分黒くなって来ました。
お父さんもお母さんも元気ですから安心
して下さい。   さようなら   芳子
********************

とまぁ、やはり何の変哲もない葉書なのだが、投稿する以上は何か意味を持たさねば…と暫し眺めたところ、ちょっと面白い事に気がついた。

解読文に関しては小生が「現代仮名遣い」に改めているが、原文(画像)では「ありがたう」・「さやうなら」と「旧仮名遣い」で書かれている。
戦時中だから当たり前なのだが、これまで投稿してきた芳子よりも年上の他の人たちの文章を見ていると、案外「現代仮名遣い」と「旧仮名遣い」とが混在しているのである。

「現代仮名遣い」は発音と表記を出来るだけ一致させる(「表音的表記」にする)ことで従来の「旧仮名遣い」での複雑(不便)さを解消したものである。
しかし「現代仮名遣い」が正式に使用されたのは戦後になってからであるにもかかわらず、既にこの当時「表音的表記」である「現代仮名遣い」が一般化していたと云うことが意外である。

若い人には聞きなれない話かも知れないが、料理の「さしすせそ」の例が判り易いかも知れない。
さ → 砂糖
し → 塩
す → 酢
せ → 醤油(せうゆ)
そ → 味噌
なのだが、「せうゆ」と表記しても「しょうゆ」と発音していた。
確かに判りづらい…

勤労奉仕作業で日に焼けて「大分黒くなって来ました」と書いているが、芳子は元々いわゆる「地黒」で本人は気にしていたようであった。
小生もその血を継いだようで「地黒」である。
因みに姉は父親に似たのか割と色白で、芳子は事あるごとに
「マサヒロ(小生の名前)がクロうて良かった。ケイコ(姉の名前)がクロかったらほんまにかわいそうじゃったもんねぇ。」
と小生の気持ちなど微塵も考えていないことを口走っていたものである…

 

昭和19年4月25日 三次中学同級生Sさんからの葉書 三次も春闌(たけなわ)…

 

本日も三次中学同級生からの葉書である。

さすがに内容的に似たような(決して便りを出された方々を揶揄している訳ではない)投稿が続くと閲覧して下さる方々もつまらないのでは…と考えてしまうのだが、内容は似ていてもあの時代の真っただ中で一生懸命生きていた人々の声や気持ちを少しでも多くの人々に知って頂くためのブログであることを再認識して続行させて頂く。

昭和19年4月25日 三次中学同級生 Sさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

***************************
春も漸く闌となりました。【一昨日国語の時間に予習不足で
岡部先生に相当余が
しぼられた。(ヲハリ)】
相変らず元気で練成に励んで居る事と思う。
こちらは皆元気だ。
校庭の桜も正に満開。次にニュース。
上川先生が因島へかえられた。又、木原先生が広島へ
轉勤なさった。沢井先生が(軍曹)教練の先生
として来られた。今頃は軍事教練として手旗・
モールス信号を習っている。
陸軍関係、今年は約百名、海軍関係約五十名
八木君が広工と高等商船と二つパス。広工へ行ったらしい。
御健康を祈る。乱筆にて失礼。
では又。
***************************

「闌(たけなわ)」など当時の若者は難しい漢字を遣っていたんだなぁ…と感心しながら、ちょっとググってみた。

「宴も闌となりましたが…」などと結婚披露宴や忘年会などでよく耳にする言葉であるが、「闌」とは「最高潮」を指すものと思っていたが、正しくは「盛りを少し過ぎた頃合い」を指すらしい。
確かに一番盛り上がっているときに水を差すのは無粋であろう。

さて、故郷三次も春闌となり母校の桜も満開との報せ。
先日の母千代子の手紙にあった様に、さすがに戦時下の非常事態に於て花見に興じる人はいないが、それぞれの心の中には例年の様に桜を愛でる気持ちが残っており、三郎もそのあでやかさを思い出したであろう…。

高等商船と広島高工に合格した同級生の八木さんの動向に関しては、以前投稿したMOさんの情報では「高等商船に行く」となっていたが、今回は「広島高工」となっている。
どちらかの情報が間違っていたのか、進学先を変更されたのかは不明であるが、当時「高等商船」は海軍に直結した学校となっており親・親戚などからの反対等あり考え直したのでは…と小生は感じている。

国家全体が戦時色に染まった時代である。全ての国民にとって厳しい状況ではあったが、自分の進みたい道が学問や研究であった若者たちにとっては特に厳しく辛い時代であったと思う。

 

