昭和19年3月18日 妹芳子からの葉書 

三郎の振武台日記が続いて少し間が空いてしまったが、今回から手紙・葉書へと戻る。

今回は末の妹の芳子からの葉書。

芳子は小生の母であり、当然性格や考え方など充分知っていると思っていたのだが、こうして子供の頃の葉書を読んでみると気付かなかった面も色々見えてくる。
まぁ、考えてみると実際母と暮らしたのは18歳までで、その後二十数年間は年に数回会う程度で電話でもそんなに頻繁に話すことも無かったわけで、本当はあまり母の事は知らなかったのかも知れない。

昭和19年3月18日 芳子から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

**************************
兄ちゃん、お便りありがとうございました。
三次の気候も大分良くなりました。今日(十七日)から
口頭試問の練習が始まりました。女學校の試験
は三月二十三日から三月二十五日までです。口頭試問は練
習したのでもうなんともなくなりました。
四月も近づいて来てもう桜の花のつぼみもほころび
かけています。あたりの山々も大分緑色にかわり
かけて来ました。士官學校愉快でしょう。遠いか
らちょっと行こうと言う事も出来ません。行く
には警察の許可がいるのでめんどうな事です。
急行も乗られなくなります。私の東京行きも
だめになりました。ではお體を大切にして下さい。
又お便りします。さようなら
**************************

まだ、12歳の時の葉書であるから当然内容も幼い…のだが、ちょっと幼過ぎないか?と云うのが息子である小生の正直な感想である。

大体にして、ワンセンテンスが短く「~した」とか「~です」のいわゆる「ですます調」は小生が小学生の頃に芳子から揶揄されていた部分で、今でもトラウマになっているのである。
それがどうだ。揶揄していた張本人が「ですます調」ではないか。
まあ、恋人や友人ではなく実兄への手紙であるから、変にかしこまったのかも知れないが…。

女学校の入学試験が目前に迫っている。これは家族全員が気にかけている心配事で、家族それぞれの手紙にも状況の確認や報告が挙がっている。

「士官學校愉快でしょう」は笑える。
三郎の振武台日記でもご紹介したように、大変厳しい訓練で鍛えられている三郎も「愉快でしょう」と云われてはやるせない。多分父(芳一)あたりから「楽しく元気にやって居るよ」位の話をされたのであろう。
また、少し前に父が2度ほど陸軍予科士官学校へ行っているが、どうやら芳子も行きたかったらしい。当時の国内の状況からすれば到底無理な話で「次の機会に…。」とあしらわれたと思われる。

母が生きているときにこの話を知っていれば、振武台に連れて行ってやりたかったなあと思う。

 

昭和19年3月19日 康男(長男)から三郎への手紙

 

 

今回は長男の康男から三郎に宛てた葉書から。

 

最初の部分に父(芳一)が言伝を加えている。

昭和19年3月19日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓 (お父さんが書添える。大膳さんの所にはお礼を
取られぬ。ハガキで礼を云って出せ。
岩井柳作さん所へもハガキ出せ。急ぐ訳でもないが、
近所ハ大体お礼に廻った。)
野山も春めき、陽気を覚える候となったが、
其後御前も元気一杯研鑽に励んでいる
事と思う。家の方も一同無事、夫々の道に
奉公している。兄さんも本日の日曜、久方振りの
全休で帰宅休養を攝っている。御父さんは
日曜廃止で本日も御出勤。芳子も試験間近で
登校した。御前が入校して家もめっきり淋し
くなった様だ。御前の書斎はそのままにしてある。
予科士の生活にももう相当慣れた事と思うが、
何時でも明朗に、元気よくやる事だ。充分体
に気をつけた上でね。 では又。     敬具
***********************

相も変わらず芳一の字は小さくて読み辛い。
確かに小生が小学生だった頃、ちょくちょく我が家に来ては庭の手入れなどやっており、性格的に”マメ”であることは知っていたが、字が小さいのはあまり記憶がなかった。

言伝の内容としては、三郎の陸軍予科士官学校への入校及び上京への餞別を頂いたご近所さんにお礼を届けて廻ったが受取って下さらないお宅があるので、三郎の方からお礼の手紙出す様にとの由。

