昭和19年4月11日 三次中学同級生 MOさんからの葉書

 

今回は以前にも投稿したことのある三次中学同級生MOさんからの葉書。

以前の投稿の際に「小生と同じくあまり達筆でないのでちょっと安心した」と大変失礼なことを書いてしまったが、今回の葉書では御本人自ら「小生至って字がへたで、困まる御免」と書いておられ、またまた「ちょっと安心した」次第である。

昭和19年4月11日 MOさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓
お手紙有難う。君も今頃は大分慣れて来たように手紙によく表
われているから、さぞかし変った事だろう。小生至って元気でおるから
安心してくれ。さて、この間からの各學校の合格者をすこし言ってみようか?
ぺス君、縣師にはいったよ。ちいとこっけい。あっははは…。
山縣、熊本薬専、三宅、桑田、土屋、縣師。広澤、岡山医専。作田、大邱髙
農らへ…。太郎君、東京無線○○へ。五年、大善、広髙工夜。土井、松江高。
立川、三高農。おう、八木が広髙工、高船の両方へ通ってタカブネに行った。
又、五年生は大竹の海兵団へ五日→九日、二十名。十三日→十六日、三十名。この分
へ小生行くことになった。行ってきたものの話では、ものすごいげなあと
へほうたよ。まあ、このくらいだ。小生至って字がへたで、困まる御免。
これは手の先が筆のようになっておれば非常に上手なそうな話だが君
も知っておるようにだ。へへへ…。  さようなら
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「高船(タカブネ)」が何なのか今一つ解らなかったのでググってみた。
正式には「高等商船学校」のことで「船舶運用等海事分野を専攻とする官立(国立)の実業高等教育機関」とあった。

全国で東京、神戸、清水の3校があり、学費が無償であったこと、募集人員が少なかったこと、卒業後は花形職業に就けることなどから元々難関校であったが、戦時下にあっては、徴兵が猶予され卒業後は予備士官に任官されるなどの制度から、超難関校として知られていたらしい。

しかし、これらの優遇がある反面、入校即日海軍予備生徒として兵籍に入り、有事の際は召集され軍務に服する義務があった。
つまり、当時の状況であれば三郎たちと同じく、軍関連の学校に入ったと云うことである。

ただ修学期間は5年6カ月と長く「高船」は戦後も存続していることから、この時に入学された同級生”八木さん”は在学中に終戦を迎えられた筈であり、一旦は死をも覚悟して決めた進路を覆すような状況の中で、その学生生活は波乱に満ちたものだったのではないかと想像する。

「終戦」という事実は戦争遂行を覚悟して軍関係の学校へ進学した若者達にとって、それまでの血と汗の努力を「無」に帰してしまっただけでなく、その将来設計をも大きく変えてしまうとてつもない衝撃であり、それを克服するための労苦は大変なものであったと思う。

戦争を知らない我々は、当時、終戦によって虚無感や敗北感を味わい挫折や自暴自棄に陥りながらも戦後復興の中心となって頑張って下さった人々に心より感謝しなければならない。

 

閑話休題 8月6日 原爆の日

今日は令和になって最初の8月6日
「原爆の日」である。

 

昭和20年8月6日

芳子(小生の母)は当時三次高等女学校の生徒で、午前八時十五分は勤労奉仕をしていた。
あの日の様子を話してくれたことがある。

朝草むしりしよったらね、広島の方が”ピカッ!”と光ったんよ。
「今、広島の方が光らんかった?」
ゆうて皆で話しよったら、そのうち
「広島がおおごとになっとるそうな」
云う噂が流れてきてね、
「どうなったんかね」
言うて心配しとったら
夜になって怪我人が汽車やらトラックやらでいっぱい運ばれてきたんよ。
そりゃ大変じゃったんじゃけぇ。

その後どうなったのかは話してくれなかったのだが、
今回ブログに投稿する関係で当時の状況をググったところ、
以下の記事を見付けた。

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=48894

まさに芳子の同級生たちの記事であり、恐らく彼女も救護にあたった筈である。
「修羅場」だったのであろう…
小生に話さなかったのは、思い出したくない記憶だったのだと思う。

芳一(小生の祖父)は被爆者手帳を持っていた。
直接被爆した訳ではないが、当時広島市にいた次男の敬の安否を確認するために、翌日か翌々日に広島市に入っており、入市被爆者となった。