昭和19年4月30日 三郎から父芳一への手紙 天長節大観兵式での大感激を報告

今回は三郎が父芳一に宛てた手紙の投稿。

昭和19年4月29日天長節に行われた大観兵式に召集された際の大感激を興奮冷めやらぬ様子で父へドヤ顔(?)で報告している。

現代でも天皇陛下を至近距離で”拝顔”できる機会はかなり稀だが、当時の国家体制から考えれば”ドヤ顔”どころか一生の自慢話であり、青年三郎の興奮度は相当なものであったであろう。

昭和19年4月30日 三郎から父芳一への手紙

解読結果は以下の通り。

****************************
本丗日外出シテ確カニ小包受取リマシタ。開クノモモドカシク
嬉シクテ故郷ノ香ガ致シマス。色々ト心配ヲオ掛ケ致シテ済ミマセン。
昨廿九日天長節ニハ大観兵式ニ陪観シ実ニ二十米モ離レナイ
所ニ大元帥陛下ヲ仰ギ、恐懼感激所措ク知ラズト云フ所デス。
神々シキ御姿ヲ生マレテ始メテ仰イダノデスカラ當然デス。
陛下ノ御後ニ、三笠宮、高松宮殿下ヲモ拝顔致シマシタ。
東條サンモ勿論、私ノ中隊ノ次ノ中隊ニ東條サンノ息子サンガ
二年生ニ居ラレマス。非常ニ良ク似テ居ラレマス。眼鏡モツルガ上
ノ方ニツイタ円形デナイノヲカケテオラレマス。背丈ハ小サイ方デス。
毎日見マス。ソレカラ、私ノ學校内デ寫シタ寫真ガ出来マシタ
カラ、オ送リ致シマス。コレハ夏休暇ノ時ノ服装デス。余リ寫真
屋ガ上手デハアリマセン。東京都内ニ外出シテ寫シタノガ五月上旬
ニ出来上ル予定デスカラ、コノ寫眞ヲ分配スルノハ考ヘテ行ッテ下サイ。
東京ノ写真屋デ撮ッタノハ半身デ、ヤハリ十枚アリマスカラ。コノ寫
眞ヲ森保ガ二枚位貰ヒニ来ルカモシレマセンカラ、来タラ渡シテ
下サイ。
兄サンノ躰ノ具合ハ如何デスカ。芳子ハ元気デスカ。
オ母サンモ無理ヲセラレヌ様オ願ヒ致シマス
****************************

既にお気付きのこととは思うが、今回の手紙は「漢字とカタカナ」で書かれている。
戦後世代の人間にとって”カタカナ”は外来語を表すイメージが強いが、戦前教育では”ひらがな”より先に”カタカナ”を教えており、公文書なども同様に「カタカナ混じり文」であったことなどから当時の人々は”ひらがな”よりも”カタカナ”の方に馴染みがあった。
ただ普段は「ひらがな混じり文」であったのに何故この手紙を「カタカナ混じり文」で書いたのかは不明である。
飽くまで想像であるが、大元帥(天皇)陛下はじめ皇室の方々の様子を記す関係で公式文書並みに格式のあるものにしたかったのかも知れない。

大元帥陛下、三笠宮、高松宮殿下に続き、東條首相のことに触れているが、皇室の方々に比べ「東條サン」と呼んでいるところが興味深い。
三郎が、当時陸軍大臣、参謀総長も兼務していた東條首相を小ばかにしているとは考えづらく、どう云った状況なのか考えてみた。
小生は子供の頃母(芳子)が「東條さんはいいおひと~♫」と唄っていたのを記憶しており、当時そんな流行り歌があったのであれば「東條サン」と云う呼称も尊称に近いものだったのかも知れない。はたまたそのご子息が陸軍予科士官学校の一学年上の中隊にいることで親近感があったのかもしれないが…

この時の天長節大観兵式の様子がYouTubeにあったのでURLを添付しておく。
この画像のどこかに三郎が写っているかも知れない…
https://www.youtube.com/watch?v=bAuGgqsepzk&list=PLfCTKikq6ntkik5vS02YTA_T30i5E7yJ3&index=9&t=12s

ある程度年配の方々には釈迦に説法となってしまうが、一部ご存知ない方のために説明させて頂く。
「天長節」とは、明治元年から昭和23年までは天皇の誕生日で当時は4月29日であった。終戦後昭和24年から「天皇誕生日」に変更され、昭和天皇崩御直後に「天皇誕生日」ではなくなったがゴールデンウィーク期間の休日であったことなどから「みどりの日」として祝日のまま存続。平成19年に「昭和の日」と名称変更され現在に至る。
ただ、小生などの昭和に生まれ育った世代には「4月29日=天皇誕生日」が染みついてしまっている…