手紙・葉書が主たる通信手段であったので当然現代の我々よりは文字を書く機会が多く、またその作業には慣れていた筈だが、今小生の手元には当時三郎が書き損じたと思われる葉書が10枚程ある。おそらくもっとあったのではないかと思うが、忙しい日々の中での大変な労力である。つくづく便利な世の中になったものである。手書きの葉書など年賀や暑中見舞いで”お変わりありませんか?”と書く程度で、宛名に至っては何年も書いていない小生である。

さて、本題の康男の葉書である。

この年の3月1日付で船舶司令部の船舶練習部学生となって訓練を受けていた康男が久し振りの完全休養日で帰宅していたらしい。当時広島市に住んでいたが実家の三次は70キロ程しか離れていないので、鉄道で2時間程であったと思う。前日夜に出れば結構ゆっくりできたであろう。

のんびりするには幸いだったかも知れないが、折角の日曜なのに父は出勤、妹は学校、残っている母も床に伏していたのではないかと思うと逆に淋しかったであろう。
だからと云う訳ではないだろうが、三郎への手紙になったのかも知れない。
内容的にも様子を報せ三郎の健康を気遣う”普通”の手紙である。

このひと月ほど前の昭和19年二月に所属していた船舶司令部での集合写真があるのでアップしておく。因みに裏書には

広島市宇品町
 暁第二九四〇部隊村中部隊髙井隊
  将校見習士官少尉候補者
 第二次要員編成記念
    於 学庭
  昭和十九年二月吉日

とある。

19年2月暁二九四〇部隊 前列一番左が康男

昭和19年3月22日 三次中学の先輩 陸軍士官学校Yさんからの葉書

 

今回は三次中学の一学年先輩で既に陸軍士官学校(神奈川の相武台)生徒であったY先輩からの入校を祝福する葉書から。

以前の投稿で陸軍予科士官学校(振武台)が完成した当時の新聞の切抜きをご紹介したが、元々東京の市谷台にあった士官学校が神奈川の相武台に移転。その後市谷台に残っていた予科士官学校が埼玉の振武台に移転しており、三郎の一学年先輩にあたるYさんは陸軍士官学校の生徒であった。

昭和19年3月22日 Y先輩から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

********************
星、輝く御紋章の下に、金に輝く星を
見事かちえられたること、誠にお目出度く
存じます。期もよし六十期。一大勇猛心
を発揮して武将街道を驀進せられん
ことをスタートの必要なるは何事にも
同じ。今三中十九期の児玉中佐殿が
士校にいられる。じゃがさんと同期。高崎
の演習地にて御会いした。君の云う通り先輩
に負けず頑張ろう。では又。
********************

4行目の驀進の「驀」は葉書の文字と若干異なるが他に適当な字が見当たらなかった。略字か誤字ではないかと思う。他に難読部分は無かった。

児玉中佐と”じゃがさん”も三次中学の先輩の様である。生徒が全国津々浦々から集まっているからこそ、同郷の先輩・後輩の繋がりが強かったのであろう。

この葉書は士官学校から出されたものであり、宛名書面に「検閲済」の印が押されている。だからと云う訳かどうか解らないが、あたりさわりのない無難な内容になっている。
同級生と先輩と云う違いもあるので一概には言えないが、以前投稿した同級生からの手紙にあった進学や故郷の話等は書かれておらず「余計なことは書かない」と云った空気が感じられる。
一説によると当時の検閲に関しては「膨大な量の手紙や葉書を内容まで全て検閲するのは無理があり実際にはそれ程厳しくはチェックされていなかった」という話もあるが、少なくとも軍関係施設では厳しく実施されていたようで、それなりの効果はあったと思われる。

 

昭和19年3月24日 父(芳一)から三郎への手紙

今回は芳一から三郎に宛てた手紙。

入隊後1ヶ月が経過し、その間の家族や親戚の様子、軍刀の事等々色々と伝えている。

葉書だと強烈に読みにくい芳一の字であるが、今回は手紙と云うこともあり字が大きかったので割と読み易かったが、2~3苦労した部分があった。

 