当時の広島での状況については芳一からも芳子からも聞いておらず、また手紙や書類も残っていない(未だ紐解いていない手紙類もあるが昭和20年3月頃を最後に残っていない様子である)ので想像するしかないのだが、敬は爆心地からは4Km程離れた祇園町と云う所に住んでおり、爆発による直接の被害は受けていなかったと思われる。
しかし、この大惨事は元来病弱であった敬のその後の健康状態に少なからぬ影響を与えたであろう。

三男の三郎は当時、陸軍士官学校(神奈川相武台)在学中で被災していないが、戦後昭和30年頃から爆心地にほど近い相生橋の袂にある「和田ビル」というアパートに住んでいた。

和田ビル

現在の様子は画像の通り古びたアパートであるが、当時は広島の中心地のハイカラなビルで、かなり立派な感じであった。

子供の頃、正月の年始の挨拶に行ったときには、ベランダから間近に見える原爆ドームや真下を走る路面電車を飽きもせず眺めたものである。

 

昭和19年4月15日 三次中学同級生Kさんからの葉書

 

進学・進級結果発表もひと段落し、
各々の当面の進む道が判明した三中同級生からの便りが続く。

今回は陸軍予科士官学校の試験を目前に控えたKさんからの葉書。

 

昭和19年4月15日 三次中学同級生Kさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 永らく御無沙汰致してすまない。
其後相変らず元気の事と思う。
僕も相変らず作業に元気よくやって居る。
陸士・海兵の入試も近づくし作業はあ
るし、実に忙しく又苦しい。でも、国家の勝
利の爲にと皆全身全霊を打ち込んで
努力している。君も安心して軍務に勉
励してくれ。又今年は四年五年で陸士
志願者が九十数名居る。君の後にどしどし行くぞ。
さよなら
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短いが苦悩と疲労が感じられる文章である。

中学を卒業し上級学校へ進学した同級生に差を付けられ、早く追いつきたい一心で勉強しようにも日々勤労奉仕の肉体労働で疲れ果ててしまう。
しかし、試験の日は否応なしに迫って来る。

「受験なんてそんなもの。厳しいものだ。」と仰る向きもあろうが、戦時下の異常な重圧の下でのストレスは相当なものであったと思う。

「陸士は5月、海兵は7月」と以前投稿した何方かの便りに軍関係学校試験の時期が記されていたが、戦争の影響で前年よりも実施時期が前倒しされたこともあり、焦る気持ちも強かった筈である。

「国家の勝利の爲にと皆全身全霊を打ち込んで…」と表向きは強がっている様に見えるが、間違いなく戦場へ向かうことになる将来を自ら望んではいなかったのではないか…

しかし、”大量に消費される士官”を早急に育成しなければならない国家事情のため、募集枠の拡がったこの年の”士官養成学校”への志願者は大幅に増えていたのである…

 

昭和19年4月15日 妹 芳子からの手紙 「英語」と云う「敵性語」

 

今回は先日無事女学校に合格した妹芳子からの手紙。

入学試験などの影響もあり、約一ヶ月ぶりの便りとなった。

 

昭和19年4月15日 芳子からの手紙①
昭和19年4月15日 芳子からの手紙②

解読結果は以下の通り。

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兄さん、長い間ごぶさた致しました。
おかわりない事とおさっし致します。
私もますます元気で通學してをります。
尾関山の櫻はもうほころびかけています。
十七、八日頃には一せいに咲くように思われます。
女學校の校庭の櫻はもう咲いています。
兄さんの方ではどうですか。
私達はこの十三日十四日十五日は作業で草狩りに行
っています。行先は八次の玉原さんと言う家で、
十四日にはおむすびをいただきました。
女學校は大変おもしろく、又げんかくな所で
す。新しくふえた學科の英語はとてもおもし
ろいです。兄ちゃんの英語の本を本箱から出
して讀んでいます。
朝私は七時頃家を出ます。七時四十分迄に
學校へ行く事になっています。七時半頃學
校へつきます。夕食時に兄さんの思い出話
に花を咲かせて三人でもにぎわいます。
お父さんもお母さんも元気です。
お父さんは庄原へ自轉車で行かれました。
汽車では切府(符)がなかなか買えないので、自転
車の方が便利です。私の元気な所を写真
に写つして送ります。兄さんも早く写真を送
って下さい。   では又。     芳子
************************

我が母らしい、当たり障りのない文章である。

女学校で新たに教科に加わった英語を「とてもおもしろい」と言っている。

ん?戦時下に学校で英語を教えていたのか?

