昭和19年3月30日 康男から三郎への葉書

 

父、母と続いて最後は長男(康男)からの手紙である。

先日の両親に宛てた手紙では、将来にかかわる重大な「お願い」を述べていたが、弟への葉書には勿論そんな気配すら見せてはいない。

 

昭和19年3月30日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

************************
拝啓 早や春風が武蔵野を渡って
いると思うが、其後どうだ?
二十一日には初めて引っ越をしたそうだね。
嬉しかったろう。写真を撮ったか、早く御前
の制服姿を見たいものだ。もう一か月を
過ぎるから、もう相当板についていると思う
が。芳子も無事女学校に入ったから安心
すべし。どうやら御父上も一安心というところ
だね。俺も相変わらず元気で御奉公している。
敬も増産戦士の一員として頑張っている。近々徴兵
検査だ。とにかく頑張ってくれ。      早々
************************

本ブログの最初に投稿した葉書の内容にもある様に、康男は13歳の時に親元を離れて広島商業学校での寄宿舎生活を始めており、17歳で初めて親元を離れた三郎を多少冷やかしつつも、その新鮮さを懐かしんでいる様子である。

現代の様にネットやケータイの無い時代であるから(それは小生の若い頃も同じであったが…)やはり写真の需要は大きい。
父も母も兄弟皆「写真は撮ったか?」の大合唱である。
以前の投稿にアップした三郎の制服姿の写真は4月9日に撮影したものなので、この時点では撮れていなかった。
訓練は忙しいが家族の要望にも応えなければならず三郎も大変であったと思う。

芳子の女学校合格の報せの後に、次男(敬)の徴兵検査の事が書かれている。
小生は、敬が軍隊に入ったと云う話は聞いたことが無く、またそれらしき書類なども残っていない様なので恐らく入隊しなかったのだと思う。
但し、今後の手紙にその辺りの事情が出てくるかもしれない。

現代の様に便利な時代ではなかったが、その分家族間の愛情の密度が濃かったように思えるのは小生の気のせいだろうか…。

 

昭和19年4月1日 敬から三郎への葉書

 

前回投稿した長男(康男)の手紙で”最後”と書いたが、次男(敬)も出していた。

以前の様な弟に対する厳しい内容ではなく、むしろ優しい感じの内容である。
気候が良くなり気分が良い旨も書いてあり、体調が良いのであろう。

 

昭和19年4月1日 敬から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

**************************
拝復 元気で勉励して居る由安心した。自分も元気で生産
増強に邁進している。此方も気候が良くなりも窓を一パイ
明けて仕事をしている。気も身も心ものびのびと
活発な運動の出来る時だ。御互いにしっかりやろう。
空襲必須の時局に鑑み御前の処も万全を期して
あると思う。俺の所も準備を万している。
俺も今日昇給した。有難い事と思っている。兄さんも
元気で軍務に精励されている。芳子も無事
女学校に合格。五日に入校の予定だ。
どうぞ上司、同輩に可愛がられる様、言い付を
良く守って、校則の中に生きる生活をせよ。   では又
**************************

前回の康男の葉書の投稿の中で「敬の徴兵検査が間もなくある」様な内容を書いたが、どうやら間違いで、実際は康男の徴兵検査であった様である。
この時康男は”船舶練習部学生”であり、新たに配属を決めるための徴兵検査だったらしい。

敬は、手紙にもある通りこの日(4月1日)昇給しており、仕事に対するモチベーションも一層上ったようである。

空襲について触れているが、実際に本土への空襲が始まったのは2カ月程後の6月16日で北九州が標的となった。
つまりこの時点では本土への空襲は無かったのであるが、太平洋各地での敗退により制空権を失ったことで、空襲が時間の問題であることは周知の事実となっていたのであろう。
広島などの軍都も当然標的となったが、三郎のいた振武台(陸軍予科士官学校)も空襲に備える必要があったはずである。