昭和19年3月24日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年3月24日 芳一から三郎への手紙②
昭和19年3月24日 芳一から三郎への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■、▲▲ は芳一の知己で東京在住の方。三郎の上京でお世話になっている。

*****************************
去る三月九日頃に小包でマスク、仁丹、メンソレータム、ガーゼ等を小
包で送ったが入手したか。お母さんも手紙を出した筈だが手に入ったか。
中隊長、区隊長、河村軍曹殿へも三月十日にそれぞれ手紙を出して
置いた。今日丁度一ヶ月になる。二月二十四日に胸躍らして大泉学園駅
より徒歩で行った事を思い、丁度今日だと家でも話している。
二月二十七日はお前の入校決定日であったが、三月二十七日は芳子の
入学決定日だ。昨二十三日、二十四日、明二十五日と三日間、中等学校の
入学考査日で、芳子も朝六時半頃イソイソと出て行く。
百五十人採用に二百五十四名志望者あり。百名餘り除外される。
中学校は二百六十八名とかある由。三芝の正君の親類の太田校長
先生の長男(修二君)が中学校を受けるので二十二日の晩からその
お母さんと二人来て泊って、毎朝六時半から行っている。君田校で
一番だそうだから大丈夫入学するだろう。
芳子は如何なるやらわからん。二十七日が又待たれる事だ。
お母さんの病気も全快して毎朝早くから昔と変らず元気を
出して居るから安心せよ。
三月二十一日の春季皇霊祭には雨降りであったが、お父さんは板木の
玉井の小母さんが病気と云うのでお見舞なり、お墓参りに行った。
池田や玉井や長山を訪れて夕方帰った。玉井のオバさんは三月初
めから病気で休んで居られた。玉井にも昨年以来不運な事だ。
康男兄さんも十八日の晩に帰省してお前にハガキを出した筈。
敬さんも無事で居る。御向さんも二十二日に〇〇へ入隊したそう
な。三次はまだ寒むい。今朝も少し雹が降った。振武台は如何か
日本刀の立派なのを一腰求めてやり度いと思って、■■さんの昵懇
な河田力と云う老人に頼んだ處、日本刀鍛錬会の優秀作品
を陸士から注文されたら一丈夫置つる、との事故、前田区隊長
に御願して一振り手に入れて置きた度いと思って居る。陸海軍関係の
学校からの注文なら一振百四、五十円だそうな。が、一般人が申込めば
五、六百円するそうな。〇〇の方面からでも四百円位かかるそうな。
士官学校から注文した方が一番優利で確実に手に入るそうな。
お前のを一振り早目に求めて置き度いものだ。
陸軍記念日の前日には東京方面見学だったそうな。
もう大分校内の模様も判ったろう。大いに頑張って横山さんの
二代目となれよ。父母もそれのみ祈って居る。
大膳や藤井、三宅、山縣、板木の長山、二人の兄さん達へ時々
ハガキを出せよ。
日用品で入用のものはないか。入用品あらば様子せよ。送ってやる。
■■さん、▲▲さんから便りがあるか。
風を引かぬ様注意。殊に食物に留意して無事で勉強せよ。
お母さんや芳子よりもよろしく申出た。
三月二十四日夜
                           父より
  三郎様
*****************************

2枚目7行の「御向さん」は合っているか怪しいが、固有名詞だとちょっと解らない。
その後の「〇〇」も多分連隊か部隊の名称だと思うのだが、こちらも解らない。
もう一つ、同じく最後から2枚目の「〇〇の方面からでも」も解らなかった。

小包で生活雑貨を送っているが、現代の様に近くにコンビニがあるわけでもなく、家庭常備薬程度のものは生徒自身で調達しなければならなかったようである。家族や親戚の現況を報告しているが、やはり気がかりなのは妹(芳子:小生の母)の女学校入学試験のことである。
この手紙を認めている日の前後3日間が試験日で、父母共に気が気でない様子である。
芳一も「芳子は如何なるやらわからん」と書いている通り、芳子はどちらかと云うと「おっとり系」であったので心配したに違いない。

母(千代子)は「全快した」と書いてあるが、以前ご紹介した通り、本人の手紙ではまだまだ全快とは言い難い状況であった。

無事とはいえ、長男(康男)も訓練が終れば何時戦地へ送られるや分からぬ状況であり、次男(敬)も体調に不安がある。日本全体が暗雲立ち込めるなか、不安に満ちた日常であったに違いない。

追伸)
日本刀の購入のことも書いているが、芳一は骨董や刀剣に興味があった様で、戦後は趣味程度に蒐集していたようであるので、次回以降のどこかで刀剣に関してご紹介しようと思う。

 

昭和19年3月28日 芳一から三郎への手紙 芳子女学校合格(万歳!)