当時英語は「敵性語」として日本全体で排斥されていたと云うイメージがあるが、実態としては法律などで禁止されたものでは無く、戦争によって高まるナショナリズムに押されて民間団体や町内会から自然発生的に生まれたものらしい。

国民的人気スポーツであったプロ野球に於いて
ストライク ⇒ よし一本
アウト   ⇒ ひけ
のように、敵性語から日本語の変更が徹底されたことなどから、国民全体へ波及したような状況を想像しがちであるが、これは極右勢力などから批判されて興行禁止にされることを恐れ、自発的に実施したと云うのが実情らしい。

国会でも「高等教育の現場における英語教育を取りやめるべき」旨の要望が挙がった際に、当時の内閣総理大臣東條英機陸軍大将は「英語教育は戦争において必要」と拒否したこともあった。

時を超えまさに今現在、多少の国交悪化程度で官民挙げ「ボイコットJAPAN」なる国民運動に懸命な隣国もあるが、それに比べて当時の日本は実際に交戦状態にあった中でも、「民」は多少騒いだものの「官」は冷静であったことが覗える。

とまぁ、そんな状況だったので特に気兼ねすることなく「英語」の勉強ができた我が母だった筈なのだが、彼女の「英語」の実力がどれ程のものであったのか、小生は知らない…

あの世の母上へ追伸
 「切府✖ ⇒ 切符〇」です。
            愚息

 

昭和19年4月17日 康男から三郎への葉書 かなり乱筆…

 

今回は長男康男から三郎への葉書

母千代子からの言伝で三郎宛の荷物を手配した旨が記されているのだが、達筆な筈の康男にしては結構な乱筆であるところが気に掛かる…

 

昭和19年4月17日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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御葉書有難う。其後元気にて
精進している由、安心した。兄さんも
元気で頑張っている。そちらもそろそろ
櫻の見頃と思う。広島も満開というところ
だ。故郷は月末位に妍を競う事
だろう。所望の品々、母上より通知があ
ったので、家の方へ送っておいたから、何れ
入手する事と思う。無暗に手に入らぬ故、
心して使用する事。では体に気をつけて
頑張れ。
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5行目の「妍を競う」は、葉書には「女ヘンに研」と書かれているが、どうもこれに該当する漢字が見当たらないので恐らく「妍(うつくしい)」の間違いだと思われる。

内容としては大したことを書いている訳ではく心配する部分などないのだが、どうも「乱筆」が気に掛かる。

この昭和19年4月当時は、南方や大陸各戦線で防戦一方となった戦地への兵站が急務となっており、康男たちの部隊の出兵も間近になったことは間違いないであろうし、当然その状況も部隊内部では周知されていた筈と思われる。

また、上官や先輩将校の戦死の報せなどの噂も耳にしたかも知れず、”何時出兵命令が出されるのか”と云う緊張を強いられる中で日々厳しい訓練があり、体力的にも精神的にもかなり極限に近い状況にあったに違いない。
そんな諸々が「乱筆」となって表れてしまったのではないかと思う。

因みに、この当時康男は広島市千田町という所に下宿していたのだが、近くには京橋川に架かる御幸橋がある。
この「御幸橋」は原爆直後の惨状を撮影した数少ない写真の現場となった場所であり、原爆資料館に展示されたり教科書に掲載されたりしているその写真は知っている方も多いと思う。

被爆直後の御幸橋

康男が広島を離れてから一年後に原爆は投下された。

 

令和元年8月15日 74回目の終戦の日 

74回目の終戦の日

小生は「ヒロシマ」と云う環境で生まれ育ったこともあり、「戦争」には多少敏感であったのかも知れない。
と云うのは、幼いころから身近に戦争(多くは被爆)体験者がいらっしゃったことで、特に構えることもなく”体験談”を耳にすることができ、間違った歴史(自虐史観など)に惑わされることが少なかったと思うからである。

小学校1~2年生の時の担任は被爆された女性で、当時「まだ身体中にガラスの破片が残っている」と仰っていて、機会あるごとに原爆の惨状を幼かった小生たちに話して下さった。