空襲に関して、小生が子供の頃に母(芳子)から聞いたのは
「空襲警報が鳴ったら電灯を消して外に出て空を見るんよ。そしたらね、たーかい所を豆粒みたいなB-29がいっぱい飛んどるんよ。”あー、ありゃー呉にいったねぇー” 言うてね。三次なんか空襲されん思うとったけぇねぇ。あんまりこわーは無かったね。」
と云った話で、実際に爆撃された経験はなかったようである。

その後、映画やテレビなどで空襲の場面を幾度となく見ることがあったが、その度に母の云った「B-29の編隊」が轟音と共に夜空の彼方を飛んで行く光景を想像しては不気味な恐怖を感じたものである。

 

昭和19年4月1日 三次中学の同級生Sさんからの手紙

三郎の陸軍予科士官学校入学からひと月ほど経過し、同級生の進学状況も概ね決定した時期となり、彼らからの進路決定に関する情報が何通も届いている。

父(芳一)や母(千代子)からも多少の情報は届いているが、やはり当事者(?)からの情報が一番信頼できるのであろう。

今回のSさんは多少クセのある字ながら、丁寧に書かれているので特に難読部分は無かった。

昭和19年4月1日 Sさんからの手紙①
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙②
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙③
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙④
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙⑤
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙⑥
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙⑦

解読結果は以下の通り。

注)■■■ はSさん。
************************
陽春の四月になったと言うのに(大変)寒く
あります。先づ何時桜が咲くか、一寸と見当
がつかん。
三原君、お便り有難う。実は二十二日から昨日
三十一日迄春休暇で故郷へ帰って居た所だ。
大変返事が長びいて済まん。そのかわり
本日は大変乱筆であるが、一寸と詳細に
こちらの様子を知らせるからかんべんしろ。
ことわって置くが、郷里の後輩が中学校
へ入学したり又、家へも手紙を書いた関係上、
相当疲れて居るから乱雑になるのだ。
許せ。
さて
こちラハ大変寒イ。何時桜かは先に言った通り。
しかし、今日は漸く春気分と言った所か。
ぼつぼつ野山が霞ミかけたと思われる所。
次ニ、俺も(ハッハッハ)五年となった。
第十三学級。主任は賀永先生。総員三十五名か?
第十四学級は岡部先生。人員不明。
第十五学級は田村先生。人員不明。
落は一名もなし。
次に級、副長は、
十三ガ丸住、砂田。十四ガ中村、柳原。十五ガ藤井、波多野。
優等生は中村、丸住、秋山、広沢の各君。
皆勤者等は不明。
今度、新任の先生が来られるが、未だ式はない。
入学式は四月にある。
始業式は今日四月一日にあった。
五年生になって、実際責任があると言う事を
痛感する。今迄に責任(と言う意味)を一番強く
感じたのは、今日が最大であろう。
四年生に僕等の教室をやったと言う事は、大小
掃除をして居た丈に惜しい気がする。
なかなか四年生は威張って居る。
ポケットでもつけて、可哀そうだが、
注意をされる者だろう。
新学期からは六粁以内は徒歩通学。
しもわち駅から八次間は汽車通マカリナラン。
広島方面はアヲガ駅より三中迄は自転車共にダメ。
即チ、三中を中心に六粁の所に来ると
自転車を預けて徒歩通学をするのだ。
それから、近い内に分隊毎に集合、二列縦隊
で通学する事になる。
それから次は、上級学校、入学許可の諸君
について、知れて居る範囲で述べて見る。
先づ小生から。
広島高師は三月一日ダメ。
徳島高工は十七、八日 俄か勉強はダメ。
総体的に見て、三中は不振とでも言うか。
五年よりは四年の方が成績は良好なり。
高校 松江、土居さん(五年) 広島 湧谷さん(浪人)の二名か?
岡山医専 広沢孝一郎君 一人のみ。
広島県より十余名か??
アッパレ アッパレ。
徳島高工 秋本君(土木科)→日本一の称あり
広島高工 八木君(機械科)
山梨高工 山田豊君(科不明)
熊本薬専 山縣正道君
大阪歯科医専 斉木康彦君
日大文科 西田君
紙不足ニツキ裏面に書く。許せ。
県師 桑田、三宅、森原君
但し、三宅君は入学取消し。
五年は
大膳さんが広高工の夜間に入学のみと聞く。
はっきりしないが、他にもまだあるが、四年よりは
少ない。
右の四年の各君はアッパレ アッパレ。
まだ、宇部高工等は発表がない様だ。
そうそう、
来る五日から九日迄、五日間○○(大竹)海兵団
で海洋訓練がある。三中からは
二十名参加する。
勿論、俺も参加する。六十日と聞いて居たので
喜んで居たが、五日間なので大変気をおとして
ガッカリして居る。
五日間うんと海軍魂を養って来る。
後もう二回ある。今度は違った諸君が行くだろう。
甲飛に四年からは湯浅、立石の各君が去る二十九日
出発。三年から中瀬、赤村、益田の三君が出発す。
忙しいから本日はこれで失敬する。
御健康と御奮闘を祈る。
乱筆にて失礼。
では又。さようなら。
三原君               ■■■より