 

今回は芳一から三郎への手紙から。

四日前に手紙を出したばかりであるが、家族全員が気になっていた末娘の女学校受験の結果発表が前日(三月二十七日)にあり、これを早く知らせるべくの葉書である。

 

昭和19年3月28日 芳一から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

**************************
大分暖かになった。其後元気で勉強しているか。
当方一同無事。芳子も首尾よく女学校入学
考査に合格。四月五日に入校通達が昨二十七日
にあった。(午前十時発表)。是れで先づ一安心だ。
芳子へお祝いを云ってやってくれ。三次の国民学校も
縁切りとなった訳だ。兄さん二人も無事で勤務して
居る。康男兄さんの写真が出来たから一、二日の内に
送ってやる。近頃通信がないが体は元気なのか。忙しく
て書けぬのなら別に書く必要もない。元気で明朗に
勉強せよ。三中の上級校に受けた連中どう云う成績か
まだハッキリせぬが相當に難関らしい。お母さんからも手紙
を出す筈。健康に留意せよ。
**************************

芳子が無事女学校に合格した。
小生の母であり、既にこの世にはいないのだが何かとても嬉しい。
万歳である。

家族全員が気にかけていたイベントも上首尾に終了し、皆一安心である。
「三次の国民学校も縁切りとなった訳だ」という芳一の言葉に実感がこもる。
長男の康男に始まり芳子まで16年続いた国民学校とのご縁が漸く終わったのである。

世間一般のことかも知れないが、末娘であった芳子は三人の兄達に比べ父(芳一)にとても可愛がられていたことは先日の「閑話休題」にも書かせて頂いた。
小生が子供の頃、母(芳子)は
「戦時中の米が無く麦や芋ばかり食べていた時に、兄達がいない時には父が床下から白米を出して自分だけに”白いご飯”を食べさせてくれた」
と言っていた。
そのくらい芳一は芳子を可愛がっていた。

その芳子も漸く女学生になった。
本来であれば「万々歳」の筈であった。

戦争さえなければ…。

芳子 昭和18年1月

 

昭和19年3月28日 母(千代子)から三郎への手紙

 

前回の父(芳一)からの手紙と同日に書かれた母(千代子)からの手紙である。

三郎が振武台へ行ってから一ヶ月程経過しており、文面からも多少落着いた感じが読み取れる。

 

昭和19年3月28日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年3月28日 千代子から三郎への手紙②

解読結果は以下の通り。

************************
其後変りなく勉強して居ると思います。
家の方には皆変りありませんよ。先日来より度々便り
を出すが何の返事もないが受取りましたか。
日頃心配して居た芳子の女学校入学受験に運
良く合格いたしました。女子組が二十七名受けて
二十名合格したのよ。深原先生も大手柄だ
中学校はあまりよろしくなかったらしいよ。。
女学校へは全部で四十何名受けたらしいよ。
まあ、子供も一人前の学校へ入学出来る様に
なって父様も私もこれよりうれしい事はありません。
皆よろこんでやってくれよ。芳子も安心したらしい。
幸田君ね。あれが廣島師範へ合格したそうね。
山縣君も熊本薬専へ合格したとの事。
昨日、中学校から成績表が来ました。別に変りた
處はなかったが、工作が秀になって居たよ。
見たかったら送ってあげます。
日曜日に河野君のお父様と逢って話されたそうな。
内の父様がね。三中の者に出逢いますか。
倉野様にもあったですか。
写真にうつりましたか。もし出来たら送りなさい。
都合が悪かったら無理してまではうつらなくって
よろしいよ。四月の五日が女学校の入学式だ。
中学校は四日らしいよ。何でも一年間位は仕業
するらしいよ。今日はこれで筆を止めます。
三次は今日も風がひどく雨やら雪やらわからん
ものが降って寒いです。充分躰に気をつけてね。
上官の命をよく守り、友人の力になる様にせよ。
三郎殿へ
母より
************************