遠足や社会科見学などで何度か「平和公園」に行ったが、「原爆資料館」を見学する度にクラス皆が神妙な面持ちになった記憶がある。

昭和42年 平和公園遠足 小学校2年生の時

先日当ブログにも投稿したが、中学~高校生の頃通っていた私塾の先生は、旧制一高~東大という超エリートコースを通った本当の「愛国者」であり、時には過激な表現をされることもあったが、今考えれば正しい史実を教えて下さったおかげで誤った歴史史観を待つことを免れることが出来たと大変感謝している。

「原爆の日」と「終戦の日」も夏休みの真っ只中ではあったが、どちらも「その時」にはテレビの前で正座して黙祷をする特別な日であった。

そして何より当ブログの主人公でもある母(芳子)、祖父(芳一)、伯父(三郎)の存在が大きかったであろう。
彼らは特に戦争や原爆について細かく話してくれた訳ではなかった(むしろその辺りは敢て話さないようにしていた感もある)が、終戦以前の「日本人の精神」を知らず知らずのうちに小生に植え付けてくれていた。

あれから40年以上が経過し昭和~平成を経て令和となった今年、還暦を迎えたのを機に祖父・母からの遺品を繙きながらこのブログを制作する中で、永らく忘れていた「日本人の精神」が蘇るとともに更に新しい気持も生まれてきた。

先の戦争に関しては賛否様々な意見があるが、どの様な意見であれ日本人ならば「戦争反対」は共通していると思う。あくまで「日本人ならば」…

ただ、一部で主張されている「日本人は好戦・侵略的で残虐」と云う意見は承服できない。
確かに日本人が戦時下に於いて残虐な行為を全くしなかったとは言い切れないが、そのような行為は他国と比べて少なかった可能性はあっても酷かったとは到底考えられないからである。
理論的な検証は他の多くの優れたサイトで説明されているのでここでは割愛するが、それらの検証とは別に「当時の一般人の生活」を手紙・葉書・他資料を読み解くことで「日本人は好戦・侵略的で残虐では無い」と云う事実を感じ取って頂く為に始めたのが当ブログである。

始めて間もないブログであり、まだまだ先は長いが
「沢山の方々に”日本人の精神”を感じ取って頂けるよう精進せよ!」
と云う母の家族たちの”檄”が聞えてくる今年のお盆である…

後列左から 長男(康男)、三男(三郎)、次男(敬)
前列左から 長女(芳子)、父(芳一)、母(千代子)

 

昭和19年4月18日 三中同級生Yさんからの葉書 三郎の受験指南?

 

ここの所、三次中学同級生からの便りが続いているが、五年生への進級組は軍関係学校の受験が近づいているにも拘らず、戦争による労働不足を補うための「学徒勤労奉仕」に動員され勉強が捗らず、皆疲れ焦っている様子である。

今回もそんな同級生Yさんからの葉書。

 

昭和19年4月18日 三中同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝復 お便り、御指導有難う。永らく失禮
して居た。悪からず。君も元気とのこと安心した。
俺も元気旺盛にて日夜来るべき決戦に備
えて居る。しかし今頃は作業々々で準備は
なかなかはかどらない。だが気分だけは確かだ!!
将に今年こそ決勝の年だ。
陸豫士受験者は多数ある。五年生に三十と若干
名、四年生も五年と大差なし。有望だろう。
これこそ三中魂の発露だ。(御指導を乞う)
末筆乍ら今日はこれにて失禮する。何卒身体に
十分注意して、君の本分に邁進せられんことを、
巴狭(峡?)の地より祈る。
***********************

冒頭に「御指導有難う」とある。
受験に於いて勉学はもちろん重要であるが、事前準備や心構え或いは受験当日の雰囲気なども疎かにできない要素で少しでも知っておきたい情報であり、三郎は一足先に入学できた者として、これらの情報を同級生達へアドバイスしていたと思われる。

振武台での厳しい授業や訓練で疲れていながらも同級生達との手紙のやり取りを続けていた背景には、単なる友達意識の為だけでなくこう云った重要な情報交換の必要があったからだと思われる。
Yさん含め陸軍予科士官学校を受験する同級生や後輩達に是非合格して欲しいと云う思いが強かったのであろう。

 