************************

まず、気付いたのは今回の手紙が便箋と云うよりはメモ用紙と思われるB6サイズの用紙に書かれており、その関係で全部で7ページに亘る”大作”となっている部分で、これも物資不足の顕れであろう。
左下に印刷されている「小奴可運送店」は現在の広島県庄原市東上町小奴可(おぬか)の運送屋さんだと思われるが、Sさんの御実家かもしれない。

三郎も母校三次中学の状況や同級生たちの進学状況は当然気になっていたであろうし、お互いに叱咤激励し合う事は当時の状況からすれば(特に若者たちにとっては)必要不可欠な”モチベーション”であったのかも知れない。

現代の日本と異なり、当時は軍関係の学校に進学することはかなりの確率で「死」を意識せねばならない選択であるにも関わらず、甲飛(海軍飛行予科練習生)として航空隊へ入隊する生徒も少なからずおり、国家の危機を救わんとする若者全体の高揚感が感じられる。
しかしその反面、「ナショナリズムに煽られた若者たちの”蛮勇”なのでは…」と云った危惧感もありちょっと複雑な気持ちになる。

今回のSさんの手紙に於いても「海洋訓練」を心待ちにしている記述があるが、果して本心であろうか…。
本当は勉強や恋愛など、やりたいことは山ほどあった筈にも拘わらず、全体の雰囲気を感じつつ無意識のうちに勇ましい気持になっていたのではないかとも想像する。

ただ、それがよく言う「軍国主義」や「全体主義(ファシズム)」に直接繋がるものではなく、戦後の自虐史観教育で喧伝された「日本人は残虐」とか「日本は侵略国家」等が事実では無いことも拙ブログでお伝えしたい重要な部分なのだが、これらの説明は他の秀逸なブログ等で幾つも為されており、ここではそれらを「できるだけ感じ取って」頂けるよう投稿を続けることに徹したい…。

 

昭和19年4月2日 三次中学の同級生 Tさんからの手紙

前回に続き、同級生から三郎への手紙。

今回はTさんの手紙から。

字はお世辞にも達筆とは言えないが、文体は何となく古めかしくて重厚な感じである。
ただ中身は友人を”あだ名”で呼んだりと親近感もある。

昭和19年4月1日 Tさんからの手紙①
昭和19年4月1日 Tさんからの手紙②
昭和19年4月1日 Tさんからの手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■■■はTさん。