写真を同封していた様だが、確実ではないが以前投稿した下の写真ではないかと思う。

昭和十九年四月九日 三郎十八歳 陸軍予科士官学校にて

 

昭和19年5月2日 三次中学・陸軍予科士官学校先輩Yさんからの葉書 差出地は千葉県四街道 陸軍野戦砲兵学校に…

 

今回は当ブログでも何度か投稿した三次中学・陸軍予科士官学校の先輩のYさんからの手紙。

前回(7/14)に投稿した昭和19年4月8日付の手紙の差出地は神奈川県の相武台(陸軍士官学校)であったが、今回の手紙は千葉県四街道の「陸軍野戦砲兵学校」となっていた。

昭和19年5月2日 Y先輩からの葉書

解読結果は以下の通り。

*******************
拝啓 観兵式陪観せられしや。此度は
我等が参加しなかったから貴様等には
淋しかったろう。外出しているか。大いに
鋭気を養うべく、しゃばの空気にまけんで
しっかり外出し給え。小生、此の度満州へ
行くことになった。本校では、昨日記念祭
あり。面白いものを見たよ。六月頃会おう。
元気で勉強し給え。他の面々は何処。
*******************

差出し元住所は「陸軍野戦砲兵学校 教導聯隊 第八中隊 見習士官 〇〇〇〇」となってる。
早速、「陸軍野戦砲兵学校」をググってみたところ、以下サイトにて詳しく説明されていたのでご覧頂きたい。

https://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/e/003e75e131f09cba13340cdc966f9597

こちらのサイトの説明によると、「160名ほどの募集に対して、1943年には47倍もの受験者があったという」とあり、相当の難関であったことが伺える。
父芳一が三郎に「Y先輩に負けるな」と言うほど優秀な人物であったが、この難関校に入学していることでその事実が明確になった。

しかしながら同サイトには、この1944年に多分Yさんの1学年上級生と思われる同年に繰上げ卒業となった方々の殆どが戦死した状況も記されてる。(実際にこの卒業生の方々が門司港を出港されたのがこの葉書より前か後かは不明であるが、元々の教育年限が2年であったことを考えると恐らくこの後と思われる。)
いかに秀才でシッカリしていたとはいえ、十代の青年であったYさんにとっての衝撃は計り知れないものであったのではなかろうか…

小生のような平和ボケの戦後世代は、つくづく「途方もない時代」であったことを実感させられてしまう事実である…

 

昭和19年5月4日 母千代子から三郎への手紙 軍隊に征く我が子も病弱な我が子も 母の愛は海よりも深し…

 

今回は母千代子から三郎への手紙。

軍人となった長男、陸軍予科士官学校で軍人を目指す三男を心配しながらも、病気療養にて軍隊にも征けない次男のことを「可哀想だ」と我が身の病気も忘れ看病している。
将に「母は強し」である。

昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙④
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙⑤
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙⑥
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙⑦
昭和19年5月4日 千代子から三郎への手紙8