昭和19年4月19日 舞鶴海軍機関学校 Nさんからの葉書

 

今回は京都府舞鶴市の海軍機関学校に在学中であったNさんから三郎に届いた葉書。

Nさんが三郎とどういう関係なのか不明なのだが、宛名に「三原三郎 君」としている部分と手紙の内容に故郷三次の状況が記されている事などから、恐らく三次中学の先輩であろうと思われる。
と云うことで今回は宛名面も画像添付するが、やはり軍関係の学校からの郵便物なので「検閲」の印が押されている。

昭和19年4月19日 Nさんからの葉書
昭和19年4月19日 Nさんからの葉書(宛名面)

解読結果は以下の通り。

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前略 永い間失礼して誠に相済まない。
豫科士官学校の生活にも大分慣れて来た事であろう。自分
も其後益々元気で頑張っている。訓練等も相當
はげしい事と思うが、如何なる困難にも負けず頑張精神を以
て斃れて後止むの意気で邁進される様祈っている。
日々の生活は即戦場の覚悟で大いに張切ろう。三次も春となっ
て櫻花爛漫としているそうだ。舞鶴も段々気候も良くなり
快晴の日が續くだろう。体に充分注意して元気にやろう。
では最後に君の健康を祈る。
       四月十九日
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舞鶴の海軍機関学校と聞いて少々驚いた。

つい最近インターネットの雑誌無料立ち読みで偶然「特攻の島」と云うマンガを最初の1~2巻だけ読んだのだが、この作品に描かれている人間魚雷「回天」の考案開発者の黒木大佐はこの舞鶴海軍機関学校の出身である。
因みにこの黒木大佐はこの半年ほど後の昭和19年9月7日に「回天」開発中の事故で殉職されている。
恐らく在校中であったNさんもその悲報を聞かれたであろう…

小生もまだ全巻読んでいないので内容についてのコメントはできないが、ご興味のある方は読まれては如何だろうか?

黒木大佐 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9C%A8%E5%8D%9A%E5%8F%B8

特攻の島 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%94%BB%E3%81%AE%E5%B3%B6

葉書の内容自体は「お互い頑張ろう!」と云ったところであるが、当時の戦況を考えるととてもそんな心境ではなかった筈であり
「日々の生活は即戦場の覚悟で大いに張切ろう」
と云う言葉が現実味を帯びている。

現代の我々には想像すら難しい精神状態だったであろう…

 

昭和19年4月20日 三原修さん(親戚?)からの葉書

 

今回は三次中学の後輩の三原修さんから三郎への葉書。多分母(千代子)方のいとこにあたる人だと思うが親戚関係に疎い小生の想像なので定かではない。

 

昭和19年4月20日 三原修さんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 櫻花萌え出づる新學期を迎えて僕は
元気一杯勝利の栄冠を期して勉強して居るよ。三郎
さんも元気だと確信して居る。来年度は僕は陸士と海
兵を突破しようと思って勉励して居るよ。僕の新學期
の主任は七教で成島(ヌス)先生だよ。思ったより親切で今
の所気に入って居るよ。三中からは今度五年山本(作木)
外五名の特別幹部候補生が出陣した。今日は剣道
部でチャンバラをしたよ。
父は今度、塩町の雙三中央青年學校々長として行った
よ。今度僕等は通年動員として工場に行き増産に
まい進する事になる話です。こちらは皆元気で異常なし。
                       終り。
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聞きなれない言葉で「特別幹部候補生」があったのでググってみた。
「特別幹部候補生」とは戦争の拡大により更なる補充が必要となった下士官を従来より短い期間で育成補充するために、前年(昭和18年)12月14日に勅令として制定され、翌15日に最初の召募が実施された。
葉書に書かれている
「三中からは今度五年山本(作木)外五名の特別幹部候補生が出陣した」
はその最初の採用者で、各地の実施学校へ入校(出陣)したものと思われる。

「来年度は僕は陸士と海兵を突破しようと思って勉励して居るよ」とあるので、新三年生であろう。
しかし平時であればいざ知らず、決して楽観視できない(どころかどう考えても悲観的にならざるを得ない)戦時下に於て、まだ14~15歳の「チャンバラ」を楽しむような少年が自ら進んで軍関係の学校を志願すると云う状況はやはり痛々しく感じる。