**************************
櫻も春を告げ人々の体も生々しく江川の水も温んで
参りました。先日は寸暇も無き死闘の續きにも不枸業以
不肖の爲、書を下されるは不肖と致し衷心より感謝に耐え
ず四年間剣道部で練磨する事が出来た事を非常な
光栄と思って居る次第である。
小生承知の事く岡山医専と縣師を受けたのであるが、
勿論医専は十三人に一人高率にて不肖の実力として
は滑る可きであって名誉の敗惨者と成った。実に
残念だ。縣師は八人に一人の率で此れは一次は合格、二次で
肺の影有る由にて醫者より落の命を受けり。
縣師が駄目故、他は押して知る可しだ。
来年は屹度目的を達する心算だ。即ち目指すは岡山医専である。
陸士に貴殿に誓って居たが、医者が不適と言うので詮方
無く思い切るより仕方無し。許して呉れ給え。
もう速くに知って居らるる事と思うが、念の為第四学年の
高等専門入学者の盛況を左に示さん。
広島高工機械科(八木君) 濱松高工(田原一俵)
岡山医大付属医専(広澤孝一郎)
山梨高工(山田豊)
熊本薬専(山縣正道)
宇部商工(上川)
徳島高工(秋本)
平壌師範(宗川)
広島師範(桑田、三宅、森原)
京城師範(森原)
水原高農農科(作田ちゃぷ)
大阪歯科医専(斉木の康)
以上で勿論明せるもの已(ノミ)にて未だ全部は解せざ
る故、後一ヶ月後はまだまだ益す見込みである。
五年は官立には土井が松江高校に入った已であって
実に悲惨なる状況であって可愛そうである。
学校の状態は問題点は余り無いが、中川先生が兵隊と成ら
れ、新任が後日来られる筈だ。今年の志願者は二百九十名
合格者百八十名也。
今日はしとしとと静かに雨が降って居る。昨日
非常に良い快晴天であったので、非常に鬱とうしい感じが
する。尾関山も煙って見える。陸士海兵志願は全校
総決起と言っても過言で無い。山崎暗才まで受けるから
呆れる許りだ。小生も今日から死物狂いで頑張るぞ。
貴殿は良く其の責務の重大なる事を考え、特に身を大切
にして猛進されん事を望む。今日は手が振って乱筆です。
許して呉れ。では又度々通信する。
三原君           三巴の水辺にて
■■■■より
**************************

先日のSさんの手紙同様に、自身と同級生達の進学状況報告がメインとなっている。
残念ながらTさんは5年生への進級となってしまった様で、文面からも落胆の様子が覗える。

進学先の学校名を見ると
・平壌師範
・京城師範
・水原高農農科
等、現在の韓国や北朝鮮の地名が出てくる。
長男の康男も入隊後半年間くらい中国大陸の部隊で訓練をしており、当時は日本の統治・占領下にあった訳だから当たり前のことなのだが、昨今は様々な確執の影響で「お隣だけど遠い国」のイメージがあり、「同じ国」であったことに違和感を覚えてしまう。

三郎の同級生も何人かは半島へ進学したようであるが、翌年の終戦後は(内地とは違った意味で)さぞかしご苦労をされたのではないかと思う。

文末に「三巴の水辺にて」とあるが、
三次は「江の川」の本流に「西城川」「馬洗川」が合流する地点で、その有様を「三巴の水辺」と表現している。

 

昭和19年4月3日 三次中学の先輩・陸軍士官学校生徒のYさんからの手紙

 

同級生達から三郎への便りが連日届く中、中学・陸軍予科士官学校の先輩であるYさんからも葉書が届いている。

同郷の後輩に対する激励の様な内容であるが、「将校生徒」とはいえ軍に身を置く立場としての内容となっている。

 

昭和19年4月3日 先輩Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

************************
振武台遥かより春が訪れて、元気一杯練武学修
中の御事と存じます。小生益々元気にて勉強中。
四月下旬御面接の機を得ることが出来ると思う。
元気で真面目に御奮斗を祈る。入校以来ひしひし
感じているだろう皇恩の如何に我等将校生徒
に厚きかを。深き御めぐみに応え奉るべく、この超
重大時局に将校生徒の発足をした君達の
自奮自励を祈る。佐々木、中西が帰ったら
全部で話そう。それまで元気で。 失礼
四月三日
************************

Yさんは三次中学の先輩でありかつ、陸軍予科士官学校(この時点では既に神奈川県の陸軍士官学校生徒)の先輩でもある方で、父(芳一)からも「Yさんに負けない様頑張れ!」と目標にされるほどの優等生であったらしい。
手紙の文面を見ただけでも軍人としての矜持とも云うべきしっかりとした教育訓練を受けている事が想像できる。