千代子の手紙は字が大きく(亭主の芳一とは対照的)読み易いが、今回は8ページに亘る”大作”である。幾つか誤字と思われる部分もあった。

解読結果は以下の通り。
注)■■は父芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

**********************
三十日出しの写真受取りました。
なつかしく家中で見ました。
相変りなく元気で何よりだ。
家に居た時、兄様の服など
かりて、早く学校へ行き度い
と云れて着て見た時と同じだ。
矢張り年は争えぬ。まだまだ
大きくならねばいけませんね。
家にも別に変りありません。
敬兄さんも安静に三階で
休んで居ます。三十日に父様
は祇園へ行って大兄様と二人で
下宿へ行って、あらかじめ荷物を
しまって、自動車の便があったので
送りました。(新見様の荷物が広島
へ行ったので、其の帰りに積ませて
かえりました。)まあ、当分休まねば
いけまい。別に心配もないが、一寸と
無理をしたらしい。静養の必要が
いりますのよ。夏休みには見られます。
電蓄もかっています。病気する
子供は、なお可愛想だ。これも運命
とあきらめねば仕方がない。
せめて軍隊に出てからならとも
思うが、世の中は一升にあまる事
はないと昔から云うが、ほんとだよ。
大兄さんも六月中は広島にまだ
居られるらしい。二十六日から四日間、大阪
の方へ実習に行ったらしい。大阪では
大もてであったとか。汽車のせいげん
で、なかなか帰って来ませんのよ。
お前の写真も兄さんへ送ってあげろ。
芳子も元気で休みなく通学して
います。三次の桜も散りて
今はツツヂの盛りですよ。
内のカヂカも去年と同じく
元気です。三階で兄さんと寝て
います。夜三階で居れば尾関山
の下の川で、カヂカが鳴ているよ。
兄様が病気せねば、家で三人の出世
を祈って他の心配はないけれどね。
敬が帰ってからは、私の病気は
どこへ行ったやら。とても元気になった。
メタボリンの注射もやめて、敬にして
います。三階の上り下りも一日一回
でも、足がだるくていけなかったのに。
一日には何度するか知れんが、夜分は
すっかりつかれてねますれど、又朝
は早くから眼がさめて、父様と
二人で看病しています。私等が
ついているから病人の方は心配せんでよし。
夏休みに帰るのを待って居るよ。
先日、隊付きで居られた代々木様が
帰られて宅へ来て下さった。
もし、豫科へ行ったら面会して
やると申された。よい軍人さんだ。
よく聞いてみると、あの人はお母さん
が、ちがっているのだそうだ。
前の母さんは死れたのだとか。人の
話だ。一日も元気で生人する
まで生きて居たいものだ。
■■様方へ何か送りたいと心配
して、田舎からウドンを心(手?)配した
から近日送ります。
■■の奥様からも手紙を今日
頂いた。お前は気嫌(気兼?)はせんでよろしい
から、外出の時はよりなさい。お礼は
きっとしますからね。
今度の外出は中旬の休みですか。
兄さんの方へ滋養を取るのに心配す
るので、お前へにも何か送ってやり度い
が、前の様に入手出来んので、気に
かからん事はないが、送る事が出来
ん。小包の都合も悪いし許して
くれよ。毎日気にはかかるのだがね。
お前は家の事は心配する事はいらぬ。
敬兄さんの病気の事も知らせん方が
よろしいとは思ったが、何れは知れる
と思って、つい書いて。心配させたね。
■■へ送った小包の中に食べる
物が入れてなかったから、何だか
淋しく思ったであろうが、都合が
悪いからね。入用の物があった
ら知らせなさい。出来たら送ります。
忙しくなかったら、板木へも時々は
便りをしてあげよ。お祖母様も年
だから、元気そうでも、まあ先は
短いからね。父様も来る
六、七、八日と福山で主事会議
があるので出席される。父様も
なかなか忙しい。母さんが畑の手入れも
ようせんので、みなやられる。日曜日も
度々はないし、私も今年だけ
用心すれば又、何でも出来るからね。
大掃除があるが、今から気にしている。
まあ、其の時はどうにかなりましょう。
今夜は雨が降っている。オコタは
いらぬ様になったよ。
旧官内の藤井へ便りをしたか。
出逢うたびにお前の話をされるからね。
又、父様からも便りがあろう。芳子も
送るよ。元気でやってくれよ。
病気では駄目だからね。
今夜はこれでおやすみするよ。
明日も元気でやってくれ。よくねむれよ。
五月四日 夜九時半
三郎どのへ              母より
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親にとってどの子が可愛くてどの子は可愛くないなどない。
況や、我が腹を痛めた母親からすれば尚更どの子も可愛いに決まっている。
しかしながら、病に倒れ身近で療養する敬は母から見て最も「可哀想」な存在であったのであろう。

千代子は軍人となり戦争に征く事が必然となった康男や三郎のことはもちろん心配であるが、国を挙げて戦っているさ中に自分自身が思うに任せない「やるせなさ」を敬本人以上に感じていたのかも知れない。
もっとはっきりと言えば、例え病弱であっても戦争に征かなくて済むのなら母親にとってそれはそれで良い事であったと思うが、当時の状況では世間の目を気にしないで生きて行く事は難しかったのではないかと思う。
このまま肩身の狭い人生を送る敬を不憫に思ったのも無理はない。

「世の中は一升にあまる事はない」の意味がよく解らなかったのでググってみた。
多分「一升徳利に二升は入らぬ」と云う故事のことではないかと思う。
「能力以上の事を望んでも無理」と云った意味らしいが、健康な息子は出征し病弱な息子は肩身が狭い人生を強いられる戦時下では「これも運命とあきらめねば仕方がない」のが多くの母親たちの慟哭であった…

「敬が帰ってからは、私の病気はどこへ行ったやら。とても元気になった」とあるが、その後の状況からすると元気になったのではなく、不憫な息子を護る爲に母性が理性を凌駕してしまったのであろう。

母の愛は海よりも深し…である。