昭和19年3月4日 母(千代子)から三郎への手紙

今回は初登場の母(千代子)から三郎への手紙である。
千代子は当然ながら小生の祖母にあたるのだが、小生が生まれる前に他界しており病弱であったことと癌で亡くなったこと位しか知らなかった。小生の母(芳子)も生前殆ど千代子に関する話はしなかった。父(芳一)が後妻(内縁)を貰ったこともあり、娘としては割切れない思いもあってあまり話したくなかったのかもしれない。因みに小生は幼少の頃その後妻さんを本当の祖母だと思っていた。当時子供心に”若いおばあちゃんだなぁ”と思っていたのも事実である。(笑)
しかし、今回手紙や葉書を読み解くことで千代子の生前の姿が少しづつ明瞭になって来た。

昭和19年3月4日 母からの手紙①
昭和19年3月4日 母からの手紙②
昭和19年3月4日 母からの手紙③
昭和19年3月4日 母からの手紙④

まずは”解読結果”を以下に記す。

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其後変りなく毎日元気で勉強して
居ることと喜んで居ります。
三郎殿が三次を立ってから早いもので
もう幾何日と過ぎました。
阿れからはお天気もよろしく毎日日中
は春ですが、矢張り朝夕は冷たい
です。父様から様々とあったでしょうが、
家には別に変りありません。
父様御帰宅になって学校の事や
お前のことを、くわしく聞て安心しました。
来る六日は目出度く入校式だそうですね。
早や、だいぶんなれて、日々が楽しくなった
でしょう。母さんも、お前が望み通り
になったのだから、つとめて忘れて、ただただ
よろこんで居ります。一時はお前の持
物やあれこれ見たりして淋しい気もした。
いつまでもめめしい思いはしない、病気
上りにさわりてはと思ってね。
お祖(母?)さんも三月一日に帰られてとうとう
三人になったよ。兄さんらも、様子せず
康男兄さんが四・五月まで広島に居るらしい
から、せめてもたすかりだ。芳子も元気で
夕食後はハーモニカを出してやって居るが、一人で
せいがないらしい。女学校へ入学出来る様に
此度は芳子の番だ。父様も元気で
朝夕手伝ってもらって居ます。私もぼつぼつ
食事などの支度をして居りますから、
近々内祝をして外出もせねばと元気を
出して居りますよ。どうか家の事は心配はいらぬ。
躰に気をつけて、良く軍人の心得を守り、
友人とは仲良くして、勉強せねばいけ
ませんよ。前日、父様のタヨリに 加藤様に
つづけ と書いてあったでしょうが、あれは横山様の
事なのですよ。中学校へも退学の手
続をされたから安心しなさい。
お前も多忙だから餞別先へ礼状はよこ
さなくてよろしい。父様がなさるからね。
板木の祖父母様へは時々便りせよ。
森保君も姿を見せんよ。まあ母さんが
外へ出んからね。見んのかも知らんがね。
まだ手がふるえて思うほど書れんから、
今夜はこれでさようならしましょう。
三郎よくねむれよ。早く目をさませ。
明ければ同じ太陽の下で。        母より
    三郎どのへ
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文字が大きいので、父(芳一)に比べれば読み易いが、それでも独特のクセもあり苦戦した部分もあった。
1枚目4行目の”幾何日”も良く解らなかった。正解かどうか多少不安ではある…。
1枚目5行目の”阿れから”は初めて見た。今は多分見ない使い方だと思う。
2枚目2行目の”楽しくなった”の”楽”はちょっと略し過ぎの様な気もする。

この当時既に癌が発症していたのかどうか分からないが、入院せず本人も”治る”と思っていた様であるから癌と認識はしていなかったのだろう。ただ、思う様に動けぬ自分に対する歯がゆさと、悪化する戦局の中で長男に続き三男も軍隊に取られてしまった母親の不安な気持と自責の念が感じ取れる。
”お前が望み通りになったのだから、つとめて忘れて、ただただよろこんで居ります。”のくだりは軍人になることを本当は喜んでいないと云うことであろう。
ただ、ちょっと気弱な感じだった前半に比べ、後半は方言も出て息子に要らぬ心配をさせたくないと云う”強き母親”の表情が表れている。
”三郎よくねむれよ。早く目をさませ。
明ければ同じ太陽の下で。”
最後の2行には母親の深い愛情が感じられる。
しかし戦争と云う狂気がその愛情を強くしているのは皮肉と言えば皮肉かも知れない…。