ただ、書面から感じられるような生真面目な秀才タイプの人物だったのであろうか?
上述したようにYさんは当時、神奈川県の陸軍士官学校(相武台)の生徒であり、今回の葉書は「相武台から振武台」への軍関係機関間での郵便物であり、かなり厳しい検閲がされていたものと思われ、あらぬ疑いを懸けられないようにある程度「良い子」を装っていたのではないかと思う。
これら軍関係機関間の郵便物には、家族や友人からのものにはない【検閲済】の印が押されており、送る側も受取る側もそれなりの神経を遣っていた筈である。

「四月下旬に佐々木、中西(このニ方も三郎の先輩?)も含めて話をしよう」とあるが、そこではひょうきんな先輩になったりしたのかもしれない…

 

昭和19年4月3日 三郎から父(芳一)への手紙

 

今回は三郎から父(芳一)への手紙。

入校後1カ月が経過し、漸く学校生活に馴染んだ頃であるが、逆に教科や訓練が本格的に忙しくなって便りを書く暇もない状況の様子。
漸く二回目の外出日に芳一の知人宅に伺い、手紙を認めている。

 

昭和19年4月3日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年4月3日 三郎から芳一への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
 康男や三郎が上京した際にいろいろとお世話になっている。

****************************
大変長らくご無沙汰致しましたが皆様お変りない事と思います。
私も其後元気で学科に術科に励んで居りますから御安心下さい。
芳子合格の通知、父上様母上様の両通共確かに受取りました。
少し便りが遠のいたとの事、何やかやと忙しくなり隙が少しなくなりましたか
ら悪しからず。手紙が無い時は元気な時とお思い下さい。
今日は四月三日。神武天皇祭第二回目の外出です。「この手紙も
便箋も封筒も皆■■様に戴き書いて居ます。■■様方で。」
今日は少しお願いがあります。それは成るべく四月三十日迄に■
■様方へ御送付願い度いのですが、出来得れば、それは、文法教
科書、詩集(父上様が持って居られると同じ様なのを私が持って居ましたから)
それに康男兄さんの古い襟布二、三枚。それから、下痢止め腹薬(アイフ
等)、感冒薬等を少々と、便箋、封筒、切手(七銭少々、一銭三十枚)等、それ
から白の手袋(軍手でない、目の小さい)があれば、一つ二つ。康男兄さんのお古
でよろしい。なければ良いです。写真も五月中旬位迄には出来上り、お送り
致します。夏季休暇も今の所、八月中旬にある予定です。
兵科志望もそれまでにあるかもしれませんが、お考え願います。
それから、■■様方へ何か良い様にお願い致します。これも一緒で
良くあります。外出すればかならず立寄らねばなりませんから。
それに度々御馳走に與りますから。
では、今日はこれで筆を置きます。

芳子へ
先づ、お芽出度う。多分大丈夫とは思いながらも発表まで
は落ち着かず、少々は心配していたが、合格したとの事、安心した。
入校日ももうすぐだろうが、入校したら皇国の女学生として、
勉強に、勤労に邁進して行きなさい。
兄さんが夏休みに帰る時には、立ぱな女学生になって居る事だろう。
写真にでも写ったら送れ。
では元気で明朗に通学せよ。
では又
****************************

今回投稿した手紙は表裏両面に書かれており、通常通りにスキャナーで読込むと裏面の文字が透けて非常に読み辛かったため、黒い用紙を被せてスキャンした関係で全体的に暗い感じになってしまった。
文中に書かれているとおり便箋が少なくなったので節約しているのであろう。

「今日は四月三日。神武天皇祭第二回目の外出」とあるが、この日は初代天皇である神武天皇の崩御日にあたり当時は祭日とされていた。
ネットでググてみたところ、『日本書紀』によると崩御日は3月11日であるが、これをグレゴリオ暦に換算して4月3日としているとのこと。
初代天皇の崩御日が ”3月11日”と云うところに因縁を感じるのは小生だけだろうか…

芳子の女学校合格への祝辞も送っている。
他の家族同様に”一安心”と云うことである。

兎にも角にも久し振りの休日外出に羽を伸ばしている三郎であった。
 

昭和19年4月7日 父(芳一)から三郎への手紙

 