父からの手紙同様、最優先事項は妹(芳子)の女学校合格の話題である。
やはり肩の荷が下りたのであろう、4人の子供全員が国民学校を卒業し一人前になった事を
「父様も私もこれよりうれしい事はありません」
と喜んでいる。

女学校の受験者数の部分で
「女子組が二十七名受けて」と「全部で四十何名受けた」とあり、女子組・男子組以外に何かあったのか?とググってみたところ、
当時、国家の方針としては国民学校三年生からは男女別組が原則であったが、一クラス辺りの生徒数や教室数の関係で地域によっては「男子組」「女子組」の他に「(男女)共組」という共学のクラスがあったらしい。
芳子の通った国民学校もこの「共組」があったようであるが、思春期に掛かる年齢でもあり、特に男子生徒にとっては「不公平感」満載の制度だった様に思える。(笑)

当時、女学校や中学校に進学しても授業はそこそこで勤労奉仕ばかりの毎日であったが、それでも進学できる喜びは格別だったようである。

しかし、いったん戦時中という現実に引き戻された時、軍隊勤務の康男や予科士官学校生徒の三郎の行く末を考えると本当に不安であったろう。
それどころか、軍隊と関係のない他の家族でさえ何時どうなるか判らない程に戦況は悪化していたのである。

因みにこの3日後の3月31日に米機動部隊がパラオ諸島を大空襲している。
徐々に制空権を奪われ、本土空襲へとつながってゆくのである…。

 

昭和19年3月30日 康男から三郎への葉書

 

父、母と続いて最後は長男(康男)からの手紙である。

先日の両親に宛てた手紙では、将来にかかわる重大な「お願い」を述べていたが、弟への葉書には勿論そんな気配すら見せてはいない。

 

昭和19年3月30日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

************************
拝啓 早や春風が武蔵野を渡って
いると思うが、其後どうだ?
二十一日には初めて引っ越をしたそうだね。
嬉しかったろう。写真を撮ったか、早く御前
の制服姿を見たいものだ。もう一か月を
過ぎるから、もう相当板についていると思う
が。芳子も無事女学校に入ったから安心
すべし。どうやら御父上も一安心というところ
だね。俺も相変わらず元気で御奉公している。
敬も増産戦士の一員として頑張っている。近々徴兵
検査だ。とにかく頑張ってくれ。      早々
************************

本ブログの最初に投稿した葉書の内容にもある様に、康男は13歳の時に親元を離れて広島商業学校での寄宿舎生活を始めており、17歳で初めて親元を離れた三郎を多少冷やかしつつも、その新鮮さを懐かしんでいる様子である。

現代の様にネットやケータイの無い時代であるから(それは小生の若い頃も同じであったが…)やはり写真の需要は大きい。
父も母も兄弟皆「写真は撮ったか?」の大合唱である。
以前の投稿にアップした三郎の制服姿の写真は4月9日に撮影したものなので、この時点では撮れていなかった。
訓練は忙しいが家族の要望にも応えなければならず三郎も大変であったと思う。

芳子の女学校合格の報せの後に、次男(敬)の徴兵検査の事が書かれている。
小生は、敬が軍隊に入ったと云う話は聞いたことが無く、またそれらしき書類なども残っていない様なので恐らく入隊しなかったのだと思う。
但し、今後の手紙にその辺りの事情が出てくるかもしれない。

現代の様に便利な時代ではなかったが、その分家族間の愛情の密度が濃かったように思えるのは小生の気のせいだろうか…。

 

昭和19年4月1日 敬から三郎への葉書

 

前回投稿した長男(康男)の手紙で”最後”と書いたが、次男(敬)も出していた。

以前の様な弟に対する厳しい内容ではなく、むしろ優しい感じの内容である。
気候が良くなり気分が良い旨も書いてあり、体調が良いのであろう。

 