「お国のために」や「大切な人を護るために」と云う言葉に嘘が無いのは百も承知だが、本来であればもっともっと沢山のやりたいことがあって当たり前のはず…

「戦争さえなければ…」が本人や家族の本音だったのも間違いないだろう…

 

昭和19年4月20日 母(千代子)から三郎への手紙 75年前の桜の押花入り

 

今回は約二週間ぶりの母(千代子)からの手紙。

中国地方ではどちらかと云えば寒い地域の三次も桜が盛りとなる季節となったことで、千代子の体調も少し良くなった様子が伺えるが、入れ替わる形で次男の敬が体調不良で自宅療養となってしまった。
心労の種は尽きない…

昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年4月20日 千代子から三郎への手紙④

今回の手紙は少々乱筆気味で難読文字が幾つかあったので、誤読があるかも知れないことをご容赦願う。
解読結果は以下の通り。

注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。
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三郎殿 其後変りなく元気でやっていますか。
家の方にも皆変りた事はありませんから安心して下さい。
お父様も時々出張されます。芳子も元気で通学
しています。ほとんど仕業らしいですよ。

敬兄さんが先日来より躰の具合が一寸と思う様
にないので帰っています。少し無理をして勤め
たらしいです。三月二十八、九日に一寸と帰りた時は
元気であったが、今少し静養させた方がよろしい
と気分を安心に幾年かかっても元気にして
やらねば可愛想ですからね。別に心配せんでよろしい。

三次の桜も今頃が盛りです。昨日一寸と雨が降り
て、盛も一、二日中でしょう。桜の花も昔からよく
申した言葉で、パット咲いてきれいにちります。
唯れ一人花見らしい姿も見受けませんよ。
どうでも尾関山は桜の木を切って畠にするとか、
国民学校の生徒が今日も今日もと尾関山の下へ
ジャガイモやナンキンをうえつけています。

ニ、三日前に森保君が写真の代金のつりを
持って来てくれられた 手紙の中に写真は入れて
送りてやると申しておられた。お母さんも毎日
ぼつぼつ家の事や兄さんの食物におわれて
居ります。■■様方へ小包を送り出して
おきました。何かよい物があればと思うが
これとてなく、近日心配して送りますから
別に気をかねる事なく、よらしてもらって
遊びなさい。■■様方へはめいわくはかけませんから。

芳子の写真も兄さんが今少し気分がよろしく
なったら、うつして送らせますよ。
此の中の桜の枝は国民学校の桜ですよ。
芳子が取って来て、兄さんに送ってあげるのだ
と、本の中に入れておいた。

時々は板木の御老人へお便りを出してくれ。
又様子してあげます。
此の上とも充分躰に気をつけて病気に
ならぬ様注意しなさいよ。
兄さんよりもよろしく。

三郎様
母より
**************************

次男の敬が体調を崩して自宅療養をしているようである。

敬は元々虚弱体質で、恐らくその影響で徴兵検査に合格できなかったらしい。
「…らしい」と書いたのは、敬のこの件に関しては母からも祖父からも詳細は一切聞いたことがなく、「あまり体が丈夫ではなかった」としか聞かされなかったからである。
恐らく内臓疾患か結核(発症前)だったのではないか?と想像するが定かではない。
千代子は軍人になった康男と三郎の行く末を大いに案じていたが、それにも増して「軍人になる事さえも叶わない」敬を不憫に思っていたようである。
因みにこの年の旧盆に三郎が帰省した際に撮った敬と三郎の写真があるので貼っておく。
(※敬はやはり生気がない様子。三郎の写真は露出に失敗したのか、かなり不鮮明)

昭和19年8月19日 敬自宅にて①
昭和19年8月19日 敬自宅にて②
昭和19年8月19日 三郎自宅にて①
昭和19年8月19日 三郎自宅にて②

桜の花にも触れている。
三次の名所である尾関山は桜の名所でもあるのだが
「唯れ一人花見らしい姿も見受けませんよ」
と千代子も言っている通り、当時は花見に興じるような情勢でないことは皆判っていたのである。

「あの時の桜」を芳子が押花にして三郎に送っていた。
手紙の最後に添えてある「ひとひら」がそれである。

色褪せてはいるが辛うじて「さくら色」だ。
75年前に愛でられることなく散っていった桜
今から愛でてやるか…

昭和19年 桜の押花