前回投稿した三郎からの手紙に父芳一が返信した手紙。

この便箋はA5の両面書用なのだが、以下画像を見て頂くと分かる通り元々A4のものを半分に切っていると思われる。
しかも真ん中に「三原用箋」の印刷もされており、オーダーメイドの様である。
銀行マンであった芳一は結構細かい部分に”こだわり”があったのかも知れない。

昭和19年4月7日 父芳一から三郎への手紙①
昭和19年4月7日 父芳一から三郎への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際には大変お世話になっていた。

***************************
■■君の所から四月三日に出した手紙、今日到着
した。無事で勉学しているそうで父母共安心だ。
芳子も五日に入学式。今日で三日行った。三月中旬
頃から少し腎臓炎の気味で黒潮醫院で薬を貰って
居る。お母さんは大分元気になった。
三月二十一日に■■君の所へ行った由、その通知は四月の四日に着
した。此常郵便物が馬鹿に遅れる。■■さんが三月二十六日に
出してくれた小包は未だに着かぬ。
■■さんの所への事は承知した。何か考えてよい物を送
って置くよ。白手袋、エリカラーは康男兄さん所へ
頼んで送って来たら直ぐ■■さん所まで届けて置く。
其他の品物も一緒に届けてやる。書面小包で発送したら
速達便で通知するよ。
影山順六さんより、餞別二円先日頂いた。餞別を貰った先へボツボツ
ハガキでも出せよ。
長山の昇さん、三十日の教育召集で四月六日に広島の西部十部隊へ入隊した。
康男兄さん二日の晩に帰省。四日朝早く帰隊した。写真一枚送る。
お前の写真が出来たら送ってあげよ。お母さんも早く見たいらしい。
三中の上級校パスの状況を聞いたか。山縣は薬専へ行くらしい。友達へも時々
便りせよ。三次も大分暖かくなった。ボツボツ桜も咲くだろう。雨が多いに困る。
腹がへるだろう。食事は如何か。身体に気をつけて病気せぬ様にせよ。
又手紙をやる。今日は此れでやめる。      父より
三郎様
***************************

「此常郵便物が馬鹿に遅れる」と愚痴をこぼしている。
この手紙が出された当時は未だ本土空襲も始まっておらず、鉄道が壊滅した状況にはなっていなかった筈だが、物資不足や戦時統制の影響で列車の本数が激減した時期でありその影響と思われる。また、郵便物の「検閲」も影響していたかも知れない。

因みに今回の手紙は「速達」で出され、4/7消印で、三郎が受取ったのが4/11となっている。
また、今回の手紙には「検閲」の印はなく検閲された形跡は見られない。

ご近所さんの徴兵状況や三郎の同級生の進学状況なども記されているが、改めて思うのが当時の人々のコミュニケーション力と情報収集力である。
戦時中は「隣組」の影響もあり、社会生活を営む上ではそれなりのコミュニケーション力とそれに伴う情報収集力が必要であったと思う。

小生が子供の頃、夏休みに三次に遊びに行ったときには、芳一(祖父)がよく散歩に連れて行ってくれたのだが、すれ違う人たちの大半が知合いで
「えー天気でがんすのぉー」
「旦那さんはどうしよってん?」
などと、あちこちで会話をしていたことを思い出す。

 

昭和19年4月8日 母千代子から三郎への手紙と芳子の歌好き

 

前日に父芳一が出した手紙に続き、今回は母千代子からの葉書。

一緒に出せば良いのにと思うのだが…
あまり夫婦仲は良くなかったのか?
今更ながら心配してしまう孫の小生である(笑)

昭和19年4月8日 母千代子から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際に大変お世話になっていた。
**************************
日増しに暖くなって三次の桜も色どり、ふくらみを
見せて来ました。其後変りなく元気で毎日
楽しい事と存じます。家の方にも相変らず
暮して居ります。兄様二人共三日四日と帰りました。
お前も外出があった由うれしかったでしょうね。
芳子も目出度く女学校へ入学出来て毎朝
七時には家を出ます。それから去る六日に昇さんは
十部隊へ教育召集で入隊された。家内の者は
まだ和歌山に残りて居ります。一ヶ月後に定りましょう。
康男兄さんの写真を近日父様より送付されます。
■■様方へは又御礼を致しますから心配せぬ様に。
日々元気で楽しく送りなさい。  サヨーナラ  母
**************************