昭和19年4月1日 敬から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

**************************
拝復 元気で勉励して居る由安心した。自分も元気で生産
増強に邁進している。此方も気候が良くなりも窓を一パイ
明けて仕事をしている。気も身も心ものびのびと
活発な運動の出来る時だ。御互いにしっかりやろう。
空襲必須の時局に鑑み御前の処も万全を期して
あると思う。俺の所も準備を万している。
俺も今日昇給した。有難い事と思っている。兄さんも
元気で軍務に精励されている。芳子も無事
女学校に合格。五日に入校の予定だ。
どうぞ上司、同輩に可愛がられる様、言い付を
良く守って、校則の中に生きる生活をせよ。   では又
**************************

前回の康男の葉書の投稿の中で「敬の徴兵検査が間もなくある」様な内容を書いたが、どうやら間違いで、実際は康男の徴兵検査であった様である。
この時康男は”船舶練習部学生”であり、新たに配属を決めるための徴兵検査だったらしい。

敬は、手紙にもある通りこの日(4月1日)昇給しており、仕事に対するモチベーションも一層上ったようである。

空襲について触れているが、実際に本土への空襲が始まったのは2カ月程後の6月16日で北九州が標的となった。
つまりこの時点では本土への空襲は無かったのであるが、太平洋各地での敗退により制空権を失ったことで、空襲が時間の問題であることは周知の事実となっていたのであろう。
広島などの軍都も当然標的となったが、三郎のいた振武台(陸軍予科士官学校)も空襲に備える必要があったはずである。

空襲に関して、小生が子供の頃に母(芳子)から聞いたのは
「空襲警報が鳴ったら電灯を消して外に出て空を見るんよ。そしたらね、たーかい所を豆粒みたいなB-29がいっぱい飛んどるんよ。”あー、ありゃー呉にいったねぇー” 言うてね。三次なんか空襲されん思うとったけぇねぇ。あんまりこわーは無かったね。」
と云った話で、実際に爆撃された経験はなかったようである。

その後、映画やテレビなどで空襲の場面を幾度となく見ることがあったが、その度に母の云った「B-29の編隊」が轟音と共に夜空の彼方を飛んで行く光景を想像しては不気味な恐怖を感じたものである。

 

昭和19年4月1日 三次中学の同級生Sさんからの手紙

三郎の陸軍予科士官学校入学からひと月ほど経過し、同級生の進学状況も概ね決定した時期となり、彼らからの進路決定に関する情報が何通も届いている。

父(芳一)や母(千代子)からも多少の情報は届いているが、やはり当事者(?)からの情報が一番信頼できるのであろう。

今回のSさんは多少クセのある字ながら、丁寧に書かれているので特に難読部分は無かった。

昭和19年4月1日 Sさんからの手紙①
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙②
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙③
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙④
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙⑤
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙⑥
昭和19年4月1日 Sさんからの手紙⑦

