先日、三郎が陸軍予科士官学校に合格した際の”合格通達書”とその後学校への着校日を通達する”著校ニ關スル件達”を新たに発見したのでご紹介する。
昭和18年11月に教育総監部より合格通達書が届き、その後日付は不明だが(多分年明け後か)著校ニ關スル件達が届いている。注目したのは、合格通達書では”昭和19年3月下旬頃に着校せよ”と記してあるのだが、著校ニ關スル件達では”2月24日に着校せよ”と1ヶ月早くなっている。当時、将校不足は相当深刻で少しでも早く将校を輩出せねばならなかった状況の表れであろう。
著校ニ關スル件達に記名のある学校長の牧野四郎と云う方は陸軍中将で、三郎の入校と入れ替わるタイミングで学校長を退任されるのだが、将に前回投稿した三郎の日記の日付”昭和19年3月2日”に牧野校長の離任式があり、その中で「花も実もあり、血も涙もある武人たれ」と訣別の訓辞を残している。
ただ、日記では”校長閣下の閲兵あり”としか書かれておらず、多分未だ入校式の済んでいなかった三郎たち新入生徒は離任式に列席せずその後の閲兵式のみ参列したと思われる。
牧野中将はこの後激戦地のフィリピン・レイテ島の第16師団長に赴任し、ダグラス・マッカーサー率いる連合軍と激戦するも翌昭和20年8月10日師団は壊滅。その際「余が敵弾に倒れたる時は余の肉を喰いその血をすすりて糧となし最後の一兵となるともレイテ島を死守し君恩に報ずべし」と云う「死守の訓辞」を遺して自決すると云う壮絶な最後を遂げられた軍人である。
三郎の日記の冒頭には”今日は非常に風が強い。”とあり、牧野中将の行く先が風雲急を告げる様を予感させる。享年52歳であった。 合掌。