三郎が上京して一ヶ月以上経過し、さすがに千代子も一時期の不安定な状況からは脱したのであろう。手紙の内容も至って普通のものになっている。

前日の父芳一の手紙にもあったが「昇さん」とはどうやら千代子の親戚らしく、三郎の”いとこ”にあたる青年のようであるが、小生も詳しい親戚関係を知らないので多少眉唾である。

芳子(小生の母)の歌好きに関して…
拙ブログ開設のきっかけとなった今回の遺品整理の時点で知ったのであるが、母は女学校で声楽部に所属していたらしい。
そう云えば小生が小学生の頃、店を閉めたあとに姉(小生より3学年上)と一緒に音楽の教科書や副読本(童謡などが収載された歌本)を見ながら2人で合唱していたのを思い出す。
当時は見ていて「恥ずかしい」感じであったが、それだけ歌・音楽が好きだったのであろう。

芳子 女学校音楽連盟

最近、高校3年の愚息がヘッドホンでネット動画を見ながら結構な大声で流行りの歌を唄っているのを聞くにつけ、ご近所様に「恥ずかしい」と思いながらも「隔世遺伝か?」と考えてしまう小生なのである。

 

昭和19年4月8日 三次中学同級生のFさんからの葉書

 

今回は三次中学同級生のFさんからの葉書。

Fさんに関しては以前(5/6)の投稿で三郎が陸軍予科士官学校へ入校した直後の葉書を掲載しており、それに続くもの。

今回は「封緘葉書」で4面に亘って書かれており、実質は”手紙”である。
※以下に全体像も添付

昭和19年4月8日 Fさんの葉書①
昭和19年4月8日 Fさんの葉書②
昭和19年4月8日 Fさんの葉書③
昭和19年4月8日 Fさんの葉書④

「封緘葉書」の全体像(2枚)

昭和19年4月8日 Fさんの封緘葉書全体①
昭和19年4月8日 Fさんの封緘葉書全体②

解読結果は以下の通り。

**************************
お葉書有難とう。元気の良い書振りに安心
した。私もその后元気だ。安心して呉れ。然しその
元気も普通並みではない。と云うのが此の上もない
憧憬の的であった高校突破の野望が一瞬に
して水泡と化したのである。あゝ実に我が胸には
敗残の憂い濃く、頬を伝うるものは唯涙のみだ。
而れども、今では我が実力の足らざるを深く思い、奮
起を促している様な始末だ。して来るべき高校
受験に備える心算だ。私の頭は舊(旧)世と変わらない
と思うかも知れないが、(私の心には今日の国家を背負うて
立つべき覚悟は充分持っている。)私は再び高校
突破の野望を抱いている。之も一旦定めたる前途を
変更すべきは私としてとるべき道ではないと思ったからだ。
扨て、貴方の要求通り合格者の報告をするならば、
広沢孝一郎(岡大医学部専門部)、八木(広髙工・機械
科)、桑田(広縣師)、土屋(広縣師)、川崎(宇部工・工業
化学科)、上川(宇工・機械科)、森原(平壌師)、宗川(朝師)、
広畠(通信???)、山縣(熊本薬専)、秋本(徳島高工)、山田
(山梨高工)
という風に誠に近代にない好成績を治めている。これは下
級生に対し威厳を示す上に於ても大きな影響を及ぼ
すであろう。高校を突破の栄冠を得たものは旧五年
の土井一名のみにして、実に面目ない次第だ。けれども
来年こそは貴方の面に笑をたたえるべく、母校から高校突破の功
を数名に倣いて奏する決心だ。貴方は陸士の大分
状況を知って、緊張の中に愉快な一日を過ごしていること
であろと思う。何卒将校生徒としての本分を充分全
うされんことを祈る。本年も陸士・海兵の志願者は百人
にも及んでいるのではないかと思う。意を強うして後輩の
入校を待たれよ。次に私は此の度、親戚の事情に依って
親戚に移住することとなったのだ。少々気が落ちつかず困って
いたが、慣れればそうもない。
長々と下らぬことを述べたが、先づは一報迄だ。至極
身体に留意し本分に邁進されたし。
                   さようなら