解読結果は以下の通り。

注)■■■ はSさん。
************************
陽春の四月になったと言うのに(大変)寒く
あります。先づ何時桜が咲くか、一寸と見当
がつかん。
三原君、お便り有難う。実は二十二日から昨日
三十一日迄春休暇で故郷へ帰って居た所だ。
大変返事が長びいて済まん。そのかわり
本日は大変乱筆であるが、一寸と詳細に
こちらの様子を知らせるからかんべんしろ。
ことわって置くが、郷里の後輩が中学校
へ入学したり又、家へも手紙を書いた関係上、
相当疲れて居るから乱雑になるのだ。
許せ。
さて
こちラハ大変寒イ。何時桜かは先に言った通り。
しかし、今日は漸く春気分と言った所か。
ぼつぼつ野山が霞ミかけたと思われる所。
次ニ、俺も(ハッハッハ)五年となった。
第十三学級。主任は賀永先生。総員三十五名か?
第十四学級は岡部先生。人員不明。
第十五学級は田村先生。人員不明。
落は一名もなし。
次に級、副長は、
十三ガ丸住、砂田。十四ガ中村、柳原。十五ガ藤井、波多野。
優等生は中村、丸住、秋山、広沢の各君。
皆勤者等は不明。
今度、新任の先生が来られるが、未だ式はない。
入学式は四月にある。
始業式は今日四月一日にあった。
五年生になって、実際責任があると言う事を
痛感する。今迄に責任(と言う意味)を一番強く
感じたのは、今日が最大であろう。
四年生に僕等の教室をやったと言う事は、大小
掃除をして居た丈に惜しい気がする。
なかなか四年生は威張って居る。
ポケットでもつけて、可哀そうだが、
注意をされる者だろう。
新学期からは六粁以内は徒歩通学。
しもわち駅から八次間は汽車通マカリナラン。
広島方面はアヲガ駅より三中迄は自転車共にダメ。
即チ、三中を中心に六粁の所に来ると
自転車を預けて徒歩通学をするのだ。
それから、近い内に分隊毎に集合、二列縦隊
で通学する事になる。
それから次は、上級学校、入学許可の諸君
について、知れて居る範囲で述べて見る。
先づ小生から。
広島高師は三月一日ダメ。
徳島高工は十七、八日 俄か勉強はダメ。
総体的に見て、三中は不振とでも言うか。
五年よりは四年の方が成績は良好なり。
高校 松江、土居さん(五年) 広島 湧谷さん(浪人)の二名か?
岡山医専 広沢孝一郎君 一人のみ。
広島県より十余名か??
アッパレ アッパレ。
徳島高工 秋本君(土木科)→日本一の称あり
広島高工 八木君(機械科)
山梨高工 山田豊君(科不明)
熊本薬専 山縣正道君
大阪歯科医専 斉木康彦君
日大文科 西田君
紙不足ニツキ裏面に書く。許せ。
県師 桑田、三宅、森原君
但し、三宅君は入学取消し。
五年は
大膳さんが広高工の夜間に入学のみと聞く。
はっきりしないが、他にもまだあるが、四年よりは
少ない。
右の四年の各君はアッパレ アッパレ。
まだ、宇部高工等は発表がない様だ。
そうそう、
来る五日から九日迄、五日間○○(大竹)海兵団
で海洋訓練がある。三中からは
二十名参加する。
勿論、俺も参加する。六十日と聞いて居たので
喜んで居たが、五日間なので大変気をおとして
ガッカリして居る。
五日間うんと海軍魂を養って来る。
後もう二回ある。今度は違った諸君が行くだろう。
甲飛に四年からは湯浅、立石の各君が去る二十九日
出発。三年から中瀬、赤村、益田の三君が出発す。
忙しいから本日はこれで失敬する。
御健康と御奮闘を祈る。
乱筆にて失礼。
では又。さようなら。
三原君               ■■■より

************************

まず、気付いたのは今回の手紙が便箋と云うよりはメモ用紙と思われるB6サイズの用紙に書かれており、その関係で全部で7ページに亘る”大作”となっている部分で、これも物資不足の顕れであろう。
左下に印刷されている「小奴可運送店」は現在の広島県庄原市東上町小奴可(おぬか)の運送屋さんだと思われるが、Sさんの御実家かもしれない。

三郎も母校三次中学の状況や同級生たちの進学状況は当然気になっていたであろうし、お互いに叱咤激励し合う事は当時の状況からすれば(特に若者たちにとっては)必要不可欠な”モチベーション”であったのかも知れない。

現代の日本と異なり、当時は軍関係の学校に進学することはかなりの確率で「死」を意識せねばならない選択であるにも関わらず、甲飛(海軍飛行予科練習生)として航空隊へ入隊する生徒も少なからずおり、国家の危機を救わんとする若者全体の高揚感が感じられる。
しかしその反面、「ナショナリズムに煽られた若者たちの”蛮勇”なのでは…」と云った危惧感もありちょっと複雑な気持ちになる。

今回のSさんの手紙に於いても「海洋訓練」を心待ちにしている記述があるが、果して本心であろうか…。
本当は勉強や恋愛など、やりたいことは山ほどあった筈にも拘わらず、全体の雰囲気を感じつつ無意識のうちに勇ましい気持になっていたのではないかとも想像する。

