昭和19年3月15日 次男(敬)から三郎への檄文

今回は次男(敬)からの葉書。

三郎も大変である。家族全員や友人たちからの返信が引きも切らさず届くのだから…。
訓練後の束の間の時間を手紙を書くことに取られ肉体的にはしんどかったであろうが、故郷とつながる嬉しさと安堵感が勝ったのであろう。まめに返信している。

敬は前回の葉書でも結構厳しい言葉で檄を飛ばしていたが、今回もかなり厳しい。

昭和19年3月15日 敬から三郎への葉書①
昭和19年3月15日 敬から三郎への葉書②

かなり横長の葉書なので画像では文字が読み辛いかも知れないがご勘弁を。
解読結果は以下の通り。

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御葉書有難う。元気で勉励している由安心した。
どうだ、もう大分軍隊生活にも馴れた事と思う。
御前自身の名誉でもあり、一家・三次町として
の誇りでもあるのだ。
御前も今迄の子供では無いのだ。
自覚してやれ。一生懸命やるつもりだ
とか言っているがそんななまぬるい事では
駄目だぞ。死ぬる迄やれ。
御前の体であって御前ではないのだ。
自分と言うものを持て。自分の一挙手一投足
が天に通ずる様行動せよ。
何事についても他人に遅れをとるな。
例え死に直面してもだ。
御前も今迄家にづうーと居て相当わがまま
に育って来た。御前にも悪いとは良く
譯っていた事と思うが。まあいい。
今度と言う今度は一番大きな親孝行
の出来る体になったのだからな。
此の上まだ親に心配に掛る様な事したら
腹を切って死ね。
御前は幸運にも選ばれて入校出来た。
而し、不幸にも選ばれざりし幾百幾千
万の同胞の居る事を心せよ。
又、うらみをのんで南海の底に沈んだ
幾千万の英霊に答えよ。
いゝか今更此んな事言わなくったって
よく解っている事と思うが。
御前の行動は御前自身で処して行く
のだぞ。やがては幾百数千万の部下を
指揮して作(策)戦する様になるのだ。
心して動作せよ。
今のその気持ちを何時迄も持って益々
決心を新にし奮闘せよ。
御前の健康と武運長久を
広島の地より祈る。
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今回は葉書ではあるが”封緘葉書”と云うもので、実質4面に書くことが出来るもので、”檄”の量も多い。
割と大きめの文字でそこそこ綺麗なので読み易く、難読文字はなかった。

ありとあらゆる檄のオンパレードであるが、小生には何故か懐かしい響きなのである。
よくよく考えてみたら、以前勤めていた会社では案外普通にこんな檄が飛び交っていた。
・子供では無いのだ
・死ぬる迄やれ
・他人に遅れをとるな
・例え死に直面してもだ
・腹を切って死ね
・決心を新にし奮闘せよ
等々、日常的に浴びせられていたフレーズであり、夜寝るのが怖かった時期もあった。(寝るのが怖いと云うよりは目が醒めるのが恐怖だった。)サザエさんシンドロームも嫌というほど実感した。
それと全く同じ”ブラックの香り”である。

がしかし、同じ”ブラックの香り”はするのだが、片や戦地に向う実弟に”生きるために頑張れ”と飛ばす檄であり、もう一方は”給料欲しければ働け”と飛ばす檄である。持つ意味のレベルが根本的に違う。当時の軍隊では任務遂行しつつ生存するために必要な檄であったと思う。

現代社会における企業が当時の軍隊教育や軍人精神をそのまま取り入れる事には同意しないが、かといってこれら”軍隊”のエキスを全く排除してしまう事もどうかと思う。要は使い方であり、更に重要なのは上下の信頼関係である。

少し脱線したが、長男の康男と違って次男の敬が三郎に厳しい檄を飛ばすのは、年齢が近く(3歳違い)多分10年近くは一緒に幼少期を過ごしていた事と、病弱で軍人になれない悔しさを弟の活躍に託したかった事が大きいと思う。

三郎と敬 昭和15年頃か

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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