            この手紙は読み次第
            焼いて呉れ。
                 では又。
**************************

この葉書を読んでいて何となくFさんが”謝っている”様な印象を受けたので、それが何なのかを考えてみた。

Fさんは前回の葉書で
「小生高校突破の野望を抱きしも、之前途を暗澹たらしむる一つにして今後直ちに国家の要望する所に向って再起勉励する」
と書いていたが、残念なことに(旧制)高校への合格は成らなかった。

前回の葉書の内容の通りであれば、「今後直ちに」陸軍予科士官学校か海軍兵学校の受験に向けて「国家の要望する所に向って再起勉励する」筈なのであるが、来年の(旧制)高校受験を目指して中学5年生に残ることを選んだようである。
おそらくFさんはこの状況を、三郎始め同級生たちに
「貴様はこの国家の非常事態に於いてお国のために軍関係の学校を受験しないのか?」
と思われるのではないかと感じ、それを「後ろめたい」と思う気持ちが文章に滲んだのではないかと想像する。

現代であれば何の問題もない事であるが、戦時色一色に染まった当時(特に血気盛んな若者達)の状況からすれば仕方のない心情であったのかも知れない。
我々戦後世代は、このような雰囲気がどれだけの国民を戦地に向かわせることに繋がったのか、をしっかり感じ反省すべきであると思う。

そんな気持ちだったからこそ文末で
「この手紙は読み次第 焼いて呉れ」
と書いているFさんだと思うが、この葉書を公表した小生を許してくれるだろうか…

 

昭和19年4月10日 三次中学同級生 Yさんからの葉書

 

前回に続き三次中学の同級生からの葉書であるが、今回は薬学専門学校に合格し進学も決定したYさんからのもの。

志望校に受からなかった無念さと、新たな進路への前向きな気持ちとが入り混じった内容となっている。

昭和19年4月10日 Yさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

**************************
三原君、何時も乍ら僕の心配をして貰って実に済ま
ぬ。僕は昨日熊本薬学専門学校の入校式を済ませ
ましたから前のお便りの返事を兼ねて御報告します。
僕は君が通ってから後は本当に青くなる程無茶勉強を
したものです。だから松高は自信満々たる物があったんだ。
然るに天命は遂に僕をして薬専に入らしめたのだ。今は一刻も
早く学校に入り勉強した方がお国の爲になると思って遂
に入校した訳だ。然し入校の上は君に負けぬ様頑張
るぞ!!君は陸の勇者に、小生は化学報国だ。君がそれ
を使用する時が来る日が待ち遠しい。又、医大に行って
君が勇戦奮闘した体を僕が診てやるのかも分からない。然れ
ども、目的は奉公滅私只一つ!!    では又。
**************************

これまで何人か三次中学同級生の手紙・葉書を投稿したが、実際に上級学校への合格・進学が決まった方からのものは初めてだと思う。

熊本薬学専門学校と云えば現在の熊本大学薬学部の前身であり十分に難関であると思うが、目指した松高(旧制松江高校と思われる)は残念ながら突破ならず、悔しさが滲んでいる。

小生などの戦後世代には解らないが、当時の旧制高校とはそれほどまでに憧れの存在であったらしい。

余談であるが、小生が中学~高校生の頃通っていた私塾の先生は、旧制一高~東大という超エリートコースを通った人であったが、常々
「東大なんて大した大学じゃないが、一高は秀才の集まりだった」
と口癖の様に仰っていて、しょっちゅう[嗚呼玉杯(一高寮歌)]をカセットテープで聞かされたものである(笑)。
因みにその先生は公職追放で職を追われ、地元で世捨て人となって私塾を経営されていた。
本来、小生の様な勉強嫌いが入れるようなレベルの塾ではなかったのであるが、小生の出来の悪さを看過できなくなった母(芳子)が祖父(芳一)の伝手を頼って見付けてきた塾であった。
レベルが高すぎてついて行けなくなり高校2年の時にドロップアウトしてしまったが、今ではいい思い出である。