振武台(陸軍予科士官学校)入校直後の三郎の日記発見!vol.1

遺品の中の手紙・写真等に混じって三郎の”素養検査ニ関スル筆記”と云うメモ帳があったのだが、ここまで内容を見ておらず気になったのでパラパラとめくってみたところ、最初から終盤までは各教練のノート(メモ)だったのだが、最後の20ページ位に入校直後の2月25日~3月8日までの日記及び落書きが見つかった。

これまで葉書や手紙の記述だけでは判明しない内容に関しては小生の判断や想像で記載していたが、それらの幾つかについてはこれらの日記に記載があったので訂正もしながら投稿してゆく。

三郎は2月24日に振武台(陸軍予科士官学校)に入校した様で実際に教練が始まったのは翌2月25日からだった。まずはその2月25日の日記から。

昭和19年2月25日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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昭和十九年
  二月廿五日

軍人生活第一日の朝だ。「起床」‼ の聲と共
に飛び起きたと云いたいが、毛布の中よりゆすぶり
出た。直ちに洗面。それが終って舎前集合。
雄健神社参拝。皇居 皇大神宮 故郷
遥拝。朝食。朝の自習
~英語の素養検査あり。不出来だ。
も少し勉強しておくべきであった。
後で聞くと語学優秀の生徒のみ試験し
たのだそうだ。午食。
午後、矢張自習~室にて自習。身上
調査あり。区隊長殿と面接す。
中学校の成績を下げない様に 又
武道をしっかりやる様に 又 三男
だからピンピンはねまわる様に 又
早く俗塵から脱する様にお話しがあっ
た。つづいて自習、夕食、入浴。夜は適意自習、反省。
It is long since I sow last.
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・雄健神社:”おたけび じんじゃ”と読む。
ウィキペディアには以下説明がある。
【振武台・陸軍予科士官学校の営内神社である。 祭神は「天照皇大神、明治天皇、経津主命、武甕槌命、大国主命」と「陸軍予科士官学校出身将校及本校職員文武官戦没者」である(境内立札)。戦没者は1943年(昭和18年)時点で3032柱だったという。】
前年時点で3千人以上の戦没者だと云う事を生徒たちが知っていたかどうか分からないが、戦慄の数字である。小生含め現代の軟弱男子ならこの数字を聞いた時点で退校を考えるであろう。もっともそれ以前に受験する勇気があったかどうかも怪しいが…。

入学試験に英語は無かった筈だが入学後は授業があった様子。当時世の中では英語は敵性語として排斥運動が起きており、米国発祥スポーツであるプロ野球などは興行中止を免れるために徹底的に和訳用語に変更されたらしいが、実際には和訳できない用語も多く軍内部含め社会全体ではあまり浸透しなかったらしい。この辺りの状況は現在のどこかの隣国とよく似ている。

区隊長殿との面接の中での”三男だからピンピンはねまわる様に”の意味が不明。”家を継ぐ必要が無いからケガや死を恐れずガンガン行け”の意味であろうか…。
また”俗塵から脱する様に”とは”シャバの事は忘れろ”であろう。まだまだ若い少年たちである。本来ならなら彼女とデートしたり家族と旅行に行ったりと楽しいことが沢山ある時期であり、ホームシックになる生徒も沢山いたであろうことは容易に想像できる。指導する側としては単に厳しくするだけでなく、メンタルの部分からの指導が大変であったと思う。最終的には”信頼関係”なのである。

最後の英文も意味がよく分からない。
”sow”だと”種まき”となり???である。多分”saw”の間違いで”最後に英語(の教科書)を見てから時間が経ってしまった。(だから試験ができなかったので勉強しよう)”の意味ではないかと思う。

何十年も英語の勉強をしておらず、最近頻繁にグーグル翻訳のお世話になっている小生の見解なので正しいか否か保証はしない。(笑)

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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