ただ、それがよく言う「軍国主義」や「全体主義(ファシズム)」に直接繋がるものではなく、戦後の自虐史観教育で喧伝された「日本人は残虐」とか「日本は侵略国家」等が事実では無いことも拙ブログでお伝えしたい重要な部分なのだが、これらの説明は他の秀逸なブログ等で幾つも為されており、ここではそれらを「できるだけ感じ取って」頂けるよう投稿を続けることに徹したい…。

 

昭和19年4月2日 三次中学の同級生 Tさんからの手紙

前回に続き、同級生から三郎への手紙。

今回はTさんの手紙から。

字はお世辞にも達筆とは言えないが、文体は何となく古めかしくて重厚な感じである。
ただ中身は友人を”あだ名”で呼んだりと親近感もある。

昭和19年4月1日 Tさんからの手紙①
昭和19年4月1日 Tさんからの手紙②
昭和19年4月1日 Tさんからの手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■■■はTさん。

**************************
櫻も春を告げ人々の体も生々しく江川の水も温んで
参りました。先日は寸暇も無き死闘の續きにも不枸業以
不肖の爲、書を下されるは不肖と致し衷心より感謝に耐え
ず四年間剣道部で練磨する事が出来た事を非常な
光栄と思って居る次第である。
小生承知の事く岡山医専と縣師を受けたのであるが、
勿論医専は十三人に一人高率にて不肖の実力として
は滑る可きであって名誉の敗惨者と成った。実に
残念だ。縣師は八人に一人の率で此れは一次は合格、二次で
肺の影有る由にて醫者より落の命を受けり。
縣師が駄目故、他は押して知る可しだ。
来年は屹度目的を達する心算だ。即ち目指すは岡山医専である。
陸士に貴殿に誓って居たが、医者が不適と言うので詮方
無く思い切るより仕方無し。許して呉れ給え。
もう速くに知って居らるる事と思うが、念の為第四学年の
高等専門入学者の盛況を左に示さん。
広島高工機械科(八木君) 濱松高工(田原一俵)
岡山医大付属医専(広澤孝一郎)
山梨高工(山田豊)
熊本薬専(山縣正道)
宇部商工(上川)
徳島高工(秋本)
平壌師範(宗川)
広島師範(桑田、三宅、森原)
京城師範(森原)
水原高農農科(作田ちゃぷ)
大阪歯科医専(斉木の康)
以上で勿論明せるもの已(ノミ)にて未だ全部は解せざ
る故、後一ヶ月後はまだまだ益す見込みである。
五年は官立には土井が松江高校に入った已であって
実に悲惨なる状況であって可愛そうである。
学校の状態は問題点は余り無いが、中川先生が兵隊と成ら
れ、新任が後日来られる筈だ。今年の志願者は二百九十名
合格者百八十名也。
今日はしとしとと静かに雨が降って居る。昨日
非常に良い快晴天であったので、非常に鬱とうしい感じが
する。尾関山も煙って見える。陸士海兵志願は全校
総決起と言っても過言で無い。山崎暗才まで受けるから
呆れる許りだ。小生も今日から死物狂いで頑張るぞ。
貴殿は良く其の責務の重大なる事を考え、特に身を大切
にして猛進されん事を望む。今日は手が振って乱筆です。
許して呉れ。では又度々通信する。
三原君           三巴の水辺にて
■■■■より
**************************

先日のSさんの手紙同様に、自身と同級生達の進学状況報告がメインとなっている。
残念ながらTさんは5年生への進級となってしまった様で、文面からも落胆の様子が覗える。

進学先の学校名を見ると
・平壌師範
・京城師範
・水原高農農科
等、現在の韓国や北朝鮮の地名が出てくる。
長男の康男も入隊後半年間くらい中国大陸の部隊で訓練をしており、当時は日本の統治・占領下にあった訳だから当たり前のことなのだが、昨今は様々な確執の影響で「お隣だけど遠い国」のイメージがあり、「同じ国」であったことに違和感を覚えてしまう。

三郎の同級生も何人かは半島へ進学したようであるが、翌年の終戦後は(内地とは違った意味で)さぞかしご苦労をされたのではないかと思う。

文末に「三巴の水辺にて」とあるが、
三次は「江の川」の本流に「西城川」「馬洗川」が合流する地点で、その有様を「三巴の水辺」